インターネットによるルーツ探し

§祖父からの伝承

伝承によると、我が家の先祖は吉田流弓術の開祖、吉田出雲守であり、松本城で戦死したといいます。日置弾正から弓術を伝授された吉田出雲守以来の家系図が存在していましたが、昭和20629日の岡山市における米軍空襲により焼失しました。また、倉敷の商家で阿波屋と唱えていましたが、曾祖父の死により祖父は岡山に出て西洋蝋燭製造販売業を営むようになりました。倉敷には6代前までの墓が現存し、檀那寺である誓願寺の記録などからそれまでを次のとおり辿ることができます。

吉田七兵衛為忠  寛延31750 天保2年歿 初め山三郎
吉田幾蔵豊忠    天保3年歿
吉田又右衛門忠清 天保8年歿
吉田助太郎清忠  明治22年歿
吉田七三郎忠正  昭和37年歿
吉田 稔      昭和33年歿
章一

祖父が自分の覚えていることを頼りに戦後書き残したもの、および私が幼時に見せてもらった系図の記憶とを基にして、出雲守から現在までの家系図を復元することを試みています。

§予備調査

吉田家遠祖(『尊卑分脈』による)

59代宇多天皇−敦実親王−源雅信−扶義−佐々木成頼(近江源氏佐々木氏祖)
−義経−経方−季定(観音寺城主)−秀義−厳秀(
6男)

 以下樋口臥龍著『芸州藩射芸書』、『本朝武芸小伝』(享保元年刊)等によります。

吉田厳秀(秀義6男。近江日枝村吉田・現犬上郡豊郷町吉田に住。吉田氏祖)
−泰秀(
4男。出雲吉田に住)−秀信−清秀−清員−基清−秀弘−吉田上野介重賢

以下『本朝武芸小伝』、『備前岡山藩の弓術 吉田家御奉公之品書上より』その他によります。

−吉田上野介重賢(のち出雲守。吉田流弓術開祖。近江川守城主。天文124381歳にて歿)
−吉田出雲守重政(佐々木六角承禎の旗頭。永禄1261085歳にて歿)
 −弟 吉田若狭守
 −弟 吉田和泉守
 −弟 松本民部少輔(近江松本{現大津市}に住。松本城主)
−吉田出雲守重高(号露滴。天正13111577歳にて歿)
 −弟 重勝(雪荷。子孫は藤堂家で弓指南)
−吉田出雲守重綱(号道春。弓は和田山城から箕作城まで届くほどの強弓だった。天正1028歳で歿)
 −弟 業茂(吉田流左近右衛門派の祖で、豊臣秀次のち金沢に仕える)
  −茂氏(業茂三男。吉田流大蔵派の祖。金沢前田家に仕え大坂の陣に功。三十三間堂通し矢に秀でた)
 −弟 勝方(天正10年本能寺の変に16歳にて戦死)
−吉田助左衛門豊隆(号同哉軒。阿部正次家客分、のち辞す)
 −姉 夫:葛巻源八郎(のち吉田重氏。号印西。重氏弟の吉田五兵衛定勝が岡山池田藩にて弓指南)
−吉田助左衛門豊綱(阿部家客分、のち父とともに辞す。子に豊為あり)
 −弟 吉田助右衛門豊覚(重張とも。子孫が阿部家にて弓指南)
 −弟 吉田三左衛門豊方(喜右衛門とも。伊予松山松平家の家臣)

注:ここで重高(露滴)と重綱(道春)との間の年齢差が46歳と大きく、不自然なことに気づきました。重綱の弟勝方を考えれば年齢差が58歳になります。おそらくこの間に1代誰かいると考えられます。 これが『明良洪範』で病身のため早逝したという助左衞門豊輪かもしれません。これは弓術の系譜であるためこうなったものでしょう。重綱が唯授一人の弓術免許を受けた重高は祖父であり、弓術の系譜だからこのように作られたものと考えられます。ちなみに弓術系譜では重政と重高の間に主君であった六角承禎が入ります。

