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常世姫 とこよひめ (上)

 この作品はテレビアニメシリーズ『おジャ魔女どれみ』の二次創作です。
 平成18年10月22日の「ぷにケット14」で頒布予定の作品です。とりあえず全体の3分の1くらいです、たぶん。まだ、物語の導入なので常世も姫も出てきません。スミマセン。

もくじ

(初売り:ぷにケ14のはず)


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1 早 春

「姉ちゃん、早く早くー」
 赤い鼻緒のついた小さな草履がところどころ雪の解け残った土の上をとたとたと駈けていく。冬の間、家に閉じこめられていた反動なのか、小さな足取りは覚束ないのにどんどん遠くへ行く。赤い鼻緒が通り過ぎた後で芽吹いたばかりの雀の帷子が揺れた。風はまだ冷たい。高原に遅い春はようやく訪れたばかりだった。
「蓮ーっ、走らないのーっ! すぐに転ぶんだからーっ!」
 朝の鮮烈な空気を吸い込んで、倫は大声で妹を呼んだ。夢中になって駈けていく妹を倫は捕まえに行きたかったけれど、倫のもう一つの仕事――洗濯物の入ったたらいを抱えたままでは走れなかった。
 一方で、に立ち止まるつもりは全くなかった。
「平気、平気ー」
 走りながら答えて倫を振り返ろうと身を捩ったとたん、体が大きく揺れてあっという間に転んでしまった。たちまち上がる泣き声。
「しょうがないなぁ――わたし、蓮を見てくるから、婆ちゃんは先に行って」
 倫は並んで歩く婆ちゃんにそう言うと、蓮のそばに急いだ。蓮はぬかるんだ地面の上で半身を泥だらけにして伏せていた。姉の姿を見て安心したのか、蓮はすぐに泣き止んだ。
「もう六つなんだから、転んだくらいで泣かないの」
 倫は蓮にそう言い聞かせた。しかし、「六つ」といっても数えである。正月がきて一つ歳を取ったばかりだから、満で数えると蓮はまだ五歳にもなっていない小さな子どもだ。
「ほら、立ちな」
 倫は洗濯桶を地面に置くと蓮の手を引いて立たせ、持っていた手拭いで顔や着物に付いた泥を拭いてやった。
(まったく、蓮には手がかかる)
 倫は汚れた手拭いを小さくたたんで帯に挟むと、また洗濯桶を抱えて歩き始めた。転んだばかりの蓮は今度はおとなしくついてきた。

 村のはずれの小川の岸に共同の洗濯場がある。この小川は青麦岳の麓から韮野村のはずれを通って坂下の筆振川までほぼ一直線に流れている。自然に出来た川ではない。明治になってから田に水を引くために作られた堀割だった。作られたのは倫が生まれる前。東京からお役人がやってきて父ちゃんたち韮野村の人を使って工事をした。父ちゃんたちも米の出来高が増えるならと喜んで手伝った。
 堀割が出来上がったところで東京のお役人は満足して引き上げてしまった。ところが春先にここを流れるのは青麦岳の雪解け水である。田植えの頃に田に引くには冷たすぎた。後になって韮野村の人たちだけで、田に入る前に堀割の水が暖まるように工夫した。つまり、堀割から田に向かう途中を細く曲がりくねった水路にして、水がそこを流れている間に日射しで暖まるようにしたのだった。そんな手間をかけて出来た堀割だから韮野村の誰もが大切にしていた。
 洗濯場では婆ちゃんが一足先に着いていて洗濯をしていた。倫はその傍らにしゃがんで、泥だらけになった手拭いを水の流れでごしごし洗った。春とはいえ澄んだ水は手が切れそうなくらい冷たかった。蓮はふたりの傍で岸辺に咲くれんげやすみれの花を摘んでは花束にしたり、首飾りにしたりして、出来上がるたび倫に見せた。
 倫は婆ちゃんと一緒になって家族の着物を洗った。家族七人分だから洗濯だけで半日掛かりだ。倫にとっては確かに重労働だったけれど、おとなたちの話が聞けるのは楽しかった。洗濯場には村の女の人たちが集まって来て、うわさ話の花を一斉に咲かせる。だから飽きることはないし、今、村でどんなことが起きているのかを知るいい機会にもなっていた。
 洗濯場の最近の話題は島牧さんのところのおスツだった。おスツは倫より二つ年上になる。去年、東京に奉公に行って帰ってきたら、すっかりあか抜けて美人になったと評判だった。たしか行儀見習いとか言っていた。帰ってきたのは去年の暮れだというのに未だに彼女の一挙手一投足が話題になる。
 倫もおスツのことは知っていた。確かに立ち居振る舞いに村の子どもや以前のおスツとは違った、大人らしい雰囲気が出てきたような気がする。自分も行儀見習いに行ったらおスツのように大人らしくなるのだろうか、そもそも、うわさでしか聞いたことのない東京とはどんなところだろうか。そんなことを考えながら大人たちのうわさ話を聞いていた。

 日中はそれなりに暖かいけれど日が傾くとすぐに寒くなった。
 囲炉裏の自在鉤には鍋が下げられている。鍋の中身は芋や根菜を味噌仕立てにした煮物だ。倫が味加減、火加減を見ながら煮上げたものだ。倫がときおり鍋をかき回していると、田圃から父ちゃん母ちゃん、兄ちゃんたちが帰ってきた。囲炉裏を囲んで家族が集まった。婆ちゃんが土間のかまどで炊いたご飯をおひつに移して持ってきた。粟三分に麦七分を混炊きしたものだ。これを婆ちゃんが椀に付けて父ちゃんから順に渡した。倫も鍋の煮物を椀に盛って父ちゃんから順に渡した。これが毎日の夕食だ。米はここ数年でようやく採れるようになったけれど、ほとんどを東京に売っていて、自分の家ではお祝い事でもがなければ食べることはなかった。倫は年に数度食べるご飯はいい香りとほんのりとした甘みがあってとてもおいしいと思うけれど、毎日食べている粟と麦のご飯も嫌いではなかった。

「倫、今度、おまえを奉公にやることにしたから支度しておけ」
 夕食の最中、父ちゃんが出し抜けに言い出した。父ちゃんが物事を突然決めるのはいつものことだった。父ちゃんは家の柱だから、家の中のことを決めるのは至極当然ことだった。ただ、倫にとっては何の前触れもなく自分の身に降りかかってきたので戸惑った。
 倫は、
(本当なの?)
という気持ちで母ちゃんの顔を見た。母ちゃんは微笑みながら頷いていた。もしかしたら、倫を奉公に出すことはもう決まっているのかも知れない。去年はおスツが奉公に行っているし、村でスツの次の年頃の子と言えば倫くらいしかいない。だから倫もなんとなく(次は自分の番かな)と思っていたし、一度でいいから東京へ行ってみたいと思っていた。だから、父ちゃんの一方的な決定だったけれど、倫はそれに従うことにした。とりあえず、その「支度」とやらは、どのくらいのものでいつまでに済ませておけばいいのだろう?
「父ちゃん。奉公にやるって――いつ出発なの? いつまでなの?」
「出発は三日後だ。岡島さんという人入れの旦那様が迎えに来ることになっている。おスツと同じ年季奉公だから、年季が明けるのは今年の暮れだ」
「…………行き先は――東京?」
「ああ」
 花の都・東京に一年も(正確には九月だけれど)住めるなんて滅多にあることではない。倫は表情には出さなかったけれどちょっとうきうきした気分になった。一通り話が終わった後、蓮が心配そうに訊ねた。
「姉ちゃん、どこかいっちゃうの?」
「うん。でも、心配いらないよ、蓮。暮れになったら必ず帰ってくるから」
 倫は蓮の頭を優しく撫でて答えた。

