プロローグ 月が笑う夜(1)
小竹家の夕食はいつも賑やかだった。普段は会社勤めの夫の帰宅を待たず、母と子供たちだけの夕食だけれど、それでも賑やかだった。ダイニングキッチンにテレビがなくても、テレビのニュースの代わりに小学生の姉妹が、先生がどうした、友達がどうしたと自分たちのニュースを競うようによくしゃべった。小竹どれみにとって、それは自分が子供の頃の食卓と同じ風景だった。
夕食後、子供たちはテレビを見たり風呂に入ったりと、家の中を慌ただしく行き来し、最後に二階の子供部屋に上がって行った。静かになったリビングでどれみはひとり、ぼんやりとテレビを見ながら夫の帰りを待っていた。テレビだけが一方的にしゃべっていた。
画面にはどこかの温泉旅館の自慢料理が映っていた。その旅館は酪農地帯にあるらしく、焼きたての分厚いステーキが画面いっぱいに湯気を立てていた。
「ステーキかぁ、おいしそうだなぁ……」
どれみは子供の頃からステーキが大好物だった。自分でも変な子供だったと思う。熱い鉄板の上でジュージュー音を立てているステーキ。肉の上では角切りのバターが淡い黄色の固まりから徐々に透明の液体へ姿を変え、流れていく。その香ばしい匂いと一緒なら添え物のニンジンやインゲンだっていくらでも食べられる――そう思っていたのに、ほとんど食べる機会がなかった。
子供の頃は、おとなになって自分で自由にお金が使えるようになったら、好きなだけステーキを食べてやろうと思っていたけれど、実際におとなになってみるとそうはいかなかった。毎日がステーキばかりではお金が掛かるし、ウエストだって気になる。第一、家族の健康を考えたら、肉ばかりの食事では栄養が偏ってしまう。結局、毎日がスーパーのチラシとにらめっこしながら、野菜や魚やそのほかいろいろな材料でおかずを作っていくことになった。おとなになったら何でも好きなことができると思っていたのに、いざなってみると、意外と不自由だった。どれみはなんだか子供の頃の方が好き放題やっていたような気がしていた。
今は子供たちがそういう年頃だ。どれみは子供にも好きなことを存分にやってほしいと思っていた。おとなになっても、掛け算や割り算ができなかったり、簡単な漢字が読めなかったりしたら子供も親も困るけれど、どれみ自身、学校の成績は大してよくなかったので、自分の子供にも勉強を無理強いさせようとは思っていなかった。
どれみにとって一番大切なことは勉強より友達。どれみは今までにたくさんの友達に助けられてきたと思っている。それはいくら感謝しても足りないくらいだ。一つの秘密を分け合った五人の仲間。今はそれぞれの道を進んでいて、ほとんど会うことはなくなったけれど、どれみにとってもほかの四人にとっても、この友情はかけがえのないたからものだ。だから、どれみは子供たちにも学校の成績はそこそこでいいから、生涯の〈たからもの〉となるようなたくさんの友達を作ってほしいと願っていた。
ところが、子供たちの方は親の願いをいい方に裏切っていた。長女はそこそこどころか成績優秀。どんなテストでも八十点を割ることは滅多になく、常にクラスのトップテンに入っていた。長女の得意科目は理科と算数。どちらもどれみが苦手だったものだ。その長女が次女の勉強を見ているので、次女の心配も無用だった。
「何でわたしみたいな親から、こんなできのいい子供が生まれたんだろうね――」
どれみは実家の妹(三十代独身のキャリアウーマンだ)にぽろっとこぼしたことがあった。
「お姉ちゃんは見ていて頼りないからさ、こっちがしっかりしなくちゃいけないって思っちゃうんだよ」
そのときの妹の指摘は厳しかったけれど、的を射ているだけにどれみは何も言い返せなかった。きっと長女もそう思っているに違いない。なにしろ、長女の性格は自分より妹に似ているのだ。
気がつくと、テレビはいくつものコマーシャルを流していた。ひとの注目を引こうとする映像と音楽とナレーションが三十秒ごとに切り替わる。いつの間にか温泉旅館とかステーキとかの番組は終わってしまったらしい。どれみはテレビに飽きてスイッチを切った。再びリビングが静かになった。二階から椅子を引く音、歩く音、話し声――子供たちの気配が聞こえてきた。
(あんまり夜更かしするようなら、注意しなきゃ)
そんなことを考えながら、どれみは窓辺に立った。床から天井近くまで届く大きな窓。外は小さな庭になっている。どれみはカーテンをめくって外を見た。
今夜の月はとても明るく照っているようだった。部屋の中から直接月は見えなかったけれど、夜だというのに庭木や塀が庭にくっきりと影を落としていた。きっと空にはきれいな月が懸かっているだろう。どれみは窓を開け、サンダルを履いて庭に降りた。
どれみはこうして月を見上げることがたびたびあった。子供の頃からの習慣だった。子供の頃はわくわくしながら月を見上げていたけれど、今は子供の頃が懐かしくて月を見上げていた。
よく晴れた五月の夜。夜になっても寒くない。庭から見上げた夜空に星は数えるほどしか見えなかったけれど、それは街の明かりと空のてっぺん近くで輝く十三夜の月の光がかき消しているからだった。今夜の月は夜の女王だ。誇らしげに地上を照らす様子が、まるで――そんなはずはないのだけど、昔の思い出があまりにも強い印象を残しているのか――どれみには月が上機嫌に笑って見えた。
ときどき、どれみには今夜のように月が笑って見えることがあった――月が笑う夜だ。いや、子供の頃と違って、今はもう月がそう見えるはずがないから、きっと気のせいなのだろう。だから正確には「月が笑っているように見える夜」だ。
どれみの知る限り、月が笑っているように見える夜はいつもよく晴れていた。曇っていたり雨だったりしたら当然月は見えないし、そんな日は例え月が笑っていたとしても地上の自分たちにはわからない。薄曇りのときや暈を差しているときは月が透けて見えるけれど、それが笑っているように見えたことはない。月が笑っているように見える夜と天気は関係があるのかもしれない。
月が笑っているように見えるのは満月のときばかりではなかった。今夜みたいな十三夜だったこともあるし、下弦だったこともある。朝の青空に取り残された半月が笑って見えたときには、どれみも思わず笑ってしまった。子供の頃、月が笑って見えたのは夜中だけだったけれど、このとき、おとなになって初めて朝っぱらから月が笑っているのを見た。あの頃から二十年以上も経っているのに、まだ月が笑う夜の高揚感が懐しいらしい。どれみはそんな自分がおかしかった。
どれみが子供の頃に感じていた高揚感。それは遠足や遊園地に行く前の晩のどきどきとは比べものにならなかった。月が笑う夜にはどれみと仲間たちだけが知っている秘密の世界へ向けて扉が開かれるのだった。
月が笑っているように見える夜には、どれみはそのもう一つの世界の話を子供たちに話すことにしていた。今頃、子供たちは学校の宿題をやっているだろう。それを邪魔することになるけれど、どれみは学校では教えてくれない世界があることを子供たちに話しておきたかった。それはどれみのやりたいことでもあり、子供の頃に仲良しだった仲間たちと結んだ約束でもあった。この世界ともう一つの世界とを結ぶ懸け橋になること、それがどれみの約束だった。
「こんな夜は扉が開くのさー」
どれみはリビングに戻ると、歌うように独り言をつぶやきながら階段を上って行った。
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