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ブランニューハート

もくじ


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1 風がくれたおやすみ(その1)

 四月二十日。
 来栖川電工中央研究所の開発主任長瀬は、作業が日曜日にずれ込んだので最低限必要なメンバーだけに出社を頼もうかと思っていたが、結局、X12プロジェクトのメンバー八人全員が出勤していた。
 日曜出勤だというのにみんな楽しそうにしていた。
 隣のX13プロジェクト研究室は前日に作業を済ませており、この日はひっそりとしていた。

「ただいま帰りましたー」
 間もなく午前十時になろうとする頃、小柄な女子高校生が研究室のドアを開けた。
 コンピュータや種々の測定器が運び込まれ白衣の研究者たちが待ちかまえている中へ、セーラー服を着た少女が入って来るのは、普通だったらかなり異質な光景だ。
「マルチ、お帰りなさい」
 真っ先に声をかけたのは、プロジェクトチームの若い女性メンバー佐々木だった。
 マルチと呼ばれた少女は、来栖川電工がメイドロボットの次期新製品として開発中の試作機だった。HMX−12というのがその試作機に付された開発コードだったが、マルチをそのような無機質な記号で呼ぶ者はいなかった。
 メイドロボットとは、掃除や洗濯等家事全般をこなす家庭向け汎用アンドロイドである。元来、介護ロボットとして研究開発されたものだが、技術の進歩とともに、次第に複雑な作業も行えるようになり価格も下がってきたことから、比較的裕福な人々が家事の補助をさせるために購入するようになった。そこに新たな市場の可能性があることを悟った介護ロボットメーカー各社は、一般家庭用に設計したロボットを次々と発売し、社会もそれを『メイドロボット』と呼んで受け入れるようになった。
 マルチは研究室を見渡すと、不思議そうに訊ねた。
「あれ? きょうは日曜日なのにみなさんご出勤なんですか」
「あら、マルチが帰ってくるのに出迎えないわけにいかないじゃない」と佐々木が答えた。
 彼女は機能性タンパク質を用いたバイオセンサーを開発した。マルチの「痛い」や「熱い」といった触覚は彼女の研究成果である。また、年齢がマルチに想定されているものともっとも近いため(といっても、倍近く離れているが)、マルチに女の子らしい言葉遣いを教えるための教育係も担当していた。そのため、チーム内では、真っ先にマルチに話しかける特権を与えられていた。
「あたしのために、みなさんを日曜日まで働かせてしまっているんですか? お約束の時間に戻れなくて、すみません」
 マルチは泣きそうになりながら謝っていたが責める者は誰もいなかった。
「マルチ、泣くなよ。おまえはオレたちの期待以上の成果を出したんだからな。今度のことは、そのご褒美なんだよ」
「そうよ、マルチ。だから謝ることなんて全然ないのよ」
 小林や尾形が口々に言った。小林はマルチの動力源となっている燃料電池の固体高分子膜を、尾形は腕や脚などの駆動系を開発した。
 マルチと研究室の仲間のやりとりを見ながら、清水が関戸に話しかけた。
「あれはいくら何でも泣きすぎじゃないんですか?」
「もうちょっと涙管を細くした方がよかったな」と関戸。
 彼は機能性高分子複合材料の専門家である。マルチの被覆材は関戸が佐々木の開発したバイオセンサーを組み込んで開発したものだった。マルチが涙を流す本来の目的は瞼(まぶた)がカメラレンズの上を滑らかに動くようにするためだが、感情(もちろん、擬似的なものだ)に応じて泣くこともできた。

 三週間前、マルチは初めて起動した。
 マルチは研究室内であらゆる調整が行われた後、実際に大勢の人がいる現場で設計どおりに機能するかどうかを試験するため、研究所近くの高校にテスト通学をさせていた。
 昨日はその最終日。
 昼過ぎ、マルチはいったん研究所に戻ってきたものの、お世話になった人にどうしても恩返しをしたいと言い出した。本来、土曜日の午後に予定されていた作業が日曜日に順延になってしまうが、開発チームに反対する者はいなかった。
 長瀬もマルチの好きなようにさせるつもりだった。それは、長瀬のマルチに対する好意だけではなかった。超並列処理演算神経網コンピュータを開発した牧村や学習型プログラミングを開発した戸山がマルチの自発的な行動に関心を持っていたからだった。


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2 風がくれたおやすみ(その2)

「みなさん、ありがとうございました。あたしは三週間だけの稼働でしたが、最後にはすてきな家で働きたいという夢まで叶えさせていただいて、本当に幸せでした。あたしのテスト結果がまだ見ぬ妹たちに役立ってほしいと心から願っています」
 マルチはチームの一人一人に深々と頭を下げて礼を言っていた。マルチの言う『妹たち』とは、市販用の量産機のことである。マルチのテスト通学で得られたデータは量産機の設計に反映されるのである。
 マルチが一通り挨拶をし終えるのを見届けると、清水がマルチを呼び寄せた。
「マルチ、お疲れさま。さ、メンテナンス・クレードルに乗って」
 マルチは、半径八十センチメートル、高さ二十センチメートルの円盤形をした台に乗ると、支柱を背にして立った。
 清水は佐々木に手伝ってもらいながらマルチを支柱に固定した。
「マルチ、学校は楽しかったかい?」
 清水は作業をしながらマルチに話しかけた。
「はい、とっても。学校のみなさんに喜んでいただけて、あたしも嬉しかったです」とマルチ。
 清水は心理学の研究者である。彼は大学在学中に小学校教員免許と保育士の資格を得ていたことからマルチの教育係として佐々木を補佐していた。在学中は就職先がなかったということもありドクターを取ってからも大学に残って研究を続けていた。しかし、来栖川電工と介護機器のヒューマンインターフェースに関する共同研究に取り組んだことをきっかけに、戸山に見出されて来栖川電工中央研究所の研究員となった。

 清水の作業が終わると、牧村が声をかけた。
「清水くん、いいかい?」
「あ、はい」
 清水は牧村に向かって返事をすると、マルチに話しかけた。
「じゃ、マルチ、お休みなさい」
「はい」
 清水の言葉にマルチは元気よく返事した。
「マルチ、お休みなさい」
「はい」
「マルチ、お休みなさい」
 三回目の呼びかけにマルチは答えなかった。「マルチ、お休みなさい」と三回繰り返すことがマルチのコンピュータを直接操作するターミナルモードに入るためのキーワードになっていた。清水は牧村に場所を譲った。今度は牧村の番だ。「マルチ、メンテナンスモード、再起動」
 ピ、という短い電子音と共にかすかなハム音が聞こえてきた。マルチが昏睡しているような無表情の顔のまま、なめらかな日本語で「ユーザーIDを入力して下さい」、「パスワードを入力して下さい」と告げると、その度に牧村は短い言葉を話しかけた。
 その後も牧村はマルチにコマンドを話しかけていった。やがて、首と脚の付け根が胴から分かれ、三センチメートルほど離れると、その隙間からいくつものコネクタやコックが表れた。
 戸山が首にあるコネクタにデータ転送用のケーブルを接続し、小林がスカートの下にある電源用のコネクタやコックに電源ケーブルや排水用のチューブをつないでいった。いつもなら、小林の仕事はリチウムイオン電池の充電と燃料電池用水素カートリッジの交換だったのだが、今回は電池の残量を確認すると、古い水素カートリッジを取り外したまま、リチウムイオン電池の充電もしないで外部から電源を取るようにしておいた。
「マルチ、オンライン」
 牧村が声をかけると、予め起動してあったメンテナンス用のコンピュータがマルチの接続を認識した。この後の作業はキーボードから行える。
「よーし、来た来た!」
 コンピュータの前に座っていた戸山は、キーボードの操作を始めた。

 最後のデータアップロードが始まった。この瞬間から、マルチは金色に輝く数十枚のDVDの中に転生する。


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3 風がくれたおやすみ(その3)

「ロボットが『幸せ』だとか『夢』だとか言い出すとは思わなかったな」
 長瀬がデータ転送の様子を見ながらつぶやくと、戸山が振り返って答えた。
「きっとお世話になったとかいう人の家で掃除をしたり洗濯をしたりしてきたのでしょう。マルチは家庭用に調整されていますから、家で働くときがいちばんスムーズに機能するはずなんですよ」
「だが、マルチに『幸せ』とか『夢』なんてことがわかるのかね?」と長瀬は怪訝に思って訊いた。
「わかりますよ――というより、わたしがマルチに『幸せ』や『夢』の定義をプログラムしたんですよ」と戸山。「マルチのコンピュータは課題を認識すると、それまでの経験から適切な行動を判断し、それを実行する、という一連のパターンで働くんです。そこで、わたしがマルチにとって望ましい状況を考えて、『幸せ』を『正しい行動が短時間に判断、実行されること』と定義し、『夢』を『マルチ自身のシミュレーションによって仮想される状態のうちマルチ自身が現状以上に『幸せ』になる状態』と定義したんです」
「種を明かされるとずいぶんと無機質なものだったんだな。それにしても、マルチにそんなことまでプログラムする必要があったんかね?」と長瀬。
 長瀬の質問に、戸山は、「そうは言っても、主任だってマルチのような女の子に『幸せ』とか『夢』とか言われると嬉しくなってくるでしょ? そこがミソなんですよ。
 マルチは学習型ですから、作業の熟練にはユーザーの側からの支援が重要なんです。清水くんによると、ユーザーは協力が強制的なものだと長続きしない、ユーザーから自発的に協力したくなる工夫が必要なんだそうです。そこでふたりで研究して、マルチ自身がユーザーに働きかけて自分の学習環境を整えさせるような能力を持たせてあるんです」
 人から感化され、人を感化する――人と相互作用するマルチは、従来のメイドロボットを超えた存在なのかも知れない。工学部出身の戸山と文学部出身の清水、この異色の組合せが、類を見ないユニークなロボットを生み出したのかもしれない。
 長瀬は、戸山らが作業するのを見ながら、プロジェクト発足当時のことを思い出していた。

