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粉 雪

もくじ


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1 雪の朝

 ばたばたばたばたばた……。
 階段を駆け上がる慌ただしい足音で藤田浩之(ふじたひろゆき)は目が覚めた。時計を見なくても今の時刻はわかる。
 午前七時。
 去年の春から続いている習慣だ。初めの頃はいくら起こされてもなかなか起きられなかったが、今では足音が階段から聞こえてくるだけで目が覚める。
「親父め、休みの日くらいゆっくり寝かせてくれてもいいじゃないか……」
 浩之は頭から布団を被って独り言を言ったが、それが終わらないうちに足音の主は勢いよくドアを開けた。
「ご主人様ーっ、朝ですよー。起きてくださぁーい!」
 小柄な少女が浩之の部屋に飛び込んできた。濃緑色の髪をショートカットにした少女。彼女の頭の両側、ちょうど耳のあるべき部分から後ろへ金属製のパーツが延びている。彼女は人間でない。ロボット――メイドロボットだ。
「マルチー、きょうは講義もバイトも休みなんだからゆっくり寝かせてくれよー」
「いけません、ちゃんと起きて下さい。ご主人様の規則正しい生活は、ご主人様のお父様に言いつけられていることですから」
 浩之はときどき抵抗を試みるが、メイドロボットのマルチは浩之のささやかな希望を却下して布団をはぎ取り、浩之をベッドから追い立ててしまった。
 二月――去年の今頃は大学入試のまっただ中で、普段は泰然としている浩之も緊張した日々を送っていた。しかし、大学生になるとこの時期は試験休みとなる。浩之は夜更かし朝寝坊の普通の大学生生活を期待していたのに、マルチは断固それを許さなかった。
「まったく、こんなところで『所有者権限』を使うなんて、親父の茶目っ気にも嫌気が差すぜ」
 浩之はぶつぶつ言いながら、マルチから着替えを受け取った。タイマー仕掛けで稼働したエアコンがすでに部屋を十分に暖めているはずだったが、今朝は薄ら寒いように感じられた。
 マルチは浩之のベッドの脇にあるカーテンを開けた。夜ではないことがわかる程度の弱い光が部屋に射し込んだ。マルチは外の様子がどこかいつもと違うことに気がついて、窓を一杯に開けてしまった。厳しい冷気が暖まったばかりの部屋にどっとなだれ込んできた。
「うわあっ、マ、マルチっ!」
 下着姿だった浩之は慌てて声をかけたが、マルチはそれに答えなかった。マルチの関心は窓の外に集中していた。
「ご主人様ぁ、空から奇妙なものが降っています〜」
 浩之は急いで服を着ると窓の外を見上げた。空に鉛色の雲が重く垂れ込み、きんと冷えた風に舞いながら真っ白な粉雪が降っていた。街はすっかり雪化粧をしていた。
「ああ、雪だな。道理で今朝は冷え込むわけだ」
「へええ、これが雪っていうんですかぁ。あたし、初めて見ましたぁ」
 この雪はマルチが藤田家に来てから初めての雪というわけではなかった。しかし、これまで降った雪はみぞれ混じりだったり、五分もしないうちに雨に変わってしまったりしていた。おそらくマルチの目には留まっていなかったのだろう。だが、今朝の雪は本格的だ。ひっきりなしに降ってくる。マルチは窓枠から身を乗り出すようにして外を見ていた。
「こりゃあ、かなり積もるかもしれねーな」
 浩之もマルチと一緒になって降り続ける雪を眺めていたが、ふとマルチの横顔を見た。
 見慣れないもの、珍しいものを見ているときのマルチは一心不乱だ。新たな命令が与えられるまで、目を輝かせながらいつまでも見つめている。高校二年の春、浩之と初めて会った頃のマルチは道ばたのネコにまで興味を示していた。

「マルチには好奇心がプログラムされているんだよ」
 来栖川電工中央研究所の開発スタッフが、浩之にこう説明していた。マルチに頼んで研究所を見学させてもらったときのことである。
「メイドロボットは自分の利用できる情報に基づいて応答制御や行動制御を行っているんだけど、通信機能を使って情報を収集できるセリオと違って、スタンドアローンタイプ(独立型)のマルチは自分の行動を決定するための情報を自分で持つしかないんだ。
 そこで、マルチは自分のデータベースに不足している情報を見つけると、積極的に得るようプログラムされているんだ。人間で言えば『好奇心』ってことになるかな。
 こうやって多くの情報を蓄積していくことによって、マルチの行動はだんだん素早く的確になっていくんだ。マルチにとって自分の集めた情報は自分の行動を決めるために必要なかけがえのない財産だ」

 浩之はマルチのメイドロボットとしての行動原理について少しは理解したつもりだった。しかし、今、目の前でいつまでも雪を見つめているマルチは無邪気な少女にしか見えなかった。
 浩之はマルチと一緒になって雪景色を眺めているうちに、すっかり体が冷えてしまった。
「マルチ、そろそろ窓を閉めねーか? 寒いんだけど」
「あわわわっ、す、すみませーん。あたし、つい夢中になってしまって……」
 マルチは慌てて窓を閉めた。
「それじゃ、あたしは朝ご飯の支度をしたいので、浩之さん、下に降りて来て下さいね」
 メイドロボットはそばに人間がいないと料理ができない。火を使うことができないのだ。もちろん技術的には、ガス台のつまみを押して右に回すことなど造作ないが、危険防止の観点からメイドロボットがこの種の行動をすることに制約が課せられていた。
 浩之は一階に降りてダイニングの食卓につくと、キッチンで楽しそうに歌いながらハムエッグを作っているマルチの後ろ姿を眺めていた。
「粉雪が静かに〜……」
 マルチが歌っていたのは、先月末に発売されたばかりのCDに収録されていた曲だった。よくテレビやラジオから流れていた。別れた恋人を雪に託して想う切なく悲しい歌であるはずなのに、楽しげに歌っているマルチに浩之は苦笑していた。
 浩之の両親は同じ会社に勤める共稼ぎの夫婦だった。年に数度、新製品の開発が本格化する時期にはほぼ二ヶ月にわたって仕事がきわめて多忙になる。その時期、両親は会社近くの貸しマンションに泊まり込みになって家にいないことが多くなる。そんな藤田家にとって、炊事洗濯掃除を一手に引き受けるメイドロボットのマルチは非常に重宝していた。


