『明良洪範』 (真田増譽著) 第二十三巻より

弓道の中興吉田家系を尋ぬるに、大永より天文年中に至りて一天下に名誉有し、弓勢の達人。伊勢北畠一族に日置弾正忠入道意徳齋、若名團三郎老後に瑠璃光坊と云、此人一流を工夫し、古流は下段にて本天比中の曲尺を用ひけれども、後世に至りては人も小兵と成、弓勢も劣れる故に一段多く右の肩根迄引越たもち第一にするを日置流と云。其頃關東にては大田三樂是を傳へ、夫より越後謙信に傳へ關東皆此門に入る。日置入道は江州佐々木の旗本吉田上野介に傳ふ。唯授一人とす。

上野介嫡子出雲守に傳ふ。其子伊勢守に傳ふ。後出雲守佐々木承禎に傳へ、又出雲守嫡子助左衛門豊輪に傳へけれども病身故早世なり。死期に至りて門人の中、葛巻源八郎に女子を与へ吉田の苗字を譲る。日置流家伝の書を渡し子息助左衛門が成長迄後見の事を頼みける。

此源八郎は関白秀次に仕へけれども吉田六左衛門堪能成し故彼を用ひ有けり。或時六左衛門に弓の事仰せ仕られし。冬の事なりしに早速削りて雪中に自身肩に打かゝげ馬に乗蓑笠着て登城しける。秀次公矢倉より御覧じ有て、賤しからぬ武士馬上に何やら荷ひたるぞ不審さよと有し所へ、吉田六左衛門御弓仕りたりとて差上るに、御心に叶ひける故、早々召出され、只今城下を見るに馬にて弓程の物を荷ひ來りしは汝なりやとの事に、私にて候と答に、家来は持ざるか自身馬上にて荷ひたるは如何と尋ね給へば、されば御調度の第一にして御手に取らるゝ器故、争で下々に持せ申すべきと申上しかば、別して感賞有て雪を荷ひたる形氣面白けれ、號を下さるぺし迚、雪荷の二字を給ひし故、以来雪荷と云、一流を立る吉田一族の内にて弓の上手也。

其後天正年中神君始めて御上洛有し頃、吉田周防守弟、同く忠右衛門、同く雪荷六左術門、杉本民部杯云吉田の一族、殊に關東の竹林石堂叉左衛門、間宮市左衛門、内藤仁兵衛等の高弟の面々、皆京都に盛会しければ、此時を幸ひとして吉田流の助左衛門豊雄を立んとす。吉田源八郎をも召寄せ當流の相傳に誤り有事杯、かゝる時ならでは吟味もなり難し、衆議を聞せん迚、三井寺に参会しける時に、本家たる助左衛門豊雄申出しけるは、某事幼年にて父には後れ、其節葛巻源八郎に亡父の口傳の書を預け、某事十八才に成たらば吉田の系図並ぴに傳書等残らず返し渡すべしと申含め、苗字を譲り我等姉を遣はし頼み置候所、近年に至り度々乞申すといへども今以書物系図一向に返し渡さずと申ければ、一坐の人々夫は源八郎不届と挨拶しける。源八郎申は助左衛門未だ流儀に至らず、夫故に扣へたる由答へけるに、石堂竹林等傍に居けるが何にもせよ古助左衛門の遺言を背きたる上には、吉田の唯授一人の器に非ず如何思召やと申すに、何れも申すは兎角の論に及ぱず、古先生の傳書等残らず只今助左衛門方へ譲り返さるぺしと、一坐差図有といへども源八郎は兎角云て承引せず。竹林是非なく源八郎を引伏せ懐中より系図等を取返しける。叉源八郎に随身しける弓当引破りけると也。

此会席へ助左衛門老母來りて申けるは、古助左術門病気の時一と通りの六十ニケ條聟養子の源八郎に渡すといへども、志多の舞の様なる事有て、姉聟必ず小舅を殺す事秘事は盡く事ある故、残して其方に預ける程に、豊雄盛人の後に一家衆中列坐の時、此巻物を証拠として取傳へよと申置たり、則此一通の中に有迚、坐中にて助左衛門へ老母の手よりぞ傳へける。

是よりして雪荷六左衛門、吉田勘左衛門、竹林孫左衛門など吉田豊雄より二百余條を傅へて其門人には二百八十ケ條を以て傳授あり。吉田助左衛門のみ三百六十ケ條を傳ふ。此外には流傳の全きはなし、唯授一人師の直受は助左衛門豊雄に究まる。此を以て伊達家に召招かれ、政宗より浪人分にて四千石を領し奥州に有し。又加賀の吉田大蔵、淀の糟谷左近、森刑部などは吉田の傳を継で名人なり。豊雄よりは少し後の人なり。

扨吉田源八郎右の後に京郡の住居もなり難く越前へ引込隠居して印西と號しけるに、流石名人故に一流を発起し印西流と云。此弓法北国に行はれける。慶長五年に至りて秀康公越前御拝領有りて翌年御入部あり。印西が事を聞し召れ五百石を給はりし。されども此印西流より傳る事実に吉田の流と相違せし事あり。結城の士に藤川蔵人と云者射法正しき故に古流の射法尋ね學び、三つ物等の礼射の次第杯、荒増藤川に傳授受たる故也。印西が嫡子は早世し、二男久馬助子細有て他國し越前に印西が傳は林六兵衛、其子大學両人能傳へし。

家光公の御代始めに吉田の嫡家御尋有しに松平出羽守直政、印西久馬之助事推挙有し。久馬之助其頃は備前に居るを召れけり。此者事幼年にて父に別れし故、家傳も少なかりし。越前士林六兵衛が次男鈴木十兵衛と云者ども、久馬之助へ一と通り傳授しけると也。其後久馬之助弓術を二の丸にて上覧有し時、射損じ不首尾なる由を奥州にて吉田助左衛門聞て、政宗へ願ひけるは、日置の正流当時天下に某より外に唯授一人の傳を仕る者なし。然るに庶流たる久馬之助を御旗本へ召れたる由、嫡傳の某御撰みに洩し事本意に非ず。此段公儀へ御歎き申上度、江戸へ罷出けるとて、合力を辞し仙臺を出て、阿部備中守正次よりして願書を捧げしに、元より吉田の正統にて天下に紛れなき事なれども、松平直政の口入にて池田家より召出され、久馬之助事故御聞濟は有ながら、序あらばと老中方の評議故、阿部正次方に當分我等合力を受られよ迚、五百石にて豊雄は在江戸したり。

阿部一黨、吉田の一族、内藤一家杯、弓法の吟昧に埒明ざる事ども一々に不審はれしかば、旗本衆中は大方弟子となりけり。布施孫之丞は印西の門弟にて公儀弓御用相勤められし。

其後助左衛門望み叶はず病死し、嫡男太郎左衛門豊綱継ぐ。公儀の願を待合せし内に阿部氏死去なり、御代も替りければ、豊綱は阿部家を辞しけるは亡父我等迄公儀の御扶持をこそ願ひ罷在しが、只今阿部の家臣の如く成行こと本意に非ずとて、五百石の合力を辞す。阿部家にても頻りに押止めけれども、其志を奪べからず。これに依て、弟助左衛門を阿部家に止めて、豊綱事は一生浪人にて死去し、其子太郎左術門は早世しける故、今は助左衛門のみ唯授一人の統になり。

今世の弓形印西流の弓形江戸の弓形になり、古よりの形は是なしと也。江戸弓形は姫也。強く握り立て張形は見分よく見ゆれども、實の月弓形にてはなし。近代軍さと云事なければ、見分一通りのみ也。