 父ちゃんに奉公行きを言い渡された日以来、洗濯場での話題の中心は倫になってしまった。東京へ行くということがよっぽど珍しいのだ。考えてみたら東京へ行ったことのない人は倫だけではなかった。むしろ、おスツのような鉄道が開通してから奉公へ行ったごく少数の人しか東京を知らない。それはそうだ。つい数年前に東京までの鉄道が開通して、交通の便はよくなったけれど、東京までの汽車賃は大人で一円五五銭。農作業の手間賃の七日分に相当する。韮野村の人たちにとって、ちょっと東京見物へ、という気分になれる料金ではなかった。倫は洗濯場の女の人からいろいろと質問攻めにされたけれど、倫にとっても東京へはこれから行くのであって、今はまだ周りの人と同様、見たことのない街だった。
 いよいよ奉公へ送り出される日の朝、いつもならとっくに田圃に行っている母ちゃんが倫の髪を結った。いつもの子どもの髪型ではなく、少しお姉さんになった感じの結い。それにきれいな櫛を挿してくれた。
「あ……いいの、これ?」
 母ちゃんの大切なものだ。いままで一度も触らせてもらったことがない。
「うん、いいよ。これは母ちゃんが母ちゃんの母ちゃんからもらったお守りだ。
「うん……」


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2 たびだち

 岡島という人入れ屋の人が迎えに来たのは、朝食を食べ終わって間もなくのことだった。縁側から大きな声が聞こえてきた。
「おはようございます、野花さん!」
 倫の家に来て苗字を呼ぶ者は村にいなかったから、すぐに来客――岡島だということが分かった。父ちゃんがいそいそと応対に出た。縁側の外に立つ岡島の姿は囲炉裏のある部屋からも影絵のようになって見えた。
 いつもだったら畑仕事に出ている兄ちゃんたちもまだ家にいた。みんな口に出しては言わないけれど、倫の見送りのために野良の仕事を休んでいた。父ちゃんは二言三言岡島と話をすると倫を呼んだ。
「倫、おいで。岡島さんだ」
「おはようございます……」
 倫はお辞儀をしながら、つい上目遣いに岡島をじろじろ見てしまった。洋装が珍しかったのだ。岡島は黒の燕尾服に外套を羽織って帽子を被っていた。村では全く見かけない服装だった。明治の世になってから欧米からたくさんの文物が入ってくるようになったと聞いていたけれど、噂に聞くだけで見たことがなかったから、それらがどういうものか全く想像できなかった。村では百年前とあまり変わらない生活をしている。男の人の髪型だって、父ちゃんと同じかそれより年上の人はほとんどが髷を結っている。村の用水だって、今使われているものは明治になってから作られたものだけれど、それ以前には同じ場所に江戸時代に作られた堀割があったそうだ。
 岡島の着ていた燕尾服はきれいだった。あまり皺になっていない。今朝東京から着いたばかりというわけではなさそうだったけれど、村に泊まれるところがあっただろうか? 
「君がお倫ちゃんかい?」
「え、あ、はいっ!」
 倫がいろいろと想像しているときに、突然、岡島に話しかけられて驚いてしまった。
「なかなか利発そうなお子さんですね」
「そんなことありませんよ、ただの田舎の餓鬼です」
「いえいえ、野花さん。いい目をしている」
 (目つきが怖いとか怒っているのとか言われたことはあるけれど、そんなことで褒められたのは初めてだ。
「こちらが奉公代です。どうぞお納めください」
 そう言うと岡島は袱紗包みを父ちゃんに渡した。
「へい、ありがとうござい……」
 父ちゃんは袱紗を取って中身を確かめた。紙幣が何枚かあるようだった。額に間違いがないことが分かると、父ちゃんは袱紗だけを岡島に返した。
(とうとう奉公が決まってしまったな)
 倫はずっとその様子を見ていて思った。このときになって始めて自分がカネと引き替えに余所に出されることを実感した。
 でも、それは仕方のないことだった。去年は倫の目から見ても分かるくらいの不作だった。父ちゃんは「そもそもこの村で米を作ることが無理なのだ」と言っていた。それでも米を作るのはお金になるから、いつかたくさん収穫できるようになるようにみんな汗を流して働いているのだった。そういう理由で作っている米だけれど、収穫できなければ一文にもならない。米が実る秋になるまで、家にはお金が全くないことになる。だから少なくともあと半年を凌げるだけのお金が必要だった。けれど、父ちゃんや兄ちゃんたちは今年も畑や田圃の仕事で手一杯。倫の家でまとまったお金を手に入れるためには、倫を奉公に出すくらいしかなかった。
「それでは、お倫ちゃんをお預かりいたします――さ、お倫ちゃん、おいで」
 岡島は立ち上がると、倫を手招きした。
「ああ、ちょっと待ってな、岡島さん」
 母ちゃんが慌てて勝手に行った。
 倫は父ちゃんの顔を見ようとしたけれど、父ちゃんは目を合わせようとしなかった。
 母ちゃんはすぐに戻ってきた。手に竹の皮の包みを二つ持っていた。
「これ、お昼になったら列車の中でお食べ。岡島さんの分もあるから」
 そう言って母ちゃんは包みを倫に渡した。
(きっとお弁当なんだろうな。でも、粟と麦の混ぜ炊きなんて岡島さんの口に合うかな)
 東京の人から見たら、田舎の食べ物なんてきっと粗食だろう。でも、倫は母ちゃんの心尽くしを嬉しく思いながら受け取った。

