7 粉 雪
〈バッテリ電圧不定〉
そんな信号が不意に意識に上った。
〈表面温度不定、温度分布……〉
全身の温度分布が意識された。一部が比較的暖かい状態になっている。しかし、メインのコンピュータが止まっている状態のマルチはただの計測器にすぎない。テスタや温度計は測定値を示すが、自分が何を測定しているか知らない。マルチも次々に意識に上るデータが自分にとってどういう意味を持つのかわかっていなかった。
〈システムチェック……〉
マルチ自身の機能をチェックするプログラムが働き始めた。
〈バッテリ電圧定格値に到達、レーザ発振、バックアップデータ復帰……〉
レーザ光が光コンピュータの中を駆け巡り、中断していた思考が再開された。
「たしか、ポケットの中に使い捨てカイロがあったはず」
右手はポケットのすぐそばにあった。マルチは手探りでポケットのファスナーを開け、その中で使い捨てカイロの封を切って握るようにして揉んだ。
同時に背中がごしごし擦られているのにも気がついた。先ほどから背中が暖かく感じられていたのはこれが原因だった。誰かがウェアの上から自分を摩擦しているようだった。
「あの、どなたか存じませんが、あたしをここから出していただけませんか?」
マルチは頼んでみたが返事はなかった。そもそも声がうまく出ていないようだった。
マルチは自分に何が起こっているのか、無性に知りたかったが、一刻も早く浩之たちのそばに戻りたいと思う気持ちの方が強かった。動くようになった右腕を雪の外に出して辺りに手がかりはないか探った。
「あっ」
雅史と琴音はほとんど同時に声を上げた。雪面からマルチの手が見えたのだ。
「琴音ちゃん、あそこ……」
「はい、見えます。あそこに意識を集中すれば何とかなるかもしれません」
しかしマルチは重く、琴音のチカラでは腕を支えるのがやっとだった。
マルチはじたばたしながら、ようやく上体を雪の上に出すことができた。マルチは初めに雪の降る空を見上げ、次いで琴音と雅史の姿を見つけると大きく手を振ってみせた。マルチが再び屈んで何かごそごそやりかけたのを雅史は咄嗟に制止した。
「おーい、マルチー! ボードは外しちゃだめだよー。それで雪を踏み固めるようにして上がって来るんだー」
マルチは顔を上げて返事をしたように見えたが、声は聞こえなかった。それでも雅史の言うことは理解したらしく、三十メートルの急斜面を腹這いになって、初めは苦労しながら、やがてコツを飲み込んでくると器用にボードを操りながら上がってきた。
マルチはにこにこしながら一所懸命口を動かしていた。しゃべっているようなのだが声が出ていなかった。雅史は「どうしたんだろう」と思った。
「マルチ、口を大きく開けてみて」
マルチは雅史に言われたとおりにしてみせた。
「ちょっとごめんね……」
そう言うと雅史はマルチの口の中に指を突っ込んで、小さな雪の固まりを取り出してた。
「きっと転倒したときに飲み込んだんだろうね。こんなものが引っかかっていたらしゃべれないよね」
「あ、あ、あ、ありがとうございますぅ! あたし、のどの奥に感覚がないので、こういうことになってもわからないんですぅ」
マルチは雅史に何度もぺこぺこと頭を下げた。
「あの、さっきあたしの腕を引いて下さったのは琴音さんですか? 少し弱くてあたしを持ち上げられるほどではなかったんですけど、あたし、あのおかげで琴音さんがそばで待っていて下さっていることがわかったから、がんばって戻らなきゃ、って気持ちになったんですぅ。本当にありがとうございますぅ」
そう言ってマルチはまた深々と頭を下げた。
琴音は不思議に思って訊ねた。
「どうしてあたしだとわかったんですか?」
「あたし、一度琴音さんに助けられていますよね。そのときの、あたしの腕を引いたときの力のかかり具合と、さっき、助けてもらったときの力のかかり具合がとても似ていたんです。だから琴音さんだってわかったんです。でも、あれはどうやったんですかぁ? 琴音さんが直接そばに来られた形跡はないようなんですが?」
マルチは興味津々といった様子で琴音に訊ねた。琴音は黙っていた。
