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道の向こうに、雲の向こうに

 この作品はテレビアニメシリーズ『おジャ魔女どれみ』の二次創作です。

もくじ

(初売り:コミケ68)


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プロローグ 月が笑う夜(1)

 小竹家の夕食はいつも賑やかだった。普段は会社勤めの夫の帰宅を待たず、母と子供たちだけの夕食だけれど、それでも賑やかだった。ダイニングキッチンにテレビがなくても、テレビのニュースの代わりに小学生の姉妹が、先生がどうした、友達がどうしたと自分たちのニュースを競うようによくしゃべった。小竹どれみにとって、それは自分が子供の頃の食卓と同じ風景だった。
 夕食後、子供たちはテレビを見たり風呂に入ったりと、家の中を慌ただしく行き来し、最後に二階の子供部屋に上がって行った。静かになったリビングでどれみはひとり、ぼんやりとテレビを見ながら夫の帰りを待っていた。テレビだけが一方的にしゃべっていた。
 画面にはどこかの温泉旅館の自慢料理が映っていた。その旅館は酪農地帯にあるらしく、焼きたての分厚いステーキが画面いっぱいに湯気を立てていた。
「ステーキかぁ、おいしそうだなぁ……」
 どれみは子供の頃からステーキが大好物だった。自分でも変な子供だったと思う。熱い鉄板の上でジュージュー音を立てているステーキ。肉の上では角切りのバターが淡い黄色の固まりから徐々に透明の液体へ姿を変え、流れていく。その香ばしい匂いと一緒なら添え物のニンジンやインゲンだっていくらでも食べられる――そう思っていたのに、ほとんど食べる機会がなかった。
 子供の頃は、おとなになって自分で自由にお金が使えるようになったら、好きなだけステーキを食べてやろうと思っていたけれど、実際におとなになってみるとそうはいかなかった。毎日がステーキばかりではお金が掛かるし、ウエストだって気になる。第一、家族の健康を考えたら、肉ばかりの食事では栄養が偏ってしまう。結局、毎日がスーパーのチラシとにらめっこしながら、野菜や魚やそのほかいろいろな材料でおかずを作っていくことになった。おとなになったら何でも好きなことができると思っていたのに、いざなってみると、意外と不自由だった。どれみはなんだか子供の頃の方が好き放題やっていたような気がしていた。

 今は子供たちがそういう年頃だ。どれみは子供にも好きなことを存分にやってほしいと思っていた。おとなになっても、掛け算や割り算ができなかったり、簡単な漢字が読めなかったりしたら子供も親も困るけれど、どれみ自身、学校の成績は大してよくなかったので、自分の子供にも勉強を無理強いさせようとは思っていなかった。
 どれみにとって一番大切なことは勉強より友達。どれみは今までにたくさんの友達に助けられてきたと思っている。それはいくら感謝しても足りないくらいだ。一つの秘密を分け合った五人の仲間。今はそれぞれの道を進んでいて、ほとんど会うことはなくなったけれど、どれみにとってもほかの四人にとっても、この友情はかけがえのないたからものだ。だから、どれみは子供たちにも学校の成績はそこそこでいいから、生涯の〈たからもの〉となるようなたくさんの友達を作ってほしいと願っていた。
 ところが、子供たちの方は親の願いをいい方に裏切っていた。長女はそこそこどころか成績優秀。どんなテストでも八十点を割ることは滅多になく、常にクラスのトップテンに入っていた。長女の得意科目は理科と算数。どちらもどれみが苦手だったものだ。その長女が次女の勉強を見ているので、次女の心配も無用だった。
「何でわたしみたいな親から、こんなできのいい子供が生まれたんだろうね――」
 どれみは実家の妹(三十代独身のキャリアウーマンだ)にぽろっとこぼしたことがあった。
「お姉ちゃんは見ていて頼りないからさ、こっちがしっかりしなくちゃいけないって思っちゃうんだよ」
 そのときの妹の指摘は厳しかったけれど、的を射ているだけにどれみは何も言い返せなかった。きっと長女もそう思っているに違いない。なにしろ、長女の性格は自分より妹に似ているのだ。

 気がつくと、テレビはいくつものコマーシャルを流していた。ひとの注目を引こうとする映像と音楽とナレーションが三十秒ごとに切り替わる。いつの間にか温泉旅館とかステーキとかの番組は終わってしまったらしい。どれみはテレビに飽きてスイッチを切った。再びリビングが静かになった。二階から椅子を引く音、歩く音、話し声――子供たちの気配が聞こえてきた。
(あんまり夜更かしするようなら、注意しなきゃ)
 そんなことを考えながら、どれみは窓辺に立った。床から天井近くまで届く大きな窓。外は小さな庭になっている。どれみはカーテンをめくって外を見た。
 今夜の月はとても明るく照っているようだった。部屋の中から直接月は見えなかったけれど、夜だというのに庭木や塀が庭にくっきりと影を落としていた。きっと空にはきれいな月が懸かっているだろう。どれみは窓を開け、サンダルを履いて庭に降りた。
 どれみはこうして月を見上げることがたびたびあった。子供の頃からの習慣だった。子供の頃はわくわくしながら月を見上げていたけれど、今は子供の頃が懐かしくて月を見上げていた。

 よく晴れた五月の夜。夜になっても寒くない。庭から見上げた夜空に星は数えるほどしか見えなかったけれど、それは街の明かりと空のてっぺん近くで輝く十三夜の月の光がかき消しているからだった。今夜の月は夜の女王だ。誇らしげに地上を照らす様子が、まるで――そんなはずはないのだけど、昔の思い出があまりにも強い印象を残しているのか――どれみには月が上機嫌に笑って見えた。
 ときどき、どれみには今夜のように月が笑って見えることがあった――月が笑う夜だ。いや、子供の頃と違って、今はもう月がそう見えるはずがないから、きっと気のせいなのだろう。だから正確には「月が笑っているように見える夜」だ。
 どれみの知る限り、月が笑っているように見える夜はいつもよく晴れていた。曇っていたり雨だったりしたら当然月は見えないし、そんな日は例え月が笑っていたとしても地上の自分たちにはわからない。薄曇りのときや暈を差しているときは月が透けて見えるけれど、それが笑っているように見えたことはない。月が笑っているように見える夜と天気は関係があるのかもしれない。
 月が笑っているように見えるのは満月のときばかりではなかった。今夜みたいな十三夜だったこともあるし、下弦だったこともある。朝の青空に取り残された半月が笑って見えたときには、どれみも思わず笑ってしまった。子供の頃、月が笑って見えたのは夜中だけだったけれど、このとき、おとなになって初めて朝っぱらから月が笑っているのを見た。あの頃から二十年以上も経っているのに、まだ月が笑う夜の高揚感が懐しいらしい。どれみはそんな自分がおかしかった。
 どれみが子供の頃に感じていた高揚感。それは遠足や遊園地に行く前の晩のどきどきとは比べものにならなかった。月が笑う夜にはどれみと仲間たちだけが知っている秘密の世界へ向けて扉が開かれるのだった。

 月が笑っているように見える夜には、どれみはそのもう一つの世界の話を子供たちに話すことにしていた。今頃、子供たちは学校の宿題をやっているだろう。それを邪魔することになるけれど、どれみは学校では教えてくれない世界があることを子供たちに話しておきたかった。それはどれみのやりたいことでもあり、子供の頃に仲良しだった仲間たちと結んだ約束でもあった。この世界ともう一つの世界とを結ぶ懸け橋になること、それがどれみの約束だった。
「こんな夜は扉が開くのさー」
 どれみはリビングに戻ると、歌うように独り言をつぶやきながら階段を上って行った。


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プロローグ 月が笑う夜(2)

 二階には二つの部屋があった。一つは夫婦の寝室、もう一つは子供部屋だった。子供部屋は姉と妹が一緒に使っていた。ドアに掛けられたプレートには姉妹の名前が仲良く並んでいた――《みら&ふぁらの部屋 ノックをしてね》。どれみはそのドアを勢いよく開けた。プレートの注意書きは役に立っていなかった。
「みら! ふぁら! 今夜は月がきれいだよ!!」
 机に向かっていた次女のふぁらが「わぁ……」と嬉しそうに振り返るのを傍らに立つ長女のみらが制した。
「お母さん、ノックぐらいしてよね! それに、今はふぁらの勉強中。ちょっと静かにして!」
 どれみは子供たちと月を見ることを楽しみにやってきたのに、みらに間髪を入れずに釘を刺された。
「面目ない――」
 全く母親として面目が立たなかった。「老いては子に従え」とは言うけれど、まだ三十半ばで小学生の子供に仕切られるのは格好悪かった。でも、みらの言うことはもっともだし、自分でも、「ちょっとまずかったかな」と後ろめたいところもあったので、どれみはふぁらの勉強が終わるまでおとなしく待つことにした。どれみはみらの椅子に座って、勉強を教える長女と机に向かう次女の後ろ姿を見ていた。
(いいなぁ、わたしもお姉ちゃんが欲しかったかも――)
 どれみは自分がその「お姉ちゃん」だったことをすっかり忘れていた。

「はい、おしまい」
 みらはそう言って、持っていたふぁらの教科書を閉じて机に置いた。どれみが子供部屋にきたときにはもう終わる頃だったのだろう、十分も経っていなかった。
「ふう、やっと終わった」
 ふぁらは、まるでプールで息を止めたまま十三メートル泳いだあとみたいに一つ大きく息をしてから、どれみに駆け寄った。
「お母さん、宿題終わった! お月様見ようよ、お月様!」
「はいはい」
 どれみはふぁらに返事をしてから、みらに話しかけた。
「ずいぶん時間の掛かる宿題だったんだね。あんたたちが二階に上がってから一時間以上は経つよ」
「うーん、一時間半くらいかな? きょうの宿題は国語と算数と社会。ちょっと宿題出し過ぎだよ、ふぁらの先生は」
 どれみはふぁらと窓のそばに行き、みらは部屋の入り口にあるスイッチを切った。子供部屋に月明かりが射し込んだ。
 どれみが部屋の窓をいっぱいに開けると、湿った土の匂いのする空気がゆっくりと流れ込んで子供部屋を満たしていった。みらも窓辺に立って、どれみやふぁらと並んで窓の外を見上げた。明るい十三夜の月。親子三人の影が部屋の中に伸びた。

 どれみたちの住む美空市は郊外のベッドタウンだ。高台を通る舗道から美空市の街並が一望にできる。海と丘陵に挟まれた平地にたくさんの家が建ち並び、その真ん中を貫いて線路と国道が延びている。海岸の向こうには海が広がり、夕方になるとオレンジ色の大きな太陽が水平線の向こうに沈む。そのとき海は茜色の光を反射して、夕陽がたくさんの金色の魚を呼び寄せたみたいになる。どれみにとって幼い頃から慣れ親しんできた風景だった。
 今でもその高台の道路に行けば美空市を一望にできる。海に沈む夕陽は昔も今も変わらないけれど、街は少しずつ変わっていった。昔は小さな一戸建ての家が多かったのに、いつの間にかあちこちに高層マンションが建ち、駅のロータリーは広くなって駅前通りの商店街に大きなショッピングセンターができた。どれみにとって、見慣れた景色がなくなっていくことは寂しかったけれど、自動車を気にせずに街を歩けて、欲しい物が手に入れやすくなったのは助かった。
 街が大きくなるにつれて街灯やネオンサインも増えた。夜空が明るく照らされるようになって、見える星の数はずいぶん減った。今のどれみに区別できるのは北斗七星と冬のオリオン座くらいだ(オリオン座は八十八ある星座の中で一番大きく、明るい星が多いから見分けるのは簡単だ――ということはみらから教えられた。それに北斗七星は星座ではないということも)。ほかの星座はよくわからない。星が疎らにしか見えないから、星と星を結んで星座を作ることもできなくなった。
 しかし月は違う。月は地上の明かりに負けていなかった。天気のいい夜には夏でも冴え冴えとした光を降らせていた。それが満月の前後だと地上に影を作るくらいになった。今夜は十三夜。あさってには満月になろうという月が中天で輝いていた。

「今夜のお月様はきれいだねー」
 どれみが子供たちに話しかけた。ふぁらがどれみを見上げて尋ねた。
「お母さん、今夜はお月様の笑う夜なの?」
「そうだよ。今夜は月が笑う夜さ。笑っているからこんなに明るくてきれいなんだ」
 どれみは子供たちと月を見るたびに〈月が笑う夜〉の話をしていたので、最近では逆に子供から訊かれることも多かった。とはいうものの質問するのはもっぱらふぁらの方だった。ふぁらはこういうファンタジーが大好きだ。でも、みらは――
「また魔女の話?」
 うさん臭そうな顔でどれみを見た。
「そうだよ。子供はもっと夢とロマンを持たなきゃいけないのさ」
「夢とかロマンとかはいいんだけど、宇宙に人間が行くような時代に魔女とか魔法とかそういう非科学的な話はないんじゃない?」
「お母さんが子供の頃だって宇宙ステーションはあったさ。それに初めて人間が月に行ったのなんて、お母さんが生まれる前だよ。でもいいじゃん、魔女がいて魔法を使う世界があっても。それがロマンというものさ! ふぁらだって魔女の話、聞きたいよねー」
 最後の「ねー」のところでどれみの声とふぁらの声が重なった。こういうとき、ふぁらは決まってどれみの味方だ。みらは勝ち目がないと悟ったのか、呆れたのか、視線を窓の外に向けた。
 みらはどれみに似ずリアリストで、荒唐無稽な夢物語にはあまり関心がなかった。小さい頃は今のふぁらと同じように魔女の世界の話を喜んで聞いていたのに、最近、その手の話は取り合わない。もう、魔女の話は卒業する年頃なのだろうか――どれみはちょっと残念に思っていた。
 魔女の話には関心がないといっても、みらはどれみやふぁらのそばを離れなかった。どれみとふぁらのやり取りを横で聞きながら、いつまでも月を見上げていた。どれみは、みらはみらなりにロマンチストなのだと思うことにした。


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プロローグ 月が笑う夜(3)

「ねぇ、お母さん。早く魔女界のお話をして」
「はいはい。そのために来たんだから」
 催促するふぁらにどれみはそう答えると、軽く深呼吸して話し始めた。
「この世にはふぁらやお姉ちゃんやお母さんが住んでいる世界とは別に、魔女の住む世界、魔女界があるんだ――」
 今夜のような、月がきれいに見える夜にはいつも、どれみは子供たちに魔女の住む世界――魔女界の話をした。ふぁらは物心の付く前から何度も同じ話を聞かされているのに全然飽きていないようだった。今も催促するようにどれみを見上げている。白く輝く月なんかそっちのけだった。ふぁらの瞳は、月の光が映り込んでいるのか、キラキラ輝いていた。腰まで届く長い髪は先が闇に溶け込んで見届けることができなかった。毛先で髪を束ねているリボンだけが月明かりに浮かんで見えた。
 ふぁらは小学三年生。普通の小学三年生ならおとなと同じで、魔女や妖精やサンタクロースやその他さまざまなファンタジーの登場人物たちは、本当はいないと思っているだろうかもしれない。でも、ふぁらはどう思っているのだろう。いつも、どれみの話を楽しみにしているから、もしかしたら信じているかもしれない。
「魔女界は世界地図のどこを見てもないし、宇宙のどこを探してもない、別の場所にある別の世界なのさ。別の場所の別の世界だから誰にも行くことはできないんだ――」
 どれみのそばにはふぁらがいたので、どれみは自然とふぁらに話しかける格好になった。同じ窓辺に立ちながら、みらの方は聞いているのかいないのか、ずっと夜空を見上げたままだった。
「普段、魔女界はこの世界と繋がっていないから決して行けないんだけど、月が笑う夜は特別なのさ。魔女界へ繋がる扉が開くんだ」
 「魔女界へ繋がる扉が開く」――どれみの話はいつもここから始まった。そして、この「扉が開く」でふぁらはいつも満面を輝かせた。きっと、どきどきわくわくするような冒険を想像しているのだろう。ふぁらがそんなことを想像しているんだと思うと、どれみも嬉しくなった。しかし、扉の向こう側に実際にあったのは、どきどきすることに変わりはないけれど、冒険ではなく試験だった。

 どれみにとって魔女や妖精は紛れもない事実だった。実際に魔女や妖精を見たことがある、という程度ではない。魔女にも妖精にも、サンタクロースにだって知り合いがいるのだ。これほどリアルな現実はあるだろうか? テレビに映し出される遠い国の事件なんかより、よっぽど現実味がある――かつて、どれみは月が笑う夜、魔女界への扉が開かれるとき、ほうきに乗って魔女界へ出入りしていた。それはどれみが小学校三年生、今のふぁらと同じ歳頃の出来事だった。あれから三十年近く経つのに、今でもどれみはそのときのことを鮮明に覚えていた。とても印象的な出来事だった。
 その頃のどれみは好きな男の子がいても自分の気持ちをうまく伝えることができなかった。告白する勇気が欲しくて、魔女や魔法の本を片っ端から読んではさまざまな呪文を試していた。「きょうこそは告白するぞ」と決心しても、その子を目の前にすると真っ赤になって緊張して、切り出す勇気がなくて挫けてしまった。
(きっと、魔法が使えたら告白する勇気を持てるんじゃないかな? それとも相手に好きになってもらえばいいのかな?)
 魔法が使えたら、きっと今の自分を変えられる。好きな男の子に告白できるようになる――どれみはそう信じていた。どれみには学校の成績を上げたいとか、もっとお小遣いが欲しいとかいうような願望はなかったけれど、好きな人と両想いになりたいという気持ちは切実だった。
 ある日――どれみはその日もプレッシャーに負けて告白できなかった。学校からの帰り道、自分の気持ちを好きな男の子にうまく伝えられるようになりたいと、真剣に悩みながら歩いていた。
 ふと気がつくと、どれみは見知らぬ路地に立っていた。
(ここはどこだろう?)
 どれみは不安になって辺りを見回した。民家の列がちょっと途切れた窪地だった。舗道の脇が低い柵になっていて、その下に古びた洋館風の建物が建っていた。その建物は何かの店らしい。看板に《マキハタヤマリカの魔法堂》とあった。〈魔法〉という文字に文字通り魔法を掛けられたように、どれみはその建物に入っていった。
 魔法堂の店内は薄暗く、陳列棚の上にはアクセサリーとも護符ともつかない得体の知れない小物がたくさん並べられていた。陳列棚の奥、薄暗い店の片隅にこの店の店主と思しき人影が見えた。どれみが近づいてよく見ると老婆だった。老婆はどれみに聞かせるつもりか、しわがれた声でつぶやいた。
「ここは魔法堂。よほど切実な願いを持つと見える――」
 しかし、どれみは少しも聞いていなかった。どれみは店の中のどんな商品よりもその老婆に目がいってしまった。看板に名前があったのはこの人だろうか。
「マキハタヤ……マリカさん?」
「巻機山リカじゃっ!」
 どれみは老婆に思いっきり怒鳴られた。しかし、看板の名前はすべて片仮名で、どこまでが苗字でどこからが名前かはっきりしなかったから、どれみが変なところで区切ったとしても仕方なかった。
 巻機山リカと名乗る老婆は、店の奥まで日が射さないというのに黒ずくめのローブで全身を覆い、フードを頭からすっぽりと被っていた。その姿はどれみが絵本で見たことのある魔女にそっくりだった。魔法堂という名の店、何やら曰くありげな怪しい商品、そして何よりも、不気味な老婆――今、目の前にいる人は間違いない、きっと――
「リカさんって、ひょっとして魔女!」
 魔女に憧れていたどれみがそう断じたのは当然の成り行きだった。ところが、そう言われたリカは見る間に縮んで、たちまち緑色のゴム毬のような姿になってしまった。
 巻機山リカは人間界での仮の名、本当の名をマジョリカという魔女だった。魔女は人間に正体を言い当てられるとブニュブニュのゴム毬みたいな魔女ガエルになってしまう。魔女にはそんな〈魔女ガエルの呪い〉があった。元の姿に戻るためには正体を言い当てた人間を魔女にして、元に戻るための魔法を掛けてもらうしかなかった。マジョリカはどれみに正体を言い当てられたので、魔女ガエルになってしまった。マジョリカが元の姿に戻るためにはどれみを魔女にしなければならない。マジョリカはどれみを魔女になるための見習い――魔女見習いにすると一方的に決めつけた。
 魔女見習いになる――それは、どれみにとっても願ってもないチャンスだった。ずっと魔女に憧れ続け、魔法が使えたらいいなとは願っていたけれど、本当に自分でも魔法が使えるようになるとは思ってもみなかった。どれみはマジョリカも驚くくらいあっさりと魔女見習いになることを承諾した。
 こうしてどれみは魔女見習いとなり、いろんな事件を解決したり、起こしたり、クラスの仲のいい友達たちに正体がばれそうになって(魔女見習いだって正体を言い当てられると魔女ガエルになってしまうのだ)、逆にみんなを魔女見習いにしたりして、そして月が笑う夜は魔法堂にある特別な扉を通って魔女界へ通ったりした。


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プロローグ 月が笑う夜(4)

「お母さん、魔女界への扉ってどこにあるの?」
 月光はすべてのものを幻想的に見せるらしい。どれみを見上げるふぁらの顔は青白い光を受けて、あどけなさと神秘さの入り混ざった不思議な表情を見せていた。ふぁらは魔女や魔法を信じている。この子になら魔女のすべてを話してもいいかもしれない、どれみがそう思うこともしばしばあった。しかし――
「魔女界への扉はどこにあるんだろうね? 実は、お母さんもその場所を知らないんだ」
「本当? じゃあ、何でお母さんは魔女のことに詳しいの?」
「今のお話はみんな、昔、お母さんがふぁらくらいのときに本で読んだことなんだ」
「なぁんだ。お母さんの話って本当にあったことみたいだから信じちゃったよ」
「あはは、残念だったね、ふぁら」
「わたし、お母さんは昔、魔女見習いだったんじゃないかって、ちょっと思ってたんだ」
「えっ――」
 ふぁらが無邪気に尋ねて、どれみは一瞬どきりとした。もし、どれみが魔女見習いだった頃なら、今の一言で魔女ガエルになっていたところだった。
「あは、あははは……。お母さんも魔法が使えたらいいなって思うけど、お母さんは魔女でもなんでもないよ。でも、魔女とか魔法とか、そういうものは本当にあるんだって、お母さんは信じてるんだ」
「うん、わたしも! 魔法が本当にあったらいいよね」
 ふぁらは元気よくうなずいた。
 どれみの話はいつも真に迫っていた。魔女のこと、魔法のこと、魔女界のこと――どれもこれもみんな、どれみ自身が見聞きしてきたことであり、自分のやってきたことだった。どれみは子供たちに、こんな世界があってこんな人達がいるということを伝えたかった。それがどれみの望みであり、二つの世界の懸け橋になるという約束を果たすことになると信じていた。
 でも、どれみ自身がかつて魔女見習いだったことは子供たちに話していなかった。それに、今は、呪いを掛けた本人の誤解が解けて魔女ガエルの呪いがなくなっていることも。話せば、ふぁらも、もしかしたらみらも魔女になりたがるかもしれない。どれみも自分の子供たちが魔女見習いになったら、跡継ぎができたみたいで嬉しいとは思うけれど、いつか、魔女界と人間界の交流が再び始まる日のために、子供たちにも人間として魔女との懸け橋になってほしいと思っていた。

「ねぇ、ふぁら。ふぁらは魔女界への扉を見つけたらどうする?」
 今度はどれみがふぁらに尋ねた。
「もちろん、そこで魔女を待ち伏せして、魔女見習いにしてもらうんだ。それでいっぱい修行して魔女になるの」
 ふぁらは子供らしい無邪気さで何の悪気もなく答えた。
「でも、扉から出てきた魔女にうっかり『あなたは魔女ですね』なんて言ったら大変だよ。人間に正体を言い当てられたら、魔女は魔女ガエルになっちゃうんだから」
「知ってるよ。いつもお母さんが話してくれるから。でも、魔女ガエルになった魔女は元の姿に戻れないの?」
「うーん――、たった一つだけ、方法はあるんだ。魔女ガエルにされた魔女が正体を言い当てた人間を魔女にして、戻るための魔法を掛けてもらうのさ」
「ふーん、魔女って大変なんだね――あれ? っていうことは、正体を言い当てれば、魔女見習いにしてもらえるんだ?」
「魔女ガエルの姿の方がいいって言う魔女はいないから、たぶん魔女見習いしにしてもらえるよ。でも、魔女になるのは大変だよ? 魔女見習いになって、修行して、九級から一級まで魔女試験を受けて、それでやっと魔女になれるんだ」
「でも、修行して試験を受けて合格したら、わたしも魔女になれるんでしょ? わたし、魔女になりたいな」
「でも、魔女って、簡単に見分けられないよ?」
「そんなの簡単だよ。魔女界への扉の前で、出て来た魔女に『あなたは魔女ね!』って言えばいいんでしょ? ああ、魔女界への扉って、どこにあるんだろう?」
「いい、ふぁら?」
 どれみはふぁらと向き合って両肩に手を置いた。
「ふぁらは自分が魔女見習いになりたいから、ほかの魔女をわざと魔女ガエルにするつもりなんでしょ? ふぁらはそれで魔女見習いになって嬉しいかもしれないけど、魔女ガエルにされた魔女のことはどう思う?」
「魔女ガエルって見たことないけれど――不便なのかなぁ……」
 ふぁらはそれきり黙り込んでしまった。魔女ガエルになった魔女はどういう気分になるのか一所懸命考えているようだった。

 魔女見習いになって魔女になる――魔女になって人間の世界で暮らすのは楽しいことばかりではない。どれみは魔女をやめた魔女に出会ったことがあった。人間界に帰化しようとしていた彼女の生き方に、どれみは魔女になるとどうなるのかを思い知らされた。
 魔女になるということは――


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プロローグ 月が笑う夜(5)

 みらは月を見上げながら、ときどき自分の後頭部を撫でていた。ついこの前までふぁらと同じように腰まで届く長い髪のあったところだ。新学期が始まるときにばっさり切ってしまった。理由は――「洗うのがめんどくさいから」。今は襟に掛かる程度のシャギーになっている。頭が軽くなったと思う反面、短くしてからひと月以上経つのにまだ慣れていないのか、みらは切ったところが気になって仕方なかった。
 みらはそうやって頭を撫でつつ月を見上げながら、どれみとふぁらの会話を聞いていた。
(魔法なんてあるわけないよ)
 みらは小学五年生。空想と現実の区別はちゃんとつく年齢だ。さらに得意科目は理科と算数。母親から〈月が笑う夜〉の話を聞かされての反応は、当然――
「ばかみたい。月は地球の周りを回っている衛星で、大きな岩の塊なんだよ。笑うわけないじゃない」
と冷たい。
 みらにとって、今見上げている月は漆黒の宇宙にぽつんと浮かぶ天体の一つだ。岩石だらけのごつごつした表面。夜空に輝いて見えるのは、自分の足元のずっとずっと下、地球を突き抜けて反対側の空の上に輝いているはずの太陽の光を反射しているから。そして、地球も月も本当に空っぽの空間に落ちることも浮くこともなく、ただ、太陽と引き合いながらその周りを一年かけて回っている。地球や月だけではない。火星や木星などの九つの惑星とたくさんの衛星もまた、それぞれが自分の弧を描いて太陽の周りを回っている。ときどき、その外側から氷の固まりが彗星になって太陽を目がけ落ちてくる。さらにその外には星々の世界が――みらが夜空を見上げながら頭に思い描いている世界はそういう世界だ。だからといって、みらは月の美しさを感じないわけではなかった。岩の固まりだとわかっていても月の光は清らかだし、その光を見上げているだけで自分も宇宙の中にいることを実感できた。宇宙は魔法とか魔女とかを持ち出さなくても十分ロマンチックだ。
(魔法や魔女の話もいいけど、本当の宇宙はもっとすごいんだから)
 みらは空っぽの夜空を見上げながら、いつか見た満天の星空を思い出していた。