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2 メイドロボット

 医療介護用のロボットが一般家庭向けに発売されたのは、一九九〇年代初めのことだった。初期のロボットは箱形のボディに三本指のアーム取り付けたもので移動もローラか四ないし六本の脚を使って行うという、およそ無機質なものだった上に、価格も高級外国車が何台も買えるようなものだった。それでも多少は売れたのはロボットそのものが物珍しかったためと寝たきりの患者を家庭で介護する負担が大きかったためであった。ロボットのユーザから様々な苦情がメーカへ寄せられ、数多くの問題点が明らかになった。
 メーカは「問題点があるから売り物にならない」とは考えない。「問題点がなければ売り物になる」と考える。より便利で使いやすいロボットへ向けて改良が始まった。
 進化は環境に適応してゆく方向へ進行する。ロボットが使用される環境は、オフィスビルや家庭といった多くの人々が生活している場所である。そして、そこに溢れているのは、ドア、窓、階段、手すり、机、本棚、コピー機、湯沸かし器、ポット、急須、湯飲み、洗濯機、掃除機、モップ、バケツ……みな、人々が使ってきた道具である。それらの道具を一通りまんべんなく使える形状を目指して、ロボットは必然的に「人のかたち」へ進化していった。
 来栖川電工が一九九五年に発売した事業所用ロボットHM−10リグレ、さらにその翌年発売した一般家庭用ロボットHM−11メイトはそれまでのロボットのイメージを一新してしまった。側頭部に取り付けられた金属製のユニットに気がつかなければ、遠目には人と見間違えるほどの柔らかなデザインとしなやかな動作をしたのである。
 来栖川電工はこれらの新製品を「汎用アンドロイド」の名称で売り出した。アンドロイドとは、ロボットの中でも特に人に近い形状、動作を行うものを指すSF用語である。しかし人々の間では、いつの間にか「メイドロボット」という通称が定着していった。
 来栖川電工はこの二機種の成功により一躍業界のトップ企業となった。メイドロボットの製造についても、来栖川電工からライセンス供与を受けて製造する企業だけでなく、自社開発する企業も数多く現れ、メイドロボットの価格は次第に下がって来た。
 そして一九九九年、来栖川電工からHM−12マルチとHM−13セリオの二機種が発売された。
 マルチは親しみやすいデザインと機能を必要最小限のものに絞り込むことによって実現した、従来のメイドロボットを大幅に下回る価格設定から一般家庭に普及し、セリオは人工衛星回線を経由してデータベースに接続し、必要なデータを瞬時に引き出すことができるためオフィスを中心に普及していった。

 しかし、いくら安くなったとはいえ一介の大学生にすぎない浩之がおいそれと買えるような代物ではない。浩之は親から借金をしてマルチを買った。
 浩之の手元に届けられたマルチの型式番号はHMX−12――試作機を示す「X」が付与されていた。
 試作機の外観は市販型と変わらない。しかし、その仕様はまるで異なっている。試作機のマルチは「可能な限り人間らしく」をコンセプトに設計された。このマルチは主電源に小型大容量リチウムイオン電池、補助電源に固体高分子型燃料電池を利用して駆動し、弾力があり温もりを持つ皮膚、人間と同等の能力を持った視覚や聴覚、そして論理中枢部に学習型プログラムによって機能する神経網コンピュータを搭載する先端技術の塊である。
 学習型プログラミングと神経網コンピュータは、人が未知の問題をどのように解決するか、その方法をソフトウェアとハードウェアに置き換えた仕組みである。つまり、未知の問題に対して様々な解決方法を試してみて、うまくいけば次回はその方法を優先的に用い、うまくいかなければ別の方法を考えるのである。開発スタッフは、マルチが試行錯誤の中から適切な問題解決の方法を見つけだし、神経網コンピュータの持つシミュレーション能力を駆使して予想しうる未来に最も適応した行動が行えるようになることを期待した。
 マルチは設計通りに機能した。しかし、その能力は開発スタッフの期待をはるかに超えたものになった。
 三年前、ある高校でマルチの実用化を想定した運用試験が行われた。最初のうちは開発スタッフの予想通り、クラスメイトはマルチをメイドロボットとして扱い、様々な雑用を言いつけていた――「廊下の掃除をしろ」、「購買へ行ってパンを買ってこい」、コピー用紙を持ってこい」等々……。マルチはそれらの命令を黙々とこなしていた。マルチは、メイドロボットである自分にとって命令に従って行動することを当然のように受け止めていた。
 ある日、マルチは浩之と出会った。
 浩之はマルチをメイドロボットとしてではなく、ひとりの女の子として扱った。マルチが掃除をしていると一緒になって手伝ってやり、重い荷物を運ぶときは代わりに持ってやったりした。浩之はただ単に「メイドロボットと言ったって、マルチは女の子だ。女の子にきつい仕事はさせられない」と思っていただけだったが、マルチは浩之の優しさや思いやりと接していくうちに、自ら持つ学習能力とシミュレーション能力を他者の気持ちを慮り、自分の気持ちとして理解する能力に転嫁していった。
 マルチは心を持った。
 マルチは浩之との関係を何よりもかけがえのないものとして認識し、所有関係がないにもかかわらず、自らの判断で浩之を自分の使用者――ご主人様――とした。
 浩之も、何事も失敗を恐れず一所懸命取り組むマルチの姿に関心を持ち始め、その真摯な姿勢にいつしかメイドロボットに対する以上の感情を抱くようになった。
 たった八日間の試験運用はすぐに終わり、マルチは試作機の使命――製品化に必要なデータの提供――を果たすため、浩之のもとを去っていった。マルチとの思い出を忘れられない浩之は「いつかきっとマルチを買う」と固く決心した。
 試作機のメイドロボットは研究開発を終えると、廃棄されるかプログラムやデータが消去されて新たな研究開発プロジェクトに利用されるのが普通である。しかしマルチの開発スタッフは、短い試験運用期間中に過去のメイドロボットとは一線を画す能力を持つまでになったマルチを破棄することはできなかった。生まれたばかりの心はまだいくらでも発展する可能性がある、そう思われた。
「マルチにはもっと世界を知ってもらおう。そして、マルチが何を考え、どう行動するのか、見守っていこう」
 開発スタッフは試作機マルチを引き続き運用するために新たな研究計画を立てた。研究所内で開催された研究課題選定会議では「人工知能の可能性を極限まで追求する研究である」と説明していたが、実態としてはマルチの運用費用を賄うためという性格が強かった。
 マルチの運用場所は開発主任の温情によって選定された。所内には高価な試作機を一般家庭に預けることに危惧する声もあったが、マルチの開発スタッフは「研究の目的から考えて、マルチの能力を引き出すきっかけとなった人物に託すのが最も適切」と答えていた。
 こうして、マルチは燃料電池をリチウムイオン電池に換装されて(燃料電池の設置は規模の大小に関わらず規制が厳しいのだ)浩之のもとへ帰ってきた。


