1 早 春
「姉ちゃん、早く早くー」
赤い鼻緒のついた小さな草履がところどころ雪の解け残った土の上をとたとたと駈けていく。冬の間、家に閉じこめられていた反動なのか、小さな足取りは覚束ないのにどんどん遠くへ行く。赤い鼻緒が通り過ぎた後で芽吹いたばかりの雀の帷子が揺れた。風はまだ冷たい。高原に遅い春はようやく訪れたばかりだった。
「蓮ーっ、走らないのーっ! すぐに転ぶんだからーっ!」
朝の鮮烈な空気を吸い込んで、倫は大声で妹を呼んだ。夢中になって駈けていく妹を倫は捕まえに行きたかったけれど、倫のもう一つの仕事――洗濯物の入ったたらいを抱えたままでは走れなかった。
一方で、に立ち止まるつもりは全くなかった。
「平気、平気ー」
走りながら答えて倫を振り返ろうと身を捩ったとたん、体が大きく揺れてあっという間に転んでしまった。たちまち上がる泣き声。
「しょうがないなぁ――わたし、蓮を見てくるから、婆ちゃんは先に行って」
倫は並んで歩く婆ちゃんにそう言うと、蓮のそばに急いだ。蓮はぬかるんだ地面の上で半身を泥だらけにして伏せていた。姉の姿を見て安心したのか、蓮はすぐに泣き止んだ。
「もう六つなんだから、転んだくらいで泣かないの」
倫は蓮にそう言い聞かせた。しかし、「六つ」といっても数えである。正月がきて一つ歳を取ったばかりだから、満で数えると蓮はまだ五歳にもなっていない小さな子どもだ。
「ほら、立ちな」
倫は洗濯桶を地面に置くと蓮の手を引いて立たせ、持っていた手拭いで顔や着物に付いた泥を拭いてやった。
(まったく、蓮には手がかかる)
倫は汚れた手拭いを小さくたたんで帯に挟むと、また洗濯桶を抱えて歩き始めた。転んだばかりの蓮は今度はおとなしくついてきた。
村のはずれの小川の岸に共同の洗濯場がある。この小川は青麦岳の麓から韮野村のはずれを通って坂下の筆振川までほぼ一直線に流れている。自然に出来た川ではない。明治になってから田に水を引くために作られた堀割だった。作られたのは倫が生まれる前。東京からお役人がやってきて父ちゃんたち韮野村の人を使って工事をした。父ちゃんたちも米の出来高が増えるならと喜んで手伝った。
堀割が出来上がったところで東京のお役人は満足して引き上げてしまった。ところが春先にここを流れるのは青麦岳の雪解け水である。田植えの頃に田に引くには冷たすぎた。後になって韮野村の人たちだけで、田に入る前に堀割の水が暖まるように工夫した。つまり、堀割から田に向かう途中を細く曲がりくねった水路にして、水がそこを流れている間に日射しで暖まるようにしたのだった。そんな手間をかけて出来た堀割だから韮野村の誰もが大切にしていた。
洗濯場では婆ちゃんが一足先に着いていて洗濯をしていた。倫はその傍らにしゃがんで、泥だらけになった手拭いを水の流れでごしごし洗った。春とはいえ澄んだ水は手が切れそうなくらい冷たかった。蓮はふたりの傍で岸辺に咲くれんげやすみれの花を摘んでは花束にしたり、首飾りにしたりして、出来上がるたび倫に見せた。
倫は婆ちゃんと一緒になって家族の着物を洗った。家族七人分だから洗濯だけで半日掛かりだ。倫にとっては確かに重労働だったけれど、おとなたちの話が聞けるのは楽しかった。洗濯場には村の女の人たちが集まって来て、うわさ話の花を一斉に咲かせる。だから飽きることはないし、今、村でどんなことが起きているのかを知るいい機会にもなっていた。
洗濯場の最近の話題は島牧さんのところのおスツだった。おスツは倫より二つ年上になる。去年、東京に奉公に行って帰ってきたら、すっかりあか抜けて美人になったと評判だった。たしか行儀見習いとか言っていた。帰ってきたのは去年の暮れだというのに未だに彼女の一挙手一投足が話題になる。
倫もおスツのことは知っていた。確かに立ち居振る舞いに村の子どもや以前のおスツとは違った、大人らしい雰囲気が出てきたような気がする。自分も行儀見習いに行ったらおスツのように大人らしくなるのだろうか、そもそも、うわさでしか聞いたことのない東京とはどんなところだろうか。そんなことを考えながら大人たちのうわさ話を聞いていた。
