7月某日
私が生まれたのは愛知県の鳴海、両親は沖縄出身。
実母は双子で、一方は18歳の時にソフトボールの試合中、胸にボールを受け亡くなったと聞いている。
兄妹僕と3人生んだ母も私が小学4年の時に結核で亡くなった。
その後まだ本土復帰していなかったオキナワに父と子供3人、パスポートを取って引き揚げてきた。
父はその後親戚の紹介で再婚、愛知県の進学校に受かっていた兄は経済的理由から進学を断念。
オキナワに来て父の兄が援助するからとの話があったが、長男として早く手に職をと、再婚した母の実家前の、ベニア工場に勤めることとなった。
父もオキナワの泡瀬から県立一中(現首里高校)に合格していたが進学させてもらえず怒って母と結婚後本土に渡ったとのことである。
愛知県での思い出は生まれた鳴海から移って生活場所となった荒畑(山中のオキナワ人が10軒程で集落をつくって生活をしていた。)。
小学4年まで過ごした沓掛小学校。自分にとって40年前の生活は夢の小宇宙で過ごした思い出となって、脳裏の一郭に鮮明に刻印されている。
本土からオキナワに移って生活が180度変わったことで、容易く色分け出来るほど印象深く残っている。
私が沓掛小で兄は豊明中7歳違いで、下の妹とも7歳違い。兄はその頃骨太でがっしりとした体格で勉強ができ、スポーツもできる
優等生だったようだ。それに比べ私は当時の通信簿を見ると、人の邪魔をしないで落ち着いて学習をするようにと書かれてる。
ほとんど3以下で、体躯が技が優れているということで4、技術は昆虫採集の標本つくりがよかったことで4、後は2と3が半分づつ。
クラスでもビリを競っていた。しかしオキナワの小学校に転入してから総てが裏表に変わった。身長が低く内地で育ったためか色白で
オキナワの方言がわからず話せない。その頃学校では標準語励行が推し進められ、私は方言を使った人に方言札を掛ける適任者と言うことで、
クラスの風紀員のような存在になっていた。これまで友達にいたずらをし、じゃましていた者が風紀員に、家では子供のできなかった、父の兄の
家へ養子に入った。本土からオキナワにきて環境と共に周りの見る目も変わった。以前やんちゃもんが生真面目な性格に、変わっていった。
7/18
かって、生活をした愛知県豊明市に、4,5日間行ってこようと思っている。
7/22〜7/26 気ままに一人旅
7/22
7/22仏壇に手を合わせ、AM9:40家を出る。JAL11:50発-名古屋。今やほとんどがシャターの閉まったコザ十字路市場前のバス停でバスを待つ。
かって多くの人々でごった返していた市場は、今、ほとんどの店舗が閉まり人の姿が見えない。久しぶりにバス停から1人の客とバスに乗る。
バスタ-ミナル(終点)まで乗り、タクシ-で空港に行けば十分時間的に余裕がある。いまだに、重い鉄の塊が空を飛ぶことが不思議でならない。
離陸するまで気が気でない。しかし、鉄の塊は時間どうり飛んだ。2時間弱で中部国際空港に着く。もう数年も前から生まれ育った地の地図を、
ネットで幾度となく縮図を拡大しては、記憶と見比べ、確かめては、脳裏に納めていたので、ほとんど塗り換わった地図も覚えてしまった。
空港から名鉄で神宮前まで、そこで乗り換え豊明で下車、ビジネスホテルへ。一連に覚えてすみやかに行動しないと、知らない土地(?)では
無駄な時間をつくってしまう。