§インターネットによる調査開始

倅から我が家の家紋は何かと問い合わせてきたので、右図であること、また弓術の家であることを誇りにして弓矢を象っていることを伝えました。
 そうすると長男・次男ともルーツ探しに興味を持って、インターネットから関係ありそうなサイトを一緒に見つけてくれました。
 まず吉田城については「滋賀県のお城」
http://www.asahi-net.or.jp/~qb2t-nkns/oumiyosida.htm

があります。私も訪問して写真を撮りました。









吉田流弓術については滋賀県竜王町の観光ガイドに
http://www.town.ryuoh.shiga.jp/kanko/kyudo/kanko_kyudo.html
があります。

 出雲吉田家については「風雲戦国史」http://www2.harimaya.com/sengoku/html/i_yosida.html

があり、泰秀が出雲吉田庄の目代になって出雲吉田家ができたことを紹介しています。

§松本城で討ち死にした出雲守はどの人か

 吉田氏は戦国時代には近江源氏佐々木家に仕えていたと考えられます。佐々木家の歴史書である『江源武鑑』の現代語訳が、「江州侍」http://www6.plala.or.jp/gousyuu/bukan.html

に紹介されていることが分かりました。この書は、澤田源内という人が自分を佐々木源氏の嫡流と立証するために作成した偽書ともいわれています。これまでの歴史書では「佐々木定頼−承禎義賢」を佐々木嫡流としていましたが、『江源武鑑』では、そうでなく「氏綱−義実−義秀−義郷」が本流としています。しかし近江源氏について、『江源武鑑』には従来の歴史書にない正しい記述が多いとの説もあり、歴史から抹殺された明智光秀についての記述が終わり部分に出るので、参考になります。これについては徳永真一郎著『近江源氏の系譜』(創元社歴史散歩)があります。佐々木源氏についての論考が「佐々木哲学校」http://blog.sasakitoru.com/200509/article_5.html

にもあります。
 松本城というと信州の松本深志城を思い浮かべますが、近江源氏の文献を見てからは、現在の大津市にあった砦の一つであったことがすぐ分かりました。かつて訪れたことがありますが、琵琶湖を見下ろすような小高い丘の上で、現在その跡形はありません。しかし松本は大津市の町名として残っています。

 吉田出雲守のうち長生きをした人を除くと、松本城で討ち死にしたと考えられるのは、天正10年に28歳で没した重綱しかいません。天正10年といえば、62日に本能寺の変があり、光秀により3日に観音寺城が攻め落とされ、佐々木方は途方に暮れて大津に集まったが5日に敗北したと『江源武鑑』に記載されています。

注:『江源武鑑』によると、本能寺の変の後、観音寺城の佐々木方軍勢は明智光秀の居城である坂本城に攻め込み、合戦には勝つが留守にした観音寺城を明智勢に落とされて幼君佐々木義郷は箕浦城に逃れます。坂本城を攻めた佐々木勢は途方に暮れて大津に集まったとあります。この大津が松本城を指すのではないかと考えられます。佐々木勢は船で逃れるなど散り散りになりますが、吉田出雲守重綱は船で逃れず、安土城を目指す明智光秀勢と6月5日に戦って討ち死にしたものでしょう。松本の地名は大津市の高台に残っていますが、松本城はあるいはのちに大津城が築かれた湖畔の地にあったのかもしれません。そのあたりも松本とされたと思われます。

その後、光秀のいた坂本城の材料を用いて築かれた大津城は京極高次の居城となります。関ヶ原の戦いでは、京極高次は妻が淀君の妹で、西軍につくと見られていたにもかかわらず大津城に籠城して西軍に抵抗しています。のち大津城も廃城となり、材料が彦根城と膳所城に移されます。

http://www.m-network.com/sengoku/sekigahara/otsu.html

 我が家について調べると、祖父の晩年ともに住んだ姉の証言では、710日過ぎに吉田家の祭があったと伝えています。これを旧暦に直すと6月初旬と考えられ、出雲守重綱が明智光秀と戦って戦死したことと関連していると考えるのが妥当でしょう。重綱の弟の勝方も本能寺の変で戦死したことになっています。勝方もこのときなくなったのでしょう。