 みらには忘れられない星空があった。一年前、家族で行った飛騨の花火大会の、その帰り道に見上げた星空だ。漆黒の夜を背景に無数の星が瞬いていた。あまりにもたくさんの星が見えていて、どこをどう繋げばどういう星座になるのかわからないほどだった。
「あ、天の川だ! 天の川を見るのなんて何年振りだろう」
 父が唐突に声を上げた。
「え? どこ? お父さん、どこにあるの? 天の川!」
 みらも一所懸命天の川を捜した。みらにとって天の川はアメリカ大統領やインフルエンザウィルスと同じで〈どうやら実在するらしいけれど、テレビや写真でしか見たことがないもの〉だった。今、本当に実物が見られるのなら是非見ておきたい。
「ほら、空の上。小さな星がずっと続いているだろ?」
 そう言って父は東の空を指差し、南の空の中ほどを通って西の空へ弧を描くように動かした。
 みらはその指の差す先を目を凝らして見た。いや、目を凝らして見ようとするとかえって見にくい。むしろ、凝視しない方がいいようだ。空全体を見るようにして、意識だけを視界の一角に集中して、ようやく空を横切る薄ぼんやりした光の帯が見えてきた。確かに川だ。しかも天空を横切る大河だ。
「わあ……」
 みらはそのまま絶句した。
「ほら、あの大きな十字のかたちをしているのがはくちょう座。はくちょうの尻尾のところにあるのがベガ、織姫だ」
 父はその大河の真ん中辺りを指しながら説明していった。
「へぇー」
 みらが感心していると、母が割り込んできた。
「全然違うよ。織姫はあっち。で、彦星がこっち。ロマンのかけらもないような人が星座の話をするのは無理なのさ」
 母は天の川の両側をかわるがわる指して訂正した。
「別にいいじゃんか」と父。
「あ、流れ星!」
 ふぁらが叫んだ。流れ星は一瞬だけ輝いてすっと消えてしまった。
「お母さんも見たかったな、流れ星。流れ星に願い事を三回唱えると、それが叶うって言われてるんだよ」
 なおも夜空を見上げているとまた流れ星が飛んだ。母とふぁらは早口で願い事を唱えた。
「ステーキステーキステ……」
「魔女になり……ああん、だめー。間に合わないよぉ」
(お母さんもふぁらも「らしい」なぁ。わたしだったら――この星空が欲しいな)
 三つ目の流れ星は西の空からゆっくりと流れてきた。最初にみらが見つけた。
「あ、お母さん、あそこ……」
 みらの指す方角に向かって、母と妹が一心不乱に唱えた。
「ステーキステーキステーキステーキステーキ……」
「魔女になりたい、魔女になりたい、魔女になりたい……」
 みらも小さな声で願い事を言ってみた。
「この星空が欲しい、星空が欲しい……」
 母と子供たちが口々に願い事を唱えるのを聞いて、父は吹き出した。
「あっはっはっ、みんなばかだなぁ。いつまでも消えない流れ星なんてないよ。あれは人工衛星だ。あんなに明るいということはきっと国際宇宙ステーションだな」
 みんなが流れ星だと思った人工衛星は夜空を斜めに横切り南の山影に向かう途中で消えた。
「なんだよー、せっかくのロマンチックな気分に水を差すんじゃないよ」
 母がまた文句を言った。
「へへへーだ。ステーキとか魔女とか無理難題を言われても、あそこにいる人達には迷惑だって」
 父は笑いながら母に言い返した。でも、みらには、
「でもな、みらの願い事なら叶わないこともないかもしれないぞ」
 どっちだかよくわからない言い回しだった。
「あそこにいる人達は無重量状態で実験をしたり、宇宙を観測したりして、星の世界のことを調べているんだからな」
「ふーん……」
 みらは人工衛星の光が消えていった方を眺めた。遥かな空の高み。周りを見渡しても誰もいない。きっと真っ暗で冷たい世界なんだろう。そんなところでも人間は駆け上がり、さらにその先に行こうとしている――
「お父さん、わたしもあそこに行きたいな」
「んん? 難しいかもしれないぞ。勉強も運動も、英会話だってできないとだめなんだからな」
「うん――でも、おもしろそう!」

 今見上げている夜空は去年飛騨で見た夜空とは比べるべくもない。月と少しの星が瞬いているほかはほぼ一面の暗黒。でも夜空は決して黒くて堅い蓋の内側ではない。果てしなく続く知らない世界への入り口なのだ。


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プロローグ 月が笑う夜(6)

「あ、お父さん、お帰りなさい!」
 突然、ふぁらが大きな声を上げた。いつの間にか家の前の道路を見下ろしていたらしい。母もつられて下を見た。父が門扉を開けているところだった。
「よっ、小竹。お帰り!」
「おーい、夜中に大きな声を出すなよ、どれみ。近所迷惑だろ」
 そう言う父の声も二階に届くくらい大きかった。
 なぜか母は父を苗字で呼ぶ。自分も同じ苗字なのに。みらは母にそのわけを訊いたことがあった。答えは「だって、小学生の頃からずっとそう呼んでいたんだよ? 今さら変えられないよ、と思っているうちに現在に至るってわけ」だった。
「さ、お父さんのご飯の支度をしなくちゃ。あんたたちも早く寝なさいよ」
 そう言って、今まで子供たちを起こしていた張本人はそそくさと部屋を出ていった。ふぁらは「はーい」と返事をしてベッドにもぐり込だけれど、みらはまだ月を見ていた。月は見始めたときよりちょっと高くなって見えた。

 子供部屋が静かになった。
 みらは窓辺から離れて自分の椅子に戻ると、学習机の本棚に立て掛けてある図鑑を取り出して、ぱらぱらとめくった。鮮明な天体写真と精緻なコンピュータ・グラフィックがたくさん載っている、目次と索引以外はすべてカラーという贅沢な本だ。みらはこの本を本屋で見掛けて、自分の誕生日に父にねだって買ってもらった。
 図鑑のページをめくると、星やガス星雲や銀河や――とにかく、夜空では小さな光の点にしか見えない星や、あまりにも遠くて見ることのできない星の写真が次々と現われた。極彩色の雲に抱かれて生まれたばかりの白い星、虹色のドーナツ型をした雲を撒き散らし散っていく星、中心から何かを吹き出し続けている銀河、衝突している銀河、遥か遠くにある無数の銀河の群……その姿は息を呑むものばかりだ。
(これはみんなお伽話じゃない、本物だ。宇宙は魔女だとか魔法だとかそんなお伽話なんか足元に及ばないくらいにダイナミックで奇想天外で、しかも、あの夜空のどこか遠くに実際にある世界なんだ)
 みらにとって、夜空は深い海の底から見上る海面のようなものだった。夜の底に立って星空を見上げていると、そこには重苦しい水圧から解放された自由の世界があるように思えてくる。海の上にはたくさんの島や大陸があって人々が暮らし、さまざまな船が港を結んで行き交っている。夜空を見上げても同じだ。宇宙にはきっと見たことのない世界が広がっているのだろう。


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1 いつもの一日(1)

「ふぁらー、遅れるよー」
 みらはまだ二階にいるふぁらを大きな声で呼ぶと、玄関の三和土に左右のつま先を二回ずつとんとんと当てて靴を履いた。
(まだかな)
 そう思って階段の上を窺うと、ちょうど、ふぁらが降りてくるところだった。
「お姉ちゃん、待ってー」
 でも、ドタドタとやってきて、通りがけにみらの頭をぽんと叩いて行ったのは父だった。
「じゃ、行ってくるぜ」
 父はみらの頭越しにキッチンの母に言うと、そのまま玄関を出ていった。
「お父さん、元気だねー」
 ようやくふぁらが降りて来た。今の様子を階段から見ていただろう。みらはふぁらにため息をついて見せた。
「ふう――何だか朝から疲れたよ」
 ふぁらは靴の後ろの部分を人差し指で引っ張って踵を入れた。
「お待たせ、お姉ちゃん」
「じゃあ、お母さん、行ってきまーす」
「行ってきまーす」
 みらはふぁらと一緒に玄関を出た。
「きょうは暑いね、お姉ちゃん」
「うん」
 うなずいて、みらは空を見上げた。六月の眩しい空。水色の空を背景に白い雲がぽこぽこと浮かんでいた。初夏のような陽気だった。
「さ、行こう、ふぁら」
 さっき出ていったばかりの父がずいぶん先の方を歩いていた。父は週末に近所の小学生相手にサッカーを教えているくらいだから、体力が余っているのだろう。毎度のことながらみらが感心していると――
「小竹ー! 忘れ物だよー!!」
 今度は母が青い大きな封筒を抱えて走って行った。父も呼び止められて振り返った。
「あー、恥ずかしいなぁ」
「そんな大声を出さなくても……」
 ふぁらは俯き、みらは呆れていた。母が忘れ物を持って父を追いかけて行く――小竹家では三日に一度は見られる光景だった。慌ただしい両親だ。
 母が父に封筒を渡して引き返して来たとき、みらは訊いた。
「何で、お父さんを大声で呼んだの? 携帯電話で呼べば済むのに」
「そうしたよ。そうしたら、あの封筒が鳴ったのさ」
「なるほどね」


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1 いつもの一日(2)

 家から歩いて二分のところにある五叉路がみらとクラスメイトの野村やよいの待ち合わせ場所だった。たいていはやよいの方が先に着いていて、みらを待っていた。きょうも同じだった。
「おはよー、やよいちゃん!」
「おはよー!」
 みらはやよいの姿を見つけると手を振りながら大きな声で呼んだ。ふぁらも一緒になって呼んだ。
 やよいもみらの姿を見つけてにっこりとほほ笑んだ。背中まで届く長い真っ直ぐな髪と淡いピンク色のワンピースが初夏の風に吹かれてそよいでいた。ショートヘアにデニムのショートパンツを履いたみらとは対照的だ。むしろ菜の花のような黄色のブラウスに若草色のスカート、それに長い髪を毛先で結わえたふぁらの方がやよいに似ている。知らない人が見たらやよいの方がふぁらの姉だと思うかもしれない。
 やよいは小さく手を振ると、ふたりが近づいて来るのを待った。
「おはよ、みらちゃん、ふぁらちゃん」
 三人は並んで歩き始めた。

「みらちゃん、きのうの『ウィークデイは魔法の娘』見た?」
「うん、見た見た。れいらちゃんかわいいよねー」
 みらより先にふぁらが答えた。
「一、〇〇〇ページの資料が一〇〇部、一晩で出来上がっていたときの沼水室長の顔、おかしかったよねー」
 みらもその場面を思い出しながら笑った。
 このところ、毎週火曜日の朝の話題はテレビのドラマだった。十年くらい前に放送されていたドラマをケーブルテレビで流していた。物語は、要領が悪くて風采の上がらない、だけど純真無垢なOL新堂れいらのところに、ある日、ピンクのマントをまとったドリーと名乗る魔法使いが現れて、「あなたは幸不幸のバランスを著しく欠いています。このままでは人間界の幸不幸量保存則によって幸福ばかりの人が現われ、公平性を損ないます。つきましては、あなたの幸福の量を回復させるため、しばらくわたしがお手伝いします」――とか何とか言って、事あるごとに(たいていは意地悪な上司の沼水室長に苛められるというもの)れいらの仕事を魔法で手伝う、というものだった。
 特に、第一話で地味なれいらが魔法で魅力的な女性に変身する場面は、とても同じ女優が演じているとは思えないくらい見事なものだった。れいらは「きれいな自分は自分らしくない」と言って普段は地味な姿をしていたけれど、第二話以降でもドリーを助ける(いつもドリーが助けられているのだ)場面では、いつもの格好だし魔法を掛けられてもいないのに、れいらはいきいきとして魅力的に見えた。れいら役の女優の演技がうまいからだろう。
 やよいもふぁらもこのドラマに夢中だった。ふたりとも魔法があったら便利だろうな、という憧れで見ているようだった。みらはこのドラマのコミカルなところが好きで見ていた。ドリーは「何でも魔法で解決!」と言って張り切っているけれど、肝心の魔法がへなちょこであまり当てにならない。いつも、れいらがなんとか穴埋めすることになった。でも、みらが「魔法って全然使えないね」と言うと、母は「まあ、実際そんなものじゃないの」とあまり挫けない。みらも母に言われると(そういうものなのか)と思って納得してしまう。
 みらがこのドラマを見始めたのは、母が「このドラマはね、お母さんの友達が出ていたのよ」と言ってテレビをつけたのがきっかけだった。新堂れいら役の女優が母の友達だということだけど、何年か前に突然引退してしまい、その後はどこで何をしているのかわからないらしい。みらはその女優が活躍していた頃のことを覚えていないけれど(みらが小学校に入学する前のことだ)、引退したのならもう普通の人と変わらないはずなのに、連絡一つよこさないなんて、ずいぶん冷たい友情だなと思った。

「あの新堂れいら役の女優さん、お母さんの友達なんだってさ」
 みらは他人事のように話した。みらにとって母の友達なんてわからないし、女優としても過去の人だから、言い方も素っ気ない。
「そうなの? あの女優さん、美空市出身だっていうから、あり得るかも。わたしもママから、昔はとても人気のある女優さんだったって聞いたけど、みらちゃんのママ、ずいぶんすごい人と知り合いだったのね。」
「でも、本当かな? うちのお母さん、ときどきほら吹くからなぁ。いい歳をしたおとななのに、魔法は本当にあるって信じているみたいだし」
 みらが少し辟易としながら話すと、
「お姉ちゃん! 魔法は本当にあるかもしれないんだよ?」
と、ふぁら。そしてやよいが続けて、
「そうよ、頭からないって決めつけるより、どこかにあるかもって思っている方がすてきじゃない」
 話題が魔法のことになると、ふぁらとやよいは結託してみらを攻めた。世間一般では「魔法はない」と思っている人が大多数なのに、この三人でいると、みらははいつも少数派になってしまう。
「魔法っていいなぁ。わたしも魔法使いの知り合いがいたらいいのにな」
 ふぁらは空を見上げて、飛んでいる魔法使いを探すような目で言った。
「そう? でも、ドリーの魔法はへぼへぼだよ?」
 みらがふぁらに水を差そうとすると、やよいがふぁらを援護した。
「それはドリーがドジだからよ。うまく使えば魔法はきっと便利よ」
「まあ、便利だとは思うけどねー。でも、れいらちゃんがドリーのフォローをしているときなんか、魔法なんか使わなくても結構美人に見えるよ? やっぱり、魔法っていらないんじゃない?」
「それはドラマだから!」
 みらはやよいとふぁらから同時に反撃された。やよいとふぁらが同時に同じことを言ったので、みらは吹き出してしまった。つられてふたりも笑った。

 みらとやよいとふぁらは他の同級生たちと混じりながら一緒に坂道を上って行った。坂道の先、丘のてっぺんに美空小学校が見えてきた。


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1 いつもの一日(3)

「そこーっ!」
 張りのある大きな声が教室に響き、同時に一番後ろの席でおしゃべりしていた男子生徒ふたりの顔の間をチョークがかすめ飛んだ。
「うわあっ!」
 雑談に夢中になっていたふたりは慌てて前に向き直った。
「わたしの授業中に無駄話をしているとは、いい度胸じゃないかっ!!」
 みらのクラス担任は関先生という女の先生だった。五十歳を越えているというのに、ものすごく元気だ。
 関先生は板書用のチョークのほかに投げるための禿びたチョークをいくつも持っていて、授業中にふざけているとすぐにそれが飛んできた。しかも抜群のコントロールだ。さっきだって外れたのではない。わざと外したのだった。男子は「きっと毎晩、秘密の特訓をしてるんだぜ」などと噂していた。
 しかし、関先生は決して粗野な先生ではなかった。困ったときや悩み事のあるときはいつでも相談に乗ってくれる、頼りになる先生だった。
 関先生は母が小学生だったときの担任だったと、みらは母から聞いていた。その頃の関先生はどうだったのか母に訊いてみたら、若くて独身で――あとは今とあまり変わらないらしい。ちなみに、みらは関先生に母が小学生だった頃のことを訊いたこともあった。若くて独身で――ということ以外、やっぱり今とあまり変わらないらしい。
 関先生は母の担任だった頃は独身で、みらの担任になったときは結婚しているのに苗字が変わっていない。母は結婚して苗字が春風から小竹に変わったのに(春風の方がよかったのに)どうしてなんだろう。みらは不思議に思って先生に訪ねたことがあった。
「先生はどうして、結婚しても関先生なんですか?」
「働いている人の名前が途中で変わったらいろいろと不便なんだよ。例えば一年振りに連絡を取ろうと思ってもなかなか相手が見つからなかったりするんだ。先生も独身の頃から仕事上の知り合いが多かったから、名前を変えてそのことをあちこち連絡するより、ずっと同じ名前を使い続ける方のが便利なんだよ」
「じゃあ、先生の今の苗字は関さんじゃないの?」
「そうだよ」
「そうかー、関先生は本当は関先生じゃないんだ……」
「なんだ、小竹? そうがっかりするんじゃないよ。わたしは生まれたときから関だったんだ。わたしにとっては今の名前が本当の名前なんだよ」
「じゃあ、お家に帰ってからの名前は?」
 関先生は腕組みして少し考えた。
「うーん――それも、本当の名前かな?」
「えーっ、なんだかずるい」
 そうは言いながら、みらは内心、(でも、二つの名前を使い分けているなんて、かっこいい)と思っていた。みらにとって関先生は憧れのおとなだった。
「ところで、先生」
「なんだ? 小竹」
「先生のおうちでの苗字はなんていうんですか?」
「それは――ないしょ、だ」

 四時間目は算数の授業だった。これを乗り切れば給食で昼休みだ。
(お腹空いたぁ――早く終わらないかなぁ)
 みらは机に突っ伏してちらっと黒板の上の時計を見た。給食まであと四十分。つまり四時間目は始まったばかりだった。みらは仕方なく、また黒板の方を向いた。黒板には帯分数の引き算が三題書かれていた。教科書の練習問題を抜き書きしたものだ。だからみらにとっては大して難しくない。
(さっきから席の順に当てているから――)
 みらは黒板の問題と自分の前に並んでいるクラスメイトをかわるがわる見た。
(わたしが解くのは二問目だな。あ、やよいちゃんが一問目だ)
「じゃあ、次は、野村、小竹、岡、この問題を解いて!」
「はい」、「はい」、「はい」
 みらの思った通り、縦一列の三人が呼ばれ順に元気よく返事をして席を立った。
(やっぱり、やよいちゃんとわたしと岡だ。やよいちゃんは算数苦手なんだよな。大丈夫かな……)
 みらは黒板に向かいながら、前を歩くやよいの背中を見ていた。

 4  5   8   15
3―−1―=3――−1――
 9  6  18  18

       26  15  11
     =2――−1――=1――
       18  18  18

 みらは黒板の前に立つとすらすらと答えを書いた。簡単な問題だったので、席を立ってから黒板の前に来るまでの間にどうやって解くかの見通しは立っていた。でも、答えは分母も分子も二桁あって、あまりきれいではない。帯分数の問題はそんなにシンプルではないから、せめて答えは「3|4」とか「1|3」とかシンプルになる問題が解きたかった。複雑な問題を解いていったら単純な答えになる――そういう問題こそ、解いた甲斐があるというものだ。
(あーあ、岡の当たった問題をやりたかったな)
 解答を終えて右隣りを見ると、岡が答えを書き終えて意気揚々と引き上げているところだった――間違っていたけど。

 1   7  96 28
2―−1――=――−――
 4  12 48 48

       68
      =――
       48

 板書された三題のうちでは一番きれいな答えになるはずなのに、岡は解けないどころか、なにを考えているのかさっぱりわからない。みらは腹が立った。
(もうっ! 問題がもったいないっ!!)
 左隣のやよいは困っているようだった。黒板には、

 2  4
2―−1―=1―
 7  7  7

と書かれて、止まっていた。みらは小声でやよいに教えた。
「やよいちゃん、1は7分の、いくつ?」
「え……? あ、ありがとう、やよいちゃん……」
 (やよいちゃんは今のヒントでわかってくれただろうか?)――みらが見ていると、やよいは黒板に小さく、

 7
 ―
 7

と書いた。それから少し考えて、ようやくどうすればいいのかわかったのだろう、やよいの顔がぱっと明るくなった。やよいは最初の「2」の上に横線を引いて上に「1」と書き、次の分子の「2」の上にも横線を引いて「9」と書いた。あとの計算は簡単だ。整数部は「1−1」で答えは「0」、分数は分母が共通だから単に分子どうしで引き算をすればいい。「9−4」で答えは「5」。だから、問題の答えは、

 9
  4  5
―−1―= ―
 7  7  7
 やよいは答えを書き終えるとみらと一緒に席に戻った。それまで教壇の隅の椅子に座っていた関先生が立ち上がって、三人の回答を見た。
「よーし、野村、よくできた。小竹も正解だ。岡はどこを間違えたかわかるか?」
 自分の解答をじっと見つめる岡。
「えーと……全然わかんねぇや」
「よし、じゃあ、誰かこの問題のわかる人!」
 みらが腹立ち紛れに手を上げたら、他に手を上げている生徒はいなかった。
「また、小竹か――解いてみて」
 先生に指名されて、みらはまた黒板の前に出た。岡の書いたところを黒板消しで力任せに消すと、自分の答えをすらすらと書いていった。

 1   7    3    7
2―−1――=2――−1――
 4  12  12  12

        15   7
      =1――−1――
        12  12

        8  2
      =――=―
       12 3

 先生はみらの解き方をずっと見ていて、最後まで解き終えると同時に、
「よし、正解だ」
と言った。みらはにこっと笑うと指に付いたチョークの粉を払いながら席に戻った。
 帯分数の計算はやっかいだ。整数部を分数に直して分子に足したり、分数どうしの計算では通分のことを考えたりしなければならない。しかも答えが出たからといって油断できない。約分する必要がないか、よく確かめなければならない。
 みらが席に着くと前の席のやよいが振り向いた。
「みらちゃん、すごいね」
「大したことないよ――そうだ、きょうはやよいちゃんちで算数の勉強をしよ?」
「うん」
 やよいはにっこりとうなずいた。関先生は教壇の上からふたりのやり取りを見ていたけれど、こういう私語は注意しなかった。勉強は教わる方にも教える方にも等しく身に付くのだ。


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1 いつもの一日(4)

「ただいまー」
 みらが学校から帰って勢いよく玄関に飛び込むと、キッチンからお母さんの声が返ってきた。
「おかえりー」
 とたとたとた――
 みらは母の声を聞きながら階段を駆け上がり、子供部屋に飛び込むとランドセルから算数の教科書とノート、それにペンケースを取り出して手提げに移し、再び階段を駆け降りた。
 たとたとたと――
「お母さん、やよいちゃんちに行ってくるね」
「晩ご飯までには帰ってくるんだよ」
 みらが通りしなキッチンをのぞくと、母はスーパーの広告をチェックしているところだった。これから晩のおかずを買いに行くのだろう。
「わかってるって。行ってきまーす」
 みらは母に返事をしながら玄関のドアを閉めようとして、振り返った。
「わたし、ステーキが食べたいな!」

 やよいの家はみらの家から歩いて五分、庭の広い大きな家だ。傾斜地に盛り土をして建てた家だから、門が通りから石段を六段上がったところにあって、そこにインターホンが付いている。みらは三歩で石段を駆け上がってインターホンのボタンを押した。
 ピンポーン――
「はーい、どちら様ですか?」
 インターホンのスピーカーでは誰の声だかよくわからない。みらは、(ひょっとしたら、今、応えたのはやよいちゃんのお母さんかもしれない)と思って、ちょっと緊張しながら息を整えた。
「えーと(こういうときはどう言うんだったかな? そうそう――)、小竹みらと申します。やよいさんはご在宅ですか?」
 くすくす笑いと一緒に「はーい、やよいさんはご在宅ですよー」という返事が返ってきて、ガチャンと門のロックが外れる音がした。玄関からやよいが顔をのぞかせた。
「なぁに、今の? 妙にかしこまって」
「もう五年生なんだから、ちゃんとやろうかな、なんて思って。でも肩凝っちゃった」
「うふふ、わたしんちでそんなことはしなくていいのに――」
 やよいはさっきのみらの対応がおかしかったのだろう、くすくすと笑いっぱなしだった。
「いつまでも笑ってること、ないじゃない。ひどいよ、やよいちゃん」
「ごめんね、やよいちゃん――さぁ上がって」
 「ごめんなさい」と言いながらも、やよいは押し殺したように笑っていた。みらもこれ以上何か言うのは諦めた。
「じゃあ、おじゃましまーす」

「いい、やよいちゃん? 帯分子の引き算はね、まず分数の部分の引き算を考えるの」
 小さな座卓を挟んで、みらとやよいは今にも頭をぶつけそうにしながらノートをのぞき込んでいた。やよいのノートだ。そのノートの傍らには、さっき、やよいの母が持ってきたミルクティーといちごのショートケーキが二つずつ載ったトレイが置かれていた。
 宿題は教科書の練習問題だった。やよいは一問目をノートに書き込んだ。

 1 2
1―−―=
 3 3

「分母が同じだったら、まず分子どうしで引き算するんだ。もし、引く数より引かれる数の方が大きかったら、ここで初めて整数部を見るんだよ」
 みらは説明しながら鉛筆の先で分子や整数を指していく。
「1は3分の3だから、整数部の1を消して分子に3を足して――」
 やよいはみらの言う通りにノートに書いてゆく。

 4
  2
1―−―=
 3 3

「ここまでできれば、あとは簡単でしょ?」
「うん」
 やよいは嬉しそうに答えを書き込んだ。

 4
  2 2
1―−―=―
 3 3 3

「うふふ、できた!」
 それからも、やよいはみらと一緒に宿題の練習問題を解いた。分母の違う分数の計算、帯分数と仮分数の計算……問題は少しずつ複雑で難しくなったけれど、やよいはみらのアドバイスを聞きながら解いていき、すぐに宿題は片付いてしまった。
「終わったね、やよいちゃん」
「うん」
 宿題はみらのアドバイスがあったとは言え、ほとんどやよいが自力で解いたようなものだった。やよいはそれがちょっと嬉しかった。
「じゃあ、やよいちゃんのノートを写させて」
「はい、どうぞ」
 そう言って、やよいは自分のノートをみらの方に向けた。みらは手提げから自分のノートを取り出し、やよいの解答を書き写す。その様子をやよいは両手で頬杖をついて見ていた。自分の解いた問題を算数の得意なみらが写している――やよいはちょっと不思議な気持ちになった。
「みらちゃんって教え方が上手よね。とってもわかりやすい」
 みらはノートを写しながら言った。
「そうかなぁ? あまり意識したことないけど――きっと、やよいちゃんが頭いいからすぐわかるんだよ」
「ううん、そんなことないよ。わたし、みらちゃんに教わらなかったら、テストなんか五十点がやっとだと思う。みらちゃんには勉強を教える素質があるのよ、きっと。学校の先生になるといいんじゃないかしら?」
 みらは手を止めて宙を見た。
「先生かぁ――わたし、関先生好きだし。関先生みたいな先生になれるかな?」
 そう言うと再び俯いて鉛筆を動かし始めた。
「でも、小学校の先生ってピアノが弾けないとなれないって。そう聞いたことがあるよ」
「ピアノだったら、わたしが教えてあげられるわよ。少しだけど」
「うん、ありがとう、やよいちゃん」
 みらがにっこり笑って顔を上げたら、やよいの顔が近くにあって目が合ってしまった。みらは思わず吹き出した。
「えーっ、何で笑うのーっ!?」
 そう言いながら、やよいもつられて笑った。


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1 いつもの一日(5)

「えーっ、ステーキじゃないのーっ!?」
 夜――みらはダイニングで母の手伝いをしながら文句を言っていた。グリルからは塩鮭の焼ける香ばしい匂いが立ちのぼり、それを換気扇が町内に振り撒いていた。
「これだってステーキなのさ。サーモン・ステーキ! きょうは魚が安かったのさ」
 母は全く屈託がない。
(お母さんだって、ステーキが好きなくせに!)
 みらは魚が苦手だった。味が嫌いなのではなく骨が面倒だった。魚は食べるときに小骨に気をつけなければ痛い思いをする。味わっている余裕がない。それに、細かい骨は箸では取りにくくて、ついつい指でつまんでしまうから指先が汚れる。
 みらはぶつぶつ言いながら食卓に食器を並べていた。
 やがて夕食の用意ができた。
「みら、お父さんとふぁらを呼んできて」