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3 幼なじみ

 午前中、マルチは化学ぞうきんを使って家中の家具や置物を磨いていた。調度品は毎日磨かれているので軽く拭くだけでぴかぴかになる。二時間後にはマルチの仕事は終わりかけていた。
 浩之はリビングルームの大きな窓から外を眺めていた。雪はすっかり止んで、雲間から陽が射すようになっていた。浩之はもう雪の降り出す心配がないことを確かめると振り返って、部屋の奥でサイドボードを拭いていたマルチに声をかけた。
「マルチ、そっちが一段落したら、雪かきしてみるか?」
「雪かき……ですか?」
 マルチは、掃除の手を止めて聞き返した。
「ああ。道に雪が積もったままじゃ歩きにくいだろ? それに時間が経って凍ると滑りやすくなるし、融けるとぐちゃぐちゃになるからな。今のうちに雪をどけておくんだ」
「はい。そうですね、ご主人様。あたしの方はもうすぐ終わりますから、早速雪かきをしましょう。あたし、雪かきは初めてなので楽しみですぅ!」
「いや、別に楽しいことはないと思うけどな……」
 そうは言ったものの、浩之もマルチと一緒に雪かきをするのは楽しいだろうと思っていた。
 浩之はマルチを玄関の前に待たせ、自分は物置からスコップと竹箒を取ってきた。
「ふーっ。やっぱり寒いなー」
「ご主人様の息、真っ白ですね」
「そういや、マルチの息は白くならないな」
「あ、本当ですね。不思議ですぅ」
 そんなことを言いながら、ふたりは門の外に出た。
 門の前は幅六メートルの舗装道路だ。この道は住宅地の中を通っており、車の往来はほとんどない。十センチメートルほど積もった雪の上には、いくつかの足跡と数本の轍が残っているだけだった。
 浩之は竹箒をマルチに渡し、並んで塀に沿って歩き出した。歩きながら、浩之はマルチに話しかけた。
「雪かきをするのはここからあそこまで、道路の中心からオレんち側の雪をどけるんだ」
「ご主人様、ずいぶんありますよ」
「なに、こんなものは気合いでどうとでもなる。それにふたりでやれば、すぐに片づくさ」
 そう言うが早いか、浩之は「うりゃっ! うりゃっ! うりゃっ!……」という掛け声とともに路上の雪をスコップですくっては自分の家の塀に放っていった。浩之はそうしてしばらく行ってから、後ろのマルチに言った。
「マルチ、オレが雪をどけた後を箒で掃くんだ」
「はいっ」
 マルチは返事をすると「うりゃっ! うりゃっ! うりゃっ!……」と言いながら、力一杯箒で掃いていった。あまりに一所懸命なマルチを浩之は「しょうがないな」と思いながら目を細めて見ていた。
「マルチ、掛け声はいいから。普通に掃けばいいだぞ」
「そ、そうですかぁ?」
 とマルチは残念そうに答えた。
「でも、掛け声は掛けたいですぅ。浩之さんと一緒にお掃除するときはいつもそうしていましたからぁ」
「なんだか変なことを学習しちまったみたいだな。オレが少し恥ずかしいけど、まあいいか。掛け声は許可してやる」
 それを聞くと、マルチは喜んで「うりゃっ! うりゃっ! うりゃっ!……」と言いながら普通に掃き始めた。
「うりゃっ! うりゃっ! うりゃっ!……」
 浩之がスコップで雪を道の脇に寄せていき、
「うりゃっ! うりゃっ! うりゃっ!……」
 その後をマルチが竹箒で掃いていく。三十分もしないうちに道路はすっかりきれいになった。
「なんかすっかり暑くなっちまったな」
「あたしもすっかり熱くなってしまいました」
 浩之とマルチが息を弾ませながら話していると、道の向こうから神岸(かみぎし)あかりがやって来た。
「よお」
「あかりさん、こんにちはー」
 右手を挙げて挨拶する浩之と両手を膝に当ててお辞儀をするマルチ。竹箒が手から離れてぱたんと倒れたので、マルチは慌ててそれを拾い上げた。あかりはそんな様子を微笑ましく思いながら、ふたりに手を振って応えた。
「浩之ちゃんちの前、ずいぶんきれいになったね」
「へへへ、マルチが手伝ってくれたお陰だぜ」
 浩之は傍らにいるマルチの頭を撫でた。マルチは嬉しそうに頬を赤らめた。
「午後はおまえんちの雪かきをやってやるよ」
「うん、お願いするね」
 浩之の申し出にあかりはにっこりとうなずいた。
「とりあえず昼飯にしようぜ。マルチ、あかりを家に上げてくれ。オレはこいつを片づけてくるから」
 そう言うと、浩之はマルチから竹箒を受け取って物置に行き、マルチはあかりを連れて玄関を上がっていった。
 浩之とあかりは幼なじみだ。お互いの両親が知り合いでしょっちゅう行き来があったため、ふたりも物心つく前からのつきあいである。今でも浩之の両親がいないときはあかりが食事の面倒を見に来たり、あかりの家で男手が必要なときは浩之が手伝いに行ったりしている。
 浩之がダイニングに来たとき、すでにあかりとマルチはキッチンにいた。ごく平均的な身長のあかりと彼女より頭一つ分くらい背の低いマルチがシンクを前にして並んで立っている後ろ姿は、姉妹のように見えた。
「あかり、昼飯の支度、一休みしてからでいいんだぜ」
 浩之の申し出にあかりは振り返って答えた。
「ううん、わたしはいいよ。浩之ちゃんだって雪かきしたあとでお腹空いてるでしょ? 今、ありあわせだけど何か作るから、浩之ちゃんは待ってて」
 そう言うと、あかりは再びキッチンに向かった。
「マルチちゃん、冷蔵庫に何が入っていた?」
「ニンジン三本、ニラ一輪、ニンニク二個、キャベツ四分の一、モヤシ一袋、牛乳、チーズ、バター、ハム、塩じゃけ、明太子二腹……」
「ご飯は?」
「今、二合炊いてます」
「うん、それじゃあ……きょうはライスグラタンを作ろうね。マルチちゃん、冷蔵庫から牛乳とバターとチーズとニラ一輪の半分を出してね」
 あかりはマルチにてきぱきと指示を出し、要所要所で味見をさせる。マルチもあかりの指示にてきぱきと答え、味見をしては口をすすいでいる。浩之は、「さすが母親が料理教室の先生だけのことはあるなぁ。料理もうまいが教え方もうまいもんだ」と感心していた。「オレが入ったら、かえってあのチームワークを乱しそうだぜ」

 半年ほど前、新たに開発された味覚センシングシステムがマルチに搭載された。このときバイオテクノロジー担当の研究者は浩之にこう説明した。
「このシステムは味の違いはわかるけど、所詮はバイオセンサーを用いた化学分析装置にすぎないの。口にしているものの味と『おいしい』とか『まずい』という感覚の相関は実際に味わわせて教えてあげなければいけないのよ。マルチちゃんにおいしい料理を作ってほしければ、おいしい料理を食べさせなきゃだめよ。それにこのシステムのテスト結果は新しく開発されるメイドロボットに反映されるから責任は重大よ」
 彼女は笑って言っていたが浩之は困ってしまった。彼の母親は仕事は熱心だが料理の方はからきしだめなのだ。自分はというと、一人で食事をするときはカップラーメンか近所の安い定食屋で済ませてしまう。なにしろ台所にある調味料はほとんどあかりが揃えたものだ……。そこまで思い至ったとき浩之は気がついた。「そうか、あかりに教えさせればいいんだ」
 浩之はそのことをあかりに相談してみると、あかりはすぐに賛成した。
 もともとマルチは人間、特に物事を教えてくれる人と一緒にいるのが好きなのだが、特にあかりには懐いていて、彼女がいるときはいつもついて歩いていた。あかりもマルチを「まるで妹みたいなロボット」と言って、料理だけでなくいろいろなことを教えていた。あかりとマルチはすっかり仲よしになった。


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4 ランチタイム

 ライスグラタンが焼き上がるまでの十分間、浩之たちは食卓で話をしていた。
「あかり、マルチはよくやってるか?」
「うん、とても熱心だよ」
「でも、あたし、『おいしい』ってことがまだよくわかりません」
 マルチは悲しそうな表情で言った。
「そんなに気にするなよ、マルチ。味が区別できるだけでもすごいことなんだぞ。それに、人間にだっておいしいもののわからないやつは大勢いるんだ」
「えー、そうなんですか?」
 そんな話をしているうちに、オーブンのベルがチーンと鳴った。
「マルチちゃん、できたみたいよ」
 あかりとマルチは一つずつライスグラタンを持ってきた。
「はい、浩之ちゃん」
 あかりは自分の持ってきたものを浩之の前に置いた。「おお、うまそうだな」
 口に出しては言わないものの、浩之は毎回あかりの料理に驚かされていた。特に今回は手ぶらで来ているから材料は全て家にあったものなのだ。浩之自身も自分の家の冷蔵庫の中身ぐらいは知っていたが、そこからこのような料理が出てくるとは思っても見なかった。
「いただきまーす!」
 そう言うと浩之は勢いよく食べ始めた。
「マルチちゃんも食べてみて」
 あかりに促されて、マルチは立ち上る湯気を吸い込み、スプーンでほんの少しだけグラタンを取って口にした。
「あかりさんどうぞ」
 そう言って、マルチはあかりにライスグラタンの皿を返した。
「浩之ちゃん、どう?」
「ふ、ふはひよ」
 本当は「うまいよ」と言いたかったのだが、食べながらだったので声がこもってしまった。あかりは苦笑しながら言った。
「浩之ちゃん、そんなんじゃマルチちゃんにはわからないよ……」
「しょうがねーな……」
 浩之は料理評論家のように事細かに感想を言い、マルチはそれを真剣に聞いていた。
「ま、それはともかくうまいんだからいーじゃないか。楽しみながら食おうぜ」
 そう言うと、浩之はまたガツガツと食べ始めた。あかりもそんな浩之を見ながら楽しそうに食べ始めた。マルチはふたりが満足している様子を見ながらにこにこと笑っていた。