§我が家はどの人につながるのか

 祖父の書き残したものには「出雲守−道春−……」とあり、武道・歴史に疎い祖父が覚えているぐらいだから、焼失した系図は重綱(道春)の後に続く記述であったと考えられますが、祖父は道春からいきなり為忠を結んでおり、その間の数代が欠落しています。この間を結ぶのが課題であり、重氏か豊覚の系統の可能性が高いと考えて調べを進めました。しかも重氏の弟 五兵衛定勝の子孫が岡山、豊覚の子孫が福山で弓指南をしています。その子弟で町人になった者が地理的に近い倉敷に定着することは可能性が高いでしょう。

武家の系図は嫡男のみを記し、次・三男は省略されています。また武道の系譜では、武道を継がなかった者は記述が無くなります。分家した次・三男を見つける必要があります。我が家では代々名乗り名に忠がついています。そこでまず「忠」の付く人を探すことにしました。「日置当流の歴史」

五兵衛定勝−吉田多兵衛良方−源五兵衛経方(備中足守木下藩で弓指南)
               −弟 定右衛門忠辰(備前岡山池田藩家臣)

がありました。忠辰の子は弓術を離れて通常の武士となっているため、弓術系譜では後継者が分かりません。
 池田家が所蔵した古文書が岡山大学図書館でマイクロフィルムとして公開されていることが分かり、「岡山大学付属図書館・池田家文庫」
http://www.lib.okayama-u.ac.jp/ikeda/

にアクセスして検索したところ、吉田亦吉の「先祖書上帳」に源八郎(印西)、五兵衛、定右衛門の名が見つかりました。そのコピーを取り寄せ、閲覧したところ、亦吉は確かに定右衛門の子孫で、池田藩家臣として明治まで続いていました。藤八郎徳定などの名がありますが、忠の付く諱を継いだ者はいないようです。

 備中足守の木下藩に経方の子孫が仕えており、『吉備郡史』に足守の吉田氏略系譜が載っています。それによると、足守の吉田家では代々の名乗りに「方」が付いているので、その系統からの分家の可能性は低いと見ました。しかしその書き上げの中に私が幼時に見た系図に似た弓術に関する記述がありました。おそらくどちらも『本朝武芸小伝』を基にして作成したものでしょう。

 為忠の墓碑に「同族善兵衛の第三子」と彫られています。池田家文庫を検索すると、吉田善兵衛提出の「先祖並御奉公之品書上」「跡目僉議書」「除帳」がありました。見つかった善兵衛は親子二人いて、為忠の父と兄ぐらいの歳ですが、先祖の記述に弓のことがないので、無関係と考えました。また戦前の『倉敷市史』を閲覧したところ、古文書翻刻の中に、「阿波屋七兵衛」為忠が養父「美豊」の所養子(倉敷村内からの養子)になったことが記述されていました。

 改めて調べ直すために、倉敷誓願寺に問い合わせをしました。我が家阿波屋の記述のある過去帳を調べてもらったところ、七兵衛は次の三人がいることが判明しました。
・一代目 覺法音流信士(宝暦六年 九月二十八日歿)
・二代目 願應誠心信士(安永元年 十一月二十三日歿)
・三代目 勝譽良超信士(天保二年 十二月二十五日歿)
 前記の七兵衛為忠は墓があり、その墓碑から過去帳にある三代目にあたることが判ります。そして『倉敷市史』によると美豊の養子になったことが判っており、墓碑から実父は善兵衛といったこと、妻が美豊の末娘登和であることが判るので、一代目が美豊となります。そのことから、一代目死亡時はまだ為忠が七歳であり、聟養子に入るには早すぎます。二代目七兵衛はおそらく為忠の実父の善兵衛で、七兵衛美豊の弟であり、順養子として二代目を継ぎ、為忠が成人後に聟養子に入って、登和と従兄妹婚したものと考えています。なお善兵衛の息子は分家を作り、何代か続いたことが『倉敷市史』から判りますが現在は絶えているようです。これ以上古い阿波屋の記述が過去帳にないので、美豊と善兵衛が兄弟として揃ってどこかから倉敷にやってきたものと考えられます。