 X12プロジェクトの発足は、四年前に遡る。
 牧村のグループがつくば市にある産業技術総合研究センターと共同開発した超並列処理演算神経網コンピュータと、戸山のグループが開発した学習型プログラミングの二つを併せた応用技術として、自律学習型メイドロボットの開発に着手したい――この企画を牧村と戸山が長瀬のもとに持ち込んだのが始まりだった。
 自ら作業内容を学習するメイドロボット。教育次第でどのような分野のエキスパートになることもでき、作業環境が変わっても現場で教え込ませるだけで再プログラミングが不要となる――今まで、メイドロボットのユーザーから「新しいことをさせるのにいちいちメーカーサポートを受けなければならないのは不便」、「一度プログラムさせた作業内容を変更するのが困難」といった苦情が寄せられていた来栖川電工本社としても、魅力的なプロジェクトだった。
 しかし、学習型プログラミングには大きな問題点もあった。メイドロボットが現場で使えるようになるためには丁寧な教育が必要なのである。

 数時間後、マルチの最後のデータがサーバにアップロードされ、DVDに転送された。
「マルチ、システムシャットダウン」牧村がマルチに最後のコマンドを話しかけた。
 ゴトッ。
 オートバランサーが停止し、平衡を失ったマルチの体はメンテナンス・ベイの支柱にもたれかかるようにして倒れた。


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4 召喚(その1)

 五月十二日。
『マルチの一次解析が終了しました。データファイルはX12プロジェクトのサーバに保存してあります。解析結果の説明と検討をしたいので、みなさんのご都合のよい時間をお知らせください。――知能情報研究室 戸山』
 長瀬の元に戸山からの電子メールが入っていた。宛先を見ると、X12プロジェクトチーム全員に配信されていた。
 プロジェクトチームは、あるひとつの開発課題について関連する分野の研究室から研究員が集められて結成される。チームの各メンバーは自分の研究課題を持ちながらその応用をプロジェクトに持ち寄るのである。プロジェクトの研究室に行けば必ず誰かいるが、全員を集めてミーティングを行う場合は予めスケジュールを調整しておかなければならない。
 長瀬は、午後なら時間が取れると返信した。

 その日の午後、長瀬がX12プロジェクトの研究室に着いたときには、チームのメンバー全員が戸山のコンピュータの前に集まっていた。
 二十一インチのモニタ画面には、色分けさせたいくつものグラフが描かれており、横軸には、「登校」、「授業」、「休憩時間」、「清掃」、「下校」等と作業内容が記されていた。
 戸山はモニタの前でトラックボールを操作しながらデータの説明を始めた。「これが、マルチの稼働データの一次解析です。『一次』というのはつまり『とりあえず』という意味で、とりあえず作業効率の推移を十分毎にプロットしたものです。本来なら一ヶ月もあればデータの解析はできるのですが、『とりあえず』の結果しか出せなかったのは、研究所のコンピュータがX13プロジェクトに優先的に割り当てられているからであります」
 戸山の前口上にメンバーから苦笑が漏れた。長瀬も苦笑いしながら、よく中止にならずにここまで来られたものだと思っていた。

 X12プロジェクトは、決して順風満帆ではなかった。むしろ常に逆風が吹いていたようなものだった。
 X12プロジェクトが発足して一年後、来栖川電工事業統轄本部で大型のデータベースが完成し、ギガビット級の超高速衛星回線が確保された。本来は内外の来栖川電工本支社、出張所を結ぶWANとして確保されたものだが、回線に余力があったため「直接メイドロボットにデータを転送できないか」という発想が生まれた。こうして、新たなメイドロボット開発プロジェクトが発足した。
 X13プロジェクトである。
 X13プロジェクトが目標としているメイドロボットは現場に応じたプログラムやデータを来栖川電工のデータベースから人工衛星を経由してダウンロードし、瞬時にしてどのような分野のプロフェッショナルにもなることができるものだった。導入したその日から使用可能なのだ。
 X12プロジェクトの予算は縮小され、その分がX13プロジェクトに充当された。
 X12プロジェクトの研究開発は各メンバーが所属する研究室からの持ち寄りによる部分が多くなってきた。部品類の調達はそれで何とかなったが、メイドロボットの筐体だけは、どうしようもなかった。
 ある日、関戸が一体のメイドロボットの模型を持ってきた。小柄な女性――むしろ中学生くらいの少女のように見えるその模型は、前年のロボットショーで展示された「十年後のメイドロボット」だった。それはワイヤワークで動かしていた張りぼてだったが、骨格に軽くて強靱な素材が使われており、頭部ユニットもワイヤを通じて微妙な表情が作れるようになっていた。この展示品に付けられていた名前が「マルチ」だった。
 こうして、X12プロジェクトで開発されていたメイドロボットに「からだ」と「なまえ」が与えられた。


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5 召喚(その2)

「――というわけで、たった八日間のテスト通学でしたが、マルチの成果は十分なものでした。ただ……」
 戸山はそこまで言いかけると、グラフの一部を拡大表示した。
「他の作業効率も日を追う毎に向上していますが、掃除の作業効率が格段に向上しているのです。マルチがみるみる掃除上手になっていく理由については見当がつきません」
 戸山がそう締めくくると、佐々木が、そんなことも知らなかったんですか、とでも言いたそうに答えた。
「あら、『彼氏』が手伝っていたからに決まっているじゃないですか」
 続いて清水が言った。
「戸山さんは、マルチが帰ってくるとすぐデータアップロードの準備を始めるから、マルチとの雑談を聞いていませんでしたからね」
 長瀬が周囲を見渡してみると、『彼氏』の存在を知らなかったのは戸山と牧村だけだったようだ。
「マルチったら、テスト通学の二日目から『彼氏』の話ばかりするんですよ。掃除を一緒にしたとか、パンの買い方を教わったとか。『彼氏』に誉めてもらった日は、とっても嬉しそうに話すんですよ」
 佐々木が戸山や牧村に楽しそうに話した。
「でも、マルチには誉められていることがわかるのかしら?」
「それは、わたしが説明しましょう」
 牧村はそう言って立ち上がると、ホワイトボードをそばに寄せて図を描きながら説明を始めた。
「神経網コンピュータの最大の特徴は、マルチ自身の行動を決定するプログラムを回路として自発的に組み立てるところにあるんです。『自己組織化』ですね。このとき、有用な回路は次第に強化され、逆に無駄な回路はやがて破棄されます。
 通常は作業を繰り返し行うことによってプログラム回路は選択・強化されていきますが、マルチの場合、『人の喜ぶ顔を見る』ことや『人から誉められる』ことが回路の強化につながるよう神経網コンピュータに対して高次プログラムしてあります」
「なんか難しいわね」と言う尾形に牧村が答えた。
「つまり、喜ばれたり誉められたりすることが上達の早道ということなんですよ」
「しかし、マルチはどうやって喜ばれたり誉められたりしていることがわかるんだ?」
 小林の質問に今度は戸山が答えた。
「まず、マルチには喜こんだり誉めたりするときに使う語彙がすでにわかっています。これはマルチが『言語辞書』を持っているからです。もちろん、これがないと会話ができませんから持っていて当然なのですが。
 実は、マルチは言葉だけでなく、表情を読むこともできるのです」
 そう言うと、戸山はホワイトボードに半径二十センチメートルくらいのを描き、その中に横に並べて小さな黒丸を二つ描いた。二つ穴の開いたボタンのような図形である。
「マルチはこのようなパターンを認識すると、顔である可能性をもっとも高くします。そしてマルチ自身が持つ『表情辞書』と照合して相手の感情を推量するのです」
 確かに顔のようにも見える。小林や尾形が感心していると、戸山はさらに説明を続けた。
「実は、マルチの認識方法はそれだけではないのです。佐々木君が開発したバイオセンサーを応用して、マルチは頭を撫でられることも誉められていると解釈するようにしてあるのです」
「へー、あたしのセンサーって、そういう使われ方をしているんですか」と佐々木。
「そういえば、マルチって誉めてあげるとすごく嬉しそうな顔をするけど、あれは何か意味があるんですか?」
 佐々木の質問に清水が答えた。
「あれは、いわばユーザーに対する『報酬』なんだよ。いくら誉めても相手が無表情だったら誉め甲斐がないだろ? そうなるとユーザーはマルチとつき合わなくなってくる。マルチは、もともと誉めらることによってプログラム回路が強化されるように設計されているから、ユーザーとの接触が少なくなってくると作業効率が上げられなくなるんだ」
「へー、それも『ヒューマンインターフェース』っていうものなの?」
「そうさ」
「すると、オレたちはマルチに使われていたということになるのか?」
 不服そうな面もちで言う小林に清水が問いかけた。
「小林さんは、誰かの喜ぶ顔を見たくて何かしたことはありませんか?」
「あると言えば、あるね」と小林。
「そのとき、自分がその人に使われていると感じましたか?」
「いや、自分がそうしたいからしていると思っていたよ」
「相手がマルチでも同じことなんです。結局、僕らが自発的にマルチに接しているのか、マルチが僕らを動かしているのか、区別はつきません。相互作用を及ぼし合っている関係では、そういった区別に意味がありません。僕らは相手を意識しないで生きていくことは不可能なんですから」


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6 Technical Power(その1)

 七月二十三日。
 その前の週末、戸山から長瀬らX12プロジェクトチームのメンバーに、マルチの二次解析の結果が出たとの知らせが電子メールで配信され、この日の午後、メンバーそれぞれの研究分野にとって興味深いイベントについて発表することになった。