「きょうは一日休みだっていうのに、マルチのやつ、朝七時に起こすんだぜ」
 浩之はライスグラタンを頬張りながらあかりに愚痴をこぼした。
「マルチちゃんは浩之ちゃんにきちんとしていてほしいんだよ。マルチちゃんの気持ちもわかってあげようよ」
 あかりは浩之を説得しようとした。
「あかり、それはマルチを買いかぶりすぎだぞ」
 浩之が言うと、マルチが申し訳なさそうに付け加えた。
「あのー、あかりさん。あたしもできることならご主人様のご命令に従いたいんですけど、ご主人様の七時起床はあたしの所有者でいらっしゃるご主人様のお父様のご命令なので、こちらが優先するんですぅ」
 あかりは驚いた。
「マルチちゃんって、浩之ちゃん以外の命令も聞くんだ?」
 浩之は答えた。
「ああ。マルチは俺が親父から借金して買ったものだからな。マルチの使用者は俺だけど所有者は親父なんだ。メイドロボットは使用者の命令より所有者の命令の方が優先順位が高いんだ」
「え? どうして?」
 と、あかり。
「考えてもみろよ、あかり。メイドロボットみたいな高価なものを現金一括払いで買う人なんて、そういるもんじゃないぜ。たいていはローンだ。それにレンタルのメイドロボットというのもある。もし使用者の命令が最優先されるんだとしたら、どこかの悪いやつがレンタルのメイドロボットに『オレのところから決して離れるな』と命令したらどうなると思う? そのメイドロボットはずっとそいつのところにいることになって、そいつはメイドロボットを簡単にせしめることができるんだぜ。そういうことを防ぐために、使用者より所有者の命令が優先するんだ。マルチはオレが親父から借金して買ったものだから、返済が終わるまでは親父が所有者なんだ」
 浩之の説明にあかりは感心していた。さらにマルチが付け加えた。
「それにあたしは試作機ですから、さらに優先順位の高い命令権者がおります。あたしは来栖川電工中央研究所の長瀬開発主任の命令が最優先します」
「そういうこと。つまりオレは三番目ってわけだ」
 少し自嘲気味に言う浩之をマルチは気遣った。
「でも、ご主人様のお父様のご命令はご主人様を朝七時にお起こしすることだけですし、長瀬主任の命令はあたし自身が収集したデータを研究所に持ち帰ることだけですから、普段の生活では実質的にご主人様のご命令が最優先されると思っていいです」

 昼食後、三人はそのまま食卓でくつろいでいると玄関の方から電話の呼び出し音が聞こえてきた。
「はーい。今、出ますぅ」
 マルチはそう言うと、どたどたと玄関へ駆けていった。しばらくして、マルチの呼ぶ声が聞こえてきた。
「ご主人様ーっ、雅史さんからお電話ですぅ!」
「おう、今行く」
 そう言うと浩之は玄関へ行った。またしばらくすると、今度は浩之が叫んだ。
「おーい、あかりー。三月十四日は空いてるかー?」
「え? なに? なんで?」
 あかりは玄関へ行った。
「なに、浩之ちゃん?」
 と、あかり。浩之は受話器を持ったまま答えた。
「雅史が三月十四日頃にスキーに行かないかって言ってんだ。どうだ、あかり?」
「スキーかぁ……。うん、浩之ちゃんが行くんだったら、あたしも行く」
 スポーツの苦手なあかりはこういう場合いつも躊躇するのだが、結局つき合うことにする。
 ふたりのやりとりを聞いていたマルチはうらやましそうに言った。
「スキーですかぁ、いいですねー。あたしも行きたいですぅ」
「よし、マルチも行こうな」
 浩之はそう言うと再び受話器に向かった。
「雅史、あかりとマルチも行くって。それにしても三月でゲレンデは大丈夫なのか?……え? 標高の高いところだったら大丈夫?……それに?……琴音(ことね)ちゃんの受験が終わるのが三月十二日だから? ふーん、なるほどねぇ……」
 浩之は受話器を置くとあかりににっと笑って見せた。
「琴音ちゃんがスキーに行きたがっているんだってさ」
 それを聞くとあかりも「ふふっ」と笑った。
「雅史ちゃん、琴音ちゃんのことになると一所懸命だよね」
「ああ。雅史のヤツ『琴音ちゃんはもっと大勢でわいわいやる楽しみを知らなきゃ』とか言いながら、しょっちゅうオレたちのイベントに連れてくるけど、ふたりで出掛けたりしてんのかなぁ?」
 そばで浩之とあかりの聞いていたマルチが訊ねた。
「あのー、雅史さんと琴音さんはお付き合いされているんですか?」
「あ、そうか。マルチは去年の春、オレの家に来たから知らないんだったな。あのふたり、マルチが研究所に戻った頃から付き合いはじめたんだ。琴音ちゃん、今年は受験だからオレたちはほとんど会っていないけど、それまではあかりや雅史たちと一緒にあちこち遊びに行っていたんだぜ」
 そう答えながら、浩之は琴音ちゃん――姫川(ひめかわ)琴音にまつわる不思議な体験を思い出していた。

 琴音は浩之たちの一年後輩にあたる。入学早々からクラスメイトに「不幸の予知をする不吉な子」と言われて忌み嫌われ、友だちもいなかった。浩之もその噂を聞かされていた。予知能力――超能力の一種ということらしい。しかし、浩之は確固とした証拠や疑いようのない証明がないのに超能力を信じる気にならなかった。
 浩之が初めて琴音と出会ったのは学校の階段、二階から降りようとしていたときだった。
「あの……」
 と、浩之を呼び止めた琴音はしばらく逡巡していたが、やがて口を開いた。
「そこの階段、危ないですよ……」
「あ、ああ、わざわざ忠告どうも……」
 浩之は「いきなり妙なことを言う子だな」と思ったものの、とりあえず用心して階段を降りることにした。しかし一歩目を踏み出したとたん、足首をつかまれたようになり、そのまま途中の踊り場まで転がり落ちてしまったのだった。
 あれはいったい何だったのだろう?
 転んだ、というよりは転ばされたような感じだった。「予知」というには何となく不自然だった。
 その後、琴音とつき合うようになった雅史にこのことを訊いたこともあったが、雅史は笑って話をはぐらかしていた。