「いただきまーす」
 きょうは珍しく父の帰宅が早かったので、家族そろっての晩ご飯になった。週末以外では久し振りだ。みらの正面ではふぁらがやみくもに切り身を突き崩していき、左側ではお父さんが箸だけを使ってきれいに解体していた。みらはふぁらほどひどくないけれど、父のように魚を上手に食べることもできなかった――ちょうど中間だな、と思った。
 みらは塩鮭をつつきながらぽつり言った。
「先生かぁ……」
「なぁに、みら? 先生がどうしたの?」と、お母さん。
「きょう、やよいちゃんちで算数の宿題を教えていたら、教え方が上手だって。学校の先生になったらって、やよいちゃんに言われたんだ」
「お姉ちゃん、先生になるの?」
 ふぁらが割り込んできた。興味津々といった様子だった。
「お姉ちゃんが先生ならいいな」
「まだ決めたわけじゃないよ。それもいいかなって思っているだけ」
 みらはふぁらにそう答えてから、母に訊いた。
「小学校の先生ってピアノが弾けないとなれないんでしょ?」
「うん、そうだよ。小学校の先生は音楽や体育も全教科をひとりで教えなくちゃならないのさ」
「えーっ、体育も?――全教科っていうことは、社会も?」
 体育はともかく、全教科ということは苦手な社会も教えることになるんだと思って、みらはちょっと困った。
「なぁに、心配いらないさ。大きくなれば小学校の教科書なんて簡単に見えるものだよ」と父。
「うん――でも、わたし、教えるのなら理科がいいな。社会はちょっと苦手。理科だけの先生ってわけにはいかないかな?」
「中学校や高校の先生だったら受け持ちの教科は一つだけだぞ」
「ふーん、そうなんだ――その方が楽、かな?」
 みらは自分が中学校や高校の先生だったらどうなるのか想像しようとしたけれど、中学校の先生も高校の先生もテレビでしか見たことがなかったので、よくわからなかった。
「なぁ、みら。将来のことを今から決めることはないぜ。おれがみらくらいの頃、将来の夢はJリーガーだったんだから。結局、なれなかったけれどな」
「それって、わたしも先生になれないって言いたいわけ? ううん、違うな。お父さんは今でもサッカーに関係のある仕事してるものね」
 父はスポーツ用品を作っている会社に勤めていて、日曜日は近所の小学生のサッカーチームの監督だ。Jリーガーにはなれなかったけれど、小学生の頃の夢が少しは実現しているみたいだ。それに父の教え子からJリーガーが出るかもしれない。
「そうかー。じゃあ、わたしも先生になること考えてもいいよね?」
「もちろん! 先生でも何でも考えるのは自由さ――でも、みらに先生ができるのかなぁ、どれみの子じゃなぁ――」
 そう言って、父は横目でちらっと母を見た。
(ふふふ、挑発しているな。お父さんはお母さんをからかうのが好きだからな)
 みらはほくそ笑みながら成り行きを見ていた。ふぁらを見ると、不安そうな顔をしていた。(心配ないよ)――みらはふぁらににっと笑ってウィンクをして見せた。
「何言ってんのさ、半分は小竹の子だからねっ」
 案の定、母は挑発に乗せられている。ちょっと身を乗り出し気味にして反論した。
「絶対か?」
「絶対っ!」
 母は父を睨みつけ、間髪を入れずに断言した。みらにはよくわからなかったけれど、父はそれが嬉しいようだった。父は上機嫌で空の茶碗を差し出した。
「よし、それでこそ我が妻! お代わり!!」

「ねぇ、みら。お母さんがピアノを教えてあげようか?」
 母はご飯を付けた茶碗を父に渡しながらみらに言った。
「えっ? お母さんはピアノが弾けるの?」
「うん。と、いってもピアノを弾いていたのは子供の頃だけど」
「どれみ、今でも弾けるのか? 第一、うちにピアノはないぞ?」
「おばあちゃんちに置いてあるもん。長いこと調律していないけどさ」
 みらにとって意外な話がどんどん飛び出してきた。
(お母さんは子供の頃にピアノが上手だった? おばあちゃんの家にある古ぼけたピアノはお母さんが弾いていた?)
 今の母からは想像できなかった。
「ねぇ、お父さん、お母さんって本当にピアノ弾けるの?」
「ああ。結構うまかったんだよ――昔は、な」
「でも、今は全然弾いていないよね。どうして?」
「あははは。結局、向いていなかったってことかな?」
 母は頭を掻きながら笑って答えた。

 夕食が済んで、みらとふぁらは子供部屋にいた。ふぁらは自分の机で国語の教科書を声に出して読んでいた。そういう宿題らしい。
(読んだかどうか、先生にはわかるはずがないのに、ふぁらはまじめだな――)
 みらはそれを聞きながら考えていた。
「先生かぁ――将来のことなんて、考えたことなかったなぁ」
「お姉ちゃん、ここ、なんて読むの?」
 ふぁらが振り返って訊いてきた。みらは見向きもしないで答えた。
「その前後をもう一度読んでみて」
 ふぁらは続きを読み上げた。
「うん――『朝になりました。あたりの――は、すっかり変わっていました』……」
「そこは『ようす』だよ」
「えー!? 何で見ないでわかるの?」
「そういうのは文章の流れでだいたいわかるよ」
 みらはそう答えてから、ふと思い、ふぁらの方に向き直って訊いてみた。
「ねぇ、ふぁらは大きくなったら何になりたい?」
「うーん、えーとねー――」
 ふぁらは少し考えてから答えた。
「魔法使い! 魔法使いがいいな」
「へぇー、どうして?」
「だって魔法が使えたら自分の欲しいものはなんでも出せるんだよ!」
「それで、どうやって魔法使いになるの?」
「お母さんが言ってるじゃない! 魔法使いを見つけてその正体を言い当てればいいんでしょ? 簡単よ」
 みらは、(お母さんが言っていたのは「魔法使い」じゃなくて「魔女」)――と思ったけれど、訂正するのもばかばかしかった。テレビドラマでは「魔法使い」って言っているし、魔女だって魔法使いだって似たようなものだ。むしろ、小学三年生にもなって、ふぁらは本気でそんなことを信じているのか、みらにとってはそっちの方が不思議だった。
「で、ふぁら。その魔法使いはどこにいるのかな?」
「わかんない。わかんないけど、きっとどこかにいるよ。わたし、いつかきっと見つけ出すんだ」
(わたしと二つしか歳が違わないのに、ふぁらはずいぶん夢想家だな。小学三年生ってこんなものだったかな? わたしも一昨年はこうだったかな?)
 みらは自分がどうだったか思い出そうとしたけれど、二年前のことが遠い昔のようで思い出すことはできなかった。


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2 初めての道(1)

 次の日の放課後――
 みらは机の脇に掛けたランドセルを取り上げ、前の席に座っているやよいの背中を叩いた。やよいが振り返った。
「やよいちゃん、帰ろ」
「うん」
 ふたりは仲良く並んで昇降口から出た。
「やよいちゃんはおとなになったら何になりたい?」
 校門前の緩い坂を下りながら、みらはやよいに尋ねた。
「そうねぇ、あんまり考えたことないな。わたし、何になるんだろう?」
 やよいの言い方が、まるで種から芽が出て花が咲くような、いも虫がさなぎになって蝶になるような、放っておいても自然と何かになるかのように聞こえて、みらはおかしかった。
「やよいちゃんはやりたいこととか、好きなことってないの?」
「えっ? わたしのやりたいこと? うーん、やりたいこと、やりたいこと……なんだろう?」
 みらがいろいろと水を向けてみても、やよいはすぐに考え込んでしまう。
「じゃあさ、やよいちゃんは暇なとき、何してるの?」
「えーと、みらちゃんと遊んでるかなぁ――じゃなくて、ピアノを弾いてる、かな?」
 やよいは途中まで答えかけてから、なぜ、みらがそういう質問をしたのかに気がついて、慌てて言い直した。
「なんだ、ピアノが好きなんじゃない」
「ピアノは毎日練習していないと上手になれないって先生が言うから。でも、わたし、プロになれるほど上手じゃないよ」
 やよいは謙遜しているのか遠慮がちだった。
「そんなことないよ。やよいちゃんは上手だよ。プロになれるよ」
「ありがとう、みらちゃん。でも、プロになるのはそんなに簡単じゃないのよ。本当に上手な人は学校の先生より上手に弾くわ。わたしにはとても無理よ」
「へー、先生よりうまい人がいるんだ。すごいなぁ」
 みらは、先生は偉い人で小学生なんかに超えられるものではないと思っていたので、先生より上手にピアノを弾ける人がいることにただ感心していた。
「ねぇ、みらちゃん? 将来のことって今から考えておかないとだめなのかなぁ?」
 やよいが心配顔で尋ねた。
「ううん。全然そんなことないよ。今からそんな先のことを決めることはないって、うちのお父さんも言ってたし。それにわたしだって先生になるって決めたわけじゃないから」
「えーっ!? みらちゃんは先生がいいよ」
 やよいはどうしてもみらに先生になってほしいようだ。みらは苦笑しながら、話題を変えようと思った。
「そうそう。ふぁらにも将来何になりたいか訊いたんだよね。そうしたら、ふぁらはなんて言ったと思う?」
「なんだろう? 教えて」
「あのね、魔法使い、なんだって」
 みらはおかしくて今にも吹き出しそうだった。やよいは、
「うふふ……、ふぁらちゃんらしい。でも、わたしも魔法使いになれるんだったら、なってみたいな」
「ええっ、やよいちゃんもふぁらと同じなの!?」
 みらが驚くと、やよいは不思議そうな顔をした。
「変かなぁ? でも、みらちゃんだって、なんでもできる不思議な力があったら、欲しくない?」
「不思議な力って――そんなのあるわけないじゃない」
「みらちゃんって頭がいい分、ロマンが足りないよね。魔法はあるんだって信じた方がわくわくない?」
「そうかな? そんなあるかどうかもわからないものを信じるより、星空を見上げた方がよっぽどわくわくするけどな」
「うーん、それがロマンチックなのはわかるけど、それでどうして魔法とかに興味がないのかな? わたしにはそれが不思議だな」
「その代わりふぁらが魔法好きだから、それで手を打って」
「うふふ、わかったわ」
 やよいは笑いながら答えてから、ふと真顔に戻った。
「でも、姉妹ってそういうものなのかな? わたし、ひとりっ子だからよくわからないけど、みらちゃんとふぁらちゃんは、パパもママも同じで同じ家に住んでいるのに、全然違うよね」
「えー、変かなぁ? これが普通だと思うけど?」
「みらちゃんもふぁらちゃんみたいに夢を持った方がいいと思うのにな」
「まあ、夢見がちなところはふぁらに任せるとして。でも、わたしとしては魔法を信じられる方が不思議だよ。三年生ってああいうのが普通なのかなぁ?」
「みらちゃんが三年生のときはどうだった?」
「それがさ、思い出せないんだ」
「そうなの? たった二年前だよ? わたし、結構覚えているけどな。宮崎くんの給食事件とか――」
「給食事件――なんだっけ、それ?」
「えっ、本当に覚えていないの? ほら、綾瀬くんが……」
 いくらやよいに説明されても、みらはそのときのことを断片的にしか思い出せなかった。たった二年前のことなのに、今この時からは深い崖で隔てられているかのように掛け離れて感じた。
 話をしながら歩いているうちに、ふたりはいつもの五叉路に着いた。
「やよいちゃん、きょうはピアノのレッスンだったね?」
「うん。じゃ、きょうはここでお別れね」
「ばいばーい」
「ばいばーい」
 やよいは手を振って自分の家へ向かい、みらはその後ろ姿を見送った。


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2 初めての道(2)

 やよいと別れてから、みらは三歩だけ自分の家に向かって歩き、立ち止まった。
(これからどうしようかな?)
 まだ明るい昼下がり。真っ直ぐ家に帰っても、退屈なだけだった。みらはさっきやよいと別れたばかりの五叉路を振り返った。
(そうだ、探検しよう!)
 みらは生まれてからずっとこの町に住んでいるけれど、この五叉路にはまだ歩いたことのない道があった。その道は自動車がたくさん通る危ない道でも、薄暗く曲がりくねった不気味な道でもない、ほかの四つと同じちょっと狭いだけの普通の道だ。まだ歩いたことがないのは、ただ単にその先にみらの行きたい場所がなかったからだった。
(何で今まで入ったことがなかったのかな?)
 みらはその道に一歩踏み込んだ。とたんに目の前に見知らぬ風景が広がった。異世界に迷い込んだような気がして、みらはあわてて後ろを振り返った。そこにはいつもの見慣れた町並みが続いていた。改めて前を向くと、また視界いっぱいに見たことのない景色。
(今まで見たことのない景色だから別の世界に来たような気持ちになるだけで、確かにここも美空町の一部だ)
 頭ではそうわかっていても、油断すると迷子になりそうだった。ドキドキする。みらはあたりを見渡しながらゆっくりと歩いた。景色を堪能しようというより、迷子にならないように――
 道の左右にはどこにでもありそうな普通の家が並んでいた。塀のほとんどは生け垣か背の低い柵。みらの知っているほかの道とあまり変わらないはずなのに、心なしか陽の光が明るく感じた。しばらく歩いて、ようやくその理由に気がついた。実際に日当たりがいいのだ。みらの家の近所にはマンションやアパートなど背の高い建物がいくつも建っていて、その影が通りに落ちるので道には日陰の部分もかなりあった。でも、この路地には平屋か二階建ての家がほとんどだった。そう気がついて改めて周囲を見渡すと、白い柵や生け垣越しの花壇の花が、日射しを受けて輝いて見えた。
(なんて生き生きしているんだろう!)
 みらはだんだん楽しくなってきた。

 歩いているうちに、みらは風変わりな家を見つけた。煙突から白い煙がゆうらりと立ち昇って、のどかに広がる水色の空に溶け込んでいる。普通の家ではなさそうだ。みらは煙突のある家なんて物語の挿絵でしか見たことがなかったので、気になって通りから中の様子をそっと窺った。
 開けっ放しの大きな窓の奥、薄暗い広間の片隅にストーブのようなものが備え付けられていて、その中で炎が赤々と燃えていた。広間には床がなく土間になっていて、家の中なのにガレージみたいだった。
(寒くないのに何でストーブを焚いているんだろう)
 そう思いながら覗いていると、ストーブの前で細いシルエットが動いているのに気がついた。中に誰がいる。ストーブから白く光る点が飛び出して、その人の前で空中を円弧を描きながらゆらゆらと動いた。どうやら長い棒の先についていて、シルエットの人がその棒を持っているらしい。光の点は膨らみながら、色をオレンジ、赤と変え、だんだん暗くなっていった。
「あら、こんにちは」
 突然、シルエットの人物から声を掛けられた。若い女の人の声だった。
「あっ! えっ? えーと……」
 みらは他人の家をのぞき込んでいた後ろめたさもあって、咄嗟に声が出なかった。
 シルエットの女の人が建物から出てきた。白いTシャツ、頭には同じく白っぽいバンダナを巻いて髪を束ねていた。やはり中は暑いのだろう、額にうっすらと汗をかいていた。けれど、にこにこと笑う笑顔はとても優しそうだった。
「入ってもいいのよ。見ていく?」
「あ、はい……」
 みらは手招きされるまま、その女の人について行った。

 広い部屋だった。下は床がなくてコンクリート。みらは土足のまま中に入った。外の日射しが奥まで射さないので部屋は薄暗く、ストーブの火が強すぎるせいか、暑かった。窓際のテーブルに花瓶、コップ、皿……いろいろなかたちのガラスの器が置かれていた。外からの光をそれぞれがさまざまな色にして反射していた。
「きれい……」
 そう言ったきり、みらは黙ってひとつひとつの作品を見ていた。
 すぐに目が部屋の明るさに慣れた。
(なんだ、ここは普通に明るいんだ)
 暗いように感じたのは外が明るすぎたからだった。
「あのー、これ、みんなお姉さんが作ったんですか?」
「そうよ。それと、わたしは佐倉遥。お嬢さんのお名前は?」
「あ、え、えーと、わたしは小竹みらと申します」
「あまりかしこまらなくていいわよ。よろしくね」
 遥はほほ笑みながら右手を出した。最初、みらはそれが握手をしようとしていることに気がつかなくて、ちょっと戸惑ってから、自分も右手を出してその手を握った。みらは遥が意外と強い力で手を握ってくるので驚いた。
「遥さんはここでこういうのを作っているんですか? ここって工場なんですか?」
 みらはテーブルのガラス器を指して尋ねた。
「そうよ。でも、工場というのはちょっと大袈裟ね。アトリエ――工房といったところかしら?」
「へぇー――あ、遥さん、うちにもこういう手作りのガラスのコップやお皿があるんですよ。こんなきれいじゃなくて、ちょっといびつなんですけど」
「みらちゃんちにもあるんだ?」
「うん。たまにだけど、お母さんが作ってるんですよ。お母さん、あんまり器用な方じゃないのに、こういうことが好きみたい」
 遥はみらの話に笑っていたけれど、それは、おかしいからというより、懐かしむような柔らかい感じだった。
 みらは手近にあったコップを取った。全体が淡い青いガラスで下半分に青い水玉がいくつも付いていた。目の高さでゆっくり回すと表面のわずかな凹凸が光の反射を微妙に変えて見せた。
「こういうの、どうやって作るんですか?」
「みらちゃんは吹きガラスを作っているところ、見たことがないのね」
「うん――吹きガラスっていうんですか?」
「そうよ。融けたガラスを息で膨ませるから吹きガラス――ちょっと待っててね」
 遥は奥から真っ白い粉の入ったパッドを持ってきた。
「これがガラスの原料よ。珪砂というの」
「真っ白――何だか砂みたい」
「そう、砂そのものよ。もっとも、これは普通の砂と違って純粋なものだから、特別なところでしか採れないんだけどね。それに炭酸ナトリウムや炭酸カルシウムを混ぜて、溶解炉の中で融けやすくしてあるの――ついて来て」
 遥は部屋の奥へ歩いた。みらはあとをついて行った。遥はストーブの前に立った。
「これは溶解炉。えーと、窯ね。お茶碗を作るときに使う窯と同じようなものよ。これを使って、さっき見せた珪砂を融かすのよ」
「あ、これ、窯だったんですか。てっきりストーブだと思っていました。何で、寒くないのにストーブをがんがん焚いてるんだろうって。あはは」
「うふふふ。それで不思議そうにこっちをのぞいていたんだ」
「え、あ、はい……」
 みらはのぞき見していたことを言われてたじろいだけれど、遥はそんなことを全然気にしていなかった。
「まだこの中に融けた珪砂――ガラスの原料が残っているから、作って見せようか?」
「あ、はい。お願いします」

 溶解炉の脇に鉄パイプが何本か立て掛けてあった。パイプの下は水を張ったバケツに浸けてある。遥はその中の一本を取り出した。
「これは吹き竿といって、これに融けたガラスを絡め取るのよ」
 そう説明して、手にした吹き竿を溶解炉の奥に差し入れた。そのまま、遥はガラスを取ろうとせず、吹き竿をずっとストーブに入れていた。みらは、どうしたんだろう、と思った。
「あのう、遥さん?」
「なぁに、みらちゃん?」
「え、いえ――なかなかガラスを取らないから、どうしたのかなって思って」
「吹き竿はよく暖めないとガラスが取れないのよ」
 そう言いながら、遥は融けたガラスを巻き取り始めた。
「みらちゃん、危ないからちょっと下がって」
 みらが二歩後ずさるのを見て、遥は窯から吹き竿を抜き取った。先端に白く輝く玉が付いている。遥は鉄製の台に吹き竿を預け、転がしながらパイプに口を当て息を吹き込んだ。光る玉はしだいに色をオレンジ色から鈍い赤色に変え、だんだん暗くなって普通のガラスになった。遥は再び吹き竿を溶解炉に入れた。
 遥はパイプに息を吹き込みながらくるくると回した。先に付いた塊は膨らみながら透き通っていき、水あめのようだったガラスは、やがて、瓶のかたちになった。遥がガラスの首の方にヤスリで疵を入れて吹き竿を叩くと、ガラスの器は、ぱきんと音を立てて竿から外れた。
「どう?」
「不思議ですね。ガラスって息で膨らむんですね。もっと冷たくて硬いものだって思っていました」
「うふふ、そうね。初めて見たらそう思うかもしれないわね。じゃあ、これを徐冷炉に入れるわね」
「じょれいろ?」
「そう、徐々にゆっくり熱を取って冷ますから徐冷炉。ガラスはね、ゆっくり時間を掛けて熱を取らないと中に歪みが残って割れてしまうのよ」
 そう言いながら、遥は溶解炉の後ろ側に付いている小さな扉を開けて、今作ったばかりのガラスのコップを中に入れた。
「どう?」
「とてもおもしろかったです」
 そう言って、みらは工房の掛け時計を見た。
「あ、もうこんな時間! わたし、早く帰らないとお母さんに怒られちゃう!」
 みらは慌ててランドセルをつかんで駆け出し、門のところで立ち止まって振り返った。
「遥さーん、また来てもいいですかぁ?」
「いつでもいらっしゃい」
 遥は手を振りながら答えた。


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2 初めての道(3)

「ただいまー」
「お姉ちゃん、お帰りなさーい」
「お帰り、みら」
 みらが家に帰るとダイニングからふぁらと母の声が聞こえた。母の声がちょっと怖かった。
(お母さん、やっぱり怒っているな……)
 みらは恐る恐るダイニングに顔を出した。
「お姉ちゃん、寄り道しちゃだめでしょ」
 みらは真っ先にふぁらに説教された。みらに落ち度があるとふぁらはここぞとばかり生意気になる。みらにとってあまり愉快ではないけれど、こういうときはたいてい母も怒っていて、みらにはそっちをどうするかの方が重要になっているから、ふぁらに何かを言い返している余裕はなかった。
「みら、どこで道草してたの? ずいぶん遅いじゃない」
「えーっ? でもまだ五時だよ?」
 母に叱られて、みらは我ながら白々しい言い訳をした。みらもふぁらも「学校から帰るときは寄り道をしない」とか、「遊びに行くときは行き先を言う」とか、いつも母から言い聞かせられていたし、みらだってテレビのニュースを見るから、母がなにを心配しているかもよくわかっていた。それでもたまに言い付けを守らないことがあった。ほんのちょっとくらいならいいだろうと思って寄り道して、結局、時間を忘れてしまう。今回もみらは玄関のドアを開ける前から(まずいなぁ)と思っていた。
「帰りが遅いと心配になるじゃない。どこに行っていたの?」と母。
「ごめんさい、お母さん。わたし、吹きガラスっていうの見てたんだ。ほら、お母さんもたまにやってるでしょ?」
(ここはお母さんが興味を引きそうなことを言ってごまかそう)
 みらはそう思ったけれど、本当に効き目があるかどうか、みら自身も怪しいと思っていた。ところが――
「この近所にそういうところ、あったっけ?」
 母は話に乗ってきた。ときどき吹きガラスをやっているくらいだから関心があるようだ。
「うん、うちのちょっと先にある五叉路を左に入ったところ。わたし、あの道に行ったことがなかったから、きょう行ってみたんだ」
 気がつくと、母の隣りでふぁらも食卓に身を乗り出して聞いていた。
「お姉ちゃん、ふきがらすってなぁに?」
「吹きガラスって言うのはね――」
 ――溶けたガラスを鉄パイプの先に絡め、息で膨ませながらかたちを作る――みらは自分の見てきたことをふぁらに説明した。
「何だかおもしろそう! わたしも見てみたいな」
「じゃあ、今度、一緒に行こうね」
「うん」
 ふぁらは嬉しそうにうなずいた。それから、みらは母に訊いた。
「お母さんはあの五叉路の左側、二番目の道に入ったこと、ある?」
 母はちょっと考えてから答えた。
「うーん――行かないねぇ……」
「お母さんもあの道には行ったことがないんだ。実はあの道を行くとね、先に小さな工場みたいのがあるんだ。外は普通の家みたいなんだけど煙突が付いていて、中に大きなストーブみたいのがあって、それでガラスを融かしているんだ」
 みらの前で母とふぁらが並んで目を輝かせながら話を聞いていた。本当に〈親子〉という感じだった。
「それでね、佐倉遥さんっていうスマートな女の人が吹きガラスでお皿やコップを作っていたんだ。わたし、ずっとそれを見ていたから帰りが遅くなっちゃった。お母さんの作ったコップよりずっと上手だったよ」
「それはそうだよ。お母さんは趣味でたまに作る程度だけど、佐倉さんはお客さんに買ってもらうために毎日作っているんだよ――えっ? 佐倉さん?」
「そう、佐倉遥さん――そうだよね。遥さんのは売り物だから上手じゃないと変だよね。それに遥さんはずっとガラスを作っているって言っていたから、遥さんの方が上手なのは当たり前だよね」
「ねぇ、みら。遥さんってどんな人だった?」
 母はみらの話を聞いていないのか、遥のことを尋ねてきた。
「えーとね――きれいな人。スリムで優しそうに笑う人だったな……。白いTシャツにベージュのジーパンを履いてた。うん、そういう白っぽい色の似合う人」
 一瞬、母が遠くを見ているようだった。みらにはそう見えた。
「お母さん、どうかした?」
「ううん、なんでもない。それより、そろそろ晩ご飯の支度をしなくちゃね」


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2 初めての道(4)

 夕食が終わってしばらくの間、子供たちはテレビを見たりゲームをしたりしていたけれど、やがて二階の子供部屋に引っ込んだ。どれみは静かになった食卓で夫の帰宅を待ちながら、ぼんやりと考え事をしていた。
(佐倉――遥さん、か……)
 きょう、みらが行ったという道は、おそらく、どれみが一時期通っていたのと同じ道だろう。今はもうその道を行く機会はなくなったけれど、五叉路を通りかかったときにはたまにのぞき込んでみた。美空町の風景はいつの間にか変わっていくのに、あの一角だけは何年経ってもほとんど変わらないように見えた。
 どれみは今のみらと同じような歳の頃にその道を通っていた。その道を見つけたのはほんの偶然だった。たまたま、ひとりで下校することになって、暇つぶしの遠回りをしていたとき、どこをどう歩いたか、あちこち寄り道して歩いたあと、そろそろ家に帰ろうかと思ったときにそのガラス工房を見つけた。
 どれみが表の通りから興味津々のぞいていると、外出先から帰ってきた工房の人と鉢合わせしてしまった。慌てるどれみにその人はにっこりと会釈をして、工房に招いてくれた。中に入ると、そこは外に比べて一段、明るさの落ち着いたところだった。
 薄暗い工房の中で、古い木のテーブルに並べられたガラス器は窓から射し込む光を集めて反射し、キラキラ浮いて見えた。燃え盛る溶解炉から取り上げられたばかりのガラスは触ると危険なくらいの熱を帯びているのに、出来上がったコップや皿は涼しげな透明感をもっていた。それまで、どれみにとってガラスはありふれたもので何の興味も関心もなかったけれど、工房でガラスの器が生まれてくるところを実際に見ているうちに、その不思議な魅力に引き込まれていった。どれみが、今でもたまに、わざわざ三駅先の工房まで出掛けて吹きガラスをしているのは、未だにその魅力が忘れられないからだった。

 ガラス工房の人は佐倉未来と名乗った。未来は線の細い若い女性でオフホワイトのツーピースが似合う清楚な感じの人だった。この工房でひとりでガラス器を作っていた。未来は初対面だったどれみの正体を言い当てて、どれみを慌てさせたけれど、未来もまた魔女だった。
 未来は魔女だけれど魔法を使わず、人間界で人間に混って暮らしていた。しかし、魔女には千年を超える寿命がある。人間が何世代も入れ替わるような年月が過ぎても、未来は目に見えるほど歳を取らなかった。それは人間から見たらとても奇異だ。だから未来は同じ場所に何年も住むわけにいかず、短期間に転々と引っ越しを繰り返していた。しかも世界中を。
 未来が美空町に滞在していたのもほんの数日だった。どれみはその短い間にガラスのコップを一つ(あと、コップかお皿になるはずだった失敗作を一つ)仕上げることができただけだった。未来とはほんの数日しか会えなかったけれど、どれみにとって生涯忘れられない出来事になった。

 みらが話していたガラス工房は、二十四年前、どれみが通ったのと同じ工房だ。間違いない。佐倉遥――苗字が同じで名前が違うのは、現在の自分は当時の未来の娘か何かということにしているのだろう。あのときだって未来はどれみに、自分の子や孫の振りをしながら世界中を引っ越していると話していた。
(とにかくあした行ってみよう。あの工房のあった場所へ)


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3 むかしの話(1)

 翌日――どれみはいつものように夫と子供たちを送り出し、洗濯を済ませ食器を洗い終えたところで時計を見たら、昼近くになっていた。あり合わせの昼食を済ませ、昔、未来の工房のあった場所を記憶を頼りに訪ねることにした。
 家から歩いて数分のところに、毎朝、娘が友達と待ち合わせしている五叉路がある。そこは家の玄関先からもよく見えた。どれみはその交差点から未来の工房へ向かう道に入った。
「懐かしいなぁ……」
 どれみは大きく深呼吸をした。この一帯には子供の頃に呼吸した空気がそのまま流れているようだった。二十年以上経ってどれみは結婚して母となり、美空市もずいぶん賑かになったのに、この一角だけは昔のままだった。どれみは懐しくなって辺りをきょろきょろ眺めながら歩いた。
 おとなの一歩は子供の一歩より長い。どれみは子供の頃と同じ気持ちで歩いて、危うくその工房を通り過ぎてしまうところだった。
「いっけなーい」
 子供の頃、未来さんの工房を見つけたときはずいぶん遠くまで来たつもりになっていたけれど、今、歩いてみると案外と近い場所だった。おとなになって知っている世界が広がると、それと引き換えに地元は小さくなっていくのかもしれない。どれみは慌てて駆け戻ると、背の低い門を抜け、工房をのぞき込んだ。赤々と燃える窯の前にすらっとした女の人のシルエットが見えた。