 再びプロジェクトチームのメンバーは、戸山のコンピュータディスプレイの前に集まった。
 二次解析はモニタ上に多重リンク形式のグラフで表されており、テスト通学期間全体にわたってマルチの活動状況が把握できるようになっていた。消費電力や作業効率の推移な全体の状況を表している第一階層のグラフから特定の時点における活動状況を指示することによって次第に階層を下ることができ、腕や脚、指の一本一本、個々のアクチュエータやセンサー素子の作動状況まで数段階の階層を経てモニタすることができた。また、そのときのマルチの行動は三次元コンピュータグラフィックスによって任意の角度、縮尺で再現でき、同時にマルチが見聞きしたことを再生することもできた。
 戸山が、画面操作の方法を説明した。
「――えー、というわけで、グラフ上の見たいところにマウスポインタを当ててダブルクリックすると、その時点におけるさらに詳細な状況が表示されますから、必要なグラフをダブルクリックすればいいわけです。ツールボックスに入っているこのアイコンは、3Dアニメーションになっています……ほら。で、ここの縦と横のスライドバーをこうやって動かすと、ぐるぐる回るわけですね。その下のスライドバーで拡大縮小します。上の階層の戻るときはウィンドウの右上のボタンをクリックしてください。簡単ですね?」
 戸山の説明が終わったところで長瀬がメンバーを見渡しながらいった。
「では発表会にしようか。最初は誰がやる?」
「じゃあ、わたしが」と言って尾形が立ち上がった。
「マルチの運動能力についての言い訳です」
 周りがどっと笑った。
「サンプルに体育の授業のデータを使ってもよかったのですが、もっと単純でわかりやすい出来事があったので、そちらで説明しましょう」
 モニタ画面にマルチの視点によるゲームセンターの映像が映し出された。
「ここは下校途中にあるゲームセンターです。一度だけ、マルチは噂の『彼氏』とここで遊びました。因みに隣のセリオは学校帰りにゲームセンターで遊んだりしせん、セリオですから」
 再び笑い声が起こった。セリオは隣室のX13プロジェクトで開発しているメイドロボットだ。「セリオ」とはイタリア語で「まじめな」という意味である。
「ここでマルチは『彼氏』とエアーホッケーで遊んだのですが、このときマルチの見ていた映像がこれです。えーと、時間スケールは一対一、スローではありません」
 マルチの見たエアーホッケーのパックは、まるで二分の一のスロー再生かと思われるような速度でやって来て、四分の一のスロー再生かと思われるような速度で打ち返されていた。
「牧村さんや戸山さんの名誉のために付け加えて置きますが、これはマルチに運動神経が欠落しているためではありません。マルチは消費電力を抑えるため急激な動作ができないようにしてあるのです」

 三年前、関戸が持ち込んだマルチの筐体は、かなり小柄なものだった。それによる制約をいちばん受けたのが、駆動系を担当する尾形と電池を担当する小林だった。
 腕や脚、指先を駆動するアクチュエータの出力は、その断面積にほぼ比例してしまうため、細い腕や脚に組み込むためには、非力なユニットを使わなければならなくなる。消費電力を増やせば出力も上げられるのだが、それでは電池をすぐに使い切ってしまうことになる。しかも、電池も小型化しなければならないのだ。
 通常、メイドロボットの構成部品のうちもっとも重量のある電池は、腰部から大腿部にかけて配置してある。これはロボットの重心をヒトの重心と同じ位置にするためである。マルチの場合、腰から腿にかけての断面積が小さいため大きな電池を組み込むことができない。また、足のサイズが小さいため、体重が重くなると足の裏にかかる圧力が高くなり床を踏み抜く危険性がある。
 一昨年、去年の二年間、尾形にとっては省電力化、小林にとっては小型・軽量化への挑戦が続いた。幸い、この二つの方向性はメイドロボット全体のニーズでもあったため、研究開発費に事欠くことはなかった。
 それでもマルチに十分な稼働時間を保証することができなかった。テスト通学を行うためには、連続八時間以上稼働できることが望ましかった。尾形と小林は長瀬と相談した結果、急激な運動をさせない、比較的低レベルの負荷でも電力を遮断する、という方針で電力消費を下げることにしたのだった。


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7 Technical Power(その2)

 続いて、佐々木がモニタの前に立った。
「えーと、次は、マルチのセンサーについてです。場面は犬さんと話をしているところです」
 画面に犬がマルチからもらったクッキーを食べているところが映し出された。スピーカからは、マルチが犬に対して、「おいしいですか」と訊ねている音声が流れた。
「マルチは、『痛い』とか『熱い』といった物理的な刺激に対しては、ほぼ人間と同様に感じることができますが、匂いについてはごく一部だけ、味は全くわかりません。これは、味や匂いと言った化学的な刺激は多種多様であり、個々の刺激に対応しようとするとセンサーの数がいくらあっても足りないからです」
 佐々木は残念そうに説明した。
「それじゃ、佐々木さん、マルチはどんな匂いがわかるんだ?」
 小林が質問すると、佐々木は答えにくそうに答えた。
「それがですね、えーと、純粋に保安上の理由からなんですが、ガス漏れや食べられなくなった食べ物を見分けるという観点からですね、そのー、硫化アルキル、アミン類といった化合物に限って識別できるようになっているんです」
「それじゃ、マルチは、悪臭しか知らないんじゃないのか」と小林。
「すみません。この次は、匂いも味もわかるよう努力します」
「いや、佐々木さんが謝るようなことじゃないと思うが……」
 自分が悪いことをしてしまったかのように謝る佐々木に、かえって小林が面食らってしまった。
 今度は関戸が質問した。
「センサーとは全然関係ないけど、いいかな? 普通、メイドロボットは相手が人間かそうじゃないかぐらい区別がつくものなんだけど、マルチは犬と人間の区別もつかないのか?」
「えーと……区別はついていると思いますけど……」
 佐々木が戸惑っていると、清水が立ち上がった。
「その件については僕がお答えしましょう」
 そういいながら清水はモニタの前に行き、佐々木が場所を譲った。清水はホワイトボードをそばに寄せると説明を始めた。
「マルチは目玉模様のパターンを認識すると、それに注意を払うようプログラムしてあることは以前に説明がありましたが、それが人間なのか動物なのか、絵なのか写真なのかも同時に判別しています」
 清水はマルチの見ている犬の画像をモニタ画面いっぱいに拡大した。
「つまり、この場合、マルチは相手が『犬』であり『わん』としか言わないことがわかっています」
「じゃあ、なぜ、わざわざ犬に話しかけるんだ? しかも、『さん付け』で」と小林が質問した。
「マルチは、そうすることが当然であると判断しているからです。しかも『顔』を見ているときのマルチは、顔のパターンから表情を読み取ってしまうのです。この辺りのプログラミングは戸山さんの仕事ですが、表情の類型分けは僕も手伝っています。
 では、なぜマルチは犬に対して『話しかける』と判断してしまうのでしょうか? それは、そうするように教育されたからなんです。ちなみに、犬に『さん付け』で話しかける人は、僕はひとりしか知りません」
 みんなはどっと笑い、佐々木の方を見た。佐々木は「え? あたしのせい?」と言いながら周りを見渡していた。
「でも僕は、これはこれでいい、と思っています。人間だけでなく、動物にまで気を配ることができる――人間だったらさしずめ『優しい人』というところでしょうか? だったら、マルチが『優しいメイドロボット』でもいいと思います。第一、こういう行動はかわいいでじゃないですか。僕は好きですよ」


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8 長瀬開発主任

 長瀬はプロジェクトメンバーのやりとりをずっと見守っていた。四十代も半ばを過ぎると、プロジェクト全体のマネジメントを要求されるようになる。長瀬はX12プロジェクトが限られた予算資源の中でもどうにかスケジュールどおりに進んでいることは、それだけでメンバーに感謝するべきことなのだと思っていた。
 予算の割り当てを見れば会社の関心がX13プロジェクトにあることは明らかだった。しかし、、長瀬はX12プロジェクトの成果がせめて一部でも何かの役に立ってくれれば、できれば、また同じメンバーで研究開発に取り組めれば、と願っていた。

 予算が削減されたX12プロジェクトは社内から注目されることが少なくなってきたが、一方で次第にメンバーの遊び感覚が発揮されるようになってきた。その結果、数々の「ばかデバイス」が生まれた。
 その最たるものが「マルチ専用センサー」だった。
 関戸はマルチに人間そっくりの耳介を設計した。しかし、産業用機械は人と明確に区別されなければならないという行政当局からの指導があり(人間が身を挺してロボットを救助しないようにするためだ)、メイドロボットは耳のあるべき位置にセンサーを取り付けることが習慣となっていた。そこで牧村が電子デバイス研究室の友人をそそのかして、既存のメイドロボット用センサーを改造し、マルチ専用のものを作らせた。
 マルチの耳は人間のものと全く同じ特性を持っている。だから、そこに取り付けられるセンサーは種々の測定結果を可聴域の音波として出力した。実際に、このセンサーを耳に当ててみると音楽的な変調が楽しめ、また、同時に開発された専用のアプリケーションソフトを使えば様々な測定・分析も可能だった。しかし、アプリケーションソフトがマルチ独自のオペレーティングシステムに対応していなかったため、センサーは機能するが役に立たないものとなってしまった。

 そのころ、X13プロジェクトでは従来型のメイドロボットを利用し、それにサテライトサービス機能を付加することによって短期間に次期新製品を開発することになった。
 「サテライトサービス機能を付加する」といっても、実際に本社データベースとセリオの間で人工衛星を経由して短時間に誤りなく膨大なプログラムやデータを送受信するためには、技術的に解決しなければならない課題も多かった。開発の目標となるスペックの詳細とそれに応じた筐体のデザインが決定し、「セリオ」と命名された。
 セリオの外観は長身の優等生風にまとめられた。マルチが「あどけない女子高生」とすれば、セリオは「大人びた女子高生」といった雰囲気である。また、両側頭部のセンサーは衛星通信用のアンテナが内蔵されるため、一般的なメイドロボットのものより二割程度長くなっていた。
 X13プロジェクトチームが試作機にイタリア語で「まじめな」を意味する名前を付けたのは、マルチの愛らしい容姿やX12プロジェクトチームの和気藹々(わきあいあい)とした雰囲気が羨ましかったから、というのが直接の理由だった。しかし、X13プロジェクトチームにはX12プロジェクトに対する対抗意識もあった。彼らにはマルチに搭載される超並列演算処理神経網コンピュータと学習型プログラミングが、セリオに搭載されるサテライトサービスシステムの強力なライバルになるという予感があった。