 東京へ行くためには信武鉄道を使う。一昨年開通したばかりの鉄道だ。天気や風向きによっては、甲高いちょっと悲しげな汽笛の音が微かだけれど韮野村まで届くこともあった。
 停車場までは韮野村から歩いて小一時間。倫は岡島の後について、村を出る道をとぼとぼと歩いた。
(あ、そう言えばこの道、一昨年も歩いたな……)
 倫はふと思い出した。村の人たち総出で鉄道の開通を見に行ったことがあった。そのときもこの道をとぼとぼと歩いて、その頃はまだ小さかった倫は途中で父ちゃんの背中に負ぶさっていたような気がする。
 停車場には近くの村の人たちが大勢集まっていた。停車場からも溢れかえり、線路の両脇にもたくさんの人が並んでいた。そこを若い駅員さんと近所の駐在さんの二人だけで、「危ないぞーっ!」とか「下がれー!!、下がれーっ!!」とか叫びながら、見物人の列を整理していた。
 やがて蒸気機関車がやってきた。牛なんかより遙かに大きな黒い鉄のかたまりで、大きな煙突から黒い煙をもうもうと吹き出しながら近づいてきた。後ろに客車を二両牽いていた。停車場に近づくと、黒山の見物人を追い立てるように、汽車はしきりに汽笛を鳴らした。甲高い音と一緒に煙突の後ろ側に取り付けられた笛から白い蒸気が勢いよく噴き出した。
 倫たち家族は結局停車場に上がれなかった。線路沿いのさらに前から五人目くらいの後方にようやく入り込んだ。そんな離れた場所から見ても、停車場に止まった機関車はさらに恐ろしく見えた。円筒を横倒しにした本体に煙突と汽笛が突き出している。脇には細い鉄管が這うように細い鉄止まっている間もゆっくりと煙を噴き上げ、ときどき足下から白い蒸気を噴き出していた。それは運転台の中にいる人がやっているんだということくらい幼い倫にも分かっていたけれど、蒸気機関車そのものが大きな生き物のように見えた。
 村を出るのも停車場に行くのもそのとき以来だった。これから先は雑木林の中に続く一本道。ときおり大きな葛籠を背負った人とすれ違った。韮野村などの村々に塩や干し魚、布などを商いに行く人たちだ。
 雑木林の中を抜けつづら折りの坂道を少し下ると、木々が途切れて見晴らしのよいところに出た。向かい側に見える山との間を鉄道と街道と川、三本の筋が付かず離れずの距離を保ったまま、三色の糸のように通っていた。
「あの細い筋が信武鉄道でその脇に付いているのが停車場。並んで見える街道が松木道中といって、昔駿河で作られた塩を運んできた街道だよ。そしてその先が筆振川だ」
 岡島が立ち止まって指差ししながら倫に教えてくれた。


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3 汽車に乗って

 停車場は街道から少しはずれた藪の中にあった。停車場の入り口には小さな小屋が建っていて、屋根の大きな黒い看板に白い字で「下韮野」と書かれていた。屋根の下は左側半分が停車場に行くための通路になっていた。上には「改札所」と書かれた札が下げられていて、下は小さな扉の付いた倫の胸元くらいの高さの塀で仕切られていた。右側半分は小屋になっていた。小屋には格子の付いた大きな窓があった。窓の上には「出札所」と書かれた札や汽車の時刻表、運賃表が掲げられていた。運賃表の最後は倫が今まで見たことのないとんでもない金額になっていた。
「お倫ちゃんはそこで待ってて」
 倫をその場に待たせて、岡島はその大きな窓へ寄っていった。そこで窓の下に開いた穴を通して何かを買っていた。
(何をしているのだろう)
 倫が不思議に思っているうちに岡島は戻ってきた。
「はい、これがお倫ちゃんの分。絶対になくさないようにしっかり持っているんだよ」
 岡島は倫に小さな紙切れを渡した。切符だった。倫はそれを持って岡島の後について改札所へ行った。出札所を通るとき、さっき切符を売っていた駅員さんが出てきた。岡島が駅員さんに切符を渡すと、駅員さんはそれにはさみを入れて岡島に返した。次に倫の切符が取り上げられ、呆気にとられているうちにはさみを入れられ、また倫に返された。切符には小さな切り欠きが出来ていた。
 出札所を抜け何段かの階段を上って停車場に上がった。停車場にはすでに幾人かの人が集まっていて列車の到着を待っていた。倫は停車場の縁に行って、その下を見下ろした。思ったより高かった。落ちたら痛そうだ。びっしり敷き詰められた丸い石の上に二本の鉄の軌条が見えた。その延びていく先を見ようと視線を向けていくと、線路は左に緩く曲がりながらどこまでも続いて、まだ芽吹く前の雑木林の中に消えていた。
「お倫ちゃん、危ないから下がってな」
 岡島に言われて初めて、倫はプラットホームから身を乗り出すようにしていたことに気が付いた。みっともないと思って、慌てて下がった。
 しばらくして、遠くから汽笛の音が聞こえてきた。風向きによっては村でもたまに聞こえるあの音だ。倫が音のした方を振り向くと、枯れ木の林の間から立ち上る黒い煙だけが近づいて来た――と思う間もなく、汽笛に混じって、ぼっぼっ、ぼっぼっという音に合わせて煙を吐き出し、カタンカタンと拍子を取りながら、真っ黒な蒸気機関車が姿を現した。
 停車場に滑り込んできた蒸気機関車はひと息つくように白い蒸気を吹き出し停車した。煙突から黒い煙がゆらゆらと立ち上っていた。
「下韮野ぉー、下韮野ーっ」
 汽車が止まると、駅員が大きなしかしよく通る声で駅名を連呼した。
 機関車は客車を三両牽いていた。客車は木造で前後にデッキが付いていた。最後尾の客車から車掌が降り、駆け足で後ろから順にデッキの鎖を外していった。
(これが汽車かぁ……)
 倫は久しぶりに見る物珍しさと初めて乗る緊張で、思わず立ち止まった。
「ほら、後ろのお客さんが支えてるよ」
 岡島に言われて、倫は慌てて客車のデッキに乗った。
 客車の中は床や壁が全て板張りで倫には納戸のような印象だった。しかし納戸と違って、両側に窓がずらりと並び、天井も中央が少し高くなって明かり取りの窓が付いていたので、はるかに明るかった。窓に沿って長い座席が据えられ、諏訪の方からの乗客が何人か座っていた。
 先に客車に乗り込んだ岡島は「ここに座りなさい」と言いながら自分の隣の席をポンポンと叩いた。倫は岡島に促されるまま、その長いすの中程にちょこんと座った。
 車掌は乗客が乗り終えたことを確かめるとデッキの鎖を掛けていった。
「発車しまーす!」
 駅員の声とともに汽車は一つ長く汽笛を鳴らし、下韮野の停車場を後にした。