日中はそれなりに暖かいけれど日が傾くとすぐに寒くなった。
囲炉裏の自在鉤には鍋が下げられている。鍋の中身は芋や根菜を味噌仕立てにした煮物だ。倫が味加減、火加減を見ながら煮上げたものだ。倫がときおり鍋をかき回していると、田圃から父ちゃん母ちゃん、兄ちゃんたちが帰ってきた。囲炉裏を囲んで家族が集まった。婆ちゃんが土間のかまどで炊いたご飯をおひつに移して持ってきた。粟三分に麦七分を混炊きしたものだ。これを婆ちゃんが椀に付けて父ちゃんから順に渡した。倫も鍋の煮物を椀に盛って父ちゃんから順に渡した。これが毎日の夕食だ。米はここ数年でようやく採れるようになったけれど、ほとんどを東京に売っていて、自分の家ではお祝い事でもがなければ食べることはなかった。倫は年に数度食べるご飯はいい香りとほんのりとした甘みがあってとてもおいしいと思うけれど、毎日食べている粟と麦のご飯も嫌いではなかった。
「倫、今度、おまえを奉公にやることにしたから支度しておけ」
夕食の最中、父ちゃんが出し抜けに言い出した。父ちゃんが物事を突然決めるのはいつものことだった。父ちゃんは家の柱だから、家の中のことを決めるのは至極当然ことだった。ただ、倫にとっては何の前触れもなく自分の身に降りかかってきたので戸惑った。
倫は、
(本当なの?)
という気持ちで母ちゃんの顔を見た。母ちゃんは微笑みながら頷いていた。もしかしたら、倫を奉公に出すことはもう決まっているのかも知れない。去年はおスツが奉公に行っているし、村でスツの次の年頃の子と言えば倫くらいしかいない。だから倫もなんとなく(次は自分の番かな)と思っていたし、一度でいいから東京へ行ってみたいと思っていた。だから、父ちゃんの一方的な決定だったけれど、倫はそれに従うことにした。とりあえず、その「支度」とやらは、どのくらいのものでいつまでに済ませておけばいいのだろう?
「父ちゃん。奉公にやるって――いつ出発なの? いつまでなの?」
「出発は三日後だ。岡島さんという人入れの旦那様が迎えに来ることになっている。おスツと同じ年季奉公だから、年季が明けるのは今年の暮れだ」
「…………行き先は――東京?」
「ああ」
花の都・東京に一年も(正確には九月だけれど)住めるなんて滅多にあることではない。倫は表情には出さなかったけれどちょっとうきうきした気分になった。一通り話が終わった後、蓮が心配そうに訊ねた。
「姉ちゃん、どこかいっちゃうの?」
「うん。でも、心配いらないよ、蓮。暮れになったら必ず帰ってくるから」
倫は蓮の頭を優しく撫でて答えた。
父ちゃんに奉公行きを言い渡された日以来、洗濯場での話題の中心は倫になってしまった。東京へ行くということがよっぽど珍しいのだ。考えてみたら東京へ行ったことのない人は倫だけではなかった。むしろ、おスツのような鉄道が開通してから奉公へ行ったごく少数の人しか東京を知らない。それはそうだ。つい数年前に東京までの鉄道が開通して、交通の便はよくなったけれど、東京までの汽車賃は大人で一円五五銭。農作業の手間賃の七日分に相当する。韮野村の人たちにとって、ちょっと東京見物へ、という気分になれる料金ではなかった。倫は洗濯場の女の人からいろいろと質問攻めにされたけれど、倫にとっても東京へはこれから行くのであって、今はまだ周りの人と同様、見たことのない街だった。
いよいよ奉公へ送り出される日の朝、いつもならとっくに田圃に行っている母ちゃんが倫の髪を結った。いつもの子どもの髪型ではなく、少しお姉さんになった感じの結い。それにきれいな櫛を挿してくれた。
「あ……いいの、これ?」
母ちゃんの大切なものだ。いままで一度も触らせてもらったことがない。
「うん、いいよ。これは母ちゃんが母ちゃんの母ちゃんからもらったお守りだ。
「うん……」
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