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5 ゲレンデ

 三月中旬。暖かい日があったり肌寒い日があったりしながら春は確実に近づき、浩之たちの住む街でも気の早い桜はすでにつぼみを膨らませていた。
 スキーに出発する日、浩之たちは最寄りの駅に集まった。みんなは、スキーやスノーボードの道具はレンタルを利用することにしていたから荷物はそれほど多くはなかったが、浩之のバッグにはマルチのメンテナンス用コンピュータと充電キット、交換用のバッテリパックが入っていて、かなり重くなっていた。
「浩之ちゃん、荷物重くない? 持ってあげようか?」
「このくらい大丈夫だぜ、あかり…………いや、やっぱり、こっちのウェアの入ってるバッグ、持ってくれないか?」  さすがの浩之にも両手の荷物はつらかった。 「それより雅史、こんなに暖かくて大丈夫なのか?」
「うん。昼間、ホテルに問い合わせてみたら、あっちは雪、十分あるって。それに天気予報はあしたから冷え込むって言っていたし」
「マルチさん、お久しぶり。お会いするのは三年振りね」
「あ、琴音さん、今晩はー。あたしは琴音さんとお会いするのは一年振りみたいな気がしますぅ」
 浩之たちは私鉄に乗ってターミナル駅に行き、その駅前ロータリーから夜行のスキーバスに乗った。
 スキーシーズンの終わりかけ、しかも週の半ばということもあって、バスの中も高速道路もがらがらの状態だった。バスは夜通し高速道路を駆け抜け、翌朝、ゲレンデの麓にあるホテルに到着した。

 ホテルのチェックインは午後からだった。浩之たちは荷物をフロントの奥にある大広間に預け、手早くスノーウェアに着替えるとレンタルの窓口へ行った。浩之と雅史はスノーボード、あかりと琴音はスキーを借りた。マルチはどちらにしょうか迷っていたが、浩之は「あかりじゃマルチにスキーを教えられない」と言って、スノーボードをさせることにした。
 ゲレンデは朝からいい天気だった。ウェアを着ていると少し汗ばむ。
「日焼けしちゃうね」
 あかりは笑いながら、でも少し困ったふうに言った。
「おい、雅史。きょうから冷え込むんじゃなかったのか?」
 と、浩之が言うと、雅史は、
「天気予報、はずれたのかな? おかしいね、浩之」
 と言って笑っていた。
「おかしいのはおまえだ、雅史。――じゃ、オレはここの初級者コースでマルチにボードを教えてるから、おまえたちは勝手に滑っていていいぜ」
「琴音ちゃんが今シーズン最初のスキーだから僕もここで滑ってるよ」
 雅史はそう言うと琴音とふたりでペアリフトへ行った。

 浩之はマルチに付きっきりでスノーボードの乗り方を教えた。
「最初は転び方の練習からだ」
「滑る前に転ぶんですかぁ?」
 マルチは不思議そうに訊ねた。
「ああ。変な姿勢で転んだら大けがをするからな。いいか? まずは、前向きに転ぶ場合、上半身全体で倒れ込むんだ……」
 浩之は実演して見せながらマルチに説明し、実際にマルチを突き倒して練習させていた。その間、あかりはずっとそばについていた。
「あかり、退屈だったら雅史たちと滑っていていいんだぜ」
「ううん、浩之ちゃんたちといっしょにいる」
 あかりはそう答え、それから少し心配そうな顔をして訊いた。
「それよりそんなに厳しく教えていて、マルチちゃん大丈夫なの?……」
「ああ、大丈夫だ」
 浩之は自信たっぷりに答えた。
「マルチは、こうやって自分の体を使って経験を積み重ねながらいろんなことを覚えていくんだ」
「ねえ、浩之ちゃん。もし、あたしがスノーボードをやりたいって言ったら、やっぱり厳しくする?」
「何言ってるんだよ。おまえ、乱暴なことをされるのは嫌いだろ?」
 と浩之は答えた。

 雅史と琴音は一緒に行動していた。
 琴音はペアリフトの上から浩之たち三人の様子を見下ろしながら隣の雅史に尋ねた。
「神岸さんと藤田さんってどういう関係なんですか?」
 雅史は浩之たちに手を振っていたが琴音の方を振り向いて答えた。
「あれ? 前に言わなかったっけ? 幼なじみだよ」
 琴音は苦笑しながら首を振った。
「ううん、そうじゃなくてお付き合いされてるのかなって。あのふたり、とても自然に見えますから」
「うーん、よくわかんないな。僕たち、幼稚園に入る前からずっと一緒で、いつもあんな感じだったよ」

 マルチが初級者コースを滑れるようになるまでたいして時間はかからなかった。マルチが初めて一度も転倒せずに滑り降りてきたとき、浩之は喜んで、マルチの頭をニットの帽子越しにごしごしと撫でた。
「マルチ、すごいじゃないか」
「そんなぁ……、ご主人様の教え方が上手だったからですぅ」
 マルチはそう言って顔を赤らめた。
 その様子をそばで見ていたあかりはぽつりと言った。
「あたしもボード、始めようかな……」
「おう、じゃああしたはあかりもボードを借りような。オレが教えてやるぜ」
 と、浩之。あかりは「うん!」と大きくうなずいた。

 それからも浩之とあかりはマルチに付き添うようにして二、三回滑った。
「ご主人様、あの、あたしのバッテリ残量が一時間を切りましたぁ」
 マルチにそう言われて、浩之はウェアの袖をごそごそとまくり腕時計を見た。
「もう昼か。あかり、そろそろ昼飯にしないか」
「うん」
 浩之は雅史たちが通りかかるのを待って、ゲレンデの麓にあるレストランに入った。
 テーブルにつくと浩之は背負っていたディパックをその上に置いた。
「ほら、マルチの弁当だ。他の人がびっくりするから、トイレで交換して来るんだぞ」
「はーい」
「マルチちゃん、一緒に行こう。これ、持ってあげるね」
 あかりは席を立ってディパックを持ち上げようとした。
「うわあ、すごく重たい……いったい何が入っているの?」
 あかりは中をのぞいた。
「あれ? 使い捨てカイロが五つも入ってる……」
「弁当、冷めたらうまくないもんな」
「へー、そうなんだ……」
 ぺちっ!
「あっ!」
 あかりが浩之の冗談を額面通り受け取ったので、浩之はあかりの頭を軽く叩いた。
「いい加減、オレのジョークに気がつけよ」
 マルチとあかりがいなくなった後、琴音が浩之に言った。
「マルチさんは上達が早いんですね」
「ああ、バランス感覚がずば抜けていいらしい」
「ロボットを普通に歩かせるっていうのは大変なことらしいからね。メイドロボットのバランサーってすごい技術なんだろうね」
 と、雅史。
「それに――」と浩之が付け加えた。「マルチはいつも『みなさんの喜ぶ顔を見るのが好き』って言っているだろ? あいつ、オレの喜ぶ顔が見たくて、がんばるんだぜ」


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6 琴音

 昼食後、浩之たちはリフトを一本乗り継いで山頂に立った。足元から中級者用のコースが広がり、麓の街や道路に続いている。マルチとあかりは眼下に広がる箱庭のような景色を眺めてはしゃいでいた。浩之はそんなふたりに「しょうがないなぁ……」と思いながら目を細めて見ていた。
「僕たちは先に行くね」
 雅史は浩之にそう言うと、まず琴音を滑らせてから自分も後に続いて滑りだした。
 琴音は緩やかにシュプールを描きながら、初めてスキーに行った一年前のことを思い出していた。

 そのころの琴音は緩斜面をゆるゆると滑りながら、それでも立木やフェンス、他のスキーヤーに近づくとどうしても避けたり止めたりできず、何度もぶつかっていた。
「琴音ちゃん、スキーはね、目線の方向へ滑って行くんだ。障害物を凝視するとそっちへ滑って行っちゃうよ。行ってはいけない方向を見るんじゃなくて行きたい方向を見るようにしてごらん」
 雅史からそんなアドバイスをもらった。