 汽車は灌木と笹藪の生い茂る中を、ときどきピーッと汽笛を鳴らしながら走った。かたんかたん、かたんかたんと単調に揺れる客車の中で、倫は上半身を捩るようにして窓の外の景色を見ていた。木々が信じられない速さで後方へ飛び去っていく。ときおり林が切れると、青麦岳が見慣れたの姿のままそびえていた。
 そのうち、いつまで経っても車窓の景色は藪ばかりだったので、倫は飽きてしまった。岡島の方に向いて座り直した。
「岡島さん? 東京はどんなところなんですか?」
「うーん、そうだねぇ。とにかく人がたくさんいる――かな? 日本中からたくさんの人が集まって来るんだ。街は大通りに面して煉瓦造りの高い建物がずっと並んでいて、たくさんの店がいろんなものを売っているよ。だから、手に入らないものはないんだ。食べ物だって舶来のおいしい料理がたくさんあるんだ。それから――そうだな、夜になると舗道の瓦斯燈に灯が点って道を明るく照らすんだ」
「ふーん……」
「なんだ、あまり驚かないんだな?」
 岡島は少し拍子抜けしたようだった。倫は岡島の話振りから、どうやら東京は凄いところらしいということは分かったけれど、煉瓦造りの建物とか舶来の料理とか瓦斯燈とか、とにかく見たことのないものばかりで想像すら出来なかったから、驚きようがなかった。
 岡島の話を分かってやれなかったことを倫はすまなく思って、別の話題を切り出した。
「わたしがこれから奉公に行くところってどんなところなんですか?」
「深川商店っていう薬種屋さんだよ。西洋医学を元にして作った最新式の薬を売ってるんだ。とっても繁盛しているよ」
「そういうのをその、深川さんという人が作っているんですか?」
「いや、深川さんは売っているだけ。薬種を作っている人から仕入れて、それを売っているんだ」
「ふーん……なんで作っている人は自分で売らないんですか?」
「売ることを専門にしている人に任せれば、方々の店で売れるだろ?」
「そうなんだ……」
 倫にはそういう物の売り方があるなんて思いも寄らなかった。
「深川商店の奉公人はお倫ちゃんで三人目になるんだ。大勢雇ってるね。みんなお倫ちゃんと同い年くらいだから、仲良くやっていけると思うよ」
「三人って、大勢なんですか?」
「ああ。大きな呉服屋さんだと何人もの奉公を雇っているけど、普通のお店だと大体ひとりくらいだね」
「そうなんですか……」
 やはり倫には想像できなかった。韮野村には店というものがほとんどなかった。必要な物はほとんど自給自足だ。穀物や野菜はもちろん、味噌も自分の家で作っていたし、履き物もそうだった。わずかばかり採れる米だけが現金になった。自分の家で作れないものは塩や魚、反物それに農具などで、これだけは買わなければならない。でも売っているところは店ではない。塩や魚は行商、反物と農具はそれぞれ、村の機織りと鍛冶から分けてもらう、その代金はお金だったり畑の収穫だったり味噌だったりする。

 汽車が甲府の停車場を過ぎたところで昼食にした。
「はい、お弁当」
 倫は出がけに母ちゃんから受け取った包みの一つを岡島に渡した。
「お、ありがとう」
 そう言うと、岡島は竹の皮の包みを解いた。
「うまそうだなー」
 倫も包みを開けて――驚いた。中に入っていたのは白いご飯の握り飯だった。米はとても貴重だ。ご飯が食べられるのは年に数回だけ。秋の祭りの頃くらいだった。
(母ちゃん……)
 倫は包みをそっと胸元に抱きしめ、その大切な米の飯を持たせてくれた母ちゃんに感謝した。となりを見ると、岡島は握り飯をがつがつと頬張っていた。
(ああ、もったいない)
 そう思ったのが顔に出たのか、岡島は倫を見て不思議そうに訊ねた。
「なんだ、どうしたんだ?」
「ううん、なんでもないです……」
 倫はそう答えると、自分の握り飯をゆっくり味わうように噛みしめて食べた。握り飯はほんのりと甘みがあっておいしかった。
 窓の外には田園が広がっていた。あちこちの家の庭木に淡い紅色の花が満開だった。桃の花だ。韮野村ではまだ蕾が脹らみかけたばかりだった。
「あ、ここはもう春なんだ――」
 倫が呟くのを聞いて岡島が言った。
「東京じゃもうすぐ桜が満開だ」
 急に倫は自分がとても遠いところに行くんだと言うことを実感した。


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4 深川商店

 新宿停車場に着いたのは夕方近かった。
 新宿停車場は大きな停車場だった。汽車を降りるとホームに『乗換案内』が出ていた。
「どこへでも汽車で行けるんですね」
 倫が感心していると、
「ここから乗り換えて行けるのは、北は赤羽と南は原宿までだよ。たいていは東京まで行ってそこから路面電車や乗合馬車を使うんだ」
「へー……」
 倫がなんだかよくわからなさそうに頷くのを聞いて、岡島は笑って言った。
「お倫ちゃんの返事って、『へー』ばかりだな」
 倫ははっとして、慌てて頭を下げた。
「え、あ、すみません。岡島さんのお話、わたしには見たことも聞いたこともないことばかりで、全然分からなくて……」
「あっはっはっ、そりゃそうだな!」
 岡島は笑って納得すると、倫を連れて出札所を出た。
 駅前には人力車が五、六台と乗合馬車が停まっていた。馬がのんびりと馬草を食(は)んでいた。それだけだった。駅前広場の周囲には家もあちこちに見えたけれど、ほとんどは桑畑。岡島から聞いた話とは全然違っていた。倫は東京はもっと賑やかなところだと想像していた。
「どうしたんだ? 狐につままれたような顔をして」
「ここ、東京なんですよね……?」
「ん? ああ、ひょっとして、空き地ばかりで心配になったか?」
「あ、あの――実はそうなんですが……」
 倫は正直に言った。
「わたし、騙されたんですか?」
「え? ――わっはっはっはっはっ」
 倫が心配そうな顔で真剣に訊ねたので、岡島は思わず大笑いしてしまった。
「まあ、仕方がないか。ここも昔はお侍さんの屋敷がたくさんあったんだけど、御一新のときにみんな田舎に逃げ出してな。そのあとを桑畑にしたんだ。でも今の新宿停車場はたくさんの人が乗り降りするし、元々松木往還の宿場町だったからそのうち賑やかになるぞ」
(こんな何もないところでも停車場のお陰で賑やかになるのだったら、韮野村もそのうち賑やかになるのかな)
 倫は賑やかな韮野村を想像しようとしたけれど、それはあり得ないような気がした。
「それにここが終点じゃないよ。これから行くところは美空村という街道筋の村だから、人通りは結構あるぞ」
 岡島は倫を連れて停車場前に並んでいた人力車二台に声を掛けて料金を渡した。
「じゃ、お倫ちゃんはこっちに乗って。行き先は車夫に話してあるから心配しなくて大丈夫だよ」
 そう言って岡島は前の人力車に乗り込んだ。
「えいっほっ、やっほっ」
 二台の人力車が掛け声とともに走り出した。倫の乗った人力車が岡島の乗った車の後について、縦一列になって軽快に駈けている。速さだけでいったら汽車の方がはるかに早いのだけれど、人力車に乗っていると目の前の景色が本当に目まぐるしく変わっていくのだ。それに行き交う人や車にぶつかりそうになりながらギリギリのところをかわしていくから、倫は目を回しそうになった。