「こんにちはー」
 女の人はちょうどガラスを吹き終えたところらしい。どれみが声を掛けると、頭を上げてこちらを向いたのがわかった。陰になって表情はわからなかったけれど、たぶん、あの頃と同じように柔らかくほほ笑んでいるだろう。
「いらっしゃい、どれみちゃん。待っていたわ」
 そう言ってシルエットの女の人が近づいてきて、外の日射しの当たる場所に出た。あのときと同じ笑顔――
(ああ、全然変わらない)
 自分はおとなになり、街の景色は変わっていったのに、子供の頃の思い出そのままの姿に出会えて、どれみはちょっと涙ぐんだ。
 未来は真っ直ぐにどれみを見た。
「どれみちゃん、大きくなったわね」
「子供じゃないんだから、大きくなったわね、はないと思いますよ」
と、どれみは笑った。
(あ、目の高さがわたしと同じ……ううん、未来さんの方が少し低いみたい。小柄な人だったんだ)
「未来さんは変わらないんですね、やっぱり」
「うふふ。魔法は使わないけれど、わたしは魔女なのよ。だから、ものすごくゆっくりにしか歳を取らないの。それと、今のわたしは佐倉遥。未来の娘ということにしているから、どれみちゃんもそう呼んでね」
「あ、はい」
(やっぱり、〈代替わり〉してるんだ)
 どれみは自分の思ったことがおかしくて、くすりと笑った。
「何がおかしいの? さ、どうぞ座って」
 かつて未来だった遥は窓際に置いてあるテーブルの席をどれみに勧めた。テーブルの上にはさまざまな色やかたちの皿やコップや花瓶が外の光を受けてキラキラ輝いていた。どれみはそのひとつひとつをゆっくり眺めていった。懐かしい光景だった。
「わたし、みらちゃんに会ったとき、この子がどれみちゃんの子なんだってすぐにわかったわ。だから、どれみちゃんも来るような気がして楽しみだったのよ」
「なんでみらがわたしの子だってわかったの? あの子、わたしと全然違うのに」
「あら、似ているわよ。好奇心旺盛なところとか」
「好奇心旺盛――うーん、そうかもしれないけど、どうして好奇心旺盛だって……?」
「簡単よ。みらちゃんもあそこの門からずっとこの工房を眺めていたのよ。それですぐ、どれみちゃんを思い出しちゃった」
「あっ」
 どれみはすぐに思い出した。初めてこの工房に来た日のことを。あの日、確かにあの門から中の様子をずっと窺っていた。そうしたら後ろから未来に声を掛けられたのだ。いきなりだったからとても驚いたけれど、不思議とその場を離れることはできなかった。それと同じことをきのうみらが――。
「あの子ったら、なんてみっともない! ちゃんと言い聞かせておかなくちゃ」
「あら、どれみちゃんもやったんだから、お互い様よ。それにお陰でわたしもみらちゃんと知り合いになれたから、気にしていないわ。叱らないであげてね」
「仕方ないな、遥さんがそう言うのなら……」
「みらちゃんがお母さんもときどきガラスのコップを作ってるって話してくれたから、わたし、嬉しかったのよ。どれみちゃんはわたしが教えたことを今でも覚えていてくれてるんだって」
「でも、たまにしか吹きガラスやらないから、すごく下手だよ?」
 どれみは上目使いに遥を見た。
「いいの、いいの。どれみちゃんが今でも吹きガラスを続けているってことだけで、わたしは十分だから――どう、久し振りにやってみる?」
 遥は吹き竿をどれみに差し出した。どれみはいったんそれを受け取ったものの、
「わたし、下玉取りは人任せなんだ。遥さん、お願いできます?」
と言って、遥に吹き竿を返した。
「そう? じゃ、下玉はわたしが取るわ」
 遥は吹き竿を溶解炉に差し入れ、熱が十分に行き渡るように回しながら暖めた。遥の上半身は溶解炉の火でオレンジ色に照らされている。どれみにとってそれは確かに昔見た光景だった。
(懐かしいなぁ。あれから何年経ったんだろう――二十四年かぁ。ずいぶん昔のことになんだな。今から思うとあっと言う間だったな。懐かしいなぁ……)
 どれみが物思いに耽っていると、突然遥の声がした。
「どれみちゃん、吹き竿を渡すわよ。いい?」
「あ、はい! 全然オッケーっすよ」
 遥が溶解炉から引き抜いた吹き竿には白く輝く融けたガラスの塊が付いていた。これが下玉。どれみは慌てて吹き竿を受け取り、それを鉄パイプで作られたベンチに乗せて転がしながら息を吹き込んだ。未来はどれみのへんてこな言い回しにちょっと笑いながら尋ねた。
「なぁに、今の?」
 どれみは融けたガラスを吹くのに懸命、という振りをしてそれに答えず、少しずつ膨らんでいくガラスの玉を見ながら苦笑した。
(つい子供の頃の口癖が出ちゃったよ)
 さっき、遥が下玉を取っているときは目の前に昔の風景が蘇ったような気がしたけれど、今、自分でガラスを吹いていると、自分を含めたこの場所が、まるごと二十四年前に引き戻されたような気持ちになった。心が、春風どれみだったあの頃に繋がっていく。消えてゆくガラスの輝きをどれみは優しい眼差しで見送っていた。
 吹き竿の先のガラスが手頃な大きさまで膨らんだら溶解炉に入れて熱を加え、柔らかくなったら竿をベンチの上で転がしながら、紙リンという新聞紙を幾重にも折り畳んで濡らしたものを当ててかたちを整えていく。ガラスが硬くなってきたら、また溶解炉に入れて柔らかくする――どれみはときどき遥に手伝ってもらいながら、柔らかいガラスにコップのかたちを造っていった。
 ぱきん。
 どれみはやすりを入れて自分の吹いたコップをポンテ竿から折り取ると、澄んだ高い音が鳴った。透き通ったガラスは涼しそうに見えるけれど、できたてのコップはとても熱い。それにガラスの中は目には見えないけれど歪んでいて、このまま部屋の冷たい空気の中で冷ますと割れてしまう。だから、かたちの出来上がったガラスは中の歪みを取るために、徐冷炉という、溶解炉の熱を利用して少しずつガラスの熱を取る炉に一晩置かれる。どれみの作ったコップもその徐冷炉に入れられた。


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3 むかしの話(2)

 どれみは窓際のテーブルに戻った。あとから遥が湯気の立つティーカップを二つ、トレイに載せてやってきた。
「やっぱり、たまにしかやらないと上達しないよね」
 カップを目の前に置かれながら、どれみが言った。
「でも、ブランクがある割りには上手よ。それにどれみちゃん、とってもいい顔をしていたわ。柔らかくて優しい、想いのこもった――」
 遥は自分の分のカップを置くと、どれみの隣りに座った。
「え、どういうこと?」
「お母さんって感じかしら? 菩薩様のような目をしてたわ」
「えーっ、何それー!?」
 どれみは、なんだかよくわからないものに例えられて、反射的に嫌そうな顔をした。
「うふふ、別に悪いことじゃないわよ。それにしてもおもしろいかたちのコップだったわね。空豆なの?」
「えへへ――真ん丸のを作ろうと思ったんだ。そういう気分だったの。だけど、ちょっとたれて曲がっちゃった」
「でも、見ていると優しい気持ちになれるわ」
「このかたち、わたしが魔女になったときにもらった水晶玉に似てるんだ。偶然なんだけど」
 どれみはカップを包むように持って、ぽつりぽつり話し出した。
「わたし、遥さんが引っ越した日、ここに来たんだ」
 どれみが小学校に通っていた頃の話だった。
「あの日は、あいちゃんも、ももちゃんも――あ、わたしの友達なんだけど――みんな、自分のやりたいことがあって張り切っていたのに、わたしだけ自分のやりたいことが見つからなくて、取り残されているみたいで不安だったんだ。だから――遥さんに誘われたとき、家を出ようかどうしようか、ものすごく悩んだけど、結局、遥さんと一緒に行っちゃえって感じで」
「どれみちゃんは今でも世界中を旅したいと思ってる?」
「どうかなぁ? もう、ずっとそんなこと考えてもみなかったな。旦那と子供たちの世話で毎日忙しいけど、それはそれで楽しいし……。今は世界中を旅するより美空町にいたいな。ここがわたしの居場所なんだよ、やっぱり。これでよかったんだ。わたし、魔女にもならなかったんだし」
「え? でも、どれみちゃんは……」
 遥は驚いて何かを言いかけたけれど、どれみはそれを遮った。
「いいの、いいの。そりゃあ、魔女になるためにいろいろと苦労したけど。でも、魔女見習いをやっていてわかったんだ、魔法なんか使わなくても頑張れば願いは叶えられるってこと。遥さんもそれに気がついたから魔法を使うのをやめたんでしょ?」
「ええ、そうね」
「むしろ、学校の友達や、お母さん、お父さんと離れ離れになる方が嫌だって思ったんだ。だから、人間界に留まって魔女界との懸け橋になろうと思ったんだけど……」
「だけど、どうしたの?」
 どれみが急に言い澱んだので、遥は気になった。
「えへへ――現実はうまくいかないものなんだね。自分の娘にすら魔法とか魔女とか信じさせられないんだもん」
「娘って、みらちゃんのこと?」
「うん、そう。下の子はね、ふぁらっていうんだけど、ふぁらは魔法を信じているし親の言うこともよく聞くのに、上のみらがねぇ……。わたしは学校の勉強なんてそこそこできればいい、叙情豊かな子に育ってほしいって思っていたんだよ」
「あら、みらちゃんはいい子よ。感受性も豊かだし」
「みらの得意科目、知ってる? 理科と算数なんだよ。しかも友達に勉強を教えるくらい優秀なのさ」
 どれみは不機嫌に訴えた。
「あははっ、変な親ね! 普通、そういう子供は自慢の種よ」
 遥は声を立てて笑った。どれみは笑われたことが意外だったらしく、きょとんとしていた。
「え、そ、そう? ――そりゃあ、そうかもしれないけどさ、わたしはもっとロマンチックなことを信じられる子供になってほしいのさ。それが小学生にして早くも理系だよ。理系が魔法なんて信じるわけないじゃん」
「まあまあ。どれみちゃん、落ち着いて。子供は親の育てたい通りに育つものじゃないから、諦めるしかないわよ。それに、理系には理系のロマンがあるわ」
 遥がよくわかっているようなアドバイスをするので、どれみは疑問に思って尋ねた。
「遥さんは子供を育てたことあるの?」
「それはないわ。若いうちに魔女界から飛び出してしまったからね。でもね、長生きしているといろいろなことがわかってくるものなのよ。みらちゃんなら心配いらないわ。素直な子よ」
「そうかなぁ? わたしには全然素直に見えないんだけど」
「ううん、自分に素直な子――長生きしているといろいろとわかるのよ」
 そういって遥は再び笑った。
「そういえば、遥さんは全然歳を取らないよね。わたしの魔女の師匠だったマジョリカはいかにも、魔女ですって感じの人だったんだよ?」
「魔女の容姿はね、その人の心の持ち方でだいたい決まるのよ。人間だって溌剌とした人は若く見えるし、陰気な人は老けて見えるでしょ? 魔女は何百年も生きるから、その差が大きくなるのよ。ところで、どれみちゃんは今、三十――いくつ?」
「今年で三十五。初めて遥さんに会ったときの三倍だよ。時が経つのは早いなぁ、もうっ」
 ちょっと膨れたのは、自分の年齢を口にして、歳を取ったことを実感したからだった。
「うふふ。でも、二十代半ばくらいに見えるわよ」
「うん、よく言われる。見掛けは遥さんと同じくらいだよね、えへへ」
 と、どれみは半分おどけて答えて、すぐに真顔になった。
「でも、これって子供っぽいってことかなぁ? 旦那にはよく言われるんだよ、おまえは小学生の頃からちっとも変わらないって」
「無理に変わる必要はないと思うわ。無理しておとなの振りをするより、子供っぽくてもあるがままの方がいいと思うけどな」
「そう――かな?」
 どれみは半信半疑といったふうに小首をかしげた。それから、今度はどれみから遥に尋ねた。
「遥さんはわたしの知っているほかの魔女より若く見えるけど――遥さんの歳、訊いてもいい?」
「うふふ、びっくりするような歳よ。わたしが最初に人間界にきたのは日本に吹きガラスの製法が伝わった頃なの」
「えーと――えへへ、わたし、勉強苦手だったから……。それ、何年前?」
「五百年くらい前かしら。確か、一五五〇年頃ね。日本は戦国時代でね、日本中でお侍さんが戦をしていたのよ」
「えーと――なんか学校で習ったことが、あるような、ないような――わたし、日本史とか世界史とか苦手だったんだ。登場人物がいっぱいいて、誰が主人公なのかよくわからなかったから」
「どれみちゃんはなにが得意だったの?」
「給食なのさ」
 どれみは胸を張って答えると、遥と顔を見合わせて笑った。
「ねえ、遥さん。日本中で戦ばかりやっている時代にいて、遥さんは怖くなかったの?」
「わたしは魔法堂に住んでいたわけじゃなかったから、戦が始まったらどこへでも逃げることができたの。だから、平気だったわ」
「あれ? 遥さんは次期女王候補じゃなかったの? わたし、人間界にいる魔女は次期女王候補だけかと思った」
「人間界にいる魔女は次期女王候補だけじゃないわ。魔法問屋もそうなのよ。わたしは魔法問屋だったの。人間界の魔法堂に魔法グッズを卸すため、世界中を回っていたのよ」
「魔法堂って世界中にあるんだ?」
「ええ、世界中に何十箇所ってあるわ」
「魔法堂のオーナーは次期女王候補なんでしょ? 一時期にそんなに何人も女王様の候補がいるの?」
「そうよ。女王の跡継ぎが生まれるのはだいたい百年置きなんだけど、女王の在位は数百年続くから、それだけで数人の次期女王候補がいることになるのよ」
「うん、うん」
「それに今の女王に選ばれなくても、次の女王になることはできるから、女王選挙のときの次期女王候補は十数人くらいになるわ。人間に正体を言い当てられて魔女ガエルになってしまう次期女王候補もいるから、魔法堂はたくさん必要なのよ」
「へー、全然知らなかったよ。わたし、女王選挙のこと、あまりよく考えたことがなかったから――それで、未来さんは魔法問屋として世界中を回っていたんだ?」
「今は遥よ、間違えないでね――そうよ。それがすっかり癖になっていて、今でも世界中を旅しているの」
 そう言って遥はくすっと笑って見せた。冗談なのかもしれない。どれみが初めて遥――当時は未来と名乗っていた――に会ったとき、未来は世界中を放浪しているのは歳を取らない自分を隠すため、と言っていた。魔女は人間と比べると歳を取るのに時間が掛かる。魔女が人間界に帰化しようとするならそういう生き方しかない。どれみが魔女になることをやめたのは、魔女界と人間界の懸け橋になりたいという気持ちもあったけれど、両親や友達と離れ離れにならなきゃならないのが辛いということもあった。
「わたし、魔女見習いをずっとやってて、気がついたことがあったんだ――魔法がなくても大丈夫だって」
 どれみはティーカップを見つめながら話し始めた。
「わたし、柄にもなく上がり症でさ、好きな男の子に告白しようと思っても、いざとなると足がすくんじゃって――だめだったんだ。だから、魔法が使えたらどんなにいいだろう、魔法が使えたら自分のだめなところをカバーできるんじゃないかって思っていたんだ。でも、魔法を使っていろんなことをやっているうちに自分に自信が持てるようになって、最後には魔法に頼らなくてもやっていけると思ったんだ」
 遥は黙ってどれみの話を聞いていた。
「人間ってやっぱり強いのね」
 どれみは慌てて打ち消した。
「そんなことないよ。そりゃあ強い人もいるけどさ、わたしなんかどっちかというと弱い方だよ?」
「ううん、強いわ。何でもできる力が手に入るというのに、それを打ち捨てて自分の力を信じるんだもの――それがわたしの憧れた人間の魅力なのよ」
「そうなのかなぁ」
「人間はね、魔女から見たらはるかに短命だし、ひとりひとりのできることはたいてい少ししかないけど、さまざまな人がさまざまなことをやり遂げるわ。それに引き換え、魔女はどんなことでもたいていは魔法で解決できるから、あんまり困るようなことはなかったのよ。だから人間界は魔女界以上に進歩してしまったわ――」
 遥は不意に話をやめると窓から表の通りを見た。
「あら、お客さんみたいね」
 遥かに言われてどれみが外を振り返ると、工房の門柱から娘のみらがひょっこり顔を出した。友達のやよいも一緒だった。
「遥さーん、こんにちはー――あれぇ??」


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3 むかしの話(3)

「お母さん、どうしてここにいるの?」
 みらは心底不思議な顔をしてどれみに尋ねた。やよいは何が起きているのかわからないらしく、みらとどれみと遥の顔をかわるがわる見ていた。どれみはみらがランドセルを背負っているのを見咎めた。
「みら、寄り道しちゃいけないって、きのう言ったばかりでしょ!」
「いいじゃない、保護者同伴になったんだから。それより、お母さんはどうしてここにいるの? ううん、それより、どうしてここがわかったの?」
「ここはお母さんがみらくらいだったときに吹きガラスを教わったところなのさ。それに遥さんはお母さんの先生の娘さんだったんだ」
「それって偶然なのかな?」
 みらはちょっと考え込んだ。遥が説明した。
「そうでもないわよ。みらちゃん。美空町にわたしのお母さんが使っていた工房があるって前から知っていたし、みらちゃんのお母さんのことも聞いていたから」
「へー、世の中って広いようで狭いんですね……。あのー、遥さん、うちのお母さんにも吹きガラスができるということは、わたしにもできますよね?」
「何か引っ掛かる言い方ね?」と、どれみ。
「だって、お母さん、ドジじゃない」
 そう言って、みらは、あはは、と笑った。
「みらちゃんにもきっとできるわよ。やってみる?」
「うん!」
 遥に言われてみらは力一杯うなずいて見せた。
 それまで取り残されていたやよいがおずおずと口を開いた。ずっと様子を窺っていたのに状況がよくわからないようだった。
「あのー、みらちゃん、この人は誰?」
「あ、そうだった。紹介しなきゃ。えーと、遥さん、こっちはわたしの学校の友達で野村やよいちゃん。やよいちゃん、この人が学校で話した佐倉遥さんだよ」
「こんにちは」
「やよいちゃん、初めまして」
 やよいがぴょこんとお辞儀し、遥は少し屈んでやよいの目の高さに合わせて挨拶した。
「じゃあ遥さん、わたしに吹きガラスを教えて下さい」
「ええ、いいわよ。ついてきて」
 みらは遥のあとについて行こうとして、ふと振り返った。その場でやよいがどうしようかと戸惑っていた。
「やよいちゃんもおいでよ」
「う、うん」
 やよいもみらと一緒に工房の奥へ行った。どれみは窓際のテーブルから三人のシルエットを眺めていた。そんなに広い工房ではないので、話し声はよく聞こえた。
「やよいちゃんもやろうよ」
「えーっ、わたしはいいよぉ」
 火が怖いのか熱いのが苦手なのか、やよいは溶解炉から少し離れたところに立っていた。

 みらは溶解炉の前に立った。ごうごうと音がしていた。どこかでたくさんの空気が流れているようだった。釜口からオレンジ色の炎が燃え盛っていた。その様子を見ようとすると顔が炙られてとても熱かった。そうでなくても、溶解炉のそばに立つだけで、熱がレンガを通してみらに当たった。みらはその迫力に圧倒されたのか、溶解炉の前に立ってからしゃべらなくなった。
「うわ……熱いね、遥さん……」
 みらはようやく一言言ったきり、また無口になった。隣りを見ると、やよいが汗びっしょりになって暑そうにしていた。
「わたし、ちょっと苦手かも……」
 やよいはまた一歩下がった。
「やよいちゃんは見てる?」
 遥に訊かれてやよいは慌てて返事をした。
「え、あ、はい」
「そう、じゃあ、その椅子に座ったら? そこからならみらちゃんのやっていることがよく見えるわよ」
「はい」
 やよいは遥の指した作業台の後ろの小さな椅子にちょこんと座った。
「それじゃ、みらちゃん、始めるわよ」
「は、はいっ」
 これから、あのごうごう唸っている溶解炉から熱い融けたガラスが取り出されて、パイプ越しに自分がくわえるのだと思うと、みらは緊張した。
 遥が吹き竿を取って説明した。
「これが吹き竿。これからわたしがこの吹き竿に溶解炉の中にある融けたガラスを取って、みらちゃんに渡すから、みらちゃんはそれを回しながら息で膨らませるのよ。最初のうち、ガラスはとっても柔らかいから、回すのを忘れるとたれるわよ。冷めてくるとだんだん堅くなってくるから、少しずつ、息を強くするの。いいわね?」
「はいっ」
 後ろでやよいがくすくす笑っていた。みらが緊張しているのがおかしいのだろう。
 遥が吹き竿を溶解炉に入れてガラスを絡め取った。
「はい、みらちゃん」
 遥はガラスの付いた吹き竿をみらに渡した。
「回して――ゆっくり息を吹き込んで――そう、もっと優しく……」
 みらは遥のアドバイスを聞きながら、上手に吹き竿を回し、息を吹き込んだ――いや、回しながら、は上手だったけれど、ガラスは不格好に膨らんでいった。息が強すぎるようだった。
「みらちゃん、力まないで。もっとゆっくりでいいから」
 融けたガラスは意外と柔らかい。小さな子供でも膨らませることができるくらいだ。だから、勢いが余るとガラスの薄い部分が余計に膨らんでいびつなかたちになってしまう。みらは、こんなはずでは……、という表情で吹き竿を回していた。後ろでは、やよいが始終くすくす笑いっぱなしだった。


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3 むかしの話(4)

(わたしも初めて吹きガラスをやったときはああだったなぁ――)
 シルエットになっていても、どれみには、みらが悪戦苦闘しながらガラスを膨らませている様子がよくわかった。その姿を見ながらどれみは自分が吹きガラスに挑戦していたときのことを思い出していた。
 うまくガラスを膨らませることができないという点では、どれみもみらも同じだった。けれど、どれみの場合は不器用だったから、回しながら息を吹き込むという、一見、単純な作業がなかなかうまくこなせなかった。最初は、目の前のガラスをうまく膨らませることに熱中してしまって、これで何を作ろうか、ということまで考えている余裕がなかったから、出来上がったものは皿ともコップともつかない不思議なものになってしまった。今から思えばあれは、あの頃、感じていた不安定さがそのまま形になったようなものだった。
 みらは息が強すぎるらしい。遥のアドバイスを聞いているとそんな感じがした。早く仕上げたいという気持ちがあるのだろうか。でも、慌てたっていいものは作れない。
(そういえば、みらが自分の手で何かをやったことってあったっけ?)
 どれみは考えてみたけれど、思い当たることはなかった。
(あの子、初めての挫折、かな?)
 そう思って、ちょっとほくそ笑んでしまった。頭がいいことは悪いことではない。学校の勉強や試験なら、それでも十分こなしていける。しかし、みらは経験が追いついていない。世の中は学校の中ほど単純ではない――問題も解法も解答も。こればかりは教えることはできない。おとなの知っている問題ばかりとは限らないし、答えも解き方も一通りではないから、みら自身で気がついて、みら流のやり方を作らなければならい。だから、今は――
(急がなくていいんだよ。ゆっくりと歩く早さで、散歩するように……。もっと、途中を楽しもうよ)
 どれみはそう思いながらみらの様子を見守っていた。

 ぱきん――澄んだ音を立てて、できたばかりのガラスの器が竿から折り取られ、同時にみらの声が聞こえた。
「あーあ、変なかたちになっちゃった」
 やよいは俯いて必死に笑いをこらえていた。
「お母さんにも見せて」
 かたちを作ったガラスは、徐冷炉に入れたら翌日まで見ることができない。どれみはみらのそばに行った。
「どれみちゃん、気をつけてね」
 そう言って、遥がみらの作品をトングでつかんでどれみに見せた。
 みらの作ったものはオレンジくらいの大きさのじゃが芋みたいなかたちをしていた。全体がでこぼこだったけれど、どうやら花瓶らしい。ただ、底のかたちを見ると、ちゃんと口を上にして立つのか、疑問だった。
「へー、初めてにしては上できだよ。ちゃんと花瓶のかたちになって――いるのかな?」
「えーっ、『かな?』って、なによ!? お母さん、ひどーい!」
 このやり取りでやよいも堪え切れなくなったようだ。とうとう吹き出してしまった。
「なによ、やよいちゃんまで――」
「ごめんなさい。でも、みらちゃんはなんでもそつなくできる子だと思ってたから――ふふふ」
「もう徐冷炉に入れてもいいかしら?」
 遥はその花瓶もどきを徐冷炉のどれみの作ったコップの隣りに置いた。


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4 いまの話(1)

「あ、もうこんな時間! 夕飯の支度をしなくちゃ」
 どれみは工房の柱時計を見て慌てた。今は一年で一番日の長い時期だから、薄暗い工房から見ると外は昼下がりのように明るかったけれど、時計は間もなく五時になろうとしているところだった。
「それじゃ遥さん、また」
 工房から出たところでどれみが手を振ると、みらも手を振って、やよいはお辞儀してさようならをした。
「またあしたねー」
「失礼します」

 帰り道。どれみはちょっと呆れながらみらに訊いた。
「みら、またあしたって、あしたも行く気なの?」
「うん。だって悔しいじゃない。簡単にできるかと思ったのに、全然うまくできないんだもん」
 みらはさっきのできが不本意だったらしい。
(まあ、いいか。わたしも未来さんのところには日参だったものね)
「やよいちゃんも行こうよ」
 みらは隣りのやよいを誘った。
「わたし、あしたはピアノのレッスンがあるから行けないの。ごめんね、やよいちゃん」
「あ、そうだったね、残念。でも、やよいちゃんも吹きガラスやればよかったのに。おもしろいよ」
「えーっ。さっきは笑っちゃったけど、みらちゃんがやっているのを見ていたら、なんだか難しそうで……」
 話しながら歩いているうちにすぐに五叉路に着いた。どれみが立ち止まった。
「そうだ、ちょっと寄り道して帰ろうか?」
「お母さん、どこへ行くの? きっと、家でふぁらが待ってるよ」
「大丈夫、大丈夫。ちょっと寄るだけだから――近くにお母さんが小学生の頃、よく行っていた場所があるんだ」
 そう言って、どれみはみらとやよいを連れ、近くの小径に入った。

 どれみが昔通った道は細くて緩な下り坂だった。この道は、普段、あまり通りかかることはないけれど、悩み事や願い事があると、知らず知らずのうちに迷い込んでしまう不思議な道だった。
「やよいちゃん、こんなところ、知ってた?」
「ううん。みらちゃんは?」
「わたしも知らなかった」
 みらもやよいも辺りを見回しながら歩いた。どれみもドキドキしながら歩いていた。これから行こうとしているのは、いつの間にか行かなくなった子供の頃の思い出の場所だった。中学生の頃は気になってたまに覗いていたけれど、高校生になったときには本当に忘れていた。おとなになって思い出すことはあっても、今度は、その建物がなくなっているのを目の当たりにするのが怖くて行けなかった。
 でも、遥と話をしていてどれみは確信していた――(何百年と続いてきた店がほんの数十年でなくなってしまうことは、きっとない)
 道の片側の家並みが途切れた。下り坂になって路肩に柵が続き、その柵の向こう側が窪地になっていた。
 そこに小さな二階建ての洋館が建っていた。

「――あった」
 どれみは柵に両手を掛けてつぶやいた。みらとやよいには、その建物が目的地であるはずなのに、そこにあることが不思議であるかのように見えた。ふたりは、わけがわからなく思ってお互いの顔を見合わせた。
 それはとても古い建物だった。建てられてから百年は経っているように見えた。でも、廃屋ではない。きちんと掃除がされているし、花もたくさん植えられていた。入り口のドアの上、二階のバルコニーには《魔法堂》と書かれた看板が掛っていて、ドアノブに《OPEN》と書かれた札が下がっていた。
「営業中――なの?」
 どれみには思いも寄らない出来事だった。呆気に取られていると、みらがどれみの袖を引っ張った。
「お母さん、ここなんでしょ? 入ってみようよ」
 やよいも期待するような目でどれみを見上げていた。興味はあるけれど、ひとりでは入りにくいらしい。
「う、うん。そうだね――」
 どれみは子供たちを連れてゆっくりと石段を降りた。転ばないように気をつけながら歩いているように見えたけれど、本当は、どれみは訝しんでいた。
(いったい、誰が店を開けているんだろう?)
 魔女界の慣例に従えば、次期女王候補が魔法堂のオーナーになっているはずだ。しかし、今はちょっと事情が違う。次期女王候補はすでに内定している。類い稀な魔法力を持った幼女を今の女王が指名しているのだ。それとも、現女王の指名とは関係なく選挙は行われるのだろうか。もしかしたら、現女王の指名は〈内定〉というより〈推薦〉といった程度の意味しかないのかもしれない。
 どれみは恐る恐るドアを開けた。どれみが店内に一歩踏み込むと、みらとやよいは一緒になって、先に店の中程まで入っていった。
「うふふ……、いらっしゃませ――どれみちゃん」
 店に入るなり自分の名前を呼ばれて、どれみは驚いた。
(何でわたしの名前を知ってるの? わたしの知っている人が次期女王候補なの?)