 それはあのチカラも同じこと……」
 今、琴音は滑走しながら後方に流れながていく景色の中で思った。
 あたしのチカラ――『不幸の予知』も、単純に未来を見ていたんじゃなかった。見てはいけないことを頭の中で想像して、気づかないうちにそれを現実に投影していたんだ。あたしは未来を予知していたんじゃない、未来を造っていたんだ。雅史君はあたしのチカラの正体を身を挺して教えてくれた。もう人の不幸を想像しないし、あたしといっしょにいても誰も不幸にならない。
 今はいつでも雅史がそばにいてくれるという安心感からか、琴音のチカラは急速に弱まっていった。琴音はそれを惜しいとは思わなかった。自分を苦しめただけのチカラだったので、むしろ消えつつあることに安堵していた。

「あわわわわわー。ご主人様ぁー、助けてくださぁーい」
 ときどき、マルチは叫びながら転倒したり暴走したりしていた。少し斜面が急になると、それまでの緩やかな斜面で学習したプログラムではうまくボードを制御できなかった。
「マルチ、大丈夫か? 無理そうだったら、また初級者コースに戻ってもいいんだぞ」
 浩之は少し心配になって訊ねた。
「あたしは大丈夫ですぅ。あたしが滑れるようになるとご主人様に喜んでいただけますから。それに――」  マルチはそう答えてから、少し顔を赤らめた。
「いっぱい、撫でていただけますから……」
 いったんスピードののったマルチは豪快に滑走していく。浩之や雅史でもとうてい追いつけない。例え追いついたとしても、うっかり触れるのは危険だった。マルチはあかりや琴音よりずっと小柄だが、体重があるためかなりの運動量を持っているのだ。接触するとはじき飛ばされかねない。マルチを止めるためには当て身を食らわすぐらいのことが必要だった。幸い、ゲレンデはもともとスキーヤーの少ない状態だったし、マルチ自身も人のいる方向へは決して滑っていかなかったから他にけが人が出る心配はなかった。
 一度、マルチがリフトの支柱に突っ込みかけたとき、浩之はさすがに肝を冷やした。幸い、支柱の周りは誰も滑らないので新雪が厚く積もっていた。マルチはその中に埋まるようにして止まった。ちょうどそばを通りがかった琴音がマルチの隣に寄り、腕をつかんで引き上げようとした。
「あ、琴音さん、危ないですよ」
 とマルチが言う間もなく、琴音はずぶずぶと新雪に埋まりかけた。
「お、重い……」
 琴音は思わず出た言葉をあわてて飲み込んだ。マルチは申し訳なさそうに言った。
「あの、あたし、小柄な男の人と同じくらいの体重があるんです……」
 マルチは後から滑ってきた浩之と雅史に抱えられるようにして雪の中から引きずり出された。

 ざざざざざざっ。
「きゃっ!」
 氷を掻く音ともにあかりが転倒した。浩之はすぐにそばによってあかりに手を差し出した。
「あいかわらずドジだなぁ……立てるか?」
「うん、大丈夫」
 あかりは浩之の手を取って立ち上がった。
「それにあたしドジじゃないよ。ほら、あそこ凍ってるんだよ」
 あかりが指さした方を見ると、雪の中に淡い水色をした部分が見えた。
「アイスバーンだな」
 あかりはそこでスキー板のエッジが利かなくなり、転倒したのだった。
「……ねえ浩之ちゃん、少し寒くない?」
 あかりにそう言われて、浩之は風が少し冷えてきていることに気がついた。あたりを見渡してみると、ただでさえ少なかった人影がさらにまばらになっていた。みんな早めに切り上げているようだった。
 リストの終了時刻までまだ一時間以上もあったが、浩之はあかりが寒がっていることの方が気になった。
「あと一本滑って、きょうはおしまいにするか?」
「うん、そうだね」
 リフト乗り場を見下ろすと、すでに雅史と琴音は到着していて、マルチがそこに向かって滑っているのが見えた。
「あかり、急ごうぜ」
 浩之はあかりと一緒に滑り降りて雅史たちと合流した。

 リフトを降り中級者コースの頂上に立つと、風はさらに冷たく、ときおり厚い雲がゲレンデをかすめるように流れていた。
 浩之はあかりたちに、
「最後の一本ぐらい思いっきり滑らせてくれないか?」
 と頼んだ。
「うん、いいよ。浩之ちゃん、今日はずっとマルチちゃんのコーチだったからね」
「悪いな、あかり。じゃあ、雅史、オレと競争だ」
「え? 僕も?」
 雅史は驚いて聞き返した。
「もちろんだ」
 浩之は雅史に言うと、あかりたちに、
「あかり、おまえたちは先に行ってこいよ。オレと雅史は後から出るから。まあ、すぐに追い抜くだろうけどな」
 と言った。
 浩之はマルチやあかり、琴音を先に行かせてから、雅史とふたりで抜きつ抜かれつしながら全速で下り、ついでに先行した三人も抜き去った。浩之は中級者コースが終わるところでいったん止まり、追い抜いた三人の到着を待った。
 さらに広がったアイスバーンに足を取られたのだろうか、マルチがものすごい勢いで滑ってきた。
「あわわわわわー、ご主人様ー……」
 浩之たちの前を通り過ぎる刹那、マルチの叫び声が少しだけ聞こえた。
「マルチー、転べーっ! 転んで止まるんだーっ!」
 浩之は叫んだがマルチは妙に安定した格好のまま滑っていき、浩之たちから目の届かないところでゲレンデの外へ滑落して完全に雪に埋まってしまった。

「どうだった、浩之?」
「ゲレンデの係員に探してくれるよう頼んでみたけど、あの態度じゃ本気で探してくれるかどうかわからないな……」
「そうだろうね。浩之のマルチは特別なメイドロボットだけど、普通に考えれば美少女型のメイドロボットを連れて遊びに行く人って、かなり特殊な趣味の人だからね」
「雅史、おまえ、かなり言いにくいことを平然と言うなぁ」
 そう言う浩之の声には、心なしか元気がなかった。
「とにかく、ふた手に分かれてマルチを探そうぜ」
 浩之たちは一時間後に昼食を取ったレストランで落ち合うことにして、マルチを探しに分かれた。

 マルチはゲレンデを外れて谷側へ三〇メートル程転落した。深く積もった雪がクッションとなって無傷で済んだものの、頭のてっぺんまで雪に埋まってしまった。
〈表面温度低下、バッテリ電圧不安定、システム途絶のおそれあり、メモリバックアップ実行……〉
 マルチの意識に様々な警告が浮かんだ。
「早く身体を暖めないと……えーと、暖めるために使う道具は……」
 マルチは自分の持ち物を思い出していった。
「たしか、ポケットの中に使い捨てカイロがあったはず」
 マルチは右腕をウェアのポケットに寄せるために雪の中を動かした。いったん緩んだ後再び凍り始めた雪は硬く、その中で腕を動かすことは大変だった。
〈表面温度低下、バッテリ電圧低下、メモリバックアップ完了、システムシャットダウン警戒……〉
 警告は絶え間なく続いていた。中でも雪を押しのける動作はバッテリにかなりの負荷となり、ようやくポケットを探り当てたとき――
〈バッテリ電圧低下、システムシャットダウン〉
 マルチの機能は停止した。

「雅史君、あそこ……」
 琴音が指さす方向をよく見ると、灌木の林の中にマルチのセンサーの先端部分が辛うじて見て取れた。
「よく見つけたね」
「さっきの晴れ間に一瞬だけ光を反射したんです」
「じゃ、浩之たちを呼んでくるよ」
「……待って、雅史君。この斜面じゃ、藤田さんと雅史君の二人掛かりでもマルチさんを運びあげることはできないと思います。あたしのチカラでマルチさんを動かせないか、試してみます」
 雅史は琴音の顔を見た。
「でも琴音ちゃん、そんなことできるの? 琴音ちゃんのチカラはもう……」
 雅史は琴音の、浩之たちには決して言えないチカラの正体を知っていた。