「へい、お待ち!」
 車夫は威勢よく言うと同時に車を止めた。目の前に大きな町屋造りの店があった。倫の乗った車の前には岡島の乗った車が止まっている。倫が車から降りると岡島がやってきた。
「ここがお倫ちゃんの働くことになる店だ」
 そう言われて、倫はその店をしげしげと眺めた。通りに面して幅四間。左側一間が入り口になっていて屋号の染め抜かれた大きな藍の暖簾が下がっていた。一階の庇の上には大きな黒い看板が出ている。そこには金文字で『ヱヰスルYEWISSLU』、その下に小さく屋号である『深川商店』の文字があった。
「うぇ、うぃ、す、る?」
 倫がたどたどしく読み上げた。
「なんか難しい。でも外国のお薬はよく効きそうな気がする――」
「あはは、お倫ちゃんもそう思うかい? でも、あれは日本製なんだよ。洋風の名前を付けてさも効きそうに思わせてるだけだ」
「え……いんちきなお薬屋さん? やっぱり、わたし騙されて連れてこられたの?」
 倫は心配そうに訊ねた。
「いいや、大丈夫。ここは良心的な店だよ」
 ちょうどそのとき、暖簾からひとりの客が出て、そのあとから倫と同い年くらいの女の子が出てきた。
「ありがとうございましたー」
 その女の子は客の後ろ姿にお辞儀をした。
「ああ、これはちょうどいい。おナエちゃん――」
 岡島はその女の子に声を掛けた。ナエという名らしい。
「岡島という者だが、ご主人はいるかな?」
「あ、旦那様のお客様ですか? 中でお待ちください」
 そう言って女の子は岡島と倫を中に通すと、自分は通り土間を奥へ小走りに行った。途中で「きゃっ」という小さな悲鳴とともにその後ろ姿の影が傾いた。敷居につまずいたらしい。
「ふふっ。おナエちゃんたら、またやってる……」
 その独り言に倫は右を見た。入り口から入ったすぐのところは番台になっていて、倫より三つ四つ年かさに見える女の子が笑っていた。倫はその子と目が合った。
「あら、新しいお女中さんかしら?」
 倫がどう答えたらいいのか戸惑っていると、代わりに岡島が答えた。
「ああ、そうだよ、かわいい番頭さん」
「へえ、この人が番頭さんなの?」
 倫は岡島の言うことを真に受けて、そっと尋ねた。番頭といえば店では主人の次に偉い人で、実際に店の中のあれこれを取り仕切っている人だ。
(こんな若い女の人がそういう大変な仕事をしてるなんて、東京ってすごいなぁ)
 倫がそう思いかけたら、番台の少女は、
「あら、わたしは番頭じゃありませんよ。店番に座っているだけ。ご存じのくせに」
と岡島に答えた。倫はこのやりとりを不思議に思って岡島に尋ねた。
「あの、お知り合いなんですか?」
「ん? ああ、彼女はこの店の奉公でおサワちゃんっていうんだ。この店には時々御用聞きに行くから知ってるんだ」
 そのとき奥からぱたぱたと女の子が駈けてきた。さっき「おナエちゃん」と呼ばれた子だ。
「きゃっ」
 さっきと同じ場所でつまずいていた。ナエは腰をさすりながら起きあがり、「こちらへどうぞ」と言って、岡島と倫を店の奥へ案内した。倫は岡島の後に付きながら、つい、きょろきょろと辺りを見渡してしまった。岡島商店は村では見たことのない造りの建物だったから珍しかったのだ。倫のその様子がおかしいのか、サワは番台で一所懸命笑いをかみ殺していた。


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5 旦那様

 土間は表の入り口から建物の裏まで真っ直ぐに通じていた。土間の右側は障子がなく、すぐに座敷だった。座敷といっても畳の並べ方が普通の座敷と違って、土間に向かって縦に並んでいた。
「これは町屋造りといって、昔の時代の町のお店はだいたいこういう造りになんだ。お客さんはこの通り土間からほしい品物を言うと、店主が奥から出して、こっちの畳の上に広げて見せるんだ。見せるから『見世』っていうんだ」
 倫たちはさっきナエがつまずいた敷居を跨いで先に進むと、土間がほんのりと明るくなった。通り土間の突き当たり、開け放した戸の向こうに庭が見えた。
「旦那様ぁ、お客様をお連れしましたぁ」
 ナエは大声で庭に声を掛けた。すぐに返事があった。
「ああ、ご苦労様」
 その声につられて倫も庭を見た。先ほどまで庭木の世話をしていたらしい返事の主が立ち上がってこちらに来るところだった。白いシャツに黒いズボン、洋服というものに身を包んでいた。浅黒く日焼けした人懐こそうな笑顔の人だった。
「おナエちゃん、お客様を座敷に上げて。それからお茶を三つ頼むな」
「はーい、旦那様――はい、こちらへどうぞ」
 ナエは岡島と倫を座敷に案内した。座敷は八畳ほどの広さで中央に座卓が置かれていた。床の間に木瓜が一枝活けてあった。岡島が腰を下ろすと、倫も並んで座った。
(うわー、畳だー)
 そういえば今朝家を出てからここに着くまでずっと揺られ放しだったことに、今、倫は気が付いた。、今朝家を出てからようやく動かない畳の上に座れたので、嬉しくなった。
 倫たちの正面には障子を大きく開け放した縁側があって、そこから庭がよく見えたけれど、夕方が近いせいか、ほんのりと薄暗かった。
「遠路遙々お疲れ様」
 旦那様と呼ばれた男の人が縁側の方から手を拭きながら現れた。それから通り土間のナエに声を掛けた。
「おナエちゃん、お茶は……急がなくていいから、転ばないようにな」
「はーい、大丈夫ですって――痛いっ」
 ナエの去っていった方から何か鈍い音がした。岡島がそっと訊いた。
「よく転ぶ子、なんですか?」
「いやぁ……あははは。頭の中身が詰まっていて重いから、と信じたい」
 旦那様は苦笑いしながら答えた。
「でも、いい子だよ。彼女がいると店の中に花が咲いたように明るくなる」
「それはいいですね。客商売は印象が第一ですから」
 何がおかしいのか、ふたりでわははははと大笑いしてから、深川が倫に目を向けた。
「その子ですか、新しい奉公さんは?」
「ええ、聡明な子ですよ」
 倫は大人二人の視線が自分に向いているので気恥ずかしくなって俯いた。
「ほら、お倫ちゃん、顔を上げて」
 岡島に言われて、倫は再び顔を上げた。
「この子は野花倫――野原の『野』に草花の『花』で『のばな』、名前は『倫』です」
「よ、よろしくお願いします」
 倫は頭をぺこりと下げた。
「わたしが店主の深川です。よろしく」
 そう言って深川は倫に笑いかけた。
(よく分からないけれど悪い人ではないみたい)
 倫はそう思ってちょっと安心した。
「とりあえず使わせてもらうよ」
「それじゃ、また何かありましたら、ご連絡下さい。すぐに参りますから」
 これで倫の奉公が決まった。岡島は深川と暫く雑談をしてから深川商店を出て行った。岡島とは今朝初めて会ったに過ぎなかったけれど、いなくなると心細かった。
(ああ、そうか。岡島さんがいなくなると、どうやって村へ帰ったらいいのか分からないんだ……)
 韮野村を出てからこの深川商店に来るまでの間、岡島が倫と村の間を辛うじて繋いでいた。その岡島がいなくなって、ついに倫は東京でひとりぼっちになってしまった。知らない世界に放り出されたような気分だった。