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4 いまの話(2)

 魔法堂の店内は薄暗かった。遥のガラス工房とは違った独特の雰囲気があった。強いて言うなら、他者を拒絶するような冷たい雰囲気。気のせいか、空気も少しひんやりしているようだった。この雰囲気はどれみが小学生のときに友達とやっていたMAHO堂とは全く違っていた。むしろ、どれみたちが改装する前の、初めてマジョリカに会ったときの魔法堂に近かった。魔女のセンスは似ているのかもしれない。
 店の奥のカウンターに、両肘をついてこっちを見ている人影があった。若い人のようだったけれど、店内が暗くて、その人の顔はよく見えなかった。先に飛び込んだはずのみらとやよいは店の雰囲気に圧されたのか、いつの間にかどれみの陰にいた。
 どれみは奥のカウンターに近づいた。
「あーっ、新藤れいらだー!!」
 どれみの後ろからみらとやよいが同時に声を上げた。そこにいたのは――
「――おんぷちゃん?」
「こんにちは、どれみちゃん。久し振りね。いつか来ると思っていたわ」
 そこにいたのはラベンダー色の魔女服に身を包んだ瀬川おんぷだった。
「魔法堂にいるのならそうと連絡してくれたらよかったのに」
「ううん。どれみちゃんに見つけてもらった方がおもしろそうだったから、見つけてもらうまでずっと待っているつもりだったのよ。わたしには時間がいくらでもあるから――こちらはどれみちゃんのお子さん?」
 おんぷはどれみの前に立つふたりの子供を見て尋ねた。
「そ。こっちの生意気そうなのがわたしの子。小竹みら」
「生意気ってなによ」
 みらは膨れっ面でどれみを睨んだ。
「こっちはみらのお友達で――」
「野村やよいです」
 やよいはぺこんと頭を下げた。
「瀬川おんぷよ。初めまして」
 おんぷはふたりの子供ににっこり笑って自己紹介した。
「あのー、瀬川さん、お店を見せてもらっていいですか?」
 やよいがおずおずと尋ねた。
「おんぷって呼んでいいわ。自由に見ていっていいのよ。ここはお店なんだから」
「ありがとう。さ、行こう、みらちゃん」
 やよいがみらの手を引いて店の中を回りはじめた。
(いつもと逆だね)
 どれみは目を細めてその様子を見ていた。おんぷが話しかけた。
「やよいちゃんって子、魔法グッズが好きみたいね」
「うん、そうみたい。でも、みらはそういうの全然関心ないのよ――魔女の英才教育を施したつもりだったのに」
「こればかりは仕方ないわね」
「うん、わかってるよ。身に覚えもあるし」
 でも、どれみが見ていると、みらもやよいの品定めに楽しそうに付き合っていた。
「あ、いけない! わたし、夕飯の支度をしなくちゃいけないんだ。みら、やよいちゃん、帰るよ!」
 みらとやよいは駆け戻ってきた。やよいは何だか名残惜しそうだった。
「ねぇ、お母さん、何か買ってもいい?」
「へー、あんたがこういうものを欲しるなんて珍しい」
「ううん、やよいちゃんが欲しいんだって」
「みらちゃん、いいよぉ」
 やよいがみらの袖を引っ張って小声で言った。顔を赤らめていた。恥ずかしいらしい。
「そうだね――よしっ、お母さんも懐かしい友達に会えて嬉しいから、買っちゃおう!」
「お母さん、ありがとう!」
 みらは満面の笑みで喜んだ。
「わー、ほんと? ありがとうございます――あ、いえ、そんな……悪いですよ」
 やよいは一瞬嬉しくてつい本音が出てしまったけれど、すぐに遠慮した。友達の母親にねだってしまったことが恥ずかしくて、さらに真っ赤になった。
「いいの、いいの。やよいちゃんも遠慮しないのさ。わたしも久し振りに友達に会えて嬉しいからおごるよ」
「やよいちゃん、せっかくだから買ってもらっちゃおうよ。お母さんがそう言うのは珍しいんだから」
 そう言って、みらはやよいを引っ張って店の真ん中にある陳列棚に行った。
 みらとやよいはすぐに戻って来た。どうやら欲しいものは決まっていたらしい。みらとやよいがレジに置いたのは切手くらいの大きさの木の板に、一つは三日月の焼き印、もう一つは六つの星の焼き印が押されたチェーンアクセサリーだった。
「みらがお守りの類いを欲しるなんて珍しいね」
「お守りじゃないよ、アクセサリー。やよいちゃんとお揃いなんだ」
「うん」
 みらの隣りでやよいも嬉しそうにうなずいた。
「ふーん、そう、アクセサリーね。じゃあ、そういうことにしておくよ――おんぷちゃん、これください」
 どれみはポーチから財布を取り出した。
「はい――あ、ちょっと待ってて」
 おんぷは陳列棚に行って、同じ大きさの太陽の焼き印が押されたチェーンアクセサリーを持って来た。
「これはね、三つで組になっているの。バラで買ってもいいけど、せっかくだからセットにしてあげる。三つ合わせて十円でいいわよ」
 そう言いながら、おんぷは三つのチェーンアクセサリーを小さな袋に入れてセロハンテープで封をした。
「ええっ!? 十円でいいわよって、ちょっと安くない?」
「いいのよ。わたしとどれみちゃんの再会を祝してっていうことで。どう?」
「おんぷちゃんがいいのなら、いいけど――」
 どれみは財布から十円玉を取り出すとおんぷに渡した。
「毎度、ありがとうございまーす」
 おんぷはどれみから代金を受け取ると、みらとやよいに言った。
「あ、そうそう。みらちゃん、やよいちゃん、このお店のことは、学校のお友達には秘密にしてね」
「えー、なんでですか? たくさん宣伝した方が儲かるのに」
「いいの。儲けようと思ってやってるわけじゃないから。こういうお店は賑やかにしているより、ひっそりしていた方が雰囲気が出るものなのよ」
「ふーん」
 そう返事はしたものの、みらはあまり納得していないようだった。
「じゃあ、おんぷちゃん、家で下の娘が待っているから、きょうは帰るね。また、来るから」
「うん、どれみちゃん、待ってるわ」
「わたしもまた来ていいですか」と、やよい。
「ええ、いつでもいらっしゃい」
 どれみはみらとやよいを連れて魔法堂をあとにした。

「お母さん、どこに行ってたの? わたしには寄り道しちゃいけませんって言ってるくせに! お腹ぺこぺこだよ」
 どれみたちが家に帰ったとき、ふぁらは怒っていた。時計は間もなく六時を指そうとしていた。きっと三時間は一人で留守番をしていたのだろう。どれみはすぐ帰って来るつもりだったのでおやつも用意をしていなかった。
「ごめん。ごめんね、ふぁら。今、晩ご飯の支度をするから、ちょっと待ってて」
 どれみはそう言いながらそそくさとエプロンを着け始めた。みらが正直にふぁらに言った。
「ふぁら、お姉ちゃんたち、吹きガラスの工房に行っていたんだ」
「あ、ずるーいっ!!」
「ごめんごめん。あしたお姉ちゃんが連れて行ってあげるからさ」
「絶対だよ?」
「うん」


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4 いまの話(3)

 朝――すでに、夫は会社へ、子供たちは学校へと出掛けていった。慌ただしかった時間は過ぎ、今、聞こえてくるのは、ラジオから流れるワイド番組、ごうんごうんと唸る洗濯機、時折、遠くから竿竹屋の売り声――家の中は静かになった。どれみはシンクに積み上げられた何枚もの皿や椀を洗いながら考えていた。
(きのうは、未来さん――ううん、遥さんとおんぷちゃんに思いがけず会っちゃった。驚いたな。いったいどういう日だったんだろう? 遥さんは世界中を旅している人だから、たまたま美空町に戻ってもおかしくないけれど、おんぷちゃんはものすごい人気の女優さんだったのに、突然引退して魔法堂にいるのってなんか変だな)
 どれみはその違和感が気になっていた。けれど、魔法堂の電話番号もおんぷの連絡先も知らなかったし、そもそも、そんなものはないかもしれない。自分の家にいたまま連絡を取ることができないのなら――
(よし、きょうも魔法堂へ行こう!)
 そう思い立つと、どれみは手早く食器を片付けていった。

 よく晴れた空。午前十一時の太陽は空のてっぺんを目指して昇っている最中だった。どれみは足元に小さくまとまった自分の影を踏みながら魔法堂の入り口を開けた。
「どれみちゃん、いらっしゃい。きょうは早いのね」
 店の奥からおんぷの声がした。外は眩しいほどなのに店の中はきのうと同じように薄暗かった。暗さに目が慣れるまで少し間を置いて、どれみは奥のカウンターにおんぷの姿を見つけることができた。おんぷはカウンターに両肘をついて手を組み、あごを乗せていた。
「あ、おんぷちゃん……」
 声を掛けようとして、どれみはそのまま固まってしまった。おんぷの大きな瞳が薄暗い中で爛々と輝いていた。どこか別の世界から来た人のようだった。どれみは陳列棚の間を抜けてカウンターの前に来た。
「どう、どれみちゃん? なかなかいい演出でしょ?」
「え? あっ! うん、すごい! すごいよ、おんぷちゃん。薄暗い中でおんぷちゃんの目だけが光っていて神秘的だったよ」
「午前中のこの時間にだけ使えるトリックなのよ。ほら、あそこを見て」
 おんぷはどれみの右肩の後ろ、斜め上の方を指差した。どれみも振り返って指した方を見ると、そこの天窓が開いていて水色の空がのぞいていた。
「あの天窓の明かりがわたしの瞳に反射して、入り口から入って来た人の目に映るのよ」
「すごいなぁ、さすがは元人気女優だよ。凝ってるね」
 どれみは掛け値なしに感心した。
「うふふ、ありがと」
「ねぇ、おんぷちゃん。芸能界を突然引退しちゃってからどうしてたの?」
「ずっとここにいたわよ――六年くらいになるかしら?」
「ええっ! そんなに!? どうして、魔法堂にいるって教えてくれなかったのさ?」
「誰にもわたしの居場所を知られたくなかったの。芸能界をやめたら普通の人なんだから、放っておいてほしいわ。でもマスコミの人ってしつこいじゃない?」
「それはそうかもしれないけど――」
 昼のワイドショーではどうでもいいことをさも重大そうにしゃべっている。どれみもそういうのに辟易としながらつい見てしまうけれど、古い親友のおんぷがそんな安っぽい好奇心で取り上げられたら、どれみはきっと我慢できないだろう。そうなるくらいだったら行方をくらませてしまいたくなる気持ちもわかった。でも、消息は気になる。やっぱり、たまにはテレビに取り上げてほしい、とも思った。
「それに――その時がくればみんなに会えると思っていたから」
 おんぷが付け足した言葉はどれみにはピンとこなかった。
「え、どういうこと、それ?」
「それは、今がその時、ということかもしれないわ。本当にそうかどうかはすぐにわかることよ」
「――おんぷちゃん、何か知ってるの?」
「ううん、知らないわ。でも、時間はいくらでもあるから」
 本当に知らないのか、本当は知っているのに知らない振りをしているのか、おんぷの昔と全然変わらない思わせ振りな言動にどれみは苦笑した。
「どれみちゃん、時間があるんだったら、二階でお茶でも飲みながらゆっくりお話ししましょ」
「うん」
 おんぷはカウンターの右側にある階段を上って行った。どれみもあとからついて行った。

 二階は一階の半分くらいの広さで、真ん中に大きなテーブルが置いてあった。どれみたちは昔、ここで魔法ねんどをこねて魔法グッズを作っていた。フロアの片側は壁がなく手摺りになっていて、店の入り口から売り場のほとんどまでを見渡せるようになっていた。どれみは手摺りにもたれて一階を見下ろした。
「わぁ、懐かしいなぁ。この景色を見るの、何年振だろう? 昔の魔法堂のまんまなんだね――ねぇ、おんぷちゃん、このお店、どうやって作ったの――げっ!!」
 懐かしがっていたどれみが振り返ると、おんぷの目の前で十五センチくらいの虫が透き通った羽根をはばたかせて飛んでいた。
「――じゃ、カモミールティーをお願いね」
「おおおおんぷちゃん! なななな何? そのでっかい虫!?」
「失礼ねっ! 虫じゃないわよ」
 虫がしゃべった。どれみは虫に怒られた――いや、よく見ると、羽根が生えているものの、からだは人間そっくり。しかも、顔立ちがきれいでスタイルもよかった。もし人間並みの身長があったら、モデルとして十分に通用しそうだった。
「えっ? おんぷちゃん、もしかして、それ、お供の……」
「そう。妖精のロロよ。忘れちゃった?」
「いや、おんぷちゃん――忘れちゃったというより、姿が全然違うんですけど?」
 ロロはおんぷが魔女見習いだったときに付いていたお供の妖精だ。でも、今みたいな美人ではない。もっと子供っぽい、かわいい感じの妖精だった。
「わたしだって、二十五年も経てば成長するわよ」とロロ。
「そ、そうだよね――ごめん」
 どれみはさっきまで虫だと思っていた妖精に頭を下げた。
「おんぷ、この人がドドのご主人?」
「そうよ。よくわかったわね」
「だってドドにそっくりなんだもん」
「そうね。でも、どれみちゃんがドドに似たわけじゃないのよ」
「あ、そうか! そうだよね。ドドの方が若いんだから。ドドがどれみに似ているんだ。じゃ、わたし、お茶を用意してくるー」
 ロロは好きなだけしゃべって、下に降りていった。
 ドドはどれみが魔女見習いだったときのお供の妖精だった。自分に似てドジばっかりで手を焼かされた分、思い入れも一入だった。
「ねえ、おんぷちゃん、ドドもいるの?」
 どれみはおんぷに尋ねた。
「ええ、魔女界で元気にしているわ」
「ほんとー! 会いに行きたいな」
「行ったらいいじゃない? ドドも、なぜ自分にはご主人の魔女がいないのか、悩んでいるみたいだし」
「えー、でも、わたしは今はただの人間だから、魔女界に行くとかお供の妖精とか無理だよ――あれっ? そういえば、なんでおんぷちゃんにはお供の妖精が付いているの? もしかして――」
「そうよ。わたしは……」
「もしかして、おんぷちゃん、また魔女見習いになったの!?」
 おんぷは椅子からずり落ちそうになった。苦笑いしている。
「違うわよ、わたしは――」
 おんぷは首に掛けている細い金のチェーンを手繰り寄せた。襟から曲玉のかたちに磨かれた紫色の水晶玉が現れた。おんぷはチェーンをつまんでそれをどれみの目の前に差し出した。
「あ、水晶玉……」
 どれみは手を伸ばして指先で水晶玉の表面を撫でた。水晶玉は堅くてすべすべしていて、おんぷの体温で少し温もっていた。
「おんぷちゃん、本当に魔女になったんだね――あっ!」
 言ってから、どれみは慌てて自分の口を押さえ、でもすぐに思い出した。
「ああ、そうだった。魔女ガエルの呪いはもうないんだっけ。焦ったぁ」
 どれみが安堵しているとおんぷが言った。
「どれみちゃん、魔女ガエルの呪いはあるわよ」
「えっ、どうして!? わたしたち、あんなに頑張って呪いを解いたじゃん!」
 どれみはおんぷに食ってかかった。おんぷのせいではないとわかっていたけれど、本当におんぷの言う通りだったら納得がいかない。
「正確に言うと、呪いじゃないけれどね。魔女ガエルの呪いはなくなったけれど、まだ人間界は魔女を受け入れられるようになっていないわ。だから、魔女たちが安易に人間界に行かないように、人間に正体を言い当てられたら魔女ガエルになってしまうというのは残されたのよ」
「おんぷちゃん、詳しいね」
「ええ。ちょくちょく魔女界に行っているから」
「やっぱりおんぷちゃんは魔女なんだなぁ――あっ! でも今の話が本当なら、やっぱりおんぷちゃんは魔女ガエルになっちゃうじゃん!!」
「大丈夫よ、どれみちゃん。ほら、魔女ガエルになっていないわ」
「え? なんで?」
「だって、どれみちゃんも魔女だもの」


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4 いまの話(4)

「そうか、わたしも魔女だったんだ――ええっ!! そそそそそそそそれ、どどどどどどどどういうことよ、おんぷちゃん!? どうしてわかるのさ? いや、どうして、わたし、魔女になってるの? あーっ、もうっ! 何から訊いたらいいのかわかんないよーっ!!」
 どれみたちは二十四年前、魔女見習いの試験をすべてクリアして、最後に魔女になるかならないかの選択をするとき、確かに自分たちは魔女にならないことを選んだ。人間界に残って魔女界との懸け橋になろうと決めた――はずだった。だけど、なぜ魔女になっているのだろう?
 おんぷが答えた。
「それはわたしが魔女界に行ったとき、真っ先に訊いたわ。そして女王様といろいろお話ししてわかったことがあるの」
 ロロが自分より大きなトレイを両手で掲げて飛んで来た。トレイにはティーポットとふたり分のティーカップが乗っていた。ロロはトレイをテーブルの中央に置くと、ふたりの前にティーカップを配った。カップは暖めてあった。
「どういうこと?」
 おんぷはカップに紅茶を注ぎながら答えた。ロロはおんぷの傍らにちょこんとあぐらで座った。
「それはね、過去、見習い試験を全部合格したのに魔女にならなかった魔女見習いは、わたしたち以外にいなかったっていうこと――はい、どれみちゃん、どうぞ」
「あ、ありがとう。おんぷちゃん――あ、これ、いい匂い……」
 どれみはカップを鼻先で揺らしてから紅茶を一口飲んだ。
「見習い試験って大変だから、全部合格したら魔女にならないと、もったいないもんね」
「そうよ。だから見習い試験が全部終わったら、最後に魔女になるかどうか意志を確かめるけど、みんな魔女になっていたから、魔女にならなかったらどうなるのか、誰も知らなかったのよ」
 どれみはテーブルに頬杖をついておんぷの顔を覗き込んだ。
「おんぷちゃんはどうして自分が魔女だってことに気がついたの?」
「どれみちゃん、わたし、いくつに見える?」
 逆におんぷがどれみに質問した。どれみはおんぷの顔をじっと見た。
「うーん……二十二、三歳くらいかな? いいなー、若々しく見えて。やっぱり女優さんをやっていたから、肌の手入れなんかも気を使っていたんでしょ?」
「わたし、あまりそういうことをしてないわ。いつまでも瑞々しくて小じわもなくて――最初のうちは優越感に浸っていたけれど、そのうち周りがそういうことを妬むようになってきて、いちいち相手をしているのも面倒になってきたから、それで芸能界をやめちゃった」
「うんうん、それで? その話と魔女の話はどう繋がるの?」
「わたし自身、自分がほとんど老けないから不審に思ったの。それに魔女じゃないはずなのに、月が笑う夜がわかるような気がしていたし。それである日、月が笑っているように見えた夜に魔法堂に来てみたの。そうしたら――」
「そうしたら?」
「魔女界への扉が光っていたわ。だから、もしかしてって思って開けてみたの。そうしたら、本当に魔女界に通じていたというわけ。つまり月の笑う夜だって思っていたのは気のせいじゃなくて、本当に月が笑っていたのよ」
 それまで身を乗り出して話を聞いていたどれみは、はっとなった。
「わたしも月が笑って見えることがある――」
 今でもときどき月が笑って見えるのは気のせいではなかった。実際に月が笑う夜だったのだ。どうやら、本当に魔女になっていたらしい。
「でもさ、どうして、おんぷちゃんはわたしが魔女だって、すぐわかったの? わたし自身、気がついていなかったのに」
 おんぷはあごに人差し指を当てて少し考えた。
「うーん、雰囲気っていうのかな? 気配っていうのかな? そういうのが魔女と人間とでは違うのよ。どのくらい違うかというと――そうね、どう説明すればいいな? 例えば、犬と猫ぐらいに違うの」
「……わたし、犬と猫の雰囲気の違いって、よくわかんないんですけど? おんぷちゃんの雰囲気だって昔と変わらないよ。わたし、鈍いのかな?」
「うふふ、そうかもね」
「おんぷちゃん、否定してくれないの?」
 どれみはちょっと拗ねた。
「冗談よ、冗談。どれみちゃんと初めて会ったとき、わたしはもう魔女見習いだったじゃない」
「あ、そうかぁ――って、おんぷちゃんだって同じじゃない。おんぷちゃんと初めて会ったとき、わたしも魔女見習いだったよ」
「あはは、そうだったわね。実は、わたしも最初、魔女の雰囲気っていうのには、なかなか気がつかなかったけれど、何年か、魔女界に出入りするようになって、何となくわかってきたわ。どれみちゃんは間違いなく魔女よ」
「実感ないなぁ。わたし、魔法なんて使えないよ。使えるような気もしないけど」
「どれみちゃんは水晶玉を持っていないんでしょ? 水晶玉を身に着けていなくちゃ魔法は使えないわよ」
「そうだったね。わたしの水晶玉、魔女界に預けたままだ」
「それに――」
 おんぷはどれみの目を真っ直ぐに見つめて続けた。
「どれみちゃんも歳より若く見えるって言われるでしょう?」
「うん、自慢じゃないけどね。わたしも肌の手入れとかまめにする方じゃないけど、十歳サバを読んでも大丈夫さ。小竹には子供っぽいだけだって言われてるんだけどね」
「やっぱりね。どれみちゃんの性格ならそんな感じかも。たぶん、どれみちゃんはもうそれ以上老けないわよ」
「えっ! それはもう嬉しいやら困るやら……」
 魔女になっているのだとしたら当然のことだった。魔女には外見が年寄りの者も若い者もいたけれど、年齢とともに老け込んでいくというものではないらしい。今は純粋に喜んでいられるけれど、普通の人々と一緒に暮らしていくためには、やっぱり、歳相応の外見でいたい。
「いくつになっても若いまんまって、変だよねぇ……。あーあ、魔女見習いだったときは高校生でもおとなでも魔法で自由自在だったのに――って、わたし、魔女じゃん」
 ロロがお腹を抱えて笑い出した。
「あはははー、どれみってドドそっくりー!」
「失礼な妖精!」
 どれみはロロをちょっと睨んでから話を続けた。
「魔女だったら、自分に魔法を掛けて一歳ずつ歳を取っていけばいいんだよ」
「でも、どれみちゃん、本当にそんなことをするつもり?」
「え? だめなの?」
「魔法でお婆さんになると、からだは本物のお婆さんになっているから怪我をしやすくなるし、病気にもかかりやすくなるのよ。それに、ずっと魔法を掛けたままにしていると体力を消耗するかもしれないわ。ひょっとしたら普通の人間よりも寿命を短くするかも」
「本当? そうなの? おんぷちゃん……」
 どれみは名案だと思ったのに、おんぷに言われて少し心配になった。おんぷはその様子を見ておどけて付け加えた。
「なーんちゃって。そんなことをした魔女はいないから、本当はどうなるか、誰も知らないわ」

 帰り道――
「そうかー、わたし、魔女なんだ――」
 魔法堂を出ると、どれみはスキップをしながら何度となくつぶやいた。
(四十歳になっても五十歳になっても、ずっと「お若いですねー」って言われ続けるのさ。ふふふ)
 どれみはひとりでほくそ笑んだ。でも、二十メートルも過ぎて、魔法堂が見えなくなった頃には歩き始め――
(小竹がお爺ちゃんになっても、みらやふぁらがお婆ちゃんになっても――わたし、若いまんまなんだ……)
 だんだん俯き加減になっていった。
(そして、小竹もみらもふぁらも……。それでも、そのあと何年もわたしは生きているんだ……)
「そうかぁ、わたし、魔女なんだ……」
 家に着いた。どれみは俯いたまま玄関のドアを開けた。
「ただいま」
 どれみの声がまだ誰も帰ってきていない家の中に染み込んでいった。これから、どれみがみんなを迎えなければならない。
「とりあえず、小竹家のお母さんとして頑張りますか」
 どれみはキッチンでエプロンを着けた。


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4 いまの話(4)

「ただいまー――あ、お母さん、張り切ってるね」
 みらが学校から帰ってダイニングをのぞくと、母がキッチンに立って夕飯の下拵えをしていた。今から用意しているということは、きっと手の込んだ料理に違いない。
「あ、お姉ちゃん、お帰りー!」
 ふぁらが待ち構えていたみたいにリビングから飛び出してきて、みらの背中をどんと押した。
「痛ーい!」
「ねえ、きょうは遥さんの工場へ連れていってくれるんでしょ?」
「うん。約束だものね。でも、あそこは工場って感じの場所じゃないよ。それと、その前にランドセルを置かせて」
 みらは背中をさすりながら答え、二階の子供部屋にランドセルを置いて、すぐに戻ってきた。
「じゃ、お母さん、そういうわけだから行ってくるね」
 みらが玄関でそう言うと、キッチンから母の声だけが帰ってきた。
「あまり遅くならないうちに帰ってくるんだよ」
「わかってるって。きょうの晩ご飯はお母さんが珍しく張り切ってるんだもんね」
 母がダイニングから顔だけのぞかせた。
「ちょっと、珍しくってなんなのさ!?」
「あはは――」
 みらは笑いながらふぁらの手を引いて家を出た。

「遥さーん、こんにちはー」
 みらが表から大きな声で呼ぶと、ふぁらがびくっとなって縮こまった。
「お、お姉ちゃん、恥ずかしいよぉ」
「仕方ないでしょ。大声を出さないと工房の中まで聞こえないんだから」
 そう言いながらみらは工房に入って行った。あとからふぁらがついて行った。
 工房の中は相変わらず暑く、溶解炉がごうごうと唸っていた。
「お姉ちゃん、すごく暑いね……」
 ふぁらが小声で言った。
「そうだよ。火を使っているんだから」
 そう話していると、奥の作業場から遥が来た。
「みらちゃん、いらっしゃい。こちらのかわいいお客さんは?」
「妹のふぁらです」
 みらはふぁらを前に押し出した。
「あ、あの、こんにちは……」
 ふぁらはどぎまぎしながら、上目使いにぴょこんとお辞儀をした。
「こんにちは、ふぁらちゃん。初めまして。佐倉遥です」
 そう言って遥もお辞儀した。
「ふぁら、せっかく来たんだから吹きガラスをやろうよ」
「えー? でも、難しそうだよ――」
 きのう、家ではあれだけ不平を言っていたのに、いざその場に来ると、ふぁらはすっかり尻込みしていた。でも、みらは自分にできたのだから、ふぁらにもできるのではないかと思った。
「あのー、遥さん。ふぁらは小学三年生なんですけど、吹きガラス、できますよね?」
「大丈夫よ。わたしがアシスト――つまり、手伝ってあげるから難しくないわ」
「だってさ、ふぁら。やってみなよ」
「ううん、いいよ。それよりお姉ちゃんがやりなよ」
 ふぁらはずっと遠慮している。みらはきのうのやよいを思い出してしまった。
(本当に、ふぁらってやよいちゃんに似てるな。ということは、逆にやよいちゃんも家では威張りんぼなのかな?)
「じゃあ、そこに座って見てて」
 みらは作業台の後ろの小さな椅子を指した。きのう、やよいが座っていたところだ。そこにきょうはやよい似のふぁらが座った。
「それじゃあ、遥さん、お願いします」
「ふぁらちゃんはいいの?」
「うん、やらなくていいみたい。夕べは、わたしも行きたいって、すごくうるさかったのに」
「ふぁらちゃん、どう、ガラスを吹いてみない?」
 今度は遥がふぁらに声を掛けた。
「ううん、いい――です」
「そう……」
 遥は少し残念そうだった。
「じゃあ、みらちゃん、始めようか?」
「はいっ、師匠!」
 みらは遥に敬礼して笑った。


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5 信じたいこと、信じていいこと(1)

 放課後、掃除が終わった教室でみらが机の中の教科書やノートをランドセルにしまっていると、前の席のやよいが振り向いた。
「ねぇ、みらちゃん。帰りに魔法堂へ寄って行かない?」
「やよいちゃんの方から寄り道しようって言い出すの、珍しいね」
「そうかなぁ? わたし、あのお店が気に入っちゃったから」
 みらとやよいはランドセルを背負って廊下に出た。
「やよいちゃんはお守りとかマスコットとかそういうもの好きだもんね」
「みらちゃんは嫌い?」
「うーん、御利益があるかどうかは別にして、そんなに嫌いじゃないよ」
 みらの背中で、この前、魔法堂で買ったマスコットがランドセルにぶら下がって揺れていた。
 ふたりは並んで校門の前の下り坂を降りて行った。
「そういえば、やよいちゃん、きょうは塾の日じゃない? 魔法堂に寄り道していていいの?」
「うん。一時間くらいなら大丈夫。塾は夕方からだから」
「それにおうちの人が心配するんじゃない? わたし、この間、寄り道してお母さんに怒られちゃった。やよいちゃんもいったん家に帰った方がいいと思うよ」
「今すぐでも行きたいんだけどな、魔法堂――」
 でも、やよいは考え直して、
「うん、そうね。そうする。じゃあ、おうちに一度帰って、それからこの交差点で待ち合わせしよ」
 いつの間にか五叉路に着いていた。みらはやよいに手を振ると自分の家へ駆け出した。