 美豊と二代目七兵衛の善兵衛は、福山の豊覚または豊為の系統が分家して倉敷の町人になったのではないかと考えました。
 福山の吉田家の系譜は次のようになっています。

−吉田助右衛門豊隆(阿部正次の死に際して辞去し浪人する)
−吉田助右衛門豊覚(重張とも。豊隆の次男。父と兄の辞去後も阿部家に残る)
 −兄 吉田太郎左衛門豊綱(豊隆の嫡男。父と共に阿部家を辞去。)
−吉田助右衛門豊武(号幽居。豊覚の嫡男)
−吉田助左衛門豊高
 −弟 吉田豊安
−吉田助左衛門豊能(または豊良 号独峯軒)
−吉田助右衛門豊貫
−吉田助右衛門豊功(号若水)
−吉田助左衛門豊穣(福山城代佐原義方の次男から養子)
−吉田助左衛門豊辰(号水山、尚齋。新居頼母の三男から養子。誠之館開設に尽力。明治2771歳で歿)
−吉田助左衛門豊文(大蔵省小書記官)
 −弟 吉田弘蔵(豊辰の次男。誠之舎舎長)
「福山誠之館同窓会」に豊辰・弘蔵の記述があります。
http://wp1.fuchu.jp/~sei-dou/jinmeiroku/yoshida-sukezaemon/yoshida-sukezaemon.htm
http://wp1.fuchu.jp/~sei-dou/jinmeiroku/yoshida-kouzou/yoshida-kouzou.htm

 この系統から、元禄〜享保のころ分家して倉敷に入植したとすれば、豊高・豊安の子あたりだったことになります。
 さらに『備後叢書』『岩槻市史』などを見ると、阿部家に次の家臣がいることが分かりました。

−吉田助之進豊重(豊覚の次男)
−吉田助之進豊矯(伊予松山松平家中の吉田喜右衛門豊方の子で豊重の従兄弟から養子)
−吉田竹之進豊旨

注:この竹之進は翻刻の際に誤読した可能性があり、介之進が正しいとも考えられます。

 以上の中の豊高が、石岡久夫著『日本の古武術』によると「吉田助左衛門豊忠」ともなっていることが目に留まりました。他には見られない記述ですが、同氏は『近世日本弓術の発展』にもこのことを記述していて、何かで見たものと考えられます。その原典は確かめていませんがこの人とのつながりを検討しました。『続備後叢書(下)』に記載の「福山御家中由緒書上」の中に豊高長男「吉田権助豊良(助左衛門豊能とも)」の書上があります。豊高は「元禄三年十二人扶持下し置かれ御広間御番入り、元禄十一年二十人扶持御直し遊ばされ奥取次仰せつけられ、正徳三年家督相続(助右衛門豊武死去か)、享保五年(1720)十月病死つかまつり候」となっています。仮に元禄三年に15歳ぐらいで元服してすぐに出仕したとすれば、1675年頃の生まれになります。美豊がその子とすれば1710年ごろの生まれで、1756年に47・8歳で亡くなったと考えられます。その後、弟の善兵衛が二代目七兵衛として暫く面倒を見て、為忠が成人すると養子に出して本家を継がせたと考えて不思議はありません。以上により、我が家が福山の吉田助右衛門豊高(助左衛門豊忠)につながることの状況証拠が揃いました。