 岡島が帰ったあと、倫は座敷で深川と二人きりになった。倫の湯飲みだけお茶が減らなかった。
「さて、お倫ちゃん――でいいかな?」
「え、あ、はい」
 倫はかなり緊張しているのが自分でも分かった。初めて来た街の初めて入った家で初めて会った人を前にして、しかもどこにも行く当てがない状況では仕方がなかった。
「あー、そんなに硬くならなくていいから――といっても、すぐに楽にはできないかな?」
「は、はい! あ、いいえ、そんなことは……」
「ははは、最初はみんなそんなものだ。まあ、気楽に、気楽に」
 倫が慌てて言い直したので、深川は思わず笑った。
「うちの店は西洋の処方で作られた薬種を扱っているんだ。西洋医学の薬種は衛生的な工場で作られているから、野山の草や地べたをはい回るイモリだのカエルだのよりずっと清潔なんだ」
(そういうものなのかなぁ)
 倫は半信半疑で聞いていた。衛生的はいいことかも知れないけれど、薬草なんかで病気になったという話も聞いたことがなかった。倫の家では、病気になると母ちゃんが薬をもらってきて煎じてくれた。それが効くのかどうかは分からないけれど、少なくとも飲んで(苦いこと以外に)酷いことはなかったから毒ではないと思った。


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6 深川商店

「それじゃ、店の中を案内しようか。これからお倫ちゃんが住むところになるからね」
 深川は席を立つと倫を縁側に連れた。正面にこぢんまりとした庭が見渡せた。庭の左に蔵、右は母屋から廊下が伸び、その奥に勝手が見えた。深川はまず左手を指して倫に説明した。
「左側の蔵に見世で商う薬種が仕舞ってある。仕入れた薬種は注文した物が揃っているかを点検してからここに入れる。見世で足りなくなってきたらここから出すんだ。右はお手水。それからそこの土間の竈がこの店の台所だ。好きに使っていいよ。食費や燃料費は君たちに月々支払う賃金から賄ってくれ」
 次に隣の部屋に移った。見世という部屋だ。
「ここはもともと仏間だったんだけど、お仏壇は母屋に移して、ここは売り物の薬種を置くことにしたんだ」
 見世とは障子で仕切られた六畳間に箪笥が何竿か納められていた。その一つにナエが首を突っ込んでいた。
「おナエちゃんは何をやってるんだい?」
「はいっ!」―――ドン!
 最後のドンはナエが頭の天辺を開け放していた上の引き出しに思いっきりぶつけた音だ。ナエは主人の深川にいきなり話しかけられて驚いたようだった。狭い押入に首を突っ込んだ状態から慌てて立ち上がろうとして、ぶつけたらしい。ナエは頭を抱えたままその場にうずくまってしまった。
「あの……大丈夫ですか?」
 見兼ねて倫が尋ねると、ナエは頭をさすりながら立ち上がって答えた。
「うん、大丈夫――よくあることだから」
「え、よくある――ことなんですか?」
 倫が尋ねたけれどそれには咳払いだけで答えて、深川は倫をナエに紹介した。
「あー、ゴホン――。えーと、おナエちゃん、今度、うちで奉公することになった野花倫ちゃんだ」
(おナエちゃんのことは答えにくいのかな? そういえば、あの子はさっきから転んでばかりだったから、きっと「よくあること」って言われていたのは本当によくあることなんだ)
 倫はそう思いながら自己紹介した。
「野花倫です」
「森名ナエです。よろしくね」
 二人が挨拶し終えるのを見届けてから、深川は見世の説明を始めた。
「普段はここの箪笥に小分けした薬をお客さんに売っているんだ。ここの薬が少なくなってきたら、裏の蔵から持ってくる」
 倫は見世の中をぐるりと見渡した。少し薄暗くなってきた店内が少し寂しげだった。
「お客様、あまり来ないんですね」
 倫が深川に何気なく尋ねた。
「さすがに夕方近くなると客足は遠のくね。みんな晩ご飯だから」
「あ、そうですね」
「それに薬種屋が繁盛している町には住みたくないしね」
 そう言って、深川は笑った。倫はなんて商売っ気のない人と思ったけれど、よく考えてみたら、薬種屋さんが繁盛すると言うことは町内に病人ばかりいるということに気が付いて納得した。
 隣の部屋は脇の壁に格子の入った窓があり、そこから通りを行き交う人の影が垣間見えた。見世には番台があってサワが座っていた。サワは深川と倫が入ると、すっと立ち上がった。深川が倫を紹介した。
「おサワちゃん、新しくうちで雇うことにした野花倫ちゃんだ」
「野花倫です。よろしくお願いします」
「わたしは石見サワ。こちらこそよろしくね」
「おサワちゃんは長く奉公をやってもらっていて、ここの仕事のことはよく知っているから、わたしがちょっと外している間は代わりにおサワちゃんに番台を勤めてもらうこともあるんだ。お倫ちゃんも分からないことがあったら、おサワちゃんに訊くといいよ」
「はい」
「じゃ、おサワちゃん。ここはわたしが替わるから、おサワちゃんがお倫ちゃんを二階を案内してやって」
「はい、旦那様。それじゃ、お倫ちゃん、付いて来て」
 前を歩くサワは背筋がすっと伸びて足捌きも卒がなかった。
(東京の人はかっこいいなあ)
 サワのたったそれだけの振る舞いでも倫を感心させた。
 二(ふた)間ある見世の間に上り階段があった。サワと倫はその階段を上って二階に出た。左側は板の間になっていて、その先に廊下が延びている。右側も短い廊下になっていた。
「二階には三部屋あるのよ」
 サワはそう言って、まず左の板の間の突き当たりの部屋に案内しようとした。
「あれ、この廊下の先は――どうなっているんですか?」
 廊下の突き当たりが壁ではなく手すりになっていることに倫は気付いた。
「行ってみる?」
 サワは「うふふっ」とちょっと悪戯っぽく笑って、倫を連れて廊下の突き当たりまで行った。廊下はそこから右に折れていたが、倫の関心を惹いたのは、そこの手すりからの光景だった。手すりから下を見下ろすと通り土間と見世の様子が手に取るように見渡せた。
「わあ、凄いですねー」
「あ、おサワちゃーん、お倫ちゃーん!」
 下にいたナエが倫とサワに気付いて手を振った。倫も振り返した。
「おサワちゃん、東京のお店ってみんなこうなんですか?」
「たぶんここだけだと思うわ」
 倫の問いにサワは答えた。
「この店が江戸時代に作られたときは平屋だったそうよ。それに先代が二階部分を付け足したの。その頃、このお店は随分と羽振りがよかったみたいで、こんな凝った造りにしたのね。今の旦那様は西洋の物が好きだけれど、この店は独特の珍しい造りをしているから、このまま使っているのよ」
 二人は廊下を引き返して、八畳の座敷に入った。風通しのために障子が大きく開けられている。倫は障子の外に出てみた。そこは板敷きの廊下のようだったけれど、他のどの部屋とも繋がっていない。むしろ縁側といったほうが相応しい。窓からは庭が見下ろせた。
「こっちの座敷は不意のお客様のために空けているけど、たいていのご用は下の座敷で用は済んでしまうから滅多に使わないわ」
「広くて景色もいいのに勿体ないですね」
 そういって改めて部屋の中を見渡すと、右手の床の間に花瓶があって花が生けてあった。
「使っていないお部屋なのにお花がある」
「いつお客様がお見えになってもいいように、時々わたしがお庭の花を使って活けているのよ。何もないと寂しいでしょ?」
 次にサワに案内されて入ったのは六畳の座敷だった。店の二階の中程にあたる。
「こっちの六畳は畳に炉が切ってあってお茶が点てられるようになっているんだけど、やっぱり今は空き部屋。使っていないわ」
 正面に障子の窓、見渡すと、この部屋は左側に小さな床の間があった。
「この部屋にはお花がないんですね」
「ええ。お庭のお花を取り過ぎると、お庭が丸坊主になっちゃうから。こちらの部屋を使うことになったら、さっきの部屋から持ってくるから大丈夫よ」
 そう言ってサワは笑った。
 倫は障子を開けて窓の外を見た。下に通り土間が見えた。この窓の外は店内の吹き抜けになっていた。
「通り土間を川に見立てて、そこに張り出した桟敷風の茶室、というということみたいね」
 そう言ってサワは笑った。