 みらが玄関を開けて「ただいまー」と言ってから階段を駆け上がり、自分の勉強机にランドセルを置いて再び階段を駆け降り、「魔法堂に行ってくるねー」と言って玄関を飛び出すまで、何秒かかっただろうか。家を出た勢いのまま、みらは表の通りを駆けて行った。待ち合わせ場所の五叉路に着いたとき、まだやよいの姿はまだ見えなかった。
「よし、一番!」
 すぐにやよいがやってきた。手にスクールバッグを下げていた。魔法堂から塾へ直行するつもりらしい。やよいはみらの姿を見つけると小走りに駆けてきた。
「みらちゃん、早いね。待った?」
「ううん、わたしも来たばっかりだから」
 ふたりは並んで魔法堂へ歩いた。

「こんにちはー」
 そう言って魔法堂のドアを開けたのはやよいだった。
「いらっしゃい――あら、やよいちゃん、みらちゃん。こんにちは」
「遊びにきたの。見せてもらっていいですか?」
と、やよい。どちらかというと内気で人見知りしがちなやよいが率先して話していた。よほど魔法堂とおんぷが気に入ったらしい。
「どうぞ。やよいちゃんとみらちゃんならいつでも歓迎よ」
「わー、ありがとう! みらちゃんも行こう!」
 やよいはみらの手を取って店中の陳列棚を見て歩き回った。
「やよいちゃん、元気だね……」
 やよいがいつもと違って積極的なので、みらは面食らっていた。
「みらちゃん、これ、どう? かわいいよね」
「えーっ、こういうのをかわいいっていうのかなぁ? ちょっと不気味――じゃなくて、不思議な感じだよ。それより、こっちの方がおもしろくない?」
「そうかな? あまり神秘的じゃないよ。効き目はないんじゃない?」
 ふたりの後ろからおんぷが声を掛けた。
「あらあら、ふたりとも言いたい放題ね。この店の商品はみんなそれなりに効果はあるのよ。例えば、今、みらちゃんの持ってるグッズはね、ちょっとした、いいことの起きるおまじないが掛けてあるの」
「ちょっとした、いいこと?」
「そう。ポケットの中から忘れていた十円玉が見つかるとか、そんなことよ」
 それを聞いてみらは笑った。
「それはまた――ずいぶんちょっとしたことですね」
 やよいは自分の手にしていた魔法グッズを差し出した。
「ねえ、おんぷさん、これは?」
「それには永遠の恋人ができるおまじないが掛けてあるわ」
「こ、恋人……」
 顔を赤らめるやよい。
「あら、やよいちゃん、誰か好きな人がいるの?」
「そ、そんなこと――ないです」
「二組の秋津君之くんでーす。だよね?」
「みらちゃん……」
 やよいは俯いてしまった。
「うふふ、まぁいいわ。その魔法グッズ、欲しい?」
「いえ、いいです……」
 やよいはさっきまでの積極的な振舞いとは打って変わって小さくなってしまった。
 みらはあちこちに並べてある魔法グッズを見ていて、ふと、疑問に思った。
「そういえば、このお店の品物、どんなおまじないが掛けてあるのか、書いてないですよね。お客さんはどれを買ったらいいのかわからないと思うんですけど?」
「大丈夫よ。願い事のある人にはどれを買ったらいいか、ちゃんとわかるもの」
「そうなんですか? 信じられないです。じゃあ、きのうやよいちゃんと買ったグッズもそうなんですか?」
「そうよ。たぶん、あのとき、ふたりが一番願っていたことは『いつまでも友達でいられますように』ってことだったんじゃない?」
「そうですけど……」
 おんぷの説明はみらにとってどうにも腑に落ちなかった。
(そりゃあ、わたしたちはいつでも一緒だし、ずっと友達でいたいって思っている。きのうだって、ふたりでグッズを選んだ――あ、おんぷさんはそれを見て、わたしたちの願い事が「いつまでも友達でいられますように」だって思ったんだ)
「それじゃ、適当に選んでも効き目はあるんですか?」
「もちろんよ」
「そう? それじゃっ」
 みらは振り返って目の前の陳列棚からグッズを一つつかむと、そのままカウンターに置いた。
「これ、下さい」
 そう言いながら手をどけると、下から翼をかたどった小さな銀のピンバッジが現われた。
「百円よ。買う?」
「買います! でも、これが今のわたしに一番ふさわしいグッズになるんですか?」
「さあ? でも、役に立つかもよ」
 おんぷのあやふやな答え方に、みらはかえってなにかあるような気がした。
「ちなみに、これにはどんなおまじないが掛けてあるんですか?」
「空を自由に飛べるようになるおまじない、かな?」
「わたしがいつか飛べるようになるっていうことですか? それは楽しみですねー」
「みらちゃん、何だかイジワル――」
 みらとおんぷのやり取りに、やよいははらはらしていた。
「いいの、いいの、やよいちゃん。わたしはおまじないなんて効き目がないんだってことが試せればいいんだから」
「そんなぁ――試すんじゃなくて信じようよ。おんぷさん、わたしは信じてますから」
「気にしなくていいのよ、やよいちゃん。信じていてもいなくても、あるものはあるんだから」
 やよいはうなずいた。
「みらちゃん、せっかく買ったんだから、それ、着けてみようよ」
「う、うん」
 やよいはみらのブラウスの襟に買ったばかりの翼のピンバッジを着けた。
「わー、すてき。似合ってるよ」
「そ、そうかな?」
 やよいに言われて、みらもそれほど悪い気はしなかった。
「鏡を見てみる?」
 おんぷがカウンターの上に置いてあるスタンドミラーをみらに向けた。
「あ、何だかかっこいい」
「さっきまで散々なことを言っていたのに、みらちゃん、気に入ったみたいね」
「あれはあれ、これはこれだよ、やよいちゃん。効き目があるかどうかは別としてデザインはすてきじゃない」
 ふと、やよいがおんぷに尋ねた。
「あのー、おんぷさん、このお店、さっきからわたしたち以外にお客さんが来ないみたいなんですけど、いつもこうなんですか?」
「まあ、だいたいそうね」
 客が来ないのは店にとって深刻であるはずなのに、おんぷは平然としていた。
「あの――宣伝とかしてもっとお客さんを集めないんですか? それとも、わたしがお友達を呼んで来ましょうか? ――わたし、このお店がなくなっちゃったら嫌だな」
「心配してくれてありがとう、やよいちゃん。でも大丈夫よ。このお店は趣味でやっているだけで、売れなくても別に困らないし、本当に魔法グッズを必要としているお客さんなら、自然にやって来るから」
「どういうこと?」
 みらが尋ねた。
「魔法堂は真剣な悩み事や切実な願い事を持つ者を引き寄せるようにできているからよ――と言っても、みらちゃんは納得しないんでしょうけど」
「うん、わかってますね、おんぷさん。そんなことを言ったら、どういう仕組みでって訊きますよ」
「みらちゃん……」
 やよいはみらの言い方にとげを感じて止めようとした。
「あ、ごめんね、やよいちゃん。でも、何か納得できなくて」
 一方、おんぷは全然気にしていない様子でにっこり笑っていた。
「安易に人の言うことを信じないのはいいことよ、みらちゃん――このお店はね、実際はどうかわからないけれど、そういうふうに言われているの。それだけの話よ」


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5 信じたいこと、信じていいこと(2)

「あ、もうこんな時間!」
 やよいが店の柱時計を見て言った。
「みらちゃん、そろそろ帰らなくちゃ」
「そうだね。やよいちゃんはこれから塾だもんね」
 ふたりはカウンターのおんぷのところに寄った。
「おんぷさん、そろそろ失礼します」と、やよい。
「もうお帰り?」
「うん」と、今度はみらがうなずいた。
「やよいちゃんが塾の時間だから」
「それは大変ね、やよいちゃん。でも、お勉強も大切だから頑張ってね」
「あ、ありがとうございます」
 おんぷに励まされてやよいは嬉しそうだった。
 ふたりで店を出ようとして、やよいが振り返った。
「あ、あのー、おんぷさん?」
「なぁに、やよいちゃん?」
 やよいは言い難くそうにしていたけれど、結局、尋ねた。
「あのー、おんぷさんは魔法使いさんですか?」
「あははは。違うわ、やよいちゃん」
 おんぷは即座に否定した。
「そうなんですか……。本物みたいに見えたんだけどな」
 最後は独り言のようにつぶやいた。やよいはちょっと残念そうにしていた。

 魔法堂からの帰り道、やよいは思い切って尋ねたことが一笑に付されてがっかりしていた。
「やっぱり、魔法使いって、本当ははいないんだろうな……」
「そんなことを言うのはやよいちゃんらしくないよ。やよいちゃんは魔法を信じていなくちゃ」
「うん、そうだね……」
「それに、おんぷさんはドラマでは魔法使いのパートナーの役で、おんぷさん自身が魔法使いだったんじゃないんだし――」
 少しふたりは黙って歩いた。再び口を開いたのはみらの方だった。
「ねぇ、やよいちゃん」
「なぁに?」
「あんなに雰囲気のあるお店をやっていて、何でおんぷさんは自分のことを魔法使いじゃないって言ったんだろうね?」
「え? それはおんぷさんがやったのは魔法使いの役じゃなかったからだって、さっき、みらちゃんが――」
「うん、確かにそう言ったけど、やっぱり変だよ。ああいうお店をやるんだったら、自分が魔法使いだってことにすれば完璧なのに」
 やよいもおんぷの言い方を思い出した。
「おんぷさん、即答だったわね。何だか、わたしがものすごく見当違いのことを訊いたみたい」
 そんな話をしているうちにいつもの五叉路に着いた。
「じゃあ、頑張ってね、やよいちゃん」
「ばいばい、みらちゃん」
 ふたりは手を振って別れ、やよいは塾へ向かった。
(まだ、時間は大丈夫だな)
 みらは空を見上げてから遥の工房へ向かった。


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5 信じたいこと、信じていいこと(3)

「こんにちは、遥さん」
「いらっしゃい、みらちゃん。きょうはひとりなのね」
 みらが工房に入ると、奥から遥の声が聞こえた。遥は吹き竿の先を溶解炉に入れてガラスを暖めている最中だった。
「うん。やよいちゃんはきょう、塾なんです」
「そう、小学生も大変ね――今、一つ仕上げちゃうから、そこで待っててね」
 そう言うと、遥は再び吹き竿を吹き始めた。みらはテーブルの席を勧められたけど、作業台のそばの椅子に座って遥の作業をじっと見ていた。吹き竿を吹く遥の眼差しは普段と変わらない優しさがあったけれど、意識はすべて目の前で回るガラスに集中しているようで、その姿からは厳しさすら感じた。
 ぱきんという音とともにワイングラスが生まれた。遥はそれを徐冷炉に入れると、どれみの方を振り返った。
「あら、そこにいたの? 暑くなかった?」
「ううん、平気です。それより、遥さんがどうやってガラスを作るのか見たかったから……」
「それで見学していたわけね。参考になった?」
「まあ、何となく……。簡単に作っているように見えて、テクニックとかはよくわからなかったけど、ただ、ものすごい集中力だなって思いました」
「みらちゃん、きょうもガラスを作っていく?」
「うーん、やりたいけど、帰りが遅くなるから、また今度にします」
「そうね。じゃあ、少しお話しましょうか?」
「はい!」
「それじゃ、あっちに行きましょ」
 みらは先に窓際のテーブルの席に着いた。少しして遥がグラスを二つ乗せたお盆を持ってやってきた。
「みらちゃん、お待たせ――はい、どうぞ」
 遥は持ってきたグラスの一つをみらの前に置いた。透き通った赤いグラスに飴色のリンゴジュースが注がれていた。
「あ、ありがとうございます」
 もう一つをみらの隣りに置くと、自分がそこに座った。
「すてきなお守りね」
 遥から唐突に言われて、みらは一瞬、何のことだかわからなかった。
「ほら、そのブラウスの襟に着けているもの」
 遥が指しているものに気づいて、みらは自分の襟をぐいっと引っ張って見た。やよいが着けてくれた翼のアクセサリーが銀色に光った。
「あっ、これですか? これ、お守りなんかじゃないですよ。ただの飾り、アクセサリーですよ」
「へぇ……そうなの? でも本当に空を飛べたら楽しそうね」
「えっ!? なんで遥さんはこのバッジのことがわかるんですか!?」
 遥がピンバッジに掛けられているまじないを簡単に言い当てたので、みらは驚いた。
「翼のかたちをしてるじゃない。翼は空を飛ぶためのものよ」
「それはそうですけど――かたちだけでこの魔法グッズの意味を当てるなんて、すごいですよ」
「あ、やっぱりそれは魔法堂の魔法グッズなのね」
「ええっ! なんでそこまでわかるんですか! 遥さんは魔法堂のことを知ってるんですか?」
「アムステルダムに住んでいた頃、近所に魔法堂があったのよ。やっぱりアクセサリーのお店だったわ」
「えーと……アムステルダムって?」
「オランダよ。ほら、チューリップと風車で有名な」
「へえー、魔法堂って世界的なチェーン店なんですね」
「そうねぇ、ああいうのはフランチャイズチェーンっていうのかしら? それぞれのお店は独立採算でやっているから、個人経営とあまり変わらないわよ」
 みらは遥の一言一言に感心していた。
「遥さん、ずいぶん、詳しいんですね。まるで魔法堂で働いたことがあるみたい」
「え? ええ、まあ、近所だったから……」
「でも、わたし、このバッジは勢いで買っちゃったけど、本当はおまじないとか魔法とか、そういったものは信じていないんですよ」
「だから、さっきもアクセサリーっていうことを強調していたのね。でも、どうして?」
「おまじないとか魔法とかに頼って、願い事が叶ったとしても、それってなぞなぞでいきなり答えを聞かされるのと同じで、つまんないと思うんです」
「うふふ、わたしも同感。どんなにすてきなグラスでも、それが魔法で出したものだったら価値はないと思うわ」
「あ、遥さんもそう思うんですか? 嬉しい! でもね、うちのお母さんは、おとなの癖に魔法とか魔女とかの話が好きで、わたしや妹にそういう話をよくするんですよ。だけど、お母さんはわたしが魔法を信じないからがっかりしてるんです。その代わり、妹が魔法を信じているから、お母さんのことは妹に任せているんだ」
「うふふ。でも、そういう世界があるかもしれないって想像するのも楽しいんじゃないかしら?」
「なんだ、遥さんも魔法肯定派なんだ」
「何でみらちゃんは魔法を信じないの?」
 遥が尋ねた。
「うん、何となくあり得ない気がして。例えば、どこかに魔女たちが住む魔女の世界があるなんて話、うちのお母さん以外に言う人はいないから、到底信じられないです」
「じゃあ、みらちゃんは、この世界はどうなっていると思う?」
「えーと――わたしたちのいるこの地球はボールのように丸くて、その周りをもっと小さな月が回っていて、この二つが太陽の周りを回っていて、太陽はほかの惑星も引き連れて銀河系の中心を回っていて、その銀河系はどこかに向かって動いている――らしいです」
「詳しいわね。みらちゃんは何でそういうことを知っているの?」
「この間、図書館で借りた本に書いてありました」
「そう。お母さんの言うことは信じられなくても、知らない人の書いた本は信じられるのね?」
「遥さん、意地悪なことを言わないでくださいよ。でも、どうして魔法の本も科学の本もたくさん出ているのに、魔法の話は信じられなくて、科学の本に書いてあることは信じられるんだろう?」
「そうね。何ででしょうね――それじゃ、宿題。信じることは大切だけれど、何でもかんでも信じると騙されてしまうこともあります。さて、どうしたらいいでしょうか?」
「えっ、そんなぁ……。わかるかな? やよいちゃんと相談してもいいですか?」
「もちろんいいわよ。答えはあしたまでとか言わないから、ずっと好きなだけ考えてみて。そんなに難しい宿題じゃないと思うわ」
 ふと、みらは壁の柱時計に目をやった。
「あ、もう、こんな時間だ。早く帰らないとお母さんに怒られちゃう! じゃあ、遥さん、またねー」
 みらは慌てて工房から出て行った。


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5 信じたいこと、信じていいこと(4)

 みらが家に帰ってきたとき、すでにキッチンからはおいしそうな匂いが漂っていた。
(んー、いい匂い……。きょうのおかずは――あれっ、なんだろう?)
 確かにいい匂いには違いないのだけれど、和食なのか洋食なのか、煮物なのか揚げ物なのか、判然としなかった。
 みらが不思議に思いながらダイニングに入ると、テーブルの上に母が腕に縒りを掛けて作った料理が並んでいた。おかずがいつもより二皿多いし、盛り付けもちょっと凝っていた。ふぁらはその豪勢な食卓を前にすっかり喜んでいた。
「うわー、すごーい! お母さん、きょうはなんの日? 何かいいことがあったの?」
「えーと……お母さん、何かいいことがあったらしいけど、なんでお刺身と餃子とビーフシチューが同じ日に出てくるの? どうせ出すなら、三回に分けた方がありがたいのに」
 ここ数日、夕食が少しずつ豪勢になっていた。母になにがあったのだろうか?――みらは訝しく思いながらも目の前の料理の群に呆れていた。
「あはは、ちょっと作り過ぎちゃった……かな?」
 母は苦笑していた。

 「いただきまーす」の声とともに夕食が始まった。いつもはおかずの取り合いも珍しくないのに、今夜はどこから手を付けようか迷うくらいのおかずがあった。みらはサラダボウルからレタスとアスパラガスを自分の皿に取り分けながら話した。
「お母さん、きょう遥さんに宿題出されちゃった」
「へー、どんな宿題? 遥さんがどんな宿題を出すのか、お母さんも聞きたいな。みらが宿題のことをお母さんに話すのも珍しいし」
「そういえばそうだね。学校の宿題だったらお母さんに訊くまでもないから。遥さんの宿題はね、『信じることは大切だけど、何でも信じていると騙されることがあるかもしれません。どうしたらいいでしょう?』っていうの。お母さんはどう思う?」
 母は少し考えてから答えた。
「うーん、そうねぇ――お母さんだったら、自分の信じたいことを信じるけど……、きっとそれじゃ遥さんの宿題の答えになっていないよね」
「そうだよね……」
 ふぁらが得意そうに言った。
「あのね、先生の言うことは信じていいけど、知らない人の言うことは信じちゃいけないの」
「いいなぁ、ふぁらは単純で――」
 みらは少し揶揄するように言った。
「なんでよー! そういうことなんでしょ? ね、お母さん?」
「うーん、まあ、そういうことでもいいけど……」
「ほらぁ!」
 母の曖昧な答えをふぁらは自分にいい方に解釈して強気になった。
「じゃあ、先生はウソをつかないの? 初めての先生は知らない人じゃないの?」
「先生はみんなウソをつかないの!」
 みらに問い詰められて、ふぁらは意地になって言い返した。
「ほらほら、あんたたち! せっかくの御馳走なんだから、喧嘩しないの」
 見かねて、母が仲裁に入った。


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5 信じたいこと、信じていいこと(5)

 学校の昼休み――給食が済むとクラスの半数は教室を出ていった。男子も女子も混成でサッカーだ。サッカー好きの生徒たちに天気はあまり関係ない。空がどんよりと雲っていて今にも雨が降り出しそうだったとしても、まだ降り出していないからと言って校庭へ駆け出していった。昼休みのサッカーは一組の中で二チームに分かれてやることもあったし、隣りの二組のチームと対戦することもあった。
 教室に残った生徒たちは本を読んだり雑談したりして昼休みを過ごした。みらとやよいも雑談組だった。いつも、やよいが椅子を後ろ向きにして、みらと取り留めのないことを話していた。みらとやよいの席は窓際から二列目にあって座っていると校庭の様子は見えなかったけれど、「ボールを回せ!」だの「もっと前へ!」だのと叫ぶ声はよく聞こえた。
「やよいちゃん、見に行かなくていいの?」
「え、なにを?」
 やよいはみらから唐突に話しかけられて、何のことかわからない振りをした。
「校庭だよ。秋津くんがいるかもよ?」
「ええっ、いいよぉ」
 やよいの顔が少し赤くなった。
「やよいちゃんもサッカーやればいいのに」
「わたし、スポーツは苦手だから……」
「うーん……そうだよね」
 確かに、ボールを蹴りながら校庭を縦横無尽に駆け回るやよいの姿はみらに想像できなかった。やよいは物静かな子なのだ。でも、やはり、やよいは校庭が気になるのだろう、みらが気づくと、窓の外を見ていた。
「ねぇ、やよいちゃん」
「なぁに?」
「やよいちゃんは、魔法はあるって信じてるんだよね?」
「うん。だって、その方が夢があるし、楽しそうだから。だからあるって信じているの――どうしたの、みらちゃん?」
「遥さんがね、何でも簡単に信じていると騙されることがあるかもしれないって言ったんだ」
「大丈夫よ、みらちゃん。なんでもかんでも信じているわけじゃないから。例えば、地球が太陽の周りを回っているなんて、とても信じられない」
「やよいちゃん、それはちょっと……」
 みらは慌てた。実際に確かめることができないからといって、科学的な事実を真っ向から疑うなんて、いくらなんでも大胆すぎる!
「うふふ、冗談よ。教科書にそう書いてあるし、先生もそう教えてくれたから信じているけれど、でも、信じなければならない理由はないし、疑う気になったらいくらでも疑えるような気がするの」
「信じなければならない理由かぁ――」
 ひょっとしたら、この辺に遥さんの宿題のヒントがあるのかもしれない――みらはそんな気がした。
「それで、やよいちゃんは何で魔法を信じているの?」
「誰も信じていないから。誰も信じていないと、魔法が本当になくなってしまいそうな気がするから、せめてわたしだけは信じていようって思って。これがわたしの信じなければならない理由」
「理由って、そういうこと?」
 信じるためには〈信じなければならない理由〉が必要だということはみらにもわかった。けれど、やよいの理由は本当に理由になっているのだろうか、そこが釈然としなかった。
「みらちゃんは難しく考え過ぎなんじゃない? 信じるのに、信じていいのかいけないのか疑ってかかるのは、何となく変な感じがするわ。そんなことじゃ、物語を読んでも楽しくないんじゃないの?」
「そんなことないよ。物語は物語の世界として楽しんでいるから――コロボックルシリーズなんか好きだよ。ほら、あの『誰も知らない……』とかいうやつ。コロボックルたちが実際に身の回りにいたら楽しいだろうなって想像するのは好きだよ」
「へぇ、みらちゃんもそういう本を読むんだ。だったら、もっと自分の心に素直にならなきゃ」
「そうかなぁ――じゃあ、実際に魔法があるとして、やよいちゃんは自分が魔法を使えるようになりたいとは思わない?」
「うん。使えたらいいなって思うけど、人間が魔法使いになれるのかな? 何となく、魔法が使えるのは、魔法使いとして生まれた人だけのような気がするけど」
「そう? わたしのお母さんによると人間も魔法使いになれるみたいだけどね。そのためには師匠になる魔法使いを見つけないといけないらしいんだけどさ」
「何だか、みらちゃんが魔法使いのことを言うのって珍しいね」
 やよいは嬉しそうにみらの顔を見た。みらは慌てて否定した。
「あっ、違う違う。別に魔法使いがいるって信じているわけじゃないよ。お母さんの受け売りだよ。物心つく前からずっと聞かされていたから。第一、どこに魔法使いがいるんだか」
「みらちゃん、そういうことは信じなきゃ。どこかにいるって思えば、魔法使いになれるかもって希望だって持てるのよ」
「いや、わたしはそういう希望、持っていないんですけど……」
 五時間目の始まる五分前の予鈴が鳴った。


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5 信じたいこと、信じていいこと(6)

 学校帰り、みらとやよいはいつもの帰り道のいつもの五叉路に着いた。
「やよいちゃん、きょうはピアノのレッスンだったね」
「うん」
「じゃあね、やよいちゃん。頑張ってねー」
「ありがとう、みらちゃん。ばいばーい」
 みらは手を振ってやよいと別れ、ひとりになった。これからどうしようか、もう考えなくても決まっていた。
(遥さんのところへ行こう!)
 みらは、いったん家に帰りランドセルを置くと、早足で遥の工房に向かった。

「みらちゃん、結構上達したわね」
「えへへ。そんなことないですよ」
 みらはコップを一つ作り終えたところで遥に褒められ、照れ笑いで謙遜した。けれど、みら自身も内心は思い通りにかたちが作れるようになってきたと感じていた。
「少し休憩にしましょ」
 そう言って、遥は冷たい飲み物を取りに行き、みらはいつもの窓際のテーブル席に座った。テーブルに置かれたガラス器は最初に見たものとだいぶ入れ替わっていた。きっと今まであったものが売られて、新しいものが作られているのだろう。
 みらは目の前のガラス器をじっと見つめていた。初めて見たときは光がいろいろな色に染まって反射して、ただきれいだなと思っただけだったけれど、自分でいくつものガラス器を作ってきたあとでは見方も変わってきた。みらは、この部分はどうやって作るんだろう、この色はどうやって出したんだろうと、作っているところをあれこれ想像しながら見入っていた。
「はい、どうぞ」
 気がつくと、遥がそばに立って淡い草色のグラスをみらの前に置いていた。
「あ、ありがとうございます。いただきまーす」
 きょうはグレープフルーツジュースだった。吹きガラスのあとの冷たい飲み物はとてもおいしい。みらは一気に三口分を飲み下した。
「冷たいものを慌てて飲むとお腹を壊すわよ」
 遥に言われて、みらは、えへへ、と笑った。
「ずいぶん熱心に見ていたわね」
「どうやったら、こんなにきれいにできるのかなって思っていました」
「みらちゃんもこういうの作りたい?」
「はい――でも、できるかな……」
「ずっと続けていれば作れるようになるわよ――そうね、だいぶ吹きガラスに慣れてきたみたいだから、今度はもう少し複雑なものに挑戦してみようか?」
「はい、お願いします」
 みらは喜んで深々と頭を下げた。

「遥さんの宿題のことなんですけど……」
 みらが切り出した。
「まじめに考えてくれているのね。それで、みらちゃんの答えは?」
「ううん、全然。お母さんややよいちゃんにも聞いてみたんですけど、結局よくわからなくて……。みんな、信じたいことを信じているみたい」
「みらちゃんはそれじゃ納得できないのね」
「はい。だって、世の中には信じたくないけれど信じていることだってあると思うから」
「どういうこと?」
「例えば、太陽はあと何十億年かすると燃え尽きて、どんどん膨らんで、水星や金星を飲み込んで、地球はその太陽のすぐそばを炙られながら回るようになるらしいんです。星のことについて書いてある本なら、たいていそう書いてあります。そんな先のことを今から心配してもしょうがないんですけど、でも、そうなるんだろうなってわたしは信じてるんです」
「それで?」
「うーん――何となくですけれど、世の中にあるのは、〈信じたいこと〉と〈信じたくないこと〉じゃなくて、〈信じていいこと〉と〈信じてはいけないこと〉じゃないかなって気がするんです」
 そう言ってみらは遥を見た。遥は続きを促すようにみらを見つめていた。
「やよいちゃんと話したとき、やよいちゃんは『信じなければならない理由がある』って言ってました。やよいちゃんは魔法を信じているんですけど、それは『自分が信じていないと、本当に魔法が本当になくなっちゃうかもしれない』っていうのが理由なんです。やよいちゃんの理由は理由になっているのかどうか、わたしにはわからないけど、『信じなければならない理由がある』っていうのは本当だって気がするんです」
「へぇ……なかなかいい線を行っているわね」
「そうですか?」
 遥が褒めたので、みらは自分の考えが間違っていないんだと思って安心した。しかし、みらの考えが〈いい線を行っている〉となると、別の疑問が生まれた。
「でも、そうだとしたら、変ですよ。この前、遥さんは魔法のことを信じてもいいんじゃないかって言っていましたよね?」
「そうね」
「でも、こんな宿題を出す遥さんが、魔法はあるって信じてもいいって言っているのは、何か意味があるんじゃないかって気がするんです。それこそ、信じられないことなんですけど……」
 みらが言い澱んでいると、遥があとを続けるように尋ねた。
「魔法は『信じていい』っていうこと?」
 みらは黙ってうなずいた。
「では、問題です。魔法はあるのでしょうか? ――みらちゃんはどう思う?」
 遥がおどけて言った。
「なにを言い出すんですか、遥さん!」
 みらは笑いながら言って、それから少し考えた。
「うーん、遥さんが魔法を信じているとして……わたしは遥さんのことが好きだし、うそをつくような人には見えませんけど――でも、それだけじゃわたしが魔法を信じていい理由にはならないと思います」
「それで?」
「だから、魔法はありません、というのがわたしの答えです」
「はい、よくできました」
 遥はにこやかに笑って答えたけれど、みらはどうも釈然としなかった。みらがどう答えても遥はその答えを肯定するような気がした――本当はどうなんだろう? 魔法が本当にないことを確かめる方法はあるのだろうか?