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9 彼女の憂鬱

 プロジェクトメンバーの発表が済み長瀬がミーティングを終わらせようとしたとき、関戸が口を挟んだ。
「そのデータの最後の方、四月十九日夜九時頃から翌朝九時頃までデータがないようだが……ここの部分、何か不自然じゃないか?」
 関戸はコンピュータの前に行くと、その部分のグラフを拡大して表示させた。
 戸山は、その画面を指しながら答えた。
「その部分は……、どうやらマルチ自身が暗号化してしまったようだ」
「おいおい、そんなことでいいのか?」
 関戸が反問すると、小林も続いた。
「マルチはテスト通学によってデータを集めるために作られたんじゃないのか? だったらそんな暗号、解読しちまえばいいだろ」
 しかし、戸山は、
「あいにくわたしは暗号の専門家じゃない。マルチの暗号化が巧いかへたかは知らないが、解読は無理だ」
と答えた。
「それじゃ、マルチを起動して解読させればいい」と小林。
 戸山は、「それはどうかな。マルチに搭載されているコンピューターは極めて精緻だ。自分のやってしまったことについて矛盾を突きつけられたら、まともに稼働しなくなるかもしれないぞ。そうしたら暗号化されたデータは永遠に解読できない」と反論した。
「それじゃ、マルチを説得しながら解読させればいいんじゃないのか」
 小林がそう言うと、尾形が割って入った。
「ちょっと待ってよ。仮にもマルチは女の子よ。女の子が『彼氏』の家に一晩泊まったのよ。あまり、趣味の悪いことをするもんじゃないわ」
 今度は関戸が異議を唱えた。
「何か勘違いしていないか? マルチは『女の子』じゃなくて『メイドロボット』だ。しかもデータを取るために作られた試作機だ。データ収集用の試作機がデータを渡さないでどうする?」
「みなさん、おかしいと思いませんか? そもそも何でマルチがデータの暗号化を……」
 清水がそう言いかけたとき、それまで黙ってうつむいていた佐々木が口を開いた。
「お願い、やめて。マルチに恥ずかしい思いをさせないで! マルチが……マルチが大切にしている時間はそっとしてあげて……。お願い」
 突然の佐々木の言葉にそれまで言い争っていたプロジェクトチームのメンバーが一瞬静かになった。
 そのとき、成り行きを見守っていた長瀬が立ち上がった。
「まあ、貴重なマルチのコンピュータにダメージを与えるわけにもいかないから、マルチが隠してしまったデータについては解読しないことにしよう。開発主任としての結論だ。――ほかに何もなければ今日のミーティングは終わりにする」


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10 ふたりの午後(その1)

 ミーティングが終わったのは夕方だった。メンバーはそれぞれの研究室へ戻って行った。
 牧村は、清水と佐々木が並んでX12プロジェクトの研究室から出て行くところを見送りながら、コンピュータの周りを片付けていた戸山の隣に来た。
「あのふたり、仲がいいみたいだな」
「ああ、マルチが取り持つ縁というのかな。ふたりともマルチを自分の娘みたいに思っているからね。さしずめ、ふたりは夫婦みたいなものかな……牧村、今まで気がつかなかったのか」戸山は少し驚いて牧村の方を向いた。
「牧村も少し人間に関心を持った方がいいかもしれないぞ。特にマルチに関わったんだったらな――なんてね、わたしも清水君と一緒に研究していたから知っているようなものなんだけど」
「なんだ、たまたま知っていただけか。おまえもオレと似たようなものなんじゃないのか」
 牧村はそう言って笑うと話題を変えた。
「さっき言っていたマルチに矛盾を突きつけられたらコンピュータが損傷するって話、嘘なんじゃないか」
「ああ、嘘だ」戸山はあっさり認めた。「学習型プログラミングが自分のやった誤りにいちいち損傷していたら、きりがないじゃないか。あれは、間違えることによって新しいことを覚えていくんだ」
「やれやれ、おまえというやつは……」牧村は半ばあきれていた。
「それはそうと、マルチのやつ、随分あっさりとセンサーを外しちまったようだな」
 牧村が言っているのは、テスト通学中にマルチが「限りなく人間に近く」設計されていることを知った『彼氏』が、好奇心からセンサーの下にあるはずのモノを見せてくれとマルチに頼んだことである。マルチは「人前でみだりに見せてはいけないことになっている」と言って抵抗したものの、結局、『彼氏』にセンサーを外して見せたのだった。戸山も牧村と同感だった。
「あれは予想外だったな。マルチは人を傷つけたり法に触れたりするような命令は受け入れないはずなんだ」戸山は、どうも理解できない、というふうだった。「マルチのセンサーは法で規制されているわけじゃないけど、お上の決めた行政指導ってヤツに従って取り付けられた物なんだ。だから、マルチにとってセンサーを人前で外すのはタブーのはずなんだよ――少なくとも、わたしはパスワードがなければ外さないようにプログラムしたんだ」
「いっそのこと、ボルト締めしておけばよかったんじゃないか?」
 牧村の冗談に戸山は笑って答えた。
「せっかく関戸君が趣味で造形してくれた被覆材に穴をあけるわけにはいかないさ。それに、マルチの被覆材は全身に佐々木君の開発した触覚センサーが仕組まれているから、穴をあけたらマルチは痛くてたまらないだろう」
「ははは。そんなことはないだろう。その部分の信号は受け入れないようにプログラムしてしまえばいいんだから」と牧村。
「その通りだ。でも、問題はマルチがセンサーを外してしまったことじゃなくて、本来受け入れるはずのない命令を受け入れてしまったことなんだ。規則をあっさり破るようなメイドロボットじゃ、この先、人間をあっさり傷つけるようなことがあるかもしれないからな。だから、これから清水君とそのあたりを調べてみるつもりだ。プログラミング上の問題なら我々でなんとかなるけど、神経網コンピュータに起因する問題かもしれないから牧村も時間があったらつきあってもらえないかな」
「もちろん、いいとも」
 牧村は戸山の申し出を快諾した。
「何となくマルチは普通のメイドロボットと違うような気がするからな。むしろ、オレに内緒で研究するつもりだったら押し掛けているところだ」


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11 ふたりの午後(その2)

 清水と佐々木は研究所の中庭を散歩していた。
 蒸し暑い夏の夕暮れ。生ぬるい風が芝生から立ち上る青臭い空気を運んで面倒くさそうに吹き、時折、小さな羽虫がふたりにまとわりつくように飛んでいた。佐々木はこの雰囲気が嫌いではなかった。この世が生命で満ちあふれているような感じがするからだった。
 清水はどこか楽しげな佐々木の横顔を、小径のベンチや芝生の上で気怠そうにしているほかの研究所員たちと見比べていた。この中庭にいる人たちはみんな同じ風に当たっているはずなのに、様々な感じ方をしている――清水には人の心の多様性の方が興味深かった。
 一方で清水にはどうしても気になっていることがあった。先刻のミーティングで自分が言いかけたままになっていたことだ。
「佐々木さん、さっきの話の続きなんだけど、なんでマルチは最後の時間のデータを暗号化してしまったんだと思う?」
 佐々木は少し不愉快になって答えた。
「清水君は、まだそんなことにこだわっているの? その話はやめましょう。『マルチの時間』のことはそっとしてあげましょうよ」
「いや、これは大事なことなんだ」
「何が大事だって言うの? のぞき趣味みたいなことはやめて」
 佐々木は、立ち止まると清水を振り返った。清水も立ち止まった。
「のぞき趣味だって? そういうことじゃないんだ。普通、人間がウソをついたり隠し事をするのは『他人の目』から守るべき『自分自身』があるからなんだ」
「あら、マルチだって自分がマルチであることくらいわかっているわよ」
 佐々木は再び歩き出した。清水も佐々木の後を追って歩き出した。
「自分の名前を知っているというようなレベルの問題じゃないんだ。マルチは、『他人の目』を意識し、『自分自身』を意識していることになるんだよ」
「それで?」と佐々木の返事は素っ気なかった。
「でも、どうやってマルチはそんなことを意識できるんだ? 僕も戸山さんもそんなことはプログラムしていないんだ。というより、そんなプログラムなんて世界中の誰も知らないんだよ。マルチは、いくら容姿が少女のように見えても中身はロボットだ。プログラムされていないことは、できないんだよ」
「あら、そうかしら? あたし、コンピュータのことは専門外だからよくわからないけど、マルチはプログラミングされていないこともできるんじゃないの? マルチは学習型プログラミングだから、自分でプログラミングできるって清水君が言っていたのよ」
 清水は佐々木から一本取られたことに気がついた。そうなのだ。マルチの学習型プログラミングは汎用性が極めて高いから、学習するのは仕事手順に関することとは限らない。しかもシミュレーション能力に優れた超並列処理演算神経網コンピュータは、マルチのいわば想像力ともいえる能力を強力に支援する。誰かがマルチの関心をマルチ自身に向けさせさえすれば、『他人の目』や『自分自身』を意識することも決して不可能ではないのではないか。
「でも、どうやって?」と清水。「その可能性があるとしても、具体的にマルチがどういう方法で『他人の目』や『自分自身』を意識しているんだろう? 見当がつかないな」
「ふふふ、悩んで悩んで悩み抜きなさい。それを考えるのが清水君のお仕事。あたしだって、マルチにどうやって『おいしい』をわからせるのかで悩んでいるんだから」
 佐々木は、自分の『悩み』が何かの楽しみであるかのように明るく笑っていた。


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12 ストレイン(その1)