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7 奉公人の部屋

 倫とサワは茶室を出て板の間に戻った。
「二階は空き部屋ばかりなんですね」
「ふふふ、そうね。――そして、こっちがわたし達の部屋よ」
 サワが最後に倫に見せた部屋は八畳の座敷になっていて、中に箪笥が二竿入っていた。
「ここが女中部屋。わたしとおナエちゃんはここに住み込みなのよ。もちろんお倫ちゃんもきょうからここで寝泊まりすることになるわ」
 そう言って、サワは箪笥の一つを指した。
「空いている引き出しをひとつだけお倫ちゃんの分にしていいわ。手荷物や身の回りの物はそこに仕舞っておいてね」
「はい」
 倫はそう返事をして、改めて部屋の中を見回した。
「広いですねー。女中部屋ってもっと狭いかと思っていました」
「そう。狭かったのよ、昔の女中部屋は。ほら、あの壁をご覧なさい」
 そう言ってサワが指す方を倫は見た。
「あれ? 小さい窓がある。覗いて見てもいいですか?」
「どうぞ」
 倫が窓から覗いてみると、そこには四畳敷きの部屋があった。ちょうど通り土間の真上になる。左に半間ほどの幅の窓があった。窓が小さいためなのか、それとも日が傾いているためなのか、部屋は薄暗かった。
「ここが元の女中部屋。今年になっておナエちゃんがくるまで、わたしはずっとここに寝泊まりしていたのよ」
「どこから入るんですか?」
 この部屋は通り土間の上にあって廊下は繋がっていない。唯一面しているのは今倫たちがいる女中部屋だけ。しかし、そことは土壁で仕切られていた。
「右の方に出入り口があるの」
 サワに言われて元女中部屋の右を見ると、確かに出入り口が開いていた。しかし、その下は通り土間だ。階段はなかったはずだ。
「どうやって出入りしていたんですか?」
「通り土間から梯子を使ってよ。夜寝るときは梯子を部屋に上げてしまうの。そうしたら誰も入れないわ。梯子は今でも下の土間から架かっているけど、気付かなかった?」
 倫は思い出そうとしたけれど、一階を見せてもらっている間は見世の方ばかり見ていて、通り土間の上まで気が回らなかった。
「はい。全然気が付きませんでした」
「ふふ、そうよね。お客さんからは目立たないようにしているから、気が付かなくても当然よね」
 そう言ってサワは改めて倫と向かい合った。
「さ、これで深川商店の案内はお終い。わたしは見世に戻るけど、お倫ちゃんは長旅で疲れているでしょうから、きょうはこの部屋でゆっくりしていていいわよ」
「えっ。そんな申し訳ないです。わたしも何か手伝います!」
「いいのいいの。どうせもうすぐ店仕舞いだし、お倫ちゃんは何をどうしたらいいか分からないでしょ?」
「それはそうですけど……」
「きょうは長旅で疲れたでしょ? 仕事はあしたになったらきちんと教えてあげるから、今は休んでいていいわよ」
 ナエは小さな座布団を一つ敷いて倫を座らせて部屋から出ていった。倫は女中部屋にひとり残された。
 ひとりになって初めて倫は自分がひどく疲れていることに気付いた。ちょっとはしたないとは思ったけれど、畳の上に仰向けになった。思い返せば、きょうは朝からずっと汽車に揺られて人力車に揺られて、少しも休まる暇がなかった。こうして揺れたり動いたりしない畳の上にいるのは本当に久しぶりのように感じた。倫はこのまま寝てしまうような気がしたけれど、初めて来た家でこれから奉公として働く緊張で、眠気など全く感じなかった。まんじりともせず、天井の木目とにらめっこをしていた。
 倫は東京をもっと騒々しいところだと思っていたけれど、意外にも長閑な雰囲気だった。窓の外からは物売りの声やラッパの音が聞こえ、下からは、時折「いらっしゃませー」とか「ありがとうございましたー」とか言うサワやナエの声が聞こえた。

「ありがとうございましたー」
 この日最後のお客さんが店から出て行った。ナエが外まで見送りに出た。
「どうだい、お倫ちゃんは? 仲良くやっていけそうかい?」
 番台から深川がサワに尋ねた。
「そうね、まじめな子だと思うわ。きちんと働いてくれそう」
「そうか、おサワちゃんのお眼鏡にかなったか。それで、今お倫ちゃんはどうしてる?」
「一日汽車に揺られてきたんでしょ? きっと疲れているだろうから、女中部屋で休んでもらってるわ」

 その日の閉店はいつもより少し早めだった。
 下が慌ただしくなったのに気が付いて、倫が二階から降りてくると、ちょうどサワが見世の物をより分けて箪笥の引き出しに仕舞っているところだった。
「あの、何かお手伝いさせてください」
 奉公に来たというのに初日から遊んでいるわけにはいかない、倫はそう思って、サワに申し出た。サワは右の人差し指をあごに当てて暫く考えた。
「んー、そうねー……。本当はこっちを手伝ってほしいくらいだけれど、ここは薬種のことを知らないと出来ないから、表に行って店の前を掃いてきてくれる? 道具の場所はおナエちゃんに訊いてね」
「はいっ」
 倫は勢いよく返事をすると入り口に向いた。ちょうど、ナエが暖簾を店の中に掛け直しているところだった。倫はナエの傍によって尋ねた。
「あのー、おナエちゃん? わたし、表を掃くようにって言われて来たんだけど、箒はどこにあるんですか?」
「あ、手伝ってくれるの? ありがとう! 箒と塵取りはそこの隅にあるわ」
 そう言ってナエは戸口の片隅を指した。そこには箒と塵取りが一つずつあった。倫は箒を持って店の外に行って掃き、後から来たおナエの塵取りに入れて片付けた。
「あー、やっぱり人手が増えると仕事が楽になって早く済むねー」
 ナエが嬉しそうに言ったので、倫も手伝ってよかったと思うと同時に、これからもここで上手くやっていけそうな気がした。
「おサワちゃん、こっちは終わったよー」
「お疲れ様。ここもすぐに終わるわから、ちょっと待っててね――あ、そうだ。おナエちゃんは隣に行って旦那様を呼んできてくれる?」
「はーい!」
 ナエはいそいそと店を出て行った。
「深川様は『旦那様』とお呼びすればいいんですか?」
 倫がサワに尋ねた。
「そうよ」
「旦那様はお隣にいらっしゃるんですか?」
「ええ。そこが旦那様のお家だから」
 サワは最後の薬種を仕舞いながら答えた。言われてみて倫は、この店にあるのは見世の他には来客用の座敷と女中部屋だけで、深川の住むところがないことに気が付いた。
「あのー、こんなことを訊いていいのかわからないんですけど、旦那様はお金持ちの方なんですか?」
「ええ、それはそうよ!」
 サワはまるで自分のことのように自慢げに答えた。
「だから店の中に座敷を三つも四つも建て増しできたり、奉公を三人も雇ったりできるのよ」
「へー……」
 一応は感心して見せたものの、倫にはそれがどの程度の金持ちなのか想像できなかった。
「旦那様を連れてきたよー」
 元気のいい声と一緒にナエが飛び込んできた。深川は店の内外を一通り歩いて後片づけの状況や蔵の戸締まりを確認した。
「うん、ご苦労様。きょうはこれで閉店だ。後の火の始末と戸締まりはしっかり頼むよ」
 それから深川は倫に言った。
「あしたからよろしく頼むな」
「はい」
 倫ははっきりと返事をした。