「マルチ……」
雅史が言いにくそうに口を開いた。
「本当に悪いんだけど、そのことは忘れてもらえないかな?」
「え? 『忘れて』って――」
マルチは当惑気味に聞き返した。
「つまり『記憶を削除して』っていうことですか?」
雅史は黙ってうなずいた。
「あの、もしよろしければ理由をお聞かせいただけませんか?」
マルチの質問に雅史はぽつりぽつりと答えた。
「琴音ちゃんがマルチを助けるのに使った方法は、本当は誰にも知られていたくないんだ。琴音ちゃんはそのことでいろいろと嫌な目に遭ってきたからね。だから、マルチにも今のことは忘れてほしいんだ。できるよね?」
マルチは少し考えてから答えた。
「わかりました。それでは、再起動してから現在までの記憶を削除します」
マルチは俯いてしばらくメモリを探っていたが、やがて顔を上げた。
「申し訳ありません、雅史さん。やっぱり削除できません。あたしは新しいメイドロボットを開発するために作られた試作機です。あたしが日々何を経験し何を感じたか、それらを全て研究所に持ち帰ってこれから生まれてくる妹たちの役に立てる、それがあたしの仕事なんです。それに……」
マルチはいったん言葉を切った。
「それに、この記憶を消去したら、わたしは琴音さんや雅史さんに感謝することができなくなってしまいます。わたしを助けてくださった方々ですのに感謝の気持ちを忘れてしまうなんて、そんなことはできません!」
「マルチは僕たちに感謝しなくてもいいんだ。僕たちも感謝されたくてマルチを助けたわけじゃないんだから」
「あの、雅史君……」
琴音が遠慮がちに割って入った。
「あたしのことは気にしなくていいです。マルチさんだって困っていますし……」
しかし、雅史は琴音に言い聞かせた。
「いいかい、琴音ちゃん。マルチは浩之のメイドロボットなんだよ。マルチがいくら秘密にしようと思っても、主人の意志に反してまで秘密を守り通すことはできないんだ。それにマルチはデータ解析のために、毎月、来栖川電工の研究所に通っている。琴音ちゃんのチカラがそんなところに知られたら、もう平穏な生活はできなくなるんだよ」
琴音は雅史の言葉を黙って聞いていた。
マルチは雅史の言っていることがよくわかった。テスト通学をしていた頃、『不幸の予知』をするという琴音の噂は同じ学年だったマルチにも聞こえており、そのために琴音が他のクラスメイトから避けられていることも見知っていた。マルチには琴音が同じ人間同士であるはずなのに少しばかり周囲の人と違うというだけで好奇と嫌悪の対象にされていたことが理解できなかった。
テスト通学の期間が終わりに近づき、自分には友だちができてとても楽しかったと思えるようになったのと同時に、友だちのいない琴音のことをとても悲しく不幸なことだと感じるようになった。
学校は閉鎖的な社会である。普通、「学校の中」で起こる出来事はあまり「外の世界」に影響しない。だからこそ学校はメイドロボットがテスト運用を行うためのフィールド(場所)として用いられるのだ。琴音の『不幸の予知』もそんな「学校の中」の出来事で済んでいた。
しかし――。
たった今自分が経験したことが、かつての『不幸の予知』の噂とどういう関係にあるのか、マルチにはわからなかった。しかし、もし自分がこの不可解な経験を研究所に持ち帰れば、今度は大多数の人にはない琴音に特有の「何か」は来栖川電工という大企業に知られることになるのだ。
そこでマルチは考え込んでしまった。「でも、それでいったい何が起こるのだろう? 研究所の人が琴音さんを嫌いになる? それとも、研究所だから研究をする? 何を? 琴音さんが他の人と違う何かについて? どうやって? 人間が人間を、ロボットであるあたしやあたしの姉妹たちにするように、いろいろな測定器につなぐのだろうか? 同じ人間同士が?……」
マルチは何かとてもよくないことが起こるように思えてきた。
「わかりました。記憶を削除します」
マルチは静かに目を閉じた。
「あわわわわー、真っ暗ですぅー!」
突然慌てだしたマルチに雅史と琴音は面食らった。