 十月二日。
 X12プロジェクト、X13プロジェクトの研究成果が月例の経営会議の場で発表されることになった。
 長瀬にとって、慣れない本社に出向き滅多に会わない役員の前に立つだけでもプレッシャーだったが、経営会議での研究発表はその結果が研究開発の方向や予算、次期製品への採否など、具体的に研究者自身に関わってくる。長瀬は、自分の研究費を持ち込んでまでマルチを完成させたプロジェクトチームのメンバーや、短いテスト期間を一所懸命がんばったマルチ自身のため、役員たちに少しでも好印象を与えたいと思っていた。
 メイドロボットの開発・製造に応用されるテクノロジー分野は、素材、メカトロニクス、バイオテクノロジー、電子デバイス、情報処理、人間工学などなど自動車産業とは比べものにならないほど幅広く、メイドロボットを自社開発できる企業は世界的に限られている。来栖川電工はその数少ない企業の一つだったが、その来栖川電工であっても部品の調達や製造ラインの確保を考えると、一年間にいくつもの新製品を発売することはリスクが高くきわめて困難だった。
 今回の会議は全社で研究開発中のすべての製品について、どのような形で商品化するかを決定する会議であり、メイドロボット部門ではマルチとセリオの一騎打ちとなっていた。この会議の結果、新製品として採用された方が文字通り大手を振って往来を歩き、採用されなかった方は研究データだけが残される。しかも、書類の電子化が完了している来栖川電工では、データが印刷物などモノとして残されることはないため、物質的に残るものは何もなかった。
 X12プロジェクト、X13プロジェクトと続けて研究成果が発表された。マルチ、セリオとも役員の関心はとても高かった。長瀬はマルチがセリオと互角の評価を得ていることを目の当たりにして、プロジェクトチームのこれまでの努力が無駄にならずに済んだとひとまず安堵した。しかし、その後――。
 引き続き、営業部顧客サービス課が行った市場調査の結果が発表された。あらゆる産業分野の、大手から中小まで様々な規模の企業を対象に行ったアンケートによると、ユーザーがメイドロボットに求めているものは、使い込む毎に上達する作業性や友だちになりたくなるような親しみやすさではなかった。求められていたのは、買ってすぐ使える操作性の良さだったのである。
 長瀬は悟った――ユーザーが求めいているのはセリオだ。マルチに本当の意味での「妹たち」は生まれない――長瀬は肩を落とした。

 数日後、長瀬の元にマルチの開発を続行するという決定が届いた。ただし、それには用途を一般家庭向けにし、発売価格を小型自動車並みにすること、という条件が付いていた。
 それからの半年は、いかに製造コストを削減するかに費やされた。
 複雑な応答プログラムはプログラムエリアに占める容量に比べその効果が十分でないと判断されて省略され、その部分は掃除や調理といった基本作業プログラムに置き換えられた。表情アクチュエータも省略され、そこに連動するプログラムエリアも開放された。試作機から受け継いだものは、小型・軽量化された燃料電池と省力型の駆動系だけになった。
 マルチの量産型は、ただの機械人形となった。
「これでよかったのかもしれないな」
 長瀬はマルチ量産型の設計図を見ながらつぶやいた。試作機のマルチと全く同じ反応をするメイドロボットが街中に溢れたら不気味にも思えたのだった。


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13 ストレイン(その2)

 十二月三日。
 戸山が久しぶりにX12プロジェクトの研究室を訪ねてきた。マルチのスペックダウンが決まってからプロジェクトメンバーの仕事はほとんどなくなってしまい、戸山もしばらくX12プロジェクトの研究室から足が遠ざかっていたのだった。
「主任、さっきX13プロジェクトにいる友人から聞いたんですが、テスト通学の期間中、セリオは一度いじめに遭ったみたいなんですよ」
 長瀬は「おや?」と思った。そんな話は役員会議の場では出ていなかったのだ。もっとも、あの会議の場で自分に不利になることを言う者もいないが。
「校舎の裏だか体育用具室だか、とにかく電波遮蔽の効いているところに呼び出されて無茶なことを命令され、あっさり稼働不能になったらしいんですよ」と戸山。
「しかし、セリオは普通のメイドロボットと同じくらいの反応はできるんだろ」
「ええ。それにセリオは直前までにダウンロードしたデータが利用できます。しかし、所詮データベースのデータは過去の知識の集大成に過ぎませんから、今現在目の前で起こっていることについて解答を与えてくれるとは限りません。まして、女子高におけるいじめの実態なんて情報は、会社のデータベースにあるはずがありません」
「それじゃ戸山君、セリオは欠陥商品ということにならないか?」
「いや、よほど巧妙にやらないと最近のメイドロボットを稼働不能にまで追い込むのは大変でしょうね。その点、セリオの通っていた女子高の生徒は相当頭が良かったようですよ」と戸山は笑った。
「戸山君はずいぶん余裕だな。だが、マルチだって同じ状況になったら稼働不能になるんじゃないか?」
「主任、自分の作ったものにもっと自信を持って下さいよ。牧村が開発したのは超並列演算処理を行うシステムなんですよ。超並列処理というのはシミュレーション計算に威力を発揮するんです。マルチは未来を予測しながら行動することができるんです」
 長瀬は改めてマルチを見直したが、戸山がセリオをこき下ろすのには少し辟易としていた。
「戸山君の気持ちも分かるが、セリオは我が社の次期新製品なんだ。あまり悪く言わんでくれよ」
「実は主任、少しセリオが羨ましいんですよ」と戸山。「いくら過去のものとはいえ、先人の知識をすぐに利用できるのは強みになりますからね。マルチは我々と同じで、わからないことは図書館に行くなりインターネットを検索するなりしないと調べられないですから」
「それを聞いて安心したよ。本当は君がマルチを身びいきするあまり、セリオの悪口を言っていたのではないかと思ったんでな」
 長瀬の言葉に戸山は笑っていたが、やがて真顔に戻って言った。
「マルチの量産機は、わたしたちのマルチとは似て非なるものにしかなりませんが、試作機のマルチがこの世に存在したことは決して無駄になりませんよ。マルチの研究結果は世界中が注目しています。注目していないのは本社ぐらいじゃないかな? たとえ、うちがマルチを諦めたとしても、きっと世界のどこかでマルチのようなアーキテクチャを持ったロボットが誕生します」
「そういえば戸山君は来週、清水君とアメリカ行きだったな」と長瀬が言った。
 戸山は清水と共著でマルチのテスト通学の結果を研究論文にまとめ、アメリカの思考機械学会に投稿したところ、年末にイリノイ州のチャンドラ記念研究所で開催される学会で発表することになったのだ。
「きょうはその挨拶に来たんですよ。これもマルチのおかげです。それじゃ主任、行って来ます」
 そう言って戸山は研究室を出ようとしたが、不意に振り返って付け加えた。
「そうだ、主任。夕べ、牧村や清水君と解析してみたんですが、どうやらマルチは自分の応答性能の向上にとって『彼氏』の存在がかなり重要であると判断しているようなんです」


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14 輝き(その1)

 十二月二十四日。
 戸山が牧村の研究室に来ていた。マルチの神経網コンピュータのシミュレータが完成したのだ。
 戸山はディプレイをのぞき込みながら、無数の輝点が方々から集まってきては不定形の固まりとなり、しばらく色を変えながら動きまわると、やがて方々へ四散していく様子を観察していた。
「どうもわからないな。何度見ても今まであった神経網コンピュータと違った動きは見られないな」
 牧村が戸山の傍らに立って話しかけた。
「結局、学会で発表したのは、学習型プログラミングの能動的な学習環境の構築についてだけだって?」
「ああ。いい意味でも悪い意味でもかなり関心は持ってもらえたぞ。ロボットが人を利用することに反発を感じる人もいるからな」
「『彼氏』については、全然触れなかったんだ?」
「そうだよ。マルチにとって『彼氏』の存在は重要らしいということが直感的にわかっても、それを裏付けるデータがないんだからな。公式発表の場で憶測をしゃべってくるわけにはいかない」
 戸山はディスプレイ上で揺らめきながら流れていく光を目で追いながら答えた。

「こんにちはー」と清水。
「おじゃましますー」と佐々木。
 清水が佐々木を連れて牧村の研究室に入ってきた。牧村がふたりに声をかけた。
「佐々木君、清水君、いらっしゃい。たしか佐々木君はこの研究室に来るのは初めてじゃなかったかな?」
 牧村の言うとおり、佐々木がこの研究室に入ったのは初めてだった。佐々木は落ち着かない様子で部屋の中を見渡した。青白い蛍光灯の灯りに照らされた室内は、天井も壁も床む全て白い内装で覆われており、置いてあるコンピュータやそのケーブル類、プリントアウトされた紙、果ては牧村の白衣まですべてが白か明るい灰色といった無彩色で包まれていた。室内の雑然とした様子は佐々木の研究室と大差ないようだったが、牧村の研究室には生命の存在が全く感じられない無機質なものだった。
 佐々木の研究室は、牧村の研究室とは対照的だった。佐々木の研究室では、無数のナス型フラスコや試験管が実験台の上を占拠し、コンビニエンスストアのおでんのだしに似た培地の匂いが廊下の方まで漂っていた。いかにも「微生物がいます」という雰囲気は専門外の者にとってあまり心地の良いものではないが、佐々木は気に入っていた。
「佐々木君はどうしてここへ来たんだい?」
 牧村に声をかけられて、佐々木は慌ててキョロキョロするのをやめて答えた。
「清水君に誘われたんです。マルチがどのように考えるのかをシミュレーションするプログラムができたから見に行かないかって」
 佐々木に続けて清水が言った。
「行き詰まったときは新鮮な第三者の視線で見てもらった方がいいかなと思って佐々木さんを呼んだんですよ」
「そうか。実は我々三人、戸山君も清水君もシミュレーションが何を意味しているのか、さっぱりわからなくて困っていたところなんだ」と牧村。「そういうことなら、佐々木君には特等席でシミュレータを見せてあげよう。ほら、戸山、どいて、どいて」
 牧村は戸山をいすから立たせると、そこに佐々木を座らせた。


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15 輝き(その2)