 なお、『古文書調査家録第3集・佐原家文書(二)』(福山城博物館友の会編)ほか福山に残る古文書によると、豊貫は豊能の弟としています。一度吉田弥五左衛門家に養子となった後、享保十六年豊能の跡目を相続したと思われ、これから、豊能が子をなさぬまま他界して、一度他家へ養子に出た豊貫が戻ったと思われます。七兵衛と善兵衛がその弟とすれば、そのときには家に残っておらず町人となって別家を作っていたと思われ、それは享保十六年(1731)以前のことと考えられます。それでなければ、豊貫が養子先から戻る訳がありません。七兵衛と善兵衛は享保五年から享保十六年の間に倉敷へ出たと考えられます。参考までに述べると、豊貫はその後多くの功績をたてて400石から700石まで加増を受け、阿部家の家老に次ぐ御年寄に累進しています。


 最近になって吉田流に関する衝撃的な話を知りました。
2005年12月太陽書房発行『日置の源流−備中足守藩吉田家弓術文書−』岡山大学弓道部OB会編が出ていることが分かり、それによると次のようないきさつがあったとなっています。

昭和五十六年(1981)頃のこと在間宣久氏が足守文庫を訪ねた。在間氏(現岡山県立記録資料館館長)は、当時岡山県史編纂室の職員として『岡山県史』の編纂にあたっており、その史料の収集調査のため、足守文庫で調査を進めていたところ、片隅で茶色の大風呂敷をみつけた。その中に「日置流目録」とか「無言歌」とかの弓の伝書とおぼしき巻物や冊子が大量に包まれていたのである。
在間氏は岡山大学弓道部のOBで、在学当時弓道部の主将をつとめた名選手だった。だから、氏はこれに敏感に反応したのである。在間氏が管理者の教育委員会に、なぜこの大量の伝書が足守文庫の所蔵になったのかを尋ねたところ、その経緯は次の通りであった。
昭和三十年代の初め頃、吉田と名乗る老人が足守の教育委員会を訪れ、
「私の家は、この足守藩で代々弓術指南役を勤めており、弓の伝書を大切に伝えてきた。しかし、この度兵庫に転居する事になり近々足守の地を離れる事になる。子供も孫も弓には全く興味がないので、これまでこの足守の地で代々にわたって守ってきた伝書も散逸するかもしれない。そうなっては御先祖に申し訳ないので、代々御世話になったこの足守の地で保管をお願いしたい。」
とのことで、教育委員会の所蔵となったものである。


 
その本によると、江戸に出た吉田助左衛門豊隆が幕府に願い出て、吉田重氏系統で将軍弓指南をしていた吉田久馬助と吉田流系図を争い、八丈島に流罪になったと記述されています。重氏系統の足守の吉田家に伝わった話が文庫に寄託された古文書に記載されていました。

 重氏系統の久馬助が将軍家の弓指南に抱えられたことに悲憤して阿部家を去って江戸に出たあと行方不明になったと伝えられる豊隆が争いを起こしたことはありそうな話です。しかし,江戸時代に八丈島に流された人の名簿である『八丈島流人銘銘伝』・『八丈島実録』を見ても,吉田豊隆にあたる流人はいません。重氏系の家と豊隆系の間で弓術系譜に関する確執があったことは『明良洪範』にも記述されており,このような悪意のある話が伝わったものと思われます。

§後日談
 2007年暮れになって誓願寺のご住職から連絡をいただき、お宅の先祖の墓が見つかりましたとのことでした。その後姉と次男が案内していただいたところ、誓願寺境内にある古い墓地で、これは『ごさんべえのページ』にも写真が紹介されている讃岐屋山川家の墓地域内でした。私も30年ほど前に一度訪れたことがありましたが、その後境内が整地されたのでなくなったものとばかり思っていました。一番奥に元禄時代のものとご住職がおっしゃる家墓が2基あり、その前に一代目七兵衛(美豊)夫婦の戒名が刻まれた墓が建っていました。家墓の一つが我が家に関係があると伝えられてはいましたが、その前に墓石があるとは知りませんでした。あるいは妻女が山川家の人かもしれません。二代目七兵衛は分家し、三代目七兵衛が寺外に新しく作ったのが現在の我が家の墓地であろうと思います。
 ご住職からご連絡のメールを頂いたのは奇しくも私に5人目の孫が生まれた当日でした。何か仏縁を感じております。





               


                       

余録 1