コンロンカ

2/22にパスポートを受理したが、娘達と仕事の休みが調整できず一ヶ月、二ヶ月と先延ばししているうちに
3月に入った。はからずも差し歯をするため歯科医院に週に1度行くことになった。
5月15日が母の一年忌になる。法事を終えてから、旅行は改めて考えることにした。

  
サクララン
6月某日 ふり返って。

母の一年忌を終え、ホッとしている間に年月はどんどん過ぎていく。6月に、入った。
2月に窯場を大掃除し、やきものの仕事を再開。今年は以前から客の注文の多い実用的な古酒南蛮壺を中心に、2ヶ月間をかけ作り貯めた。
後は窯焚き用の薪を集めに、目当ての製材所に向かう。
製材の機械類、うず高く積まれていたはずの材木が何も無い、鉄網の柵は閉まって閑散としていた。
他の製材所に行く。開いているものの、望むほどに薪の束が少ない。
窯場を閉め休んでいた間に、何か置き去りにされた感じがした。
やちむん塾生が独自で窯焚きをした際、使用していた薪(バンキ)を集めることにした。
そのバンキを貰うため、知人がいると言う友人といっしょに、県経済連へ出向く。
玄関端しの広場に膨大な量のバンキが積まれていた。ほとんどが松材で作られたバンキである。
釘を取ってばらすことを考えると、気が遠くなるが、松材ということで、それも我慢して窯場に運ぶことにした。
ばらした後の量を考えると、4トン車で運んでもたいした薪の量ではないかもしれない。
翌日、ショベルカーを運ぶ4トン車両で、2時間かけ途中大雨が降るが、積み終え、
雨で滑りやすくなった積荷を、ウウジ(沖縄のサトウキビ)縛りで、普段より念入りに、しっかりと車両に縛りつける。
浦添から石川の窯場までの距離を慎重に運ぶ。雨はますます大降りになり、台風のような横殴りの風も吹くしまつ。
なんとか無事、窯場にたどり着き、ロープを解き、水分を含んで重くなったバンキを、残った力を振り絞っておろす。
冷や水でカンパイ。最悪の日なれど、一件落着。

数日後、快晴の日、友人と2人で、バールと中ハンマー、ハンマー、チエンソーの道具類を使ってバンキを3日間かけ、
釘を根気よく抜き取り解体。窯焚き用の薪として穴窯の側に積み置く。
10年前、備前のある陶芸家が訪れたおり、薪の話になり、投げやすい長さに切った赤松の木を斧で割った、一窯焚くあたり、
何十万円で薪業者から買い、薪には一本、一本神経をつかっているとの話の後、窯の側に積まれた製材所からの廃材を
見て、「これで、窯が焚けるのか?」と、あ然としていたが。一本、一本釘を抜いて薪にしている様を見て、
「何だ、これは、、、」と言うかもましれない。すかさず、岡本節で「芸術だ。。」と、切り返すしかない。(意味あいが違う、、、?)


アサギマダラ
2000キロを旅する不思議な蝶、幼虫はサクラランの花を食べる。


7月某日
私が生まれたのは愛知県の鳴海、両親は沖縄出身。
実母は双子で、一方は18歳の時にソフトボールの試合中、胸にボールを受け亡くなったと聞いている。
兄妹僕と3人生んだ母も私が小学4年の時に結核で亡くなった。
その後まだ本土復帰していなかったオキナワに父と子供3人、パスポートを取って引き揚げてきた。
父はその後親戚の紹介で再婚、愛知県の進学校に受かっていた兄は経済的理由から進学を断念。
オキナワに来て父の兄が援助するからとの話があったが、長男として早く手に職をと、再婚した母の実家前の、ベニア工場に勤めることとなった。
父もオキナワの泡瀬から県立一中(現首里高校)に合格していたが進学させてもらえず怒って母と結婚後本土に渡ったとのことである。
愛知県での思い出は生まれた鳴海から移って生活場所となった荒畑(山中のオキナワ人が10軒程で集落をつくって生活をしていた。)。
小学4年まで過ごした沓掛小学校。自分にとって40年前の生活は夢の小宇宙で過ごした思い出となって、脳裏の一郭に鮮明に刻印されている。
本土からオキナワに移って生活が180度変わったことで、容易く色分け出来るほど印象深く残っている。
私が沓掛小で兄は豊明中7歳違いで、下の妹とも7歳違い。兄はその頃骨太でがっしりとした体格で勉強ができ、スポーツもできる
優等生だったようだ。それに比べ私は当時の通信簿を見ると、人の邪魔をしないで落ち着いて学習をするようにと書かれてる。
ほとんど3以下で、体躯が技が優れているということで4、技術は昆虫採集の標本つくりがよかったことで4、後は2と3が半分づつ。
クラスでもビリを競っていた。しかしオキナワの小学校に転入してから総てが裏表に変わった。身長が低く内地で育ったためか色白で
オキナワの方言がわからず話せない。その頃学校では標準語励行が推し進められ、私は方言を使った人に方言札を掛ける適任者と言うことで、
クラスの風紀員のような存在になっていた。これまで友達にいたずらをし、じゃましていた者が風紀員に、家では子供のできなかった、父の兄の
家へ養子に入った。本土からオキナワにきて環境と共に周りの見る目も変わった。以前やんちゃもんが生真面目な性格に、変わっていった。

