はじめに |
1.歩くきっかけ |
今回の「山田線・三陸鉄道(北リアス線)」全駅間歩きは、去年(2012年)に入ってから決めた計画でした。 当初、今年の夏はまた北海道でも歩こうかと考えていました。 そう思って、北海道で歩く路線を決めて、どこら辺で宿をとろうかなどとぼんやりと考えていた頃、 震災からもうすぐ1年になるというニュースが流れました。 東日本大震災… そのとき、自分は職場にいたのですが、奇妙なほどゆっくりかつ大きな揺れが2〜3分続きました。 直後から流れたラジオの放送からは、とても現実とは思えない内容が伝えられ続けました。 震災当初、ニュースでは連日津波被害の様子が映し出されました。 小学生の時にテレビで見た、阪神・淡路大震災の被害を越えているのは明らかでした。 そんな大震災から1年…。 テレビからは、復旧道半ばの被災地の様子が映し出されていました。 実は、震災で甚大な津波被害を受けた三陸海岸には、これまであまり行ったことがありませんでした。 震災がなければ、一昨年か去年あたりにじっくりと旅行したいと思っていた地域でした。 また、私が行ったことがある場所については、震災後の様子が気になっていました。 被災地のいまを目に焼き付けておきたい。 ふとそう思いました。 その思いは次第に強くなり、三陸海岸を歩く方向でプランニングし直すことにしました。 |
2.ボランティアツアーへの参加 |
三陸海岸を歩くことを決めた後、私は被災地のボランティアに参加してきました。 元々、震災当初からボランティアに参加したいという思いはありました。 しかし、三陸海岸を歩くという「旅行」をする前に、 少しでも被災地のためになることをしたいと思って、ボランティアツアーに申し込みました。 ボランティアツアーの行き先は南三陸(・気仙沼)でした。 国道45号で横山峠を越え、陸前戸倉の集落に入ると、 津波被害の様子がまざまざと目に飛び込んできました。 家々は、ほとんどが土台を残して流出し、あったはずの駅はほぼ跡形なく流されてしまっていました。 骨組みだけとなった、南三陸町の防災庁舎には花がたむけられていました。 震災から1年以上が経過しても、復旧が進んでいるとはいえませんでした。 私は、陸前小泉という小さな町でボランティア活動することになりました。 活動内容は、地域の子供達を呼んだイベントのお手伝いでした。 小泉地区には、2000人近い方が住んでいましたが、 海岸に面する低地部は、壊滅的な津波被害を受け、40人を越える死者・行方不明者が出たとのことでした。 高台に位置する小学校からみた光景は、震災から1年を経過していても、息をのむものがありました。 町のがれきは概ね撤去されていましたが、町の再建は高台移転の計画がでているものの、 まだ実行には移ることができないのが実情でした。 しかし、イベントに来てくれた子供達は皆元気で、震災の陰はあまり感じられませんでした。 「海に行くことを怖がっている子供達もいる」ということでしたが、 参加した子供達全員と近くの海岸まで行くことができました。 辛いことがあっても、先に進んでいく元気、勇気が必要なのだと感じました。 「モノの復旧」だけでなく生活の復旧や「心」の復旧なくして、真の復旧はあり得ないと考えるようになりました。 このボランティアツアーは、1泊3日という土日を使った駆け足のツアーでしたが、 自分の足で被災地の現状を見ておきたいという思いはますます強くなりました。 |
小泉小学校から、小泉集落の中心部があった場所を望む |
3.準備開始、しかし… |
夏が近くなった6月頃から、三陸海岸を歩く計画を具体的に立て始めました。 自分に与えられた夏期休暇では、三陸沿岸すべてを歩くことはできません。 そこで、今回は一部区間が復旧している三陸鉄道を歩くことを念頭に、三陸海岸北部を歩くことにしました。 長距離を歩く全駅間歩きでは、まともに休憩できる場所(=営業している駅)が欲しいからです。 職場の夏期休暇は、希望通り9月半ばに取得できました。 宿泊予定場所もルートも概ね決定し、いよいよ宿泊施設に予約を入れることになりました。 こういった時はいつも、宿の数が少ない場所から予約をとるようにしています。 宿泊予定地が一軒宿だったりすると、そこの予約がとれないと計画自体立て直しになってしまうからです。 したがって、比較的大きな都市の宿泊予約は後回しになりがちです。 結論から言えば、今回の場合、宿の数が少ない場所の予約はすんなりととることができました。 そう、問題は大きな町の予約でした。 1ヶ月少し前になり、そろそろ釜石(出発地点)の予約でもするかと、 某大手宿泊検索サイトで釜石の宿泊施設をあたってみたのですが… 「指定の条件で予約できる宿泊施設はありません」 検索条件を間違ったかと思い、もう一度検索してみたのですが、やはり同じメッセージがでました。 1ヶ月も前から、地域の宿屋全部が予約で埋まっているとは。 宿泊施設の多くは、いまだに営業を再開していないのでしょうか? それとも、宿泊予定日前後に何かイベントでもあるのでしょうか? 調べてみましたが、そのどちらでもないようです。 遠野まで戻れば宿泊施設は空いているのですが、 遠野では、翌日の一番列車で釜石に向かっても、最初の宿屋に着く前に陽が暮れてしまいます。 もしやと思い、宮古についても同じ検索をかけてみましたが、結果はやはり同じ。 浄土ヶ浜まで行けば空室があるのですが、翌日の行程を考えると、浄土ヶ浜宿泊は現実的ではありません。 このとき、ボランティアツアーの時に聞いたことを思い出しました。 それは「気仙沼はいつもいっぱいで泊まれない」という話です。 市街地のホテルは、災害復旧の関係者が宿泊して満室の状態が続いているというのです。 どうやら、気仙沼だけではなく、釜石や宮古なども同じ状況になっているようです。 しかし、これに納得していては計画通り歩くことができません。 電話帳をもとに、片っ端から釜石・宮古市街の宿泊施設に当たってみることにしました。 釜石については比較的早い段階で空室を見つけることができましたが、 宮古は5軒目にしてようやく空室のある宿屋を見つけることができました。 大きな都市はホテルが多いから大丈夫と高をくくっていましたが、特別な事情があるときは侮れません。 紆余曲折はありましたが、これで三陸海岸全駅間歩きの準備は整いました。 今回は毎日コンスタントに35km前後歩く上、 100〜200メートルのアップダウンを一日に何回も繰り返すことになる日もあります。 少々厳しい全駅間歩きですが、被災地のいまを目に焼き付けていきたいと思います。 |
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