池田満寿夫「知られざる全貌展」
東京オペラシテイアートギャラリー1月26日〜3月23日

3/23  那覇8:15発→東京10:25着、空港出口でホサカ氏が出迎え案内してくれることになっている。
空港より東京モノレールで浜松町へ、JRで神田(コインロッカーに荷物を預け)から古書店街を歩いて神保町へ
神保町より半蔵門線で渋谷に行き、日本民藝館にたどり行く。目的は池田満寿夫と岡本太郎の創作現場。
二者とも根源には、縄文の影響を多く持っていて、作品にどういうふうに育まれているのかを見てみたい思いが
あった。その前にまだ見ていない、日本民藝館を最初に案内して貰う事になった。柳宗悦らの民芸運動の
拠点となっていた日本民藝館では昨年亡くなった濱田庄司門下の島岡達三の追悼展が一室では催され
ていた。織物、木喰仏の地蔵菩薩の部屋前には壺屋の厨子甕が置かれ、紅型、絣着物も見ることができた。
民芸運動と沖縄工藝には深い繋がりがある。屋内の撮影は禁止されている。伝統的な蔵ずくりの日本民家が
参観者に安らぎをあたえる。正面玄関より2階に上る階段、手すり、梁、柱、廊下、いずれもガッシリとした
木造りの産物。置かれた重厚な椅子でしばし休息後、ホサカ氏とJRで新宿「東京オペラシテイーギャラリー」へ。
JR渋谷から新宿初台駅で電車を降りる。地下鉄、電車の乗り継ぎ、階段、会社。東京の地下鉄は世界一の
電車網だと言う。機能的に動いているダイヤ。東京人は生活の中でよく歩いている。新宿での人の多さに
上海の雑踏の中を歩いている錯覚を持つ。しかし、この機能的ダイヤが止まった時の恐怖も一瞬感じながら歩く。
初台駅で下車すると、直ぐに東京オペラシテイギャラリーの入ったビルに辿り着いた。ホサカ氏もコチラの会場は
始めてのようであった。54階建てで新宿では3番目の高さのビル。半戸外の吹き抜けの広場で一人の若者が
ギターを奏でていた。聞き耳を立てながら2階のアートギャラリーへ、亡くなって11年。「池田満寿夫の全貌展」
写真は禁止。車窓から景色を眺めるように、批評家の解説を読みながら渋滞する人達の後ろを抜け、頭をカラッポ
にして、軽く全体を見た。そして、2度目からゆっくり作品を見て回る。池田満寿夫に興味を持つようになったのは、
マルチなアート作家が50代から陶芸をやりだしてからである。ガス窯、電気窯では物足りず、本格的に薪窯を
築窯し焼成する。晩年は陶芸製作に没頭し、縄文野焼き、古代幻視、般若心経シリーズを精力的に表現し63歳
で逝った。会場内の各フロアーには、油彩、版画、水彩、コラージュ、陶芸、書が出展されていたが、その中で、
陶芸は大きなウェイトをしめていた。死と再生を表現したような大作の陶の「裸形シリーズ」「古代幻視シリーズ
から「般若心経シリーズ」まで見ごたえがあった。途中出口近くで製作風景や、「八方窯」で仲間達と語らいな
がら窯焚きをする池田氏のビデオが流れていた。会場出口のロビーの椅子で、画集を見ながら待っていた
ホサカ氏に合図をし、画集を買い求めてギャラリーを出た。

日本民藝館
島岡達三追悼展

  

3/24  昨夜はホサカ氏の予約の宿で大浴場での風呂の後ぐすっり眠ることができた。翌朝、10時に神田の
セントラルホテルを出る。神田神保町の古書店街を歩き、4店舗を物色ほしい美術書を何点か見つけたが、
値が張る。先日食べた「さばうる」でナポリタンを食する。客の出入りが良く、なにを注文しても美味しい雰囲気の
店である。食事後、地下鉄の半蔵門線で渋谷に行き、そこから、青山まで歩き岡本太郎記念館へ。囲われた
ブロック塀庭には、幾つもの彫刻作品が置かれ、屋内の応接間にも無数の原色に塗られたオブジェが集う。実際
アトリエ兼住居は広く大きいのだが、岡本太郎に対するイメージが優って建物が小さく見えてしまう。玄関ロビーに
仁王像のような感じの縄文人とタイトルされたオブジェに迎えられる。2階まで吹き抜けになった仕事場のアトリエ
には、キャンパス、筆、絵具、金具等がスチール製の机上に当時のままに並べ置かれていた。この地は戦前、岡本
一平、かの子、太郎が長く暮らし、旧邸は戦災で焼失した後にル・コルビュジェの愛出子で友人の板倉氏が建てた
当時話題をよんだ名建築だったようだ。帰り際わ、建物の裏へ回る。ブロック積みの生地が50数年の時を刻んでいた。

岡本太郎記念館(アトリエ兼住居)

    


    


    

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