「うわー、きれい。これがマルチの頭の中なんですかー?」
 佐々木はディスプレイの中の映像に感心していた。目の前に広がる映像は、まるで緑色に輝く星の海の中を極彩色のガス状星雲が漂っているように見えた。
「これは実物じゃなくてCGなんだ。緑色の輝点の一つが一個の神経網素子、我々で言う脳細胞に当たる部分だ。不定形になって動き回っているのは素子間を移動する信号で、信号の強度に応じて色が変わるようになっている」と牧村。
「へー、すごいわねー。でも、これ、わたしたちが最初の頃使っていたグラフや表をCG化しただけなんじゃないの?」
「いやいや。これはキーボードから単語を打ち込むとマルチがその単語に対してどのように反応するのか追いかけられるようになっているんだ――一応は、ね」
「一応は?」佐々木が牧村の言葉尻を繰り返した。
「そう。実は、このシミュレータは研究所のコンピュータを使っているんだけど、ここのコンピュータは他の研究でも使っているから全処理能力をこのシミュレータに割くわけには行かない。だから、一語分の反応を処理するのにも数時間かかる上、正確さも実物の百分の一程度に落としてあるんだ」
「なんだか、役に立たないわね……」
 ぽつりとこぼした佐々木の一言に牧村は苦笑いをしていた。
「そんなつれないことを言うなよ。これでも、マルチの頭の中のどの部分が何を判断するのに使われているのかくらいのことはわかるんだよ」
 今度は清水が質問した。
「牧村さん、これからもずっと中身がよくわからないまま神経網コンピュータを作り続けるんですか」
 「もちろんそういうわけにはいかないから、今、シミュレーション用にもう一台神経網コンピュータを組み立てるための研究費を申請しているところなんだ。次からはこんな間抜けなことはないと思う」  と牧村は答えた。
「もう一度マルチを起動させてマルチ自身のコンピュータの動きを見た方が手っ取り早くないの?」と佐々木。
「あ、それは気がつかなかった――と言いたいところだけど、マルチ自身の神経網コンピュータには活動状況を逐次モニターする方法がないんだ。佐々木君だって、今、自分の脳がどのように活動しているか正確に説明できないだろ? それに、マルチを計測機につないで毎日テスト詰めにするのは、わたし自身、心理的にものすごく抵抗があるしな」と牧村。佐々木は覚醒したマルチが殺風景な研究室に繋がれ、来る日も来る日もテストされる場面を想像して身震いがした。
「確かにそうね……」
「――じゃあ、続けようか」牧村が再び説明を始めた。
「電子の代わりに光を使ってコンピュータを作ろうという考えが初めて登場したのは一九八〇年代のことだ。その後、光コンピュータは急速に進歩し、今ではいろいろな分野に使われている。でも、今までのメイドロボットは単純作業の部分を従来からある半導体素子、複雑な思考を要する部分を光素子が分担する光・電子ハイブリッド素子を用いているものがほとんどだ。これを百パーセント光素子化したのがマルチだ――というのはマルチプロジェクトの基礎知識だけど、この発想には理由があるんだ」
 佐々木はうなずきながら牧村の説明を一心に聴いていた。
「神経網コンピュータと学習型プログラミングと光素子は切っても切れない関係にある。たしかに半導体素子で神経網コンピュータを組み立てたり、ソフトウェア上で学習型プログラミングをシミュレートしたりすることは不可能ではないんだが、試行錯誤によって自らプログラムを生成していく学習型プログラミングにとって、配線を自在に構築できる神経網コンピュータは理想的なハードウェアなんだ」
「神経網コンピュータと学習型プログラミングの関係はわかったけど、それと光素子はどういう関係があるの?」と佐々木が訊いた。
「まず、電子だったら素子間に物理的な配線が必要だけど光を受け渡しには配線の必要がない。プリズムの屈折率を変化させて狙った素子に直接光を飛ばせばいいんだからね。
 それに電子は素子間の配線を流れるたびに熱を発生させるから、集積度が上がるにつれて配線も込み入ってきて発熱量が増加するんだ。マルチくらいの集積度になると軽トラック一台分の冷却装置が必要になってしまうほどだ。だけど、光を使うと発熱もかなり抑えられる」と牧村は答えた。


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16 夢見るロボット(その1)

 佐々木は牧村からシミュレータの操作方法を聞くと、さっそく、キーボードから『彼氏』の名前を入力してみた。
 画像の三分の一が明るくなった。
「ずいぶんと『彼氏』の占める部分って広いんですね」と佐々木。
 牧村は、「実は、これはマルチが使用している領域の全てなんだ」と答えた。
「どういうことなんですか?」
「マルチはなんでもかんでも『彼氏』と関連づけているということさ」
「じゃあ、むしろ三分の二は使われていないということなんですね。マルチの頭の中はからっぽってことなんですか?」と佐々木は訊いた。
「そうじゃないよ。マルチの神経網コンピュータはテスト通学中に七、八割の領域を使って学習するように設計したんだが、神経網素子のネットワークを最適化するプログラムが思った以上に効率的だったんだ」
「そう。わたしの腕だね」後ろで戸山がにこにこしながら答えた。「限りある神経網コンピュータを有効に活かすために、関連性の高いものどうしを近くに配置するといった工夫をしながら、使用領域全体をコンパクトにまとめているんだ。
 マルチはスリープモード中に充電しながらこの再配置を行っているんだ。――ひょっとしたら、このとき最適化中の情報が知覚されて夢を見るかもしれないね」
「へー、マルチも夢を見るんだ」と感心している佐々木に戸山が釘を刺した。
「夢を見るというのはあくまでわたしの想像さ。今のところそれを裏付けるデータはひとつもないし、今までコンピュータが夢を見たという報告もないよ。もしマルチが夢を見たとしたら夢見るロボットの第一号だ」
 次に、佐々木はテスト通学期間が終了する直前数日間の神経網コンピュータの活動状態を再生してみた。牧村や戸山は正確な観察に必要な再生速度を知っていたが佐々木には敢えてそれを教えず、佐々木の好きにさせていた。二人は佐々木の肩越しにモニタ画面を眺めていた。
 最初のうちは再生速度が速すぎたので活動している領域ちらついたりぼやけたりしてはっきりしなかったが、少しずつ再生速度を落とし、全体のちらつきが収まって動きのパターンがわかる程度に調節した。
 この時間スケールで見た神経網コンピュータの動きは光が織りなす音楽のようだった。全身の感覚器官から一箇所に集まった光の塊はつかのま左右にぶれながら様々な色に分かれ、色ごとに発散していくとまた集まって少しの間だけ揺れ、神経網コンピュータの外へ出ていく――そんなことを繰り返していた。光の塊がいくつもの色に分かれコンピュータ内に配分されていく様子は毎回違っていたが、その前後の揺れはいつも同じように起こっていた。そういう一連のパターンが音楽を連想させるのだった。
 佐々木が画面上の、光の塊が必ず収束する部分を指して振り返りながら訊いた。
「牧村さん、ここは何なんですか?」
「そこはマルチの感覚器官やアクチュエータを直接制御している中枢部なんだ」と牧村。「目や耳から得た外部の情報は必ずここに集まってきて、コンピュータのどの部分で処理すべきか仕分けされ、コンピュータで処理された結果を行動として身体の各部に命令するに移す部分なんだ。それに、神経網コンピュータをどのように使うかのプログラムもそこに格納されている」
 清水は、佐々木と牧村のやりとりを後ろで聞きながら、光の「揺れ」を見ていた。


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17 夢見るロボット(その2)

 清水は佐々木の後ろに立って彼女の頭越しにディスプレイを眺めていが、しばらくして戸山に話しかけた。
「戸山さんはマルチが自分自身に関連性が高いと考えているものは何だと思いますか?」
「さあ、なんだろうね。清水君は何だと思うんだい?」
「シグナルがマルチ自身の制御中枢から出ていく直前、左右に揺れますよね? そこに答えがあるような気がするんですよ」
 牧村がディスプレイの一点を指さして振り向いた。「清水君も、ここが怪しいと思っているのか? オレもマルチはこの部分で自分の行動についての最終的なチェックをしているように見えるんだ。たぶん、ここにマルチにとって重要な何かがあるんだ」
 三人が黙り込んでしまうと、佐々木が不思議そうな顔で振り向いた。
「あれ、そんな簡単なことがわからないんですか? マルチにとっていちばん大事なのは『彼氏』に決まっているじゃないですか」
「そんなおとぎ話みたいなことがあるのか?」と牧村。
 しかし戸山は、
「テスト通学の期間中、マルチはかなり『彼氏』の影響を受けていたらしいから、学習したことは少なからず『彼氏』と関連づけられていたんだろう。だから『彼氏』と関連性のあることを表示させようとすると、使用している領域全体が反応してしまうんだと思う。
 でも、『彼氏』そのものに関して言えば、わたしの最適化プログラムが『彼氏』の情報だけ最適化できないとは考えにくい。『彼氏』そのものに関する情報がどこか一箇所に集められているに違いないし、もし、佐々木君の言うとおり『彼氏』がマルチにとって重要な存在なら、それはマルチの制御中枢のすぐそばにあるはずだ」
「問題は、それをどうやって確かめるか、ですね」と清水。「何かマルチにとって『彼氏』だけを意味する単語がわかればいいんだけど……」
「『恋人』っていうのはどう?」と佐々木。
 清水が言った。「マルチは最後まで自分をメイドロボットだと思っていたから、『彼氏』を『恋人』だとは思ったりしないよ――それに、そのキーワードはすでに僕が試した」
「マルチはメイドロボットか……」
 戸山は少し考えてから佐々木の横に立ってキーボードを引き寄せた。牧村が戸山のキー操作をのぞき込んだ。
「確かに市販のメイドロボットはユーザー登録がされていて、自分の持ち主を特別な呼称で呼ぶようにプログラムされている。だが、マルチは試作機だ。そういう機能は付与されていない。その単語はマルチにとって意味がないよ」
 しかし、戸山はキーを打ち終えると牧村に言った。
「マルチは、知識としてメイドロボットがどういうものか知っいるし、この単語がメイドロボットにとってどういう意味を持っているかも知っている。もし、マルチが『彼氏』を重要だと考えているなら、『彼氏』をこういった形で特別扱いしている可能性があるんじゃないか」
 ディスプレイ上に戸山の打ち込んだキーワードが点滅していた。
『ただいま検索中 検索文字列>“ご主人様”』

 結果は意外と早く表示された。対象となる範囲が限られていたからだった。『ご主人様』に関連する領域は、マルチの制御中枢をドーナツ状に囲む形で表示された。戸山はディスプレイを見ながら言った。
「大当たりだ。マルチは自分で『ご主人様』を決めたんだ」
「しかし、ご主人様って、誰なんだ?」と牧村。「『彼氏』がご主人様だという証拠があるのか?」
「他に誰がマルチのご主人様になり得るんだ?――証拠はあとから見つければいい」
「すると、最後の光の揺れは、マルチが実際に行動を起こす前に『彼氏』と相談していると言うことなのか?」
「たぶんそうですよ」と清水が答えた。「マルチは自分の行動を決めるのに、最終的には『彼氏』がどう思うかシミュレートしていたんじゃないかと思うんです」
「すると、マルチは『彼氏』に気に入られようとして行動していたわけか?」
 牧村が茶化すように訊くと清水は、
「シミュレータの状態を見てみると、マルチは『彼氏』がその場にいるかいないかにかかわらず、行動を起こす前に自分の中の『彼氏』と相談しているみたいですね。たぶんマルチは自分の中の『彼氏』をとおして自分の姿をみているんでしょう――そうか、だんだんパズルが解けてきたぞ」