7/18
かって、生活をした愛知県豊明市に、4,5日間行ってこようと思っている。


7/22〜7/26 気ままに一人旅

7/22
7/22仏壇に手を合わせ、AM9:40家を出る。JAL11:50発-名古屋。今やほとんどがシャターの閉まったコザ十字路市場前のバス停でバスを待つ。
かって多くの人々でごった返していた市場は、今、ほとんどの店舗が閉まり人の姿が見えない。久しぶりにバス停から1人の客とバスに乗る。
バスタ-ミナル(終点)まで乗り、タクシ-で空港に行けば十分時間的に余裕がある。いまだに、重い鉄の塊が空を飛ぶことが不思議でならない。
離陸するまで気が気でない。しかし、鉄の塊は時間どうり飛んだ。2時間弱で中部国際空港に着く。もう数年も前から生まれ育った地の地図を、
ネットで幾度となく縮図を拡大しては、記憶と見比べ、確かめては、脳裏に納めていたので、ほとんど塗り換わった地図も覚えてしまった。
空港から名鉄で神宮前まで、そこで乗り換え豊明で下車、ビジネスホテルへ。一連に覚えてすみやかに行動しないと、知らない土地(?)では
無駄な時間をつくってしまう。





小学1年〜4年まで通った沓掛小学校

                


      

7/23
実家跡地は地図では勅使台団地と変わっていたためあきらめ、思い出深い勅使池で降ろしてくれと、タクシーの運転手に伝えた。
しかし向かう途中、40年前住んでいた地名の荒畑。地名からして良い土地ではなかったのではと話している内、
まだ旧集落が残っていると言うので、そこで降ろしてもらった。降りてすぐは見覚えのない古い住宅街だなと思っていた。
かまわず先に見える様変わりした勅使台団地を、なんの感慨もなく通り抜け、勅使池に向かった。
勅使池を散策後、引き返し慈光寺へ行くつもりであった。もう12キロ程歩いている。寺を見て時間があれば、
市立図書館で荒畑地域の家屋の載った地図を、プリントしてもらおうと思っていた。
再び古い住宅街を通って寺に行くつもりであった。旧集落ならまだオキナワ人が住んでいるのではと、訪ねてみることにした。
一軒、二件訪ねていく内、三件目に訪ねた家の表札に我喜屋と書かれていた。同級生の名前を咄嗟に言う、驚いたことにここだとすぐさま
返事が返ってきた。彼は今豊田市に住んでいて、私は兄だと言った。
40年以前から住み続けているのは、ここ一軒だけで、オキナワの方は今この集落にはいないとのことであった。
すると隣下に実家があったことになる。(君達の実家跡地は、この下の長島氏宅だ。母が病死してオキナワに帰ったけ。
あんたの父は気難しい人だった。兄は勉強がよくできた。妹もいたよな。)しばらく話した後、うちの母が沖縄から昨日来ている
と言う、お邪魔して良いのかと思っていると、綱に繋がれた犬が突然吠え始めた。なだめに下に降りていき、泣き止んでも戻る気配がない。
声をかけようかと思ったが、その場をあとにした。庭にはゴーヤが植えられていた。

7/24〜26
名鉄駅(前後、阿野ーは無くなった)から旧道路。現在は貴重な目印となっている寺院、神社、池は昔のまま、あとはすべて変わっていた。
実家跡地、その周辺は地形も変わっていて、ただ風を感じるのみであったが。沓掛小では一棟の木造校舎、運動場、まだ田んぼも周辺に
残っている所もあり、周りの空気が昔を満たしていて、追憶することができた。あとは個室列車に乗って、帰りたかったのだが。
中部国際-沖縄の往復券を買っていて、また名古屋に引き返してこなければならず、あきらめ、名古屋より新幹線で京都に行き、そこで一泊。
京都の清水寺をゆっくり散策後、五条坂バス亭横の看板で、河井寛次郎記念館の案内をみつけ、すぐさま歩いていくが、あいにく今日が休館日。
となりの老舗田村で寛次郎の孫作のぐいのみを買う。どうしても乗りたかった個室列車の旅。特集の載った「男の隠れ家」をバックに入れていたが、
ムダになってしまった。あとは中部国際空港から沖縄に帰るのみである。