窯焚き風景 2010年 3月2日〜9日

    


    


    




最終日の攻め焚きは人数と焼成温度との調整で一日延長となった。窯焚き人7名で8日間、焚き続けなんとか
終了したのだが、窯開けは4月初旬に。


3/18  神村酒造 第五回感謝祭 日時3月20日(土)21日(日) 会場:神村酒造
うるま市石川嘉手刈570番地  洞山窯も酒器と頭シーサーを出展



3/25  昨日、今日と、甲子園球場は雨で、選抜野球の試合が2日続けて順延になった。沖縄から2校が
出場して、すでに嘉手納校は初戦敗退。興南校に期待がかかる。試合をする選手は中止となると、調整
見る方も気の抜けた一日に成ってしまう。選抜高校野球は2回戦3回戦とどちらか一校が勝ち進んで
行くものと思っていた。窯焚き後の楽しみでもあった。   興南高校優勝。

3/30  窯出し

  


  


  


4/4  窯焚き仲間慰労会。クース収集家N氏宅にて。

  


4/13 窯場に入る農道向かいの修理工場に車を修理に出す。一週間前、給油所隣のコンビニで買い物を終え
エンジンをかけるが、かからない。すぐさま給油所のT氏に連絡をし来てもらった。いつも使っているところで
車検も3度入れている。キャブレーター、タイニングベルト、、、、、等を替えている。22万キロも走行しているせいか
シリンダーの磨耗でエンジンオイルの消耗が早く給油の際に5回に一回は半コートオイルを継ぎ足している。2年
経っているのでバッテリーは一応交換してもらったが、セルモーターが駄目かもしれないとのことであった。その時は
ここをハンマーで軽く叩けばかかるのでと、ボンネットをあけ位置を指し示した。一週間後に、2、3度スーパー運動
公園等でエンジンが掛からず、その都度道具箱からハンマーを持ち出しボンネットを開け、叩いてエンジンをかける。
なんとも気色悪い。(もはやか買い替えだな、ポンコツに7万円もするセルモーターをつけてもしょうがないし、)解体所で
中古のセルを交換することにしていた。農道入り口に四窯元で設置した看板は根元が、朽ちていて危険だということで、
窯焚き中に、F窯元が取っ払っていた。F窯元は地元読谷にすでに住宅を建て移転準備中、後は工房のみのようだ。
四窯元の内、最後に残ったのは、小生一人になってしまった。来年で三十年になる。今日取っ払った看板後に、
電柱に彫った個人窯名を書き埋める筆を書店で買う。帰る際、駐車場でセルモーターをいくら叩いても反応が無く、
お手上げ。窯場に至る農道入り口、斜め向かい旧国道沿いにある修理工場まで、架橋を渡り石川トンネルを
抜け2キロ程を歩く。3店舗並んだ手前の親方の店を覗いてみるが、誰もいない、隣で聞くと宜野湾に出張と言い、
携帯で連絡してくれた。帰る途中で20分程でつくと言う。親方が帰りその後従業員が慌てふためいて帰ってきた。
店に居なかった事をこぴどく怒っていた。ハンマーとロープを親方から受け取った彼と車に乗り現場に向かう。
俺様がいくら叩いても掛からなかったエンジンが神の手の一打で簡単に掛かってしまった。これでしょげていた
彼も幾分気が晴れたかもしれない。車を修理工場まで運転し明日仕事帰りに引き取ることとなった。
そんなわけで今日はテクテク家路まで歩いて帰る事とあいなった。


  
ミニカラカラ(クース用)

4/18  春の選抜甲子園は興南高校が優勝した。これで3度の全国制覇、押しも押されぬ強豪チームに沖縄勢は
のし上がった。その興南高校の甲子園には、鮮明な思い出がある。40年前の夏の甲子園で興南高校が4強進出
興南センプーが巻き起こった時である。学生の頃(大学3年次)の夏休みに1ヶ月間を掛け、九州、四国、本州、北海道と
全国を寝袋とテントを持って3名で電車を乗り継ぎ縦断旅行をしていた時であった。新潟、秋田、青森と電車、汽車を乗る
駅々で、まさか、まさかで、興南高校がベスト4まで勝ち進んだのである。そして準決勝、青函連絡船で青森から函館
に渡った後に船から降り、昼食をする為に入った食堂のテレビを見ると、コールドゲームで負けていた。そのときの
主将が興南高校率いる我喜屋監督のようだ。日付の書き出しはいいが、4月に書いた文章を7月に成って補足したり、
加筆したりしているので、三ヶ月も過ぎると興南高校が優勝したことも、うっかり忘れてしまう。宮里藍が米国
で優勝。日本サッカーの躍進。このところ、TVのニュースをたて続けに見る時間が多くなり、流されている。