 雅史が高校二年の春、その「事件」は起こった。雅史は琴音の目の前で四階建ての校舎の屋上から転落しかけたのだ。体が宙に舞い「もう、だめだ」と思った次の瞬間、雅史は不思議なチカラで引き戻され屋上のコンクリートの床に落とされた。
 『不幸の予知』と呼ばれていた琴音のチカラの正体――それは、「未来を見るチカラ」ではなく「未来を造るチカラ」だった。
 琴音はただ単に不幸な結果に至る未来を予見していたわけではなかった。自分でも知らないうちに、頭の中で想像した「起きてはいけない未来」の映像に合わせるように目の前にある物体に働きかけ、自分のイメージに合うように動かしていたのだ。
 雅史は半身の痛みを感じながら、この土壇場で琴音が自分のチカラの正体に気づかなければ雅史自身は四階の校舎から地面に叩きつけられ、この痛みを感じることもなかったのだと思った。
 琴音は雅史を救うために気力の全てを使い果たしてしまったのか、直後からぐっすりと眠り込んでしまった。雅史は琴音の無防備な寝顔を見ながら、「この子が幸せになるまで見届けていきたい」と思った。

 これまで、琴音がチカラを及ぼしてきたのは目の前に見えている物に対してだった。しかし、今のマルチは雪に埋まってしまって全く見えない。しかも最盛期には雅史自身を持ち上げることもできたが、今はどの程度までできるか見当がつかなかった。
「とりあえずマルチの体を擦って暖めてあげられるかな? たぶん、低温でバッテリが弱っていると思うんだ」
「はい、やってみます」
 琴音はマルチがどんなウェアを着ていたか、どんな格好で埋まっているのか、できる限り正確に思い描き、自分がマルチの背中を摩擦しているイメージを重ね合わせた。しかし、手応えのない状態では自分のやり方がうまくいっているのか、琴音自身にも判断がつかなかった。
 何度か試行錯誤を繰り返しているうちに手応えを感じるようになった、想像の自分の手のひらがスキーウェアに触れ、腕の筋肉が疲労していく――
 チカラがちゃんと伝わっている!
 琴音はそう確信すると精神を集中した。
 いつの間にか雪が降り出していた。粉雪の舞う中、雅史の前でいつまでもじっと佇む琴音の様子は祈る姿にも似ていた。


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7 粉 雪

〈バッテリ電圧不定〉
 そんな信号が不意に意識に上った。
〈表面温度不定、温度分布……〉
 全身の温度分布が意識された。一部が比較的暖かい状態になっている。しかし、メインのコンピュータが止まっている状態のマルチはただの計測器にすぎない。テスタや温度計は測定値を示すが、自分が何を測定しているか知らない。マルチも次々に意識に上るデータが自分にとってどういう意味を持つのかわかっていなかった。
〈システムチェック……〉
 マルチ自身の機能をチェックするプログラムが働き始めた。
〈バッテリ電圧定格値に到達、レーザ発振、バックアップデータ復帰……〉
 レーザ光が光コンピュータの中を駆け巡り、中断していた思考が再開された。
「たしか、ポケットの中に使い捨てカイロがあったはず」
 右手はポケットのすぐそばにあった。マルチは手探りでポケットのファスナーを開け、その中で使い捨てカイロの封を切って握るようにして揉んだ。
 同時に背中がごしごし擦られているのにも気がついた。先ほどから背中が暖かく感じられていたのはこれが原因だった。誰かがウェアの上から自分を摩擦しているようだった。
「あの、どなたか存じませんが、あたしをここから出していただけませんか?」
 マルチは頼んでみたが返事はなかった。そもそも声がうまく出ていないようだった。
 マルチは自分に何が起こっているのか、無性に知りたかったが、一刻も早く浩之たちのそばに戻りたいと思う気持ちの方が強かった。動くようになった右腕を雪の外に出して辺りに手がかりはないか探った。

「あっ」
 雅史と琴音はほとんど同時に声を上げた。雪面からマルチの手が見えたのだ。
「琴音ちゃん、あそこ……」
「はい、見えます。あそこに意識を集中すれば何とかなるかもしれません」
 しかしマルチは重く、琴音のチカラでは腕を支えるのがやっとだった。
 マルチはじたばたしながら、ようやく上体を雪の上に出すことができた。マルチは初めに雪の降る空を見上げ、次いで琴音と雅史の姿を見つけると大きく手を振ってみせた。マルチが再び屈んで何かごそごそやりかけたのを雅史は咄嗟に制止した。
「おーい、マルチー! ボードは外しちゃだめだよー。それで雪を踏み固めるようにして上がって来るんだー」
 マルチは顔を上げて返事をしたように見えたが、声は聞こえなかった。それでも雅史の言うことは理解したらしく、三十メートルの急斜面を腹這いになって、初めは苦労しながら、やがてコツを飲み込んでくると器用にボードを操りながら上がってきた。
 マルチはにこにこしながら一所懸命口を動かしていた。しゃべっているようなのだが声が出ていなかった。雅史は「どうしたんだろう」と思った。
「マルチ、口を大きく開けてみて」
 マルチは雅史に言われたとおりにしてみせた。
「ちょっとごめんね……」
 そう言うと雅史はマルチの口の中に指を突っ込んで、小さな雪の固まりを取り出してた。
「きっと転倒したときに飲み込んだんだろうね。こんなものが引っかかっていたらしゃべれないよね」
「あ、あ、あ、ありがとうございますぅ! あたし、のどの奥に感覚がないので、こういうことになってもわからないんですぅ」
 マルチは雅史に何度もぺこぺこと頭を下げた。
「あの、さっきあたしの腕を引いて下さったのは琴音さんですか? 少し弱くてあたしを持ち上げられるほどではなかったんですけど、あたし、あのおかげで琴音さんがそばで待っていて下さっていることがわかったから、がんばって戻らなきゃ、って気持ちになったんですぅ。本当にありがとうございますぅ」
 そう言ってマルチはまた深々と頭を下げた。
 琴音は不思議に思って訊ねた。
「どうしてあたしだとわかったんですか?」
「あたし、一度琴音さんに助けられていますよね。そのときの、あたしの腕を引いたときの力のかかり具合と、さっき、助けてもらったときの力のかかり具合がとても似ていたんです。だから琴音さんだってわかったんです。でも、あれはどうやったんですかぁ? 琴音さんが直接そばに来られた形跡はないようなんですが?」
 マルチは興味津々といった様子で琴音に訊ねた。琴音は黙っていた。
「マルチ……」
 雅史が言いにくそうに口を開いた。
「本当に悪いんだけど、そのことは忘れてもらえないかな?」
「え? 『忘れて』って――」
 マルチは当惑気味に聞き返した。
「つまり『記憶を削除して』っていうことですか?」
 雅史は黙ってうなずいた。
「あの、もしよろしければ理由をお聞かせいただけませんか?」
 マルチの質問に雅史はぽつりぽつりと答えた。
「琴音ちゃんがマルチを助けるのに使った方法は、本当は誰にも知られていたくないんだ。琴音ちゃんはそのことでいろいろと嫌な目に遭ってきたからね。だから、マルチにも今のことは忘れてほしいんだ。できるよね?」
 マルチは少し考えてから答えた。
「わかりました。それでは、再起動してから現在までの記憶を削除します」
 マルチは俯いてしばらくメモリを探っていたが、やがて顔を上げた。
「申し訳ありません、雅史さん。やっぱり削除できません。あたしは新しいメイドロボットを開発するために作られた試作機です。あたしが日々何を経験し何を感じたか、それらを全て研究所に持ち帰ってこれから生まれてくる妹たちの役に立てる、それがあたしの仕事なんです。それに……」
 マルチはいったん言葉を切った。
「それに、この記憶を消去したら、わたしは琴音さんや雅史さんに感謝することができなくなってしまいます。わたしを助けてくださった方々ですのに感謝の気持ちを忘れてしまうなんて、そんなことはできません!」
「マルチは僕たちに感謝しなくてもいいんだ。僕たちも感謝されたくてマルチを助けたわけじゃないんだから」
「あの、雅史君……」
 琴音が遠慮がちに割って入った。
「あたしのことは気にしなくていいです。マルチさんだって困っていますし……」
 しかし、雅史は琴音に言い聞かせた。
「いいかい、琴音ちゃん。マルチは浩之のメイドロボットなんだよ。マルチがいくら秘密にしようと思っても、主人の意志に反してまで秘密を守り通すことはできないんだ。それにマルチはデータ解析のために、毎月、来栖川電工の研究所に通っている。琴音ちゃんのチカラがそんなところに知られたら、もう平穏な生活はできなくなるんだよ」
 琴音は雅史の言葉を黙って聞いていた。
 マルチは雅史の言っていることがよくわかった。テスト通学をしていた頃、『不幸の予知』をするという琴音の噂は同じ学年だったマルチにも聞こえており、そのために琴音が他のクラスメイトから避けられていることも見知っていた。マルチには琴音が同じ人間同士であるはずなのに少しばかり周囲の人と違うというだけで好奇と嫌悪の対象にされていたことが理解できなかった。
 テスト通学の期間が終わりに近づき、自分には友だちができてとても楽しかったと思えるようになったのと同時に、友だちのいない琴音のことをとても悲しく不幸なことだと感じるようになった。
 学校は閉鎖的な社会である。普通、「学校の中」で起こる出来事はあまり「外の世界」に影響しない。だからこそ学校はメイドロボットがテスト運用を行うためのフィールド(場所)として用いられるのだ。琴音の『不幸の予知』もそんな「学校の中」の出来事で済んでいた。
 しかし――。
 たった今自分が経験したことが、かつての『不幸の予知』の噂とどういう関係にあるのか、マルチにはわからなかった。しかし、もし自分がこの不可解な経験を研究所に持ち帰れば、今度は大多数の人にはない琴音に特有の「何か」は来栖川電工という大企業に知られることになるのだ。
 そこでマルチは考え込んでしまった。「でも、それでいったい何が起こるのだろう? 研究所の人が琴音さんを嫌いになる? それとも、研究所だから研究をする? 何を? 琴音さんが他の人と違う何かについて? どうやって? 人間が人間を、ロボットであるあたしやあたしの姉妹たちにするように、いろいろな測定器につなぐのだろうか? 同じ人間同士が?……」
 マルチは何かとてもよくないことが起こるように思えてきた。
「わかりました。記憶を削除します」
 マルチは静かに目を閉じた。