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18 夢見るロボット(その3)

 清水は何か思いつくと佐々木の方に向いた。
「たとえば佐々木さんが風呂に入ろうとしているとしよう」
「いきなり変な喩えを出してきたわね」
 佐々木は少し警戒したが清水は気にしていなかった。
「まあまあ。これがいちばんわかりやすい喩えなんだから――で、風呂に入ろうとしているとき風呂桶に対して恥ずかしいなんて思わないだろ?」
「当たり前よ」
「でも、誰かが覗いていたら恥ずかしい?」
 清水はさらに佐々木に問いかける。
「なんでそんな当たり前の話を持ち出すの?」と佐々木。
「つまり、なぜ相手が人間だと恥ずかしく感じるのかということなんだ」と清水。
「えーと、相手に見られているから?」  と、佐々木は自信なさそうに尋ねた。清水は重ねて質問した。
「じゃあ、なぜ相手に見られていると思うんだい?」
「そうね――自分が相手にどう見えているか想像するからかな?」と佐々木。
「そう。つまり相手の視線を自分の視線と置き換えているからなんだ」と清水、「そんなことができるのは、相手が自分と同じ『主観を持った存在である』と認識しているからなんだ。そしてそれは、主観を持った相手から見た『客観としての自分』も認識していることになるんだ」
 戸山は清水の妙なたとえ話に笑いをこらえていたが、不意に真剣になって尋ねた。
「すると、清水君はマルチが相手の立場に立ってものを見る能力を持っていると言うんだね?」
「証拠はないですけど、その可能性は極めて高いと思います。きっとマルチは『彼氏』の反応をシミュレートすることによって、自分が人からどう見られているのかわかっていたんですよ。だから人に知られたら困ることもちゃんと区別がついていたんだと思います――たとえば『マルチの時間』とか」
「うーん、『マルチの時間』か――」牧村は渋い顔をして言った。「隠し事をするメイドロボットは好ましくないなぁ……」
 しかし、清水は牧村に言った。
「今のは『客観としての自分』を意識した例ですけど、『主観としての他者』を意識した行動――つまり相手が何を望んでいるかを推測した行動もできるはずなんです」
 戸山も、
「一般家庭ではメイドロボットに対する命令が文法的に不完全だったり、指示代名詞ばかりだったりすることが多いんだ。もし、相手の望んでいることが推測できるとしたら使い勝手もかなりよくなるだろう。それに、メイドロボットはもともと介護ロボットとして開発されたものだし、今でも介護ロボットとしての需要は高い。患者の気持ちを推測することができるロボットは理想的な介護ロボットになる」
 二人の話を聞いて、佐々木は楽しそうに言った。
「相手から自分がどう見られているのかわかっていて、相手の気持ちもわかる――なんだか、マルチには『心』があるみたいですね」
「そんな――」ばかな、と言いかけて牧村は口をつぐんだ。――今までここで話し合ってきたことは結局そういう結論になるんじゃないのか? きっとマルチなら、自分の乗っているバスにお年寄りが乗ってきたら、プログラムされているからではなく、そのお年寄りの辛さを推測するから、席を譲るだろう。そういった判断のプロセスに対して『ロボットだから心がない』と言っていいのだろうか? それに反して、お年寄りを無視して座席に座り続ける若者は『人間だから心がある』と言っていいのだろうか?
 牧村は、『マルチには心がある』という命題を否定することは困難だろうと思った。

「マルチが動くところをもう一度見てみたいとは思わないか」
 ふいに牧村が言った。
「あたし、見たいです!」
 佐々木は間髪を入れずに答えたが、清水は、
「そんなことができるんですか」
 と訊いた。
「戸山は、どうだ?」
 牧村は戸山にも尋ねた。
「わたしもマルチの研究は続けたい」と戸山。
「じゃあ、決まりだ。マルチの神経網コンピュータにはまだ十分な余裕があることがわかったから、何か適当な研究計画を作ればマルチを再起動させることができるだろう。研究課題は、そうだな――さっきの清水君のマルチは相手の立場に立ってものを考える能力があるという仮説の検証にしよう」
 牧村は楽しそうに研究計画の内容を考え始めた。
「でも、どこでマルチを使うんですか?」
 佐々木が牧村に訊くと牧村はいたずらっぽく笑って答えた。
「そんなの決まっているじゃないか。『彼氏』の家だよ」

 量産型モデルが完成した後、適切な販売戦略を見極めるための市場調査が約一年をかけて行われ、HN−12量産型マルチが発売された。


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19 Brand New Heart

 牧村から提出された研究計画書に、長瀬は一つだけ条件を付けた。つまり、『彼氏』がHM−12を購入した場合に限り、そのHM−12として試作機のマルチを送り届けることにしたのだ。来栖川電工ではメイドロボットを受注生産しているためこのようなことが可能なのである。マルチは、製作費や性能、そしてなによりも開発スタッフの思い入れと、何をとっても貴重なメイドロボットである。長瀬は『彼氏』がマルチを大切にしてくれるのか、確証がほしかった。
 一方で、長瀬は自分の心配が杞憂に過ぎないこともわかっていた。『彼氏』こそがマルチに心を与えた本人であり、マルチも自ら『彼氏』を『ご主人様』と決めている。マルチを再起動させたら、行き先は『彼氏』のもとしかないではないか――頭ではわかっていたが、長瀬にはマルチを手放したくない気持ちもあった。
「まるで花嫁の父だ……」
 長瀬は独り言を言って苦笑した。
「HM−12の購入代金が結納金だな」
 しかし、マルチは嫁いでいってしまうわけではない。あくまで研究の一環として一般家庭に置かれるだけなのだ。マルチはデータ回収のために、毎週、研究所に戻ってくることになっていた。

 マルチの量産型が発売されて半年が経ったある日、長瀬の元に一通のユーザー登録書が回付されてきた。マルチの『彼氏』からだった。
 長瀬があわてて営業部に問い合わせると、営業部では以前から彼が念を押していたとおり試作機を出荷していた。しかし、試作機を出荷したことをわざわざ長瀬に報告する必要はないと思っていたのだった。長瀬は急いでバックアップのDVDセットをマルチの『彼氏』に送付した。
 三日後、マルチから長瀬に電話があった。
「なんだか一晩で夢が叶ったみたいでとっても嬉しいです」
 受話器から聞こえるマルチの声は弾んでいた。瞳を輝かせながら喜んでいる様子が目の前に浮かぶようだ。
 ――ロボットの夢か。
 長瀬は、マルチは家庭で働くことに喜びを感じるようにプログラムされていることを思い出した。
「マルチ、ご主人様はおまえを大切に扱ってくれるか」
「はい、とってもかわいがってもらっています」
「じゃあ、この先、もっと高性能の妹たちが登場しても大丈夫だな」
「でも、あたし、まだまだドジだから、もっといいメイドロボットが出てきたら不安です」
 たちまちマルチの声が沈む。本当に喜怒哀楽がはっきりしている。電話越しに話をしていると相手がロボットだとは思えない。
「心配いらないよ。マルチはこの世でたった一台のメイドロボットだ。いつまでも大切にしてもらえるよ」
 マルチはこの世でたった一台のメイドロボット――おそらく世界で初めて『心』を持ったロボットだろう。これからマルチは生まれたばかりの『心』を抱いて、普通の家庭、普通の人々に混じって普通に暮らしていくのだ。長瀬はマルチがいつまでも幸福に暮らせることを願った。
「そうだ、マルチ。料理は上達したか?」
「それが全然ダメなんです。あたし、味がわからないから美味しい料理が作れないんですよー」
 マルチは今にも泣きそうだった。
「今、開発中の味覚センサーがもうすぐ完成しそうなんだ。そうしたら、真っ先にマルチに取り付けてやるからな」
 その味覚センサーは、現在、長瀬が取りかかっているプロジェクトの一環として開発しているものだった。
「あ、ありがとうございますー。あたし、こんなに親切にしてもらえて、とっても……とっても……」
 マルチは、自分の気持ちを言い表すのにふさわしい言葉を見つけられずにいた。

 X14プロジェクト――現在、長瀬がリーダーとなって取り組んでいるこのプロジェクトは学習型プログラミング機能とサテライトサービスによるデータベース接続を融合させたシステムの開発を行っている。それぞれの技術がマルチとセリオによって実用化されたとはいえ、超高速データ転送技術と高密度記憶媒体の開発が重要な研究課題となっていた。なにしろ、マルチとセリオの二体分を一つの筐体に納めなければならないのだ。しかし、あと数年でマルチとセリオの共通の妹が生まれるのも間違いない。マルチとセリオを生み出した二つのプロジェクトチームのメンバーが一つのプロジェクトに携わっているのだ。
 世界屈指のメイドロボットメーカー、来栖川電工。その中央研究所の最高の研究者が一つのプロジェクトに集結し、長瀬はそのプロジェクトチームのリーダーとなっている。
 長瀬は最高の仕事ができると確信していた。