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1 いつもの一日(2)

「……んちゃ……おりん……おりんちゃ……」
 遠くから微かに声が聞こえる。どうやら自分を呼んでいるようだ……。
 泥のように眠るというのは正にこういうことを言うのだろう。倫は、夕べ蒲団に入ってから今起こされるまでの間の記憶がなかった。横になるやすぐに眠りに落ちたようだ。夢も見なかった。
(きょうは奉公初日だな。粗相のないように……)
 倫はもはや意識を取り戻した頭でそう考えていたけれど、体の方はすっかり疲れ切っていたのか、とにかく起きなきゃとと思っても、体は重く固まって動かせなかった。
「お倫ちゃん、朝だよ。お倫ちゃんってば!」
 ナエが倫の体を揺すりはじめた。早く起き上がらないとやめてくれないようだ。
「わかったよう。起きるよう」
 倫はもぞもぞと上半身を起こした。「んー」と言って伸びをすると、体中の節々がポキポキ鳴ったような気がした。
 それから倫は何時頃だろうと思って窓を見た。外が明るい。
「ああっ、寝過ごした!?」
 いつもだったら夜明けには起きているのに、奉公初日という大切な日に限って寝坊するなんて! 隣を見ると夕べサワが寝ていたはずの場所には何もなかった。蒲団すら片付けられていた。すぐ隣でそんなことをされていたのにもかかわらず、倫はぐっすり寝ていたようだった。
「お倫ちゃん、いびきすごかったよ?」
「え?」
「あはは、やっぱり意外そうな顔してる」
 ナエが否定しなかったところを見ると、いびきは本当なのかもしれない。
「おサワちゃんは『きっと疲れているのだから、ゆっくり寝かせてあげましょう』って言ってたけど、やっぱり朝ご飯は一緒に作ってほしいなって思って」
「おサワちゃんは……?」
「もうとっくにお勝手よ。ご飯炊いてる。お倫ちゃんも着替えて顔を洗ったら、お勝手に来てね」
 それだけ言うと、ナエは先に下に降りていった。倫も慌てて着替えると、一階の勝手に行った。
「お倫ちゃん、おはよ――あら、帯が曲がっているわ」
 そう言うと、サワは倫の後ろに回って、帯の結び目を直した。
「これでいいわ」
 サワは倫の帯をポンポンと叩くとまた前に回った。
「お客様相手のお仕事だから、身だしなみには気を付けてね」
 それから、サワは勝手から桶を一つ取って倫に渡すと、
「それじゃ、お寝坊の罰として表で蜆を買ってきてちょうだい」
「は、はい……」
 サワに言われて倫が表に出てみると、ちょうど物売りの声とともに蜆売りのおじさんが通りかかるところだった。肩に担いだ天秤棒の前後にたらいのような桶を下げ、歌うように売り声を掛けて行く。
「あさーりぃ、しじみっ、あさーりぃ、しじみっ」
 声の調子がそのまま貝の大きさを表しているようで倫はくすりと笑った。蜆売りが深川商店の前に立っていた倫を見つけて声を掛けてきた。
「よぉ、お嬢ちゃん! 初めて見る顔だねぇ。新しい奉公さんかい?」
「よく分かりますね」
「あたりめえよ! こちとら毎朝大森から売りに来てるんでえ、このあたりのことなら何でも知ってるさ」
「うふふ、東京の人って威勢がいいんですね。あの、蜆がほしいんだけど……」
「おう。深川さんとこのお女中さんの朝飯用ならこのくらいだな」
 そう言いながら蜆売りは柄杓で二杯ほど、天秤桶から蜆をすくって倫の桶に入れた。蜆売りの言った値段はちょうどサワから渡されたお金と同じ額だった。
「あ、ありがとう」
「へい、毎度ー」
 蜆売りのおじさんは威勢よく返事をして、また歌うように物売りしながら歩いていった。
「ただいま――おサワちゃんの渡してくれたお金、ちょうどだったよ」
 倫は勝手に戻ると早速サワに話した。
「そうでしょ? お倫ちゃんの分も含めて、ね。それが職人芸ってものよ」
「へえ、そうなんだ……あ、じゃあ、蜆売りのおじさんもいつもよりわたしの分を足してくれたということ?」
「そうよ。ほら、二人分じゃちょっと多いでしょ?」
 そういってサワは蜆の入った桶を倫に見せた。
「さ、朝ご飯の支度をしましょ」
 倫は感心しながらサワの後について勝手に向かった。
 朝食は蜆の味噌汁とひじきの煮付け、海苔の佃煮。韮野村とは比べ物にならないくらい海産物が多かった。どれも村では滅多に食べられないものだったから、倫は味わって食べたかったのだけれど、朝食の後、開店までに掃除を済ませて、商品を並べて置かなければならない。とてもゆっくりしている時間はない。倫たちは掻き込むようにして食事を済ませた。
「さ、お椀を早く片付けて! お倫ちゃんは二階の部屋の掃除、おナエちゃんは入り口の前を掃いてね」
 サワがてきぱきと指示をし、ナエはぱたぱたと駈けていく。倫は箒を探してきょろきょろしていると、サワは即座に、
「桶と雑巾はあそこにあるわよ」
と勝手の片隅を指した。
 二階は自分たちの使っている部屋以外は空き部屋できれいに片づいているとはいえ、数が多い。倫は固く絞った雑巾で手際よく拭いていったつもりでも、結局時間がかかってしまった。倫が二階から降りてきた頃、一階は開店の準備がすっかり出来ていた。
「お倫ちゃん、お疲れ様」
 サワが迎えてくれた。

「みんなー、おはよう!」
 深川がやってきた。深川は店の内外を見て回って落ち度のないことを確かめた。
「うん、ちゃんと準備は出来ているようだね。みんなご苦労様。きょうも一日よろしく頼むよ。それじゃおサワちゃん、暖簾を出して」
「はい!」
 サワが暖簾を表に掛けて、いよいよ倫の深川商店初日が始まった。


- 第一部 完 -
(平成18年10月20日)