「あわわわわー、真っ暗ですぅー!」
 突然慌てだしたマルチに雅史と琴音は面食らった。
「マルチ、目を開けるんだよ」
「あ、は、はい、そうですね。あたし、目をつぶっていたんですね」
 雅史に言われてマルチは目を開けた。
 世界が脈絡もなく唐突に始まる感覚――電源を入れられたときはいつもそんな感覚だったので気にならなかった。
 マルチはあたりを見回し、ゲレンデにいて雅史や琴音と向かい合って立っていることに気がついた。いつの間にか雪が降っていた。
 マルチは空を見上げた。
「わあ。雅史さん、琴音さん、雪が降っていますよー」
 風に舞う雪がキーとなってマルチの記憶を次々と惹起するのか、マルチはしゃべり続けた。
「これ、『雪』って言うんですってね、浩之さんが教えてくれましたぁ。きれいですねー。みんな同じような降り方をしているのに、一つ一つは違う経路をたどっているんですよー、不思議ですねー」
 そう言いながら、マルチは雅史と琴音の方を振り向いた。ふたりは明るく振る舞うマルチを見て辛そうな顔をしていた。
「あれ、ふたりともどうしたんですかぁ?」
 少し怪訝に尋ねるマルチに、雅史は「記憶を消し切れていなかったか?」と身構えた。しかし、マルチはすぐに勝手な解釈をした。
「あ、あ、あ、すみませーん! あたし、なんで大事なことに気がつかなかったんでしょう! 人間のみなさんは寒いんですよね? 浩之さんも寒がっていましたから。さあ、早くどこか暖かい建物に入りましょう。どこがいいですかぁ?」
 明るく問いかけるマルチに雅史は無表情に答えた。
「それじゃ、お昼ご飯を食べたレストランに行こう。そこで浩之たちと待ち合わせなんだ」
 マルチは、
「はーい、わかりましたぁ」
 と元気よく答えると、雅史と琴音を促してレストランに向かって滑り出した。

 琴音はマルチの後に続いてゲレンデを滑走していた。
 厚く懸かった雲の下、降り続ける雪にあたりは薄暗くなっていた。すっかり弱められた午後の光が造るモノトーンの情景の中で、マルチの着るパステルカラーのスノーウェアだけが色づいて見えた。マルチは何が嬉しいのか、鼻歌混じりにぐんぐん滑り、時折、琴音とその後ろの雅史を振り返った。
 琴音はマルチの後ろ姿を見ながら思っていた。
 心を持つロボット、マルチ。
 マルチは心を持つから、人間と一緒に生活しながら嬉しいこと楽しいこと、たくさんの思い出を人間と共有することができる。今日だってマルチはマルチなりに楽しみ、このことをいつまでも浩之たちと話題にすることができるのだ。
 そして、マルチは心を持つから人間の辛いこと悲しいことを理解し共感してしまう。
 マルチはロボットだから、人間に喜ばれたい、人間の役に立ちたいと思っている。もし人間の辛いこと悲しいことを消し去るための役に立つと思ったら、自分の思い出さえも引き替えにしてしまうのだ。
 琴音は空を見上げた。
 いくつもの粉雪が降りかかり、顔に当たっては溶けてゆく。マルチの思い出も人間のわがままの前にはかなく消えていくものなのだろうか? 琴音はマルチが切なく思えてきた。
 しかし、その原因が自分にあることも琴音にはわかっていた。結局、マルチは琴音ひとりを護るために、課せられた使命を抛 (なげう)ち、浩之や来栖川電工を裏切り、大切な宝物を失うことを選んだのだ。
 そして、今のマルチはそのことを覚えていない。
 琴音は思った。自分はいまだに自分自身の持つチカラに翻弄されているのだろう。しかも、それは自分自身だけの問題ではなく、自分に親しい者まで巻き込んでしまう。自分の持つ力は『不幸の予知』を行うものではなかったが、結局、周囲の者に『不幸』をもたらしているのだ、と。
 琴音は普通の女の子になりたかった。何も特別なところのない、普通の女の子に。
 降りしきる雪の中、琴音はいつか自分もマルチのように無邪気に笑えるようになりたいと願っていた。

ED曲:『POWDER SNOW』
収録:『LEAF VOCAL COLLECTION VOL.1』
F.I.X RECORDS (KICA5041)