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エピローグ あたらしい予感

 清水と佐々木は夏期休暇を利用して能登半島を旅行していた。宿泊先は七尾湾を見下ろす高級な旅館。二年前、初めて二人で見た映画の舞台となったところだ。
 清水は部屋の奥で観光案内を見ながら、窓辺の佐々木に訊いた。
「どこに行きたい?」
「すてきなところ!」
 佐々木は即答した。
 佐々木は外の景色を眺めていた。凪いだ湾内をモーターボートが通り過ぎていった。その向こうには能登島が視界いっぱいに広がっている。
「ねえ、清水君。今、開発しているメイドロボットって、どんなふうになるのかな?」
「そうだね。オリジナルのマルチはかわいかったけど、あんな性格付けじゃ人によっては不安を感じるからな。長瀬主任は今度のメイドロボットをもっと落ち着いた感じにしたいらしいよ。行き届いたサービスとくつろげる雰囲気――たとえば、この旅館みたいな感じかな」
 清水が宿泊先にこの旅館を選んだのは、現在開発しているメイドロボットの仕様について何かヒントが得られないかと思ったからだった。かなり無理をした甲斐があって、ここの従業員たちの接客サービスは清水にとって十分な参考になった。
「清水君の仮説は正しいことが証明されてるみたいね」
 佐々木は窓枠に寄りかかって清水に話しかけた。
「マルチは人間関係を通じて心を獲得した、っていうやつ? あれはもともと君が言い出したことじゃないか」
 佐々木は「ふふふ」と笑ってから真顔になって言った。「あたし、心ってミームの一種なんじゃないかって気がするの」
 清水は聞き慣れない単語にとまどった「ミームって?」
「そうね……」
 佐々木は少し考えた。
「たとえば、清水君が誰かからおいしい紅茶の淹れ方を聞いたとするでしょ? で、試してみたら本当においしかったから友達何人かに話してあげたとするね」
 清水はいったい何が言いたいんだろうと思いながら佐々木の言うことを聞いていた。
「この場合、おいしい紅茶の淹れ方という情報をミームって言うの。環境に適応した遺伝子が個体から個体へと伝わっていくように、人々に支持されたミームは脳から脳へと渡り歩いていくのよ」
「なんだ、ミームって進化論の考えを拡張したものなんだ。君の専門分野だね」
「そうよ」
 佐々木はうれしそうにうなずいた。
「それでね、ミームが伝播するためにはそれを受け入れることが可能な脳が必要なんだけど、逆にミームを受け入れることができるくらい複雑な脳があったら、ミームは確実にやってくるわ。だって、そういう脳を情報の出し入れに使わないわけにいかないじゃない」
「何か得体の知れないものに感染されているみたいだな」
「ミームって単語に馴染みがないからよ。世の中のありとあらゆる情報は全てミームとみなせるの。切符の買い方も洋服のデザインもダーウィン進化論もみんなミームよ。
 そして、きっと心も同じなのよ。あたしたちが心と呼んでいるものは特定の物を指しているんじゃない。紅茶の淹れ方や切符の買い方よりはるかに複雑だけど、ある物事に対する一連の受け取り方や反応の仕方というミームなんじゃないかって気がするの。
 マルチには、それだけのミームを受け入れるのに十分なコンピュータが搭載されていたし、『彼氏』とのおつきあいを通していろんなことを教わっていたわ」
 清水は少し考え込んだ。
「たぶん。君の直感は正しいんだろうな。心はそれを容れるのにふさわしい器と正しく伝える人がいれば、自然と芽生えるものなんだろう。そうでなければ、マルチに心があることを説明できるだろうか?」
 そして清水は思った――マルチだけが特別であるという理由は何もない。マルチの後継機たちはマルチよりも高度なコンピュータを搭載するだろう。そして、それは人々の間で使われていくうちに心を得ていくのに違いない。心を持ったメイドロボットがこれからどのように進歩していくのか、そのとき人々の生活はどのように変化していくのか、清水には全く見当がつかなかった。
 しかし、清水はメイドロボットを開発・製造している企業に勤務している。どんなメイドロボットを作り出していくか、それは自分たちにかかっている。未来はどうなるかわからないが、その未来を創り出すのは自分たちなのだ。
 清水は再び外の景色を眺めた。どこまでも続く澄んだ青い空。清水は佐々木の肩に手をかけた。
「さあ、どこへ行こうか?」


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補遺 HMX−12概要

 ハードウェア全般
 従来、メイドロボットには光素子と電子素子を併用した光・電子ハイブリッドコンピュータが用いられてきた。しかし、HMX−12では光素子のみからなる完全な光コンピュータが用いられている。
 光コンピュータの発熱量は従来の半導体を用いたコンピュータに比べると格段に少ない。
 動力源となる電池は腰部を中心に格納されている。重量のある電池を腰に配置することによってHMX−12の重心をヒトと同じ位置に保っている。このため、寝ているHMX−12の上体だけを起こすと意外に軽いので驚くが、全重量は五十キログラムを超えている。
 電池はメインにリチウムイオン二次電池、補助に固体高分子型燃料電池を用いている。リチウムイオン電池は一時間充電で約八時間の稼働が可能であり、リチウムイオン電池が放電した後は燃料電池を用いて約四時間の稼働が可能である。
 固体高分子膜を用いた燃料電池は、動作温度が摂氏一〇〇度以下と低いこと、液体電解質を用いないため取り扱いが用意であることから、メイドロボットをはじめ、電気自動車やモバイルコンピュータ等幅広く利用されている。しかし、発電効率や電解質・電極間の水分管理、動作温度の制御など改善すべき点はまだ多い。
 燃料電池や全身に組み込まれた駆動モータから発生する熱は冷却水によって体表面や胸部に運ばれ排熱される。体表面のではバイオセンサーが適切に稼働する温度に制御され、これが擬似的な体温となっている。余剰の熱は呼気として排出される。HMX−12の胸部には熱交換用の「肺」と冷却水循環用の「心臓」が格納されている。

 超並列処理演算神経網コンピュータ
 HMX−12の情報処理系の中心となる「超並列処理演算神経網コンピュータ」とは「超並列処理演算」を行う「神経網コンピュータ」という意味である。
 超並列処理とは、多数の異なった計算を同時並行的に進める処理方法である。方程式を解くことが困難または不可能な現象についてシミュレーションによって解を得る場合に威力を発揮する。未来予測に優れた能力を有している。
 神経網コンピュータとは、論理回路を自発的に組み立てる能力(自己組織化能)を持ったコンピュータである。経験を積み上げていくことにより論理回路が精緻になっていき、作業が熟練していくという特徴がある。

 学習型プログラミング
 学習型プログラミングは神経網コンピュータ自身が組み立てた論理回路に対してその適否を評価する。
 従来の学習型プログラミングは行動の結果を「正解」と比較しながら作業の適否を判断するが、HMX−12用に開発された学習型プログラミングは作業結果自体に対する評価だけでなく、周囲の人から喜ばれているか、誉められているか、ということも行動の結果を評価する基準として組み込まれている。このため、HMX−12は正解の用意されていない課題についても学習することが可能となっている。

 超並列処理演算神経網コンピュータと学習型プログラミングを組み合わせたシステムは、「夢のシステム」である。来栖川電工本社は、当初、このシステムの実用化にはさらに詳細な研究が必要と判断し、HMX−12を開発していたX12プロジェクトを人工知能に関するF/S(先行調査)に位置付けていた。しかし、米国人工知能学会において同社中央研究所の所員がHMX−12のテスト結果を発表したところ世界中から大きな反響があったため、急遽、次世代メイドロボットで実用化を図ることになった。

 参考文献
『ゑれきてる 1999 第71号』(株式会社東芝広報室編)
『図解 電池の本』(池田宏之助・他/日本実業出版)
『電脳進化論』(立花隆/朝日文庫)
『構造としての身体』(市川浩/講談社学術文庫)
『生と死を支える』(柏木哲夫/朝日選書)
『利己的な遺伝子』(リチャード・ドーキンス/紀伊國屋書店)


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あとがき

 はうー、のたうち回りました。
 このお話のプロットを初めて考えたメモが九九年三月の日付だったので、上梓まで五か月以上かかっているんですね。
 最初の構想では、『窓際』扱いされていた長瀬開発主任が健気なマルチに触発されて再び研究意欲を取り戻すといったストーリーで、文章の長さもだいたい十五章くらいの予定でした。
 でも、書いているうちにマルチの高性能振りに目を奪われ、かつ、「マルチの『心』って、何ー?」などと思ってしまったものですから、終わってみたら五十パーセント増量(当社比)、文庫本換算で五十ページ以上という、わたしとしては超大作になってしまいました。作品の主題も変わっちゃったので、タイトルも改め、新しいタイトルにあわせて、サブタイトルなんかも付けてみました。
 この作品でやりたかったことは、十八禁ギャルゲーのへっぽこ美少女ロボットにロボットとしてのリアリティをどこまで追求できるかです。
 まず、新製品の開発について。
 大企業が次期新製品を開発するとしたら、「博士と助手」みたいな星新一的ふたりぼっちで開発という状況はあり得ない、ということです。メイドロボットを製作する上で必要な要素技術ひとつひとつについて専門家が抜擢されてプロジェクトチームを組むことになるのではないか、あるいは一部の分野については外部に委託することもあり得ると思うのです。そういうわけで、うじゃうじゃと(笑)研究者が出てきてしまいました。
 次にハードウェアについて。
 この作品を書き始めたそもそものきっかけはゲーム中に出てくるマルチとセリオのスペックについて調べたことからです。まじめに調べてみると結構面白いことがわかってきました。作中で思いっきり利用していますが、学習型のマルチは未来を、データベースを利用するセリオは過去を見ているロボットなのです。しかもメイドロボット自体の出自が介護ロボットであるという設定も見逃せません。介護ロボットは人間を相手にするロボットとして実際に研究開発中のものだからです。こういうさりげない設定が変にリアルでめちゃくちゃ興味深いのです。
 最後に『心』について。
 マルチには『心回路』が組み込まれています。だからマルチには『心』があります――なんて設定は、わたしとしては「不許可」です。生まれながらにして心があるなら、マルチがロボットでなければならない必然性がないじゃないですか。ゲーム中のマルチは、最初ロボットらしく振る舞おうとしていますが、主人公との交流を通して次第に心を獲得していくんです。一見、無から有が生じたように見えるこの出来事をどう謎解きしていくか、それを考えるが面白いのです。え? ゲーム終盤、公園で長瀬開発主任が鳩に餌をやりながら言っていたことは何だったのかって? えーと……あれは何かの間違いです(爆)。
 と、いうわけで、ロボットとしてのマルチを書ききりました。少なくともわたしはそのつもりです。この作品を通して、マルチがR・ダニール・オリヴァーやHAL9000と同じ場所に立てたらいいなと思っています――って、わたしが、アシモフやクラークに列びたいというのが不遜だな(笑)。
 あ、そうそう。この作品は「1」から「補遺」までがフィクションです。念のため。

 ウェブサイト更新に際して微妙に推敲しました――どこを直したかわからないでしょうけど。

(平成15年11月18日)