12月の個展が三越側の依頼により1月に延期、急きょ正月なしで個展を終え

一息ついて休んでいるうちに、半年がまたたくまに過ぎ去ってしまった。

15年目の節目の個展で、今後の課題を考える時間を持ったとしようと、自己

弁護しつつ納得てしていたのだが、その期間、沖縄に大きな出来事が起きた。

4/4の選抜高校野球大会で沖縄商学が優勝、紫紺の優勝旗がついに海を渡った。

号外が出た。翌日の地元二紙の新聞は一面前面から裏面にまたがって

大パノラマの球児の画像。歴史に輝く偉業、悲願の初優勝の文字が躍った。

続いて4/29、サミット首脳会議が沖縄県の名護市で開催されることが決まった。

二度目の号外。、興奮し、肝(チム)どんどんし、こみあげてくる熱で目頭が潤んだ。

やっぱりウチナンチュだなと、身をもって感じた。

高校野球(甲子園大会)といえば、個人的に常に思い出す昭和43年夏の甲子園

(沖縄興南高校のベスト4)になった大会である。ちょうどその夏休みに、大学の3年

次に同科の3人で夏休み40日間をかけ日本一周をしようと沖縄より船で鹿児島に旅だ

った。鹿児島で一泊し、鈍行の汽車でトンネルの多い九州地方を通過、煤汚れた顔のま

ま別府で二泊目、門司〜下関、広島で三泊目、呉より四国の松山に渡りバスを乗り継い

で駅のベンチで眠り道後温泉の近くで野宿。漱石の「坊ちゃん」が書かれ、舞台と

なった地で思いを馳せながら翌日の早朝、道後温泉で入湯、旅の垢をおとした。各自の

分担で私が持参すると約束したテントは、米軍払い下げ品の6人用の重い雨ゴムででき

たもので3人用の軽いテントを期待していた連中は、交代でテントを運ぶことを約束し

ながらも、私がいつの間にか無用となった、やっかいものの重いテントを多く持つ羽目

に、それでも、旅が始まって快晴が続いていた日々も、15日目頃に、3日間の大雨に

あい6人用のテントが大いに役立ち、その後進んで各自交代で持つようになったがい

つの間にか無くなっていた。毎日とにかく好奇心おうせいで、あっちこっち見物しなが

らも疲れがたまっていた旅であったが、ちょうど東北の宮城県の仙台より、岩手県の盛

岡に着いたとある食堂に、3人で昼食を取っていた時、沖縄の興南高校が準々決勝ま

で勝ち進んでいたのである。そして、食堂のテレビに対戦相手校と戦っている最中で

あった。そしてまさかのベスト4に、明日は準決勝と言う日に、青函連絡船で我々は青

森より函館に渡っていた。船中では船酔いをしていたのかラジオ、テレビ等を聞き見し

ていなかったのか覚えていないのだが、船着場ですぐ新聞を買って見た。10点差の

ついたコ−ルドゲ−ムで惨敗していた。これまでの、沖縄の甲子園は、一回戦を突破

するのが目標で、本土に比べ技量、体力、気力の差は歴然としていて、相手チ−ムの

応援団からも同情の目で見られる程に弱く、その分他府県からの友情応援は、対戦相

手を嫌がらせるほどであった。そして、時は流れ、肩を並べ...、いまでは、強豪

チ−ムとして、沖縄勢が実力的にも力をつけ強さを認められるに至っている。

平成11年春の全国高校野球大会で、ついに優勝、球児が眩しいほどにはつらつとし

県民に自信と勇気と誇りをこれほど与えてくれた出来事は、これまでに無かったでしょう。