「マルチ、目を開けるんだよ」
「あ、は、はい、そうですね。あたし、目をつぶっていたんですね」
雅史に言われてマルチは目を開けた。
世界が脈絡もなく唐突に始まる感覚――電源を入れられたときはいつもそんな感覚だったので気にならなかった。
マルチはあたりを見回し、ゲレンデにいて雅史や琴音と向かい合って立っていることに気がついた。いつの間にか雪が降っていた。
マルチは空を見上げた。
「わあ。雅史さん、琴音さん、雪が降っていますよー」
風に舞う雪がキーとなってマルチの記憶を次々と惹起するのか、マルチはしゃべり続けた。
「これ、『雪』って言うんですってね、浩之さんが教えてくれましたぁ。きれいですねー。みんな同じような降り方をしているのに、一つ一つは違う経路をたどっているんですよー、不思議ですねー」
そう言いながら、マルチは雅史と琴音の方を振り向いた。ふたりは明るく振る舞うマルチを見て辛そうな顔をしていた。
「あれ、ふたりともどうしたんですかぁ?」
少し怪訝に尋ねるマルチに、雅史は「記憶を消し切れていなかったか?」と身構えた。しかし、マルチはすぐに勝手な解釈をした。
「あ、あ、あ、すみませーん! あたし、なんで大事なことに気がつかなかったんでしょう! 人間のみなさんは寒いんですよね? 浩之さんも寒がっていましたから。さあ、早くどこか暖かい建物に入りましょう。どこがいいですかぁ?」
明るく問いかけるマルチに雅史は無表情に答えた。
「それじゃ、お昼ご飯を食べたレストランに行こう。そこで浩之たちと待ち合わせなんだ」
マルチは、
「はーい、わかりましたぁ」
と元気よく答えると、雅史と琴音を促してレストランに向かって滑り出した。
琴音はマルチの後に続いてゲレンデを滑走していた。
厚く懸かった雲の下、降り続ける雪にあたりは薄暗くなっていた。すっかり弱められた午後の光が造るモノトーンの情景の中で、マルチの着るパステルカラーのスノーウェアだけが色づいて見えた。マルチは何が嬉しいのか、鼻歌混じりにぐんぐん滑り、時折、琴音とその後ろの雅史を振り返った。
琴音はマルチの後ろ姿を見ながら思っていた。
心を持つロボット、マルチ。
マルチは心を持つから、人間と一緒に生活しながら嬉しいこと楽しいこと、たくさんの思い出を人間と共有することができる。今日だってマルチはマルチなりに楽しみ、このことをいつまでも浩之たちと話題にすることができるのだ。
そして、マルチは心を持つから人間の辛いこと悲しいことを理解し共感してしまう。
マルチはロボットだから、人間に喜ばれたい、人間の役に立ちたいと思っている。もし人間の辛いこと悲しいことを消し去るための役に立つと思ったら、自分の思い出さえも引き替えにしてしまうのだ。
琴音は空を見上げた。
いくつもの粉雪が降りかかり、顔に当たっては溶けてゆく。マルチの思い出も人間のわがままの前にはかなく消えていくものなのだろうか? 琴音はマルチが切なく思えてきた。
しかし、その原因が自分にあることも琴音にはわかっていた。結局、マルチは琴音ひとりを護るために、課せられた使命を抛 (なげう)ち、浩之や来栖川電工を裏切り、大切な宝物を失うことを選んだのだ。
そして、今のマルチはそのことを覚えていない。
琴音は思った。自分はいまだに自分自身の持つチカラに翻弄されているのだろう。しかも、それは自分自身だけの問題ではなく、自分に親しい者まで巻き込んでしまう。自分の持つ力は『不幸の予知』を行うものではなかったが、結局、周囲の者に『不幸』をもたらしているのだ、と。
琴音は普通の女の子になりたかった。何も特別なところのない、普通の女の子に。
降りしきる雪の中、琴音はいつか自分もマルチのように無邪気に笑えるようになりたいと願っていた。
ED曲:『POWDER SNOW』
収録:『LEAF VOCAL COLLECTION VOL.1』
F.I.X RECORDS (KICA5041)
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