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5 信じたいこと、信じていいこと(7)

 学校――一日の授業が終わって下校の時間になった。みらは昇降口から出て空を見上げた。
「雨、降りそうだね」
 あとから出てきたやよいも空を見上げた。
「そうね。きのう梅雨入りしたってテレビで言っていたから、しばらくはこんな天気よ、きっと」
 下り坂になっている帰り道の左手に見える海も鉛色にうねっていた。
「きょうの海は一段とすごい色になっているね」
 みらにそう言われてやよいも海を見た。
「見ているだけで、重苦しくてブルーになるわね」
「海はブルーじゃないのにね」
 ふたりして、あははと笑った。みらが真顔の戻って言った。
「でも、おもしろいよね」
 やよいが笑ったままみらを見た。
「え、今の駄洒落のこと?」
「えーっ、あれが? 海のことだよ」
「海?」
「海が晴れて海がキラキラ光っていると楽しくなるし、きょうみたいな日は気分まで憂鬱になるし、台風で大波のときはわくわくするし……、海はいつだって海なのに、海の景色が変わると気分まで変わるよね」
「わたし、海が荒れていると不安になるけどな――でも、言われてみれば……そうなのかなぁ? 景色によって気分が変わるのって、当たり前のような気もするんだけど……?」
 やよいはみらがどうして「おもしろい」と思うのか、わかりかねていた。やよいにとって、天気や景色によって気分が変わるのはとても普通のことで、あえて不思議だとか、なぜだろうとか、思ったことがなかった。
 やよいがみらのことを不思議に思っていると、当のみらは脈絡もなく別の話題を振ってきた。
「やよいちゃん、きょうは魔法堂に行くの?」
「え? うん。みらちゃんもいっしょに行きましょうよ」
「うん、いいけど……。やよいちゃん、しょっちゅう同じ店に行っていて飽きない?」
「そんなことないわ。あの店、毎日少しずつ新しい魔法グッズが入っているのよ。そういうのを見つけるのが楽しみなの。みんなおんぷさんの手作りなんだって」
「へぇ。おんぷさんって人気のあった女優さんなんでしょ? そういう人が手作りでアクセサリーを作っているんだったら、宣伝したらもっと売れるんじゃないの?」
「でも、おんぷさんはやっぱり目立ちたくないみたい」
「おんぷさんって欲がないのかな? それとも、たくさんお金儲けしちゃったから、もういいのかな?」
 みらは不思議に感じた。
「それはそうと、みらちゃんも魔法堂に行かない?」
「いいけど――たまにはやよいちゃんも吹きガラスをやろうよ。おもしろいよ」
「火を使うんでしょ? それもガラスが融けるくらいの……。熱くない?」
「うーん……ちょっと熱いかも? でも危なくないよ。遥さんがずっとついていてくれるから」
「そう?」
「うん、そうだよ!」
 それから五叉路に着くまで、みらは吹きガラスがどんなに楽しいかを得々と話して聞かせた。

「遥さーん、こんにちはー」
「こんにちは。お邪魔します」
 みらは大声で作業場の中へ声を掛け、その脇でやよいが会釈した。工房から遥が出てきた。
「いらっしゃい、みらちゃん。やよいちゃんは久し振りね。こんにちは」
「わたしはきょうでまだ二回目なのに、遥さんは覚えていらっしゃるんですか?」
 やよいは遥に名前を呼ばれて驚いた。遥は当然のように答えた。
「ええ、わたしの工房はあまりお客さんの来ないところだから、来た人のことはたいてい覚えているわ」
「もしかしたら、ここに来たことがある人って、わたしとやよいちゃんとお母さんだけなんですか?」
「そうねぇ……、今のところ、そうなるわね」
 遥は少し宙を見ながら考え、それから、考えるまでもない答えを答えた。みらは少し心配になって尋ねた。
「このお店、お客さんが来なくても大丈夫なんですか? その、店の売り上げとか……」
「あら、心配してくれるの? ありがとう。でも、ここは大丈夫よ。工房を続けていけるくらいには売り上げはあるから。それに、ここはね、お店じゃなくて工場だから、お客さんが来なくて当たり前なのよ。お客さんが品物を買いに来るんじゃなくて、わたしが品物をお店に売りに行くの」
 遥に言われて、みらも気がついた。
(そうか。考えてみたら、ここはお店と違って品物を見たり買ったりするスペースがないものね)
「みらちゃん、きょうも吹きガラスをやっていくでしょ?」
「はい。遥さん、よろしくお願いします!」
 みらはそう言ってから、
「やよいちゃんも吹きガラスをやってみようよ。おもしろいよ」
「う、うん……」
 やよいはあんまり乗り気ではなかったけれど、下校のときからみらが熱心に勧めていたので、とにかく一度は試してみることにした。やよいは遥の前に出た。
「やよいちゃんは一回見たことがあるから、だいたいわかると思うけど、念のため、もう一度説明するわね?」
「は、はい、お願いします」
 遥は吹き竿を手にとって手順を大まかに説明した。
「やよいちゃんは初めてだから、吹き竿を吹くところだけやりましょう。ガラスを暖めたり吹き竿を回したりするのはわたしがやるわ」
 やよいは作業台の前に立ち、遥から下玉の付いた吹き竿を受け取った。やよいが恐る恐る吹くので、ガラスは大きく膨らむ前に冷えてしまった。
「やよいちゃんは用心深い子なのね。もっと大胆に吹いても大丈夫よ」
 遥に何度か暖め直してもらって、やよいはようやく小さなグラスを作り上げた。
「あのー、これは頂けるんですか?」
「ええ、もちろんよ。でも、今すぐに持って帰ることはできないわ。一晩掛けて熱を取って、出来上がりなの」
 そう言いながら、遥はやよいの作ったグラスを徐冷炉に入れた。
 三人は窓際の椅子に座った。テーブルには遥の運んできたジュースが配られていた。きょうは黄色いグラスにオレンジジュースが注がれていた。
「どうして冷すのにわざわざお窯に入れるんですか? 外に出した方がずっと早く冷めると思うんですけど」
 やよいが質問した。遥はテーブルの上に並べられたガラス器の中からタンブラーを取って目の前に上げると、それを通してやよいを見た。
「ガラスって透き通っているでしょ?」
「はい」
「これはね、液体の特徴なの。ガラスは水なんかと同じ液体なのよ。ただ、流れるのがとても遅いだけ。水だったら容れ物の形に合わせて、自由に流れてしまうけれど、ガラスを吹いてかたちを作ったとき、ガラスの分子が動いて、その形に合うように並ぶまで時間が掛かるのよ。だから分子がちゃんと並び終えるまで、なるべく動きやすいようにゆっくり温度を下げるの。そうしないと、ガラスの中にゴムを強く引っ張ったみたいな部分ができて、ちょとしたことでそこから割れてしまうのよ」
 やよいは遥の説明を熱心に聞き、みらは目に見えないガラスの中の世界でなにが起きているのか、一所懸命想像しようとした。

「わたしさ、吹きガラスのことをもっとたくさん覚えたいって思っているんだ」
 工房からの帰り道、みらはやよいに話した。
「どうして?」
「自分の手で物を作るのって、すっごくおもしろいんだ。学校の勉強は紙と鉛筆だけでできた気分になれるけど、吹きガラスってなかなか思い通りにできないんだよね。それが悔しくてついむきになっちゃうし、少しでも思った通りになるとちょっと嬉しくなっちゃう」
「じゃあ、みらちゃんは将来、遥さんみたいな吹きガラス職人さんになるの?」
「今から将来なにになるか決めることはできないけれど、今は吹きガラスをやってみたいんだ」
 やよいは歩きながら考えていた。
「……ひょっとして、みらちゃんはそういう話がしたくて、わたしを遥さんの工房に誘ったの?」
「え? そういうわけじゃなかったけど……。でも、やよいちゃんにわたしの好きなことを見てほしいって気持ちはあったかも。それで、できれば、やよいちゃんもわたしと同じものを好きになってほしいなって……」
「ごめんね、みらちゃん――」
 やよいが立ち止まってみらに謝った。
「どうしてやよいちゃんが謝るの?」
「わたし、吹きガラスはちょっと……。ガラスはきれいだと思うけど、暑いのはちょっと苦手だな」
「なんだ、そんなことかぁ。ううん、やよいちゃんが苦手でも、わたし、気にしていないから」
 みらにそう言われてやよいはにっこり笑った。
「うん――今度、みらちゃんの作ったもの、見せて」
「ええー!? でも、へたっぴだよ? 見せたくないなー」
「でも、見たい!」
「しょうがないな、じゃあ、今度ね」
 いつもの五叉路でふたりは手を振って別れ、それぞれの家へ帰った。


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6 旅の始まり(1)

「お母さん、遥さんのところに行ってくるね」
 みらは玄関を出て数歩歩いたところで空を見上げた。どんよりとした曇り空だった。天気予報は「きょうは一日中曇り。雨は降らないでしょう」と言っていたし、今の空模様もこれ以上崩れそうには見えなかったけれど、みらは、万一、雨になったら濡れるのは自分だと思い、いったん引き返すと水色の傘をぎゅっと握って駆け出した。

 みらが遥の工房に通うようになって何日も経った。最初、みらは吹き竿を吹くだけで他の工程はほとんど遥がやっていたけれど、そのうち紙リンを使ってかたちを整えたり、洋バシでコップの口を挟んで広げる作業を教わった。始めのうち、紙リン越しとはいえ熱いガラスに触れるのは緊張したものの、すぐに慣れて、みらはひとりで吹き竿を回しながら好きなかたちにガラスを作れるようになった。
 みらの机の棚には自分の作ったコップが右から順に並んでいた。コップは一つ目、二つ目とかたちが整っていくのに、三つ目で表面がでこぼこになる。四つ目では口の部分が歪んでいる。これはみんな、それまで遥がやっていた作業にみらが挑戦した証だった。みらは毎日歪んだコップを眺めながら、どうしたらうまく作れるようになるかを考え、何かアイディアを思いつくと遥の工房で試したくなった。
 今もみらは遥の工房で一心不乱にガラスを吹いていた。白い石英の砂が炉の中でどろどろに融け、吹きながらかたちを付けて冷すとコップになる――熱すれば融ける、冷やせば固まるという教科書みたいなことが、この工房では、きれいとか、涼やかとか、そういう心に響くかたちになった。それがみらにとっては不思議でもあり、興味を引かれることでもあった。

「あつっ!」
 みらは小さく叫ぶと慌てて手を引っ込めた。紙リンでかたちを整えている最中に、うっかりガラスの表面に触れてしまったのだ。手を引っ込めたはずみにガラスも歪んでしまった。自分の右手を見てみると小指の付け根のところが赤くなって、ずきずきと痛んだ。遥もみらの様子を心配して後ろから覗き込んだ。
「あら、火傷ね。見せて」
 みらは遥に右の手のひらを差し出しながら言った。
「平気、平気。このくらい大丈夫です」
「ええ、大したことはないみたいね。でも、火傷は最初にちゃんと手当てしておかないとあとで痛くなったり跡が残ったりするのよ」
 遥はみらの手首をつかんで流し台に連れて行き、しばらく蛇口の水を火傷に勢いよく掛けてから、塗り薬を取って塗った。みらは(ちょっとひりひりする程度なのに、ずいぶん大袈裟だな)と思いながら遥のしていることを見ていた。
 遥と一緒に作業場に戻って、みらは作業台に置いたままの吹き竿とその先のガラスを見た。ガラスはすっかり冷えて固まっていた。
「ガラス、曲がっちゃった……」
「大丈夫よ。こうやって暖め直せば続きはできるわ」
 遥はそう言いながら、みらの吹き竿を取り上げると溶解炉の中に入れた。しばらく炉の中で竿を回して引き抜くと、再び柔らかくなったガラスが出てきた。遥はちょっと息を吹き込んでかたちを整えて見せた。
「すごい! 元通りだ」
「だいたい、ね――あとはわたしが仕上げるわ」
 遥は手際よくガラスのかたちを整え、最後にポンテ竿から切り離すとそれをみらに見せた。
「はい、出来上がり。どう?」
「遥さんは手際がいいですね。わたしもそんなふうに作れるようになりたいな」
 みらは感心しっぱなしだった。

 遥は出来上がったばかりのコップを徐冷炉に入れると、みらとふたりで窓際の席に座った。
「わたしもたくさん火傷したわ。ほら」
 そう言いながら、遥はみらに両手を見せた。手のひらにも甲にも大小さまざまの火傷の跡があった。みらは驚いて思わず凝視してしまった。
「うわあ、意外! 遥さんは吹きガラスが上手で、火傷なんてしない人だと思っていました」
「あら、そんなことないわ。わたしだって始めたばかりの頃は初心者でたくさん失敗したし、今でもたまに火傷することはあるのよ」
「それにしても、たくさんありますね」
「そうね。吹きガラスを始めてから長いからね。幸いひどい火傷はしなかったけれど、でも火傷の跡は消せないから」
 遥はそう言って笑った。
「遥さんも火傷をしたら、すぐに手当てするんですか?」
「作品を作っている最中だと、たいてい作品の方を一気に仕上げちゃうわね。作品作りには勢いも大切だから」
「じゃあ、何でわたしはすぐに手当したの?」
「火傷はね、手当てをしないで放っておくと、いつまでもずきずきして、跡が残っちゃうの。でも、すぐに流水で冷やせば、小さなものならほとんど跡が残らないのよ。みらちゃんはまだ小学生でしょ。小学生のうちから火傷だらけというのはかわいそうだし、わたしがみらちゃんのお母さんに怒られてしまうわ」
 そこまで言うと遥はまた笑った。
「それに、わたしの作っている物は売り物だから、ちゃんとした物を作らないといけないけど、みらちゃんのはそうじゃないから、怪我を我慢してまでやらなくてもいいのよ」
「……そうですね――」
 みらはそう言って少し考え込んだ。
「ねぇ、遥さん。自分で作ったガラスの作品を売るのって楽しいですか?」
「ええ、とっても。今はお店に卸しているけれど、最初は自分の作ったものを自分で売っていたのよ。自分の気に入った作品が高く売れると、ああ、この人も気に入ってくれたんだなってわかって、とっても嬉しいわ」
「わたしも自分で作った吹きガラスを自分で売ってみたいな。早く遥さんみたいに上手になりたいです――そうだ、遥さんの弟子にしてもらえますか?」
「うーん……そうね、いいわよ」
「やったー」
 みらは小躍りした。
「でも、みらちゃんが、そうね――高校生くらいになっても吹きガラスのことを覚えていたらね」
「えっ、どうしてですか?」
「近々、わたし、ヨーロッパに行くことにしたの。ベルギーっていう小さな国よ。それから、あちこちを移動して――そうね、五年か十年くらいしたら、また美空町に帰ってくるかもしれないけれど」
 思ってもみなかった遥の言葉で、みらは目の前が真っ暗になった気がした。
「そんな……、急ですね……。いつ、出発するんですか?」
「そうね、荷物をまとめて飛行機を予約して――来週くらいかしら?」
 遥は考えながら答えた。
「前から決まっていたんですか?」
「行くことにしたのは今朝よ」
「あ、あのう……、準備とか手続きとか、そういうのはないんですか?」
「飛行機が取れたらおしまい。慣れちゃうとね、海外に行くのも隣町に行くのもあまり変わらなくなるのよ。特急列車に乗るのと同じような感覚かしら?」
「そうなんだ……」
 みらは放心していた。これから遥のところに通って、吹きガラスのことをたくさん教わろうと思っていた矢先、その遥が突然いなくなってしまうのだ。
(――遥さんがいなくなったあと、わたしはどうしたらいいんだろう?)
 途方に暮れているみらに遥が話しかけた。
「そうだ、みらちゃん。この前、みらちゃんのお母さんが作ったグラスがあるの。ずっと渡しそびれていたのよ。持っていってもらえるかしら?」
「う、うん……」
 みらは半ば放心状態のまま、遥から差し出された紙の手提げ袋を受け取った。


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6 旅の始まり(2)

 遥から託された手提げ袋を胸にしっかりと抱えて、みらは家路をとぼとぼと歩いていた。
(遥さん、行っちゃうんだ……。高校生になっても吹きガラスのことを覚えていたら弟子にしてくれるって遥さんは言っていたけど、五年も先だよ。その頃のわたしってどうなっているんだろう? 小学校を卒業して、中学校も卒業して、高校生? そんな将来ことまで想像できないよ。そんな先まで、吹きガラスを続けているかなぁ――)
 そんなことを考えながら、みらは空を見上げた。空は相変わらず底の高い雲に覆われ、これから雨になるのか晴れるのか、わからないままだった。まだ日没までには時間があるというのに、辺りはすでに薄暗くなっていた。

「ただいま……」
 みらは力無く玄関を開けた。母が元気のない声を気にしてダイニングから顔をのぞかせた。
「お帰り――どうしたの、みら?」
 みらは無言で母の脇をすり抜けて、ダイニングに入った。あとから母もついてきた。
「はい、これ。お母さんのだよ」
 みらは持っていた手提げをテーブルに置いた。
「なんだろう?」
 母が包みを開けると、中からピンク色の凹んだボールのようなかたちのコップが出てきた。
「あ、これ、この前、お母さんが遥さんのところで作ったやつじゃん。持ってきてくれたんだ。ありがと、みら。遥さんにもお礼しなきゃ」
 嬉しそうにしている母を、みらはちらっと見て、水を差すように言った。
「お礼に行くなら早くした方がいいよ――行っちゃうから」
 母は、一瞬、「どういうこと?」というような顔をして、すぐに悟った。
「行っちゃうって――ああ、遥さん、また外国へ行っちゃうんだ?」
「うん。来週には出発しちゃうみたい――って、何で外国だってわかったの? それに、『また』ってどういうこと?」
「えーと……。そうそう、遥さんのお母さんがそういう人だったから、娘さんも似ているのかなって思って……」
 みらに訊き返されて母はちょっと言葉に詰まってから、何だか言い訳みたいなことを答えた。みらはそれ以上追求する気になれなかった。
「お母さんさぁ……」
「なぁに、みら?」
「お母さんは遥さんのお母さんと知り合いだったんでしょ?」
「未来さんのこと? うん、そうだよ」
「遥さんって未来さんに似てる?」
「そりゃもう、そっくりさ」
 そう答えた母は苦笑いしているように見えた。きっと、遥さんは未来さんと呆れるくらいよく似ているのだろう。そうだとしたら、未来さんのことを訊けば、遥さんのこともわかるかもしれない――そんなことをみらは考えた。
「未来さんも世界中を旅していた人、だったよね?」
「そうだよ。美空町には一週間もいなかったかな?」
「えっ、そんなに短かったの? それでよく未来さんのことを覚えてるね」
「うん。すごく印象深かったからね。そういうことはいつまで経っても忘れないるものなんだ」
「そうなんだ……」
 みらはそう言ったきり、黙って母の作ったコップを見ていた。淡いピンクの彩色と真球から外れた凹んだかたちを見ていると、緊張が解けて穏やかな気持ちになった。みらがしばらくそうしていると、母から話しかけてきた。
「みらも遥さんと外国へ行きたい?」
「えっ、わたしが遥さんと外国へ!? うーん、行ってみたいけど、小学生じゃ無理だよね……」
「お母さんも悩んだんだよね。未来さんと一緒に行こうか、どうしようか」
「へぇー、お母さんにもそんなことがあったんだ?」
「うん。お母さんはね、未来さんから『一緒に来る?』って、誘われたんだ」
「いいなぁ、わたしは遥さんに誘われなかったよ。でも、結局、お母さんは未来さんと一緒に行かなかったんでしょ? それでよかったと思う?」
「それでよかったのか、今でもわからないよ。未来さんについて行ったらどうなっていたかなんて、今じゃ全然想像できないし、未来さんについて行かなかったから、お父さんと結婚して、みらたちが生まれたんだし」
「わたしが遥さんと一緒に行きたいって言ったら、お母さんは止める?」
「普通の親だったら止めるんだろうけど、お母さんは自分もそうだったから止められないな。でも、普通の親なら止めるんだろうな――」
 普通の親だったら悩まないようなことで母は悩んでいた。でも、こういう悩み方は行ってもいいということかもしれないと思って、みらは尋ねた。
「じゃあ、遥さんと一緒に行ってもいいの?」
「うーん、いいけど、うちにみらの旅費はないよ」
「あ、そうか。お金が要るよね、やっぱり」
(そうだよね。お金はないし、学校だってあるし、第一、お母さんややよいちゃんとすっと離れ離れなんてやだな。……〈しがらみ〉ってこういうことをいうんだっけ)――脈絡のないことをみらが考えていると、玄関から声が聞こえた。
「ただいまー」
 どこかへ遊びに行っていたふぁらが帰った。


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6 旅の始まり(3)

 一日の授業が終わって、みらがのろのろと勉強道具をランドセルにしまっていると、やよいが振り向いた。
「みらちゃん、一緒に帰ろ」
「あ、うん――」
 みらは教科書やノートを適当に放り込むと、やよいに曳かれるようにして教室を出た。
 昇降口の外は朝からの雨がまだ降り続いていた。学校帰りのいつもの坂道。ぱたぱたと傘に当たる雨の音だけが聞こえていた。いつもと違って口数の少ないみらがやよいには気掛かりだった。
「みらちゃん、最近、元気ないみたいよ。どうしたの?」
「そうかな……?」
「うん、そうよ。授業は上の空だし、給食のときだってわたしより食べるの遅いし――」
「そんなにひどいかなぁ?」
 みらは聞き返したけれど、本当にひどいということは自分でもわかっていた。確かにやよいの言う通りだった。算数の時間はつまらない計算間違いをするし、給食の時間は気がつくとやよいが先に食べ終わっているし、それになにを食べてもおいしくなかった。そして、きょうは国語の授業中に社会の教科書を朗読して一躍クラスの人気者になってしまった。でも、そんなことになっても、みらは恥ずかしいとは思わなかった。むしろ、どうでもいいや、という気持ちになっていた。
「遥さんのことが気になるの?」
 やよいが単刀直入に訊いてきた。
「え?」
「遥さんがいなくなるって、そんなにショックなことなんだ?」
「うーん――やっぱりショックっていうんだろうな」
 みらは俯いて話し始めた。
「遥さんが外国へ行っちゃうって聞いて、最初は『ふーん、そうなんだ』って思っただけだったんだけど、日が経って遥さんの出発が近づいてくると、だんだん落ち着かなくなってきて、何かが胸から抜け落ちて、ぽっかり穴が空いたみたいな感じがするんだ。本なんかで、よくそういう表現があるじゃない? あれ、例えなんかじゃなくて、本当に文字通りそんな感じになるんだね。発見しちゃった」
 気がつくとやよいが心配そうにみらの顔をのぞき込んでいた。
「あは、あはは……。大丈夫だよ、やよいちゃん」
 みらはやよいの方を向くと、にっと笑って見せた。
「遥さんがいなくなるのは寂しいけど、吹きガラスは続けられると思うんだ。だって、わたしのお母さんも、昔、遥さんのお母さんに教わった吹きガラスを今でも続けているんだもん、わたしだってずっと続けられるよ」
「そうだったわね。みらちゃんのママはときどき吹きガラスをやっているんだもの、ガラス工房のあるところもみらちゃんのママなら知ってるよね」
「うん」
 みらは大きくうなずいてやよいに笑顔を見せた。みらが元気になったようなのでやよいは安心した。
「わたしだったら、もし、魔法堂がなくなることになったら、やっぱりショックだろうな。近所に替わりになるお店ってないから」
「やよいちゃん、魔法堂が好きだもんね。でも、魔法堂は世界中にあるみたいよ」
「へぇ、そうなの?」
「遥さんがそう言ってたんだ――それに魔法堂はなくならないってことも。だから安心していいよ、やよいちゃん」
「へぇ、みらちゃん、よく知ってるね」
「えへへ……」
 むやみに人の言うことを信じるのはよくないと遥から教えられたのに、みらは自分が何も考えずに遥の受け売りをしていると思って、苦笑した。それから、みらはぽつぽつと話し始めた。
「遥さんって不思議な人なんだ。ちょっと見には気立てのいいお姉さんって感じだけど、話をしていると、世界中を旅しているせいか、普通の人とはどこか違うというか……。どう言ったらいいんだろう? 遥さんはわたしたちとは違う世界の人って感じがするんだ」
「……何だか、みらちゃんらしくない言い方ね」
 今のみらが、普段の理知的なみらとは違った、漠然とした感覚的な言い方をするのでやよいは不思議に思った。
「そう? でも、わたし、すごく気になるんだ、遥さんがなにをやってきたのか、これからどうしていくのか……。それをずっと見てみたいから、遥さんと一緒に行きたいって思うんだ――もしさ、わたしがもう少し大きくなってから遥さんと出会っていたら、きっとついて行っちゃうな」
「みらちゃん、遥さんは五年くらいしたら、また美空町に帰ってくるって言っているんでしょ?」
「うん、そうだけど?」
「そのときは遥さんと一緒に行っちゃえば?」
「それって、家出を勧めてるの? やよいちゃん、大胆だね」
「あ……、そうなるわね。でも、高校を卒業するくらいになったら、家を出てもいいんじゃない?」
「うん、そうかもしれない。今だって、お母さんは遥さんについて行くこと自体は反対していないから」
「珍しいお母さんね。自分の子供が知らない人について行くことに反対しないの?」
「遥さんはお母さんの知っている人の娘さんだから、知らない人ってわけでもないよ」
「そうなるのかしら? それじゃ、なんで今一緒に行けないの?」
「お金がないから。旅費がないのについて行って、遥さんに迷惑を掛けるわけにはいかないでしょ?」
「そうよね」
 やよいはあまりにも簡単でわかりやすい理由だったので拍子抜けした。
「でも、やっぱり五年って長いよね。そんなに待てるかなぁ。そうかといって今は、旅費はないし、学校は行かなくちゃいけないし――それにやよいちゃんと離れ離れになるのはやだから、このまま美空町に住んで学校へ行きながら、遥さんと一緒にヨーロッパに行くなんて虫のいい方法って――やっぱり、ないよね」
「そんなときは魔法を使うのよ!」
「や、やよいちゃん……」
 やよいが唐突に魔法の話を始めたので、みらは呆気に取られた。
「自分に魔法が使えたらどうやって解決しようかって想像するのは楽しいし、気が紛れるわよ」
 やよいに言われて、みらも付き合うことにした。
「やよいちゃんはなんでも魔法だね。でも、魔法でどうやるの?」
「例えば……、遥さんの用事が急になくなるとか、遥さんが美空町を好きになるとか、かしら?」
「いくら魔法でも、そんなことできるのかな? それより、遥さんの用事ってことは、つまり遥さんを待っている人がいるってことじゃないの? その人のことを魔法でどうにかしちゃっていいのかなぁ?」
「うーん……、そうかも」
「それよりさ、遥さんが美空町にいるようにするんじゃなくて、遥さんのいるところまで魔法で一瞬のうちに往復するっていうのはどう? どこにも行かない遥さんは遥さんじゃないような気がするんだ。やっぱり、遥さんは世界中を旅する人じゃないと……。それにヨーロッパ観光もできてお得だと思うけど?」
「そういうのもいいわね」
 ふたりは魔法を使ってどうしようか、あれこれ想像しながら歩いた。
「――やっぱり、魔法が本当にあったら、いいよね」
「そうよね……。わたしも自分が魔法使いだったら、みらちゃんのために何かしてあげられるんだけど――」
 そんな話をしているうちに、いつの間にか五叉路についていた。
「じゃあ、わたしはピアノのレッスンがあるから、きょうはここでお別れね」
「あ、うん。ありがとう、やよいちゃん」
「え、どうして?」
「やよいちゃんと話して元気になった。じゃ、またね。ばいばーい」
 みらとやよいは手を振りながら別れた。

 遠ざかる赤い傘を見送って、みらは五叉路の真ん中にひとり取り残された。
(もし、魔法が使えたら確かに便利だなぁ。ベルギーっていう国の遥さんの引っ越し先を探して、週末にそこまでひとっ飛びで移動して、その日のうちに帰ってくる、なんてことができるようになるのかな? 魔法なんてあるとは思えないけど、遥さんと話したときは、ないって言い切ることができなかったな。そういえば、お母さんは魔女になる方法を話していたっけ。確か、魔女から魔女見習いにしてもらって……。でも、そもそも魔女なんて見たことないよ)
 みらはそんなことを考えながら歩いていた。五叉路から自分の家まで目と鼻の先だというのに、知らず知らずのうちに家とは違う方向へ向かっていた。


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6 旅の始まり(4)

(信じてもいないのに魔法に頼ろうとするなんて、わたしらしくないな)
 そう思ったけれど、みらの気分は遠足の前の晩にてるてる坊主を作りたくなるのに似ていた。自分の力ではどうすることもできないとき、まじないみたいな不思議な力に頼りたくなるものらしい。
(でも、魔法が使えたらいいのにな……)
 …………。
「あれっ、ここは!?」
 辺りを見渡すと、そこはいつもの帰り道ではなかった。見覚えはあるけれど、今、歩いているはずではない道――みらは魔法堂へ続く細い道を歩いていた。
(変だな。家に帰るつもりだったのに、なんでこんなところを歩いてるんだろう?)
 みらは奇妙に思いながら、でも、引き返えそうとも思わなかった。せっかくここまで来たんだし、このまま魔法堂まで行ってしまおうと思った。

 しとしとと降り続ける雨の中で、魔法堂はやけに黒く大きく見えた。頭では錯覚だとわかっていたけれど、その重厚な雰囲気にみらは気圧されていた。
(普段はそれほどでもないのに、こんな天気の日に見ると全然違って見えるんだ――)
 みらはドアノブをつかんで恐る恐る引き、魔法堂の中へ入っていった。
 店内は薄暗かった。窓から十分な明かりは採れず、店の中の照明は奥のカウンターに一本のろうそくが点っているだけだった。その炎の向こうに誰の人影が見えた。顔はよく見えなかったけれど、魔法堂のカウンターに座る人はひとりしかいないはずだった。
(あの人はたぶん、おんぷさん。いつもの魔法堂と変わりはないと思うんだけど――このお店、こんなに暗かったかな?)
 魔法堂はやよいと何回か通っていてよく知っているはずなのに、暗いだけでこんなにも雰囲気が変わるものなのだろうか? これでは「カウンターにいる人は、実は人間ではない」と言われても信じてしまいそうだった。
 みらが不思議に思っていると、カウンターの人物が声を掛けてきた。
「いらっしゃい、みらちゃん。何をお捜しですか? それとも――何か願い事があるのかしら?」
 おんぷの声だった。みらはその声にはっとした。薄暗い中から声を掛けられたことにも驚いたけれど、その内容にも奇妙なニュアンスを感じた。買い物にきた人に対して「何をお捜しですか?」と尋ねるのは珍しくないけれど、「願い事があるのですか」という質問は、普通の買い物客に言わないし、みらもそんなことを言われたことはなかった。これはまるで、魔法堂には願い事を叶える方法がある、と言っているみたいだ。
 おんぷと思しき人影がそっと顔を上げ、ろうそくの橙色がかった弱い光がその顔を照らした。その人物はおんぷにそっくりだったけれど、みらの知っているおんぷとは違う人みたいだった。
 おんぷの顔をしたその人は「にや」と笑った。
「お、おんぷさんって、魔女……?」
 みらは思わず口走ってしまった。さっきまでずっと、「魔法があったら便利だろうな」ということを考えていたせいで、みらにとって非常識この上ないことをつい言ってしまった。
「あ、おんぷさん、すみません。変なことを言ってしまって……」
 謝ろうとしたみらの目の前で、おんぷの姿が不規則に歪んで縮み始めた。
「あ、あれ? おんぷさん、どう――」
 みらが「どうしたんですか?」と言い終わらないうちに、おんぷは緑色のゴム毬のようなカエルのような生き物になってしまった。いったいなにが起きたのか、みらには見当がつかなかった。
 そのカエルのような生き物は満足げに話した。
「どう? 迫真の演技だったでしょ? みらちゃんに『魔女』って言わせるのは大変だと思ったから、わたしも真剣勝負よ。久し振りに女優の血が騒いだわ」
「ええっ?? おんぷさん、なんですか?? どうして――」
 みらは驚きのあまり、口をパクパクさせるだけで、二の句が継げなかった。
「わたし、元女優だから、お芝居は得意なのよ」
(そうじゃない、わたしが訊きたいのはそういうことじゃない。えーと、なんだっけ? どうしてわたしに魔女と言わせたかったの? いやいや、それより、どうしておんぷさんはこの変な姿になってしまったの? って言うか、そもそも、その姿はなんなの? ――あーっ、もうっ! 何から訊いたらいいか、わかんないよぉ!)
 みらの頭の中で自分の訊きたいことがいっぺんにいくつも湧いてきて、ぐるぐる回っていた。その様子を見ていたおんぷは、
「うふふ。みらちゃんってしっかり者に見えるけど、やっぱりどれみちゃんの娘さんね。いいわよ。訊きたいことはだいたいわかるから教えてあげる――魔女はね、自分の正体を人間に言い当てられると、魔女ガエルになってしまうのよ」
「魔女ガエル!? じゃあ、お母さんがよく話してくれた魔女の話って、本当のことだったんですか? ――あれ? この前、やよいちゃんがおんぷさんに『魔法使いさん?』って聞いたときは魔女ガエルになりませんでしたよ?」
「きっと、やよいちゃんはわたしの出ていたドラマが大好きだったせいで『魔法使い』って言ったのね。でもね、魔法使いは魔法を使う男の人のことよ。英語ではmagicianって言うの。魔法を使う女の人は魔女で、英語ではwitchよ。日本語だと似ているけど、本来は全然違う単語なの。もちろん、わたしは女だから魔法使いじゃなくて魔女なのよ」
「お母さんが魔女の話ばかりするから……」
 みらは恨みがましく言った。
「そういえば、お母さんは何で魔女のことをあんなに詳しく知っているんだろう? おんぷさはお母さんと昔からの友達みたいですけれど、何か知っていますか?」
「うふふ、知っているかも。でも、それはわたしから話すより、みらちゃんからお母さんに聞いてみた方がいいと思うわ」
「はあ……」
 何でだろうと思いながらも、みらはうなずいた。それから、
「あのー、おんぷさんを魔女ガエルにしてしまって、ごめんなさい。元に戻す方法はないんですか?」
「一つだけあるわ。みらちゃんが魔女になって、わたしに元の姿に戻る魔法を掛けるの」
「それは大変なんですか?」
「どうかしら? 魔女見習いになって、九級から一級の試験に合格すればいいだけよ。やることは学校のテストとだいぶ違うけど、みらちゃんならそんなに難しくないと思うわ」
 そう言われて、みらは考え込んだ。
「どう? 魔女見習い、やってみる? もちろん、無理にとは言わないわ。わたしもこの姿は別に嫌じゃないから。むしろ、みらちゃんが魔女見習いになって、万一、人間に正体を言い当てられたら、みらちゃんもこの姿よ?」
「うーん――それでもいいです。おんぷさん、わたし、魔女見習いになります!!」
 みらは力強く答えた。
「いいの?」
 おんぷは念を押すようにみらに尋ね、みらはきっぱりと答えた。
「はい。やっぱりおんぷさんには元の姿に戻ってほしいし、実はわたし、本当にわたしらしくないんですけど、ここに来る直前、魔法が使えたらいいのになって真剣に思っていました」
「やったー! 決まりね――ロロ! 例のものを!」
 おんぷが天井に話しかけると、少しの間、ドタバタという音がしてから、ホコリまみれになったロロが黒い小さなケースを持って飛んできた。
「もう、おんぷったら女王様の真似をして――『例のもの』だけじゃわからないわよ!」
「ちゃんとわかってるじゃない、ロロ」
 そう言いながら、おんぷはロロからケースを受け取ると、みらの方に向き直ってケースの中から大きなブローチのようなものを取り出した。
「これは魔女見習いタップ。以前、わたしが魔女見習いだった頃に使っていたものよ。お下がりになるけれど我慢してね」
「そんなぁ……、気にしないですよ、全然」
 みらはやよいに済まなく思いながら、おんぷからタップを受け取った。
 タップは手のひらからはみ出すほどの大きさで、真ん中に音符のかたちをしたボタンが一つと周りに円いボタンが八つ付いていた。
「それじゃ、タップの使い方を教えるわね。まず、真ん中のボタンを押してみて」
 みらは言われたとおりにボタンを押した。すると、リズミカルなメロディとともに水色のひらひらした服が飛び出した。
「あっ! 何、これ!?」
「驚いている暇はないわよ。音楽が鳴っている間にその服を着るの」
「あ、う、うん」
 みらは両手を伸ばして空中の服を引き下ろし、頭からすっぽりと被った。おんぷは着替えたみらをまじまじと見つめた。
「よく似合っているわよ、みらちゃん。それは見習い服といって、魔女見習いが魔法を使うときに着るものなの――わたしのときは紫色だったけど、人によって色が変わるのね」
「服の上から着たのに、モコモコしないんですね」
「魔法の服だから、そうできているのよ。まあ、中を見てみたらわかるわ」
 みらは見習い服の襟口から中を覗いた。
「あ、ブラウスがなくなってる!」
「そういうこと。それと着替えたときの決めポーズを考えなくちゃね」
「それも魔女見習いに必要なんですか?」
「ううん、必要ないわ。でも、かわいいじゃない」
「じゃあ、誰かに見せるんですか?」
「あら、誰かに見られて正体がばれたら魔女ガエルよ」
「えーっ? おんぷさん、言っていることがわけわからないですよ」
 おんぷは、あはははは、と笑った。
「次はタップの外側のボタンの使い方を教えるわね。このボタンは押すと音が鳴るのよ。一番上から時計回りにドレミの順にならんでいるから、ド、ミ、ソ、ドと押してみて」
「はい」
 みらが言われたとおりにタップのボタンを押すとスティックのようなものが飛び出した。それをみらは宙で捕まえた。
「これはファミファミポロン、これで魔法を使うのよ」
「これは――魔法の杖ってやつですか?」
「楽器の一種だと思って。これを振ると音楽が鳴るから、その間に呪文を唱えて願い事を言うのよ」
「これで魔法が使えるようになるの? なんだか不思議……」
 みらはポロンをじっと見た。握りから先のところは透明な筒になっていて、中に色とりどりの玉が入っていた。おんぷはみらの見ているものに気づいて説明した。
「その中に入っているのは魔法玉といって、魔法の素になるものよ」
「魔法の素? じゃあ、魔法を使うと減っちゃうんですか?」
「そうよ。なくなったら補充するんだけど、魔法玉は魔法堂で売った魔法グッズの代金でないと買えないのよ。だから――」
「だから?」
「みらちゃんには魔法堂で働いてもらうわ」
「えーっ! わたし、まだ小学生ですよ。アルバイトなんてだめですよ!!」
「まあ、お母さんにも相談してみて。決めるのはそれからでもいいわ。だけど――わたし、こんな姿になっちゃったから、もうお店を続けることはできないなー」
 みらはおんぷの言い方がわざとらしく感じたけれど、魔女ガエルの姿で店を開けることはできないし、魔法堂が閉店してしまったらやよいが悲しむと思うと、やはり、自分が店をやらなければならないという気になった。
「仕方ないなぁ……。魔法堂を手伝ってもいいかどうか、お母さんに訊いてみますよ」
「ありがとう、みらちゃん。じゃあ、魔法の使い方の続きを教えるわね」
「はい、お願いします。ポロンを振って――それからどうするんですか?」
 そう言ってみらはポロンで目の前を薙いでみた。木管楽器のような音色の音楽がどこからともなく響いた。
「あ、本当だ。音楽が出る。不思議――」
「そんな感じで振りながら『プルルンプル、ファミファミファー』って唱えて、それから、願い事を言うのよ」
「プルルンプル……ファミファミ……ファー……」
 みらは何度かつぶやくように繰り返した。
「どう? これで魔法が使えるはずよ。試してみて」
「うん――」
 みらは目を閉じてなにを願おうか考え始めた。


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6 旅の始まり(5)

(ベルギー――遥さんの行き先が見たいな。うん、できれば空の上から、日本と一緒に――そうだ、願い事はこれだ!)
 みらは目を閉じたまま深呼吸を一つすると、ポロンを振りながら呪文を唱えた。
「プルルンプル、ファミファミファー! わたしに宇宙から地球を見せて!」
「あっ!」
 みらの願い事を聞いて、おんぷは小さく息を飲んだ。初めて使う魔法で宇宙からの景色を見るなんてすごいことができるのだろうか? もしかしたら、結局できなくて、魔法そのものに失望したりしないだろうか? ――魔法は単に願い事を唱えるだけでは使えない。願い事を叶えたいという強い思いと、叶ったときのイメージを具体的に思い描く強い想像力が必要だ。まだ、魔女見習いになったばかりで魔女見習い試験すら受験したことがないみらに、そんな大胆な魔法が使えるだろうか? ――おんぷは心配になった。
 そのみらはおんぷの前に立ったまま、目をつぶって微動だにしなかった。やっぱり、無理だったのだろうか――

 呪文を唱えた次の瞬間、みらは自分を見下ろしていた。すべてを客観視する視点――まるで夢の中の自分のようで、今、見ているものも夢かどうか区別ができなかった。気がつくと、下に見える自分とおんぷが少しづつ遠ざかっていた。みらは上昇していた。天井辺りまで昇ったと思ったとたん、視界が真っ暗になり、次には外から魔法堂を見下ろしていた。それも見る見る小さくなっていった。
(飛んでる!)
 最初、みらはそう思ったけれど、雨に煙る美空町の全景が視界に入ってきたとき、自分自身に雨が当たっていないことに気がついた。いや、そもそも、からだがなかった。自分自身が飛んでいるのではなく、大画面の映画で遠ざかる景色を見ているようだった。
(ああ、そうか。「見せて!」って頼んだから景色だけなんだ)
 みらはほっとした。実際に飛んでいたら無事では済まない。宇宙に飛び出して窒息するか、その前に凍りつくかのどちらかだ。
 視点が高くなると今度は濃い霧に包まれ、すぐに雲の上に出た。どこまでも続く白い絨毯のような景色は、しばらくの間、ほとんど変化しなかった。みらは雲海を見下ろしながら、(ここで一休みかな)と思ったけれど、実際には、まだ加速しながらぐんぐん高度を上げていた。
 みらがそのことに気がついたのは雲の端から下の地形が垣間見えたときだった。
(うわあ……、すごい! いつの間にこんなところまで!!)
 北海道と沖縄が一目で見渡せた。その間には東西に連なる長い帯のような雲――天気予報で見る衛星写真と同じだった。いつの間にか、みらはそんな高みまで昇っていた。横を見てみると地平線は弧を描き、その向こう側は真っ黒になっていた。もはや、地面を見下ろしているのではなく、地球を見ているという感覚だった。目の前いっぱいの丸い地球。白い雲や青い海が眩しくきらめいていた。
 でも、見えているのは、日本列島と日本海、それに台湾と中国大陸の一部――地球のほんの一部だけだった。
(もっと高く昇らないと……)
 視野いっぱいにあった地球がどんどん縮まり、その背景に真っ黒な、どこまでも深い穴のような宇宙が広がっていた。みらの視点は六月の夕方の日本から真っ直ぐ上に向かって移動していたので、地球儀を斜め上から見下ろしているような感じで地球を見ていた。日本の東に地球の陰の部分が迫っていた。あそこから向こうが夜だ。その上――北にある北極はすべてが日なたになっていて真っ白に輝いていた。ヨーロッパは夜の部分からそう離れていなかった。きっと地上は朝の太陽が輝いていることだろう。こうして宇宙から見ると、世界はとても小さくて、地球の上に張り付いた薄い地図みたいだった。
(遥さんはここからあそこにちょっと動くだけなんだ……)
 そう思うとみらは、遥がベルギーに引っ越すことなんて大したことではないような気がしてきた。
 それよりも宇宙!
 写真や挿し絵で見るとたくさんの天体があるみたいだけど、こうして宇宙に出てみると本当に空っぽだった。みらは宇宙の空っぽさを表現するのに「ヨーロッパ大陸にミツバチが三匹」という表現を読んだことがあった。恒星をミツバチの大きさに縮めると、ヨーロッパ大陸の広さに三匹しかいないということだ。宇宙はそれだけ疎らなのだ。
 やがて、視界に月が飛び込んできた。夜空に見ているときとは比べ物にならないくらい大きかった。月は地球と同じかたちに輝いていた。太陽に向いている側は白く輝き、夜の側は闇に溶け込んで全く見えなかった。
(兄弟みたいだ)
 最初、みらはそう思ったけれど、見ているうちに全然違うことに気がついた。クレータや濃い灰色の「海」と呼ばれるところ――荒涼とした地形に彩りは全くなかった。一方、遠ざかって行く地球は、今や、みらの人差し指と親指をつけてできる輪の中にすっぽり入るほどになっていたのに、その姿は白と水色に彩られたガラス玉のようだった。真っ暗な宇宙に浮かぶ小さな水滴みたいで、とてもきれいで――壊れやすく見えた。
(ああ、そうだ。わたしが本当に知りたいこと、やりたいことはこの宇宙にあったんだっけ。ガラス玉のようなちっぽけな地球のことも、わたし自身を取り巻いている宇宙のこともわたしは知らない。だから、もっと――よく――知りたい――――)

 おんぷの前で、みらは目を閉じたまま、ずっと立ちすくんでいた。その表情だけがだんだん、驚きと喜びに満ちたものに変わっていった。
(とってもすばらしいものを見ているのね)

 みらのまぶたから一筋の涙がこぼれて、やがてゆっくりと目を開けた。
「すごい……うん、すごかったですよ、おんぷさん。魔法ってすごいですね」
 みらは手放しで感動していた。
「みらちゃん、宇宙から地球を見られたの?」
「は、はいっ! とってもすばらしい眺めでした。それに地球はとてもきれいで、見ていて涙がこぼれそうでした」
「実際、泣いていたわよ」
「え、本当ですか?」
 そう言って、みらは目をこすった。
「あ、本当だ……」
「みらちゃんもすごいわ。初めての魔法で宇宙に行ける子って、ほとんどいないのよ」
「そうなんですか?」
「そうよ。きっと、強い魔女になれるわ」
「それもいいですけど――でも、宇宙から地球を見て決めました。もちろん、わたしはおんぷさんを元の姿に戻すために魔女にはなりますけど、今、見てきた宇宙のことをもっとよく知りたいから、わたしは天文学者になりたいです!」


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6 旅の始まり(6)

(ふふふ、魔女見習いになってしまった……)
 みらは魔法堂を出てからずっと、にやにや笑いが止まらなかった。魔法が使えるのは世界中で自分だけだと思うと自然に顔がほころんだ。ひとりで笑いながら歩いていると周りから変な人だと思われるから、傘を深く前かがみに差して顔を隠しながら歩いた。本当は世界中に言い触らしたくてうずうずしていたけれど、自分の正体が知れると魔女ガエルになってしまうから我慢した。母にも言えない秘密だった。それにちょっと罪悪感もあった。
(それより、やよいちゃんやふぁらになんて言ったらいいだろう、あの子たちの方がずっと魔法を信じていたのに……)
 みらはこのまま真っ直ぐ家に帰っても落ち着かないと思ったので、遥のガラス工房へ寄ることにした。母からは学校帰りに寄り道しては行けないと言われていたけれど、家でそわそわして怪しまれるより、寄り道を叱られた方がましだと思った。
 みらが遥の工房に着いたとき、遥は工房の前でいくつもの段ボール箱に囲まれていた。遥は額にうっすらと汗をかきながら、箱を積み上げているところだった。
「遥さん、こんにちは――きょう、お引っ越しなんですね」
「ええ」
 遥は額の汗を首に掛けたタオルで拭きながら答えた。
「これ、全部、遥さんひとりで運んだんですか?」
「そうよ。でもガラスだけだから、大したことはないわ」
「いえ、大したことありますよ」
「ううん、軽いのよ、この箱。わたしが持ち上げられるくらいだもの。持ってみる?」
「うん」
 みらは試しに地面に置かれた一つに両手を掛けてみた。ちょっと力を入れると箱は持ち上がった。
「あ、本当だ」
 自分の力で持ち上げられると思わなかったので意外だった。
(そうか、遥さんはおとなの人だし、吹きガラスを上手に作るから、特別な人かと思っていたけれど、吹きガラス以外はお母さんと同じ普通の人なんだ――)
「みらちゃん、上がっていかない? わたしも一休みしたいし」
「え、あ、はい」
 (お母さんに怒られるだろうな)と思いながら、みらは遥のあとについて工房に入った。
 中は空っぽだった。テーブルだけがぽつんと置かれていた。遥は紙コップにペットボトルの緑茶を注いでみらに渡した。
「ごめんなさいね、こんなのしかなくて。全部しまっちゃったのよ」
 遥はそう言って軒下の段ボールを指した。
「ううん、気にしていませんよ、お引っ越しの最中だから。かえって、わたしの方が邪魔しに来ちゃったみたい」
「それも気にしなくていいのよ。もう、ほとんど終わってしまったから。このテーブルは業者の人に運んでもらうから、もうわたしのやることはおしまい」
 みらが作業場を見渡すと、がらんとした空間が広がっていた。
(遥さんが抜けるとこんなにも空っぽになってしまうんだ……)
「ねぇ、遥さん。溶解炉はもうないですね」
「今朝、専門の業者さんに運んでもらったからね。一足先にベルギーに着くはずよ。そこにわたしの教え子がいて、大きな工房をやっているの」
「へー、そうなんだ……」(ベルギー――どんな国なんだろう? どのくらい遠いのだろう? 飛行機で何時間掛かるんだろう?……)
 みらは大空を飛ぶ飛行機を想像したら、最初は地上から飛行機を見上げていたのに、不意に視点が変わって、自分がその飛行機を見下ろしているところが頭に浮かんだ。それがどんどんズームアウトして丸くなり――水色と白のマーブル模様をした球になった。
 ――地球。
 みらはさっき魔法で見たばかりの地球を思い出した。
(そうか、どんなに離れていたって、同じ地球の上にいるんだ)
 そう思い返して気持ちに余裕ができると、みらは遥の言った言葉の違和感に気がついた。
「そういえば、遥さんって若く見えるんですけど、教え子さんが大きな工房を持ってるんですか?」
 大きな工房を持っているということは、遥の教え子はそんなに若くないのではないか、みらはそう思った。
「そう、もう何年も前に吹きガラスを教えた子なの。その人、もう結構なおじさんになっているはずよ。こう見えて、わたし、結構お姉さんなのよ」
「お姉さん――なんですか? ええと、お歳を訊いていいですか?」
「そうね、今のみらちゃんになら教えてもいいわ――ざっと五百歳になるかしら?」
「え? うそ……」
「わたし、実は魔女なのよ」
 驚くみらに追い打ちを掛けるように、遥はいたずらっぽく笑って付け加えた。一瞬、みらは何を言われたのかわからなかった。何か思いもよらない単語を聞いたような気がしたけれど、それはおよそこの世にはあり得ない存在、信じられない存在を意味していた。しかも、そんな人に一日に二回も会うなんて――魔女だって!? でも、正体が魔女ってことは……。
「あああああの、遥さん! そんな大事なことをわたしに話して大丈夫なんですか? 遥さんが魔女ガエルに――」
「よく知っているわね。もちろんわかってるわ。魔女ガエルのことも――みらちゃんのことも」
「わたしのことも――?」
 みらは怪訝に思って聞き返した。
「みらちゃん、魔女見習いになったんでしょ?」
「えーっ!? どうしてそう簡単に言い当てられちゃうんですか? 黙っていればわからないと思っていたのに……。魔女見習いって一目見てわかるんですか!」
 遥が魔女だということは、自分の正体を遥に言い当てられても魔女ガエルにならなかったから本当なんだろう。しかし、こうも簡単に言い当てられてしまうとしたら、この先、いつ魔女ガエルにさせられるか、わかったものではない。
「心配しなくても大丈夫よ。普通の人間にはみらちゃんが魔女見習いかどうかなんてわかりっこないもの」
 みらの動揺がわかりやすかったのか、遥はそう付け加えた。
「そ、そうなんですか? 焦りましたよ……」
 みらは「ふう」と大きく息を吐くと肩の力を抜いた。その様子を見て遥はくすくす笑った。
「昔ね、やっぱり魔女見習いだって言い当てられて、かなり慌てた子がいたのよ。何かその子のこと思い出しちゃった。雰囲気がみらちゃんに似てた子だったなぁ」
 そう言うと、遥は再びいたずらっぽく笑った。
「みらちゃん、魔女見習いになっても学校の勉強はしっかりね」
「はい、わかってます。だって、わたし、将来は天文学者になることに決めましたから」


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6 旅の始まり(7)

「ただいま……」
 みらが帰宅したとき、家では夕飯の用意ができていた。
(やっぱりまずかったな、学校帰りに寄り道したのは。お母さん、怒ってるだろうな。なんて言って謝ろう?)
 みらが玄関でどう切り出したものか悩みながら靴を脱いでいると、ふぁらがぱたぱたと駆けてきた。
「お姉ちゃん! また寄り道してたでしょ! 遊びに行くなら、いったん家に帰ってからにしなさいって、お母さんがいつも言ってじゃない!」
 みらは母より先にふぁらから小言を言われてしまった。もっともそのお陰で、帰り道の間ずっと感じていた、出し抜いたみたいにして魔女見習いになった罪悪感が、ふぁらに対する分だけ軽くなった。
(次はお母さんが来るな)
 みらが身構えていると、キッチンから母もやってきた。
「みら、いつまで寄り道してるの! ……魔法堂に行ってたの?」
 母は最初の一瞬だけ怒っていたけれど、すぐに鎮まってしまった。母の問い掛けにみらは戸惑いながらうなずいた。
「う、うん……」
「まあ、いいか――とりあえず手を洗って。それからご飯にしましょ」
「ええっ、どうしたの、お母さん?」
 ふぁらが不思議に思って母に訊いていた。狐に摘ままれたような気分なのは、みらも同じだった。
(あれ? どうしたんだろう、お母さん……)
 不思議に思いながら、みらは洗面所で手を洗い、食卓に着いた。

(みらはいつまで遊んでいるつもりなのさ!? 寄り道はいけないって言っているのに!)
 みらの帰宅を待ちながら、どれみは怒り半分――そして、心配半分になっていた。
(――もし、事件や事故に巻き込まれていたらどうしよう? 学校に連絡した方がいいかな? それとも……)
 やがて玄関からみらの声が聞こえ、ふぁらが玄関へ駆けて行った。どれみはふぁらがみらに小言を言っているのを聞いて、苦笑いしながら玄関に行った。
「みら、いつまで寄り道してるの!」
 みらを叱ろうと一言切り出したところで、どれみはみらの雰囲気がいつもと違っていることに気が付いた。
「……魔法堂に行ってたの?」
 みらは動揺しながらうなずいた。
(ああ、やっぱりそうだ。魔法堂に行っていたんだ。それで――)
 みらの変容。本人は決して口には出さないはずだけれど、今、美空町でみらにそういうことができる人――いや、魔女は一人しかいないはずだし、みらにそうする羽目になったということは、今頃、その魔女は――
(ひょっとしたら、おんぷちゃんは……)
 みらに聞きたいことはたくさんあった。でも、まずは夕食を済ませてからだ。
「まあ、いいか――とりあえず手を洗って。それからご飯にしましょ」


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6 旅の始まり(8)

 夜が更けて、子供部屋からみらが降りてきた。帰宅した夫が風呂に入るタイミングを見計らっていたようだった。
「あの――お母さん、お願いがあるんだけど……」
「なぁに、みら?」
 みらが恐る恐る切り出してきた。どれみはみらが何を言い出すか、だいたい見当がついていたけれど、そのまま聞くことにした。
「その――おんぷさんに頼まれちゃって……。これからしばらく、魔法堂のお手伝いに行きたいんだけど、いいかな?」
「うん、いいよ」
「……」
 どれみがあまりにもあっさりと許したので、みらは面食らっていた。
「え? もっといろいろ言われるかと思った。ましてや、許してくれるなんて……」
「やってみなよ。困ったときは相談に乗るし、やよいちゃんにも手伝ってもらうといいよ――あと、ちゃんと宿題はすること」
「あのー、お母さん? 小学生がアルバイトをしてはいけませんとか、そういうことは言わないの?」
「だって、手伝うだけで、お給料は出ないんでしょ?」
「うん、それはそうだけど……」
 みらは不思議そうな顔で頷いていた。きっと、なんでこんなにあっさりと許してくれるのか、わけがわからないのだろう。それを思うと、どれみはおかしくて吹き出しそうだった。
「まあ、大変なことも多いと思うけど、頑張って」
「う、うん……。ありがと、お母さん――じゃ、お休みなさい」
「はい、お休みなさい」
 夫が風呂から上がる気配がした。みらはそそくさと子供部屋に戻っていった。


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エピローグ 魔法堂

 放課後、いつもの五叉路。やよいが待っているところにみらが駆けて行った。
「みらちゃんが後から来るのって、珍しいわね」
「うん……そ、そうだね……」
 走ってきたみらは息が切れていた。やよいが気にしてのぞき込んだ。
「みらちゃん、大丈夫? 少し休んでから行く?」
「大丈夫。さ、行こう、やよいちゃん」
「うん」
 ふたりは並んで歩きだした。
 魔法堂のドアに下げられたプレートは『CLOSE』になっていた。
「あれ? 魔法堂、お休みみたい。どうしたのかな……」
 がっかりしているやよいを尻目に、みらはプレートを引っ繰り返して『OPEN』にした。
「何しているの、みらちゃん? 勝手にいじっちゃだめよ」
 やよいに言われてもみらは笑っているだけだった。スカートのポケットから鍵を取り出し、ドアを開けて中に入ると、そこから表に立っているやよいを振り返った。
「いらっしゃいませ、やよいちゃん。魔法堂へようこそ! ――きょうからわたしがこの店をやることになったんだ」
 やよいは呆気に取られていたけれど、すぐに気を取り直してみらに尋ねた。
「ねえ、どうして、みらちゃんが魔法堂をやることになったの? おんぷさんはどうしたの?」
 みらはいたずらっぽく笑って答えた。
「それは――ないしょ、なんだ」


- おわり♪ -
(平成17年10月12日了)