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Q この高師台中学校区の多くが戦後の開拓地であったと、お聞きしましたが、 どのような開拓だったのですか。 |
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A 戦前,この高師・天伯原は陸軍の演習場となっていました。敗戦後の日本は,深刻な食料危機に陥り,多くの失業者をかかえていました。 そこで,この広大な演習場の開拓が,国の事業として行われることになったのです。 開拓が始まったのは,昭和20年11月で,県下各地から応募した人々や, もともとこの地域を守備していた軍隊の人々が入植しました。 しかし,演習場は笹や小松が生えているだけの荒涼とした土地で,しかも作物が育たないやせた酸性土壌だったため, 入植した人々は大変苦労したそうです。 高師台中学校校区では, 岩西開拓団と高師原開拓団の一部が幸校区に含まれ, 天伯原開拓団と栄開拓団の全域が天伯校区となっています。 |
![]() 現在の天伯原のキャベツ畑 |
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Q 入植した人々は、具体的に開拓でどのような苦労をしたのですか。 |
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A 入植した人々は,それぞれの配分された土地を開墾しました。 入植当初は,機械もなく, 開墾作業はすべて手作業で行われました。 しかし,長年軍馬にふみ固められていた演習地は固く, 配給されたくわはすぐだめになったそうです。 小松を掘り,くわにからみつく笹の根を切りながらの作業は 大変きつく,開墾はなかなか進みませんでした。 また,開拓地で困ったのは水の入手だったそうです。 入植当初は井戸もなく,湧き水などがあればいいのですが, そうでない場合には川まで水を運びに行かなければならな かったのです。 地域によっては,電気が来るのもかなり遅れ, 入植者は不自由な生活を送ったようです。 |
![]() 開墾でつかったくわ |
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Q そのように苦労して開墾した畑も,はじめの頃は,作物がほとんどできなかったそうですね。 |
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はい,やせた酸性土壌のため,開墾しても作物はほとんど収穫できず, 入植した人々は毎日の食糧にもことかく始末でした。 さつまいもを育てても,いもが豆ぐらいの大きさにしかならず,さつまめといわれたぐらいでした。 人々は,豊橋の街まで出かけて集めたし尿や,配給された炭酸カルシウムを畑に入れて,土地を肥やしたそうです。 そんなわけで,厳しい生活に耐え兼ねたり,伊勢湾台風などの被害を受けたりして, 多くの入植者が開拓地をあとにしました。 昭和30年代になると,人々の生活は徐々に安定し,昭和43年に豊川用水が通水されると, 開拓地は全国でも有数の農業地帯になりました。なかでも、天伯のすいかは有名ですね。 |
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※このページは, 1997年1月放送のFM豊橋「ふるさと発見」校区めぐり(高師台中学校区=萩さん担当)の 放送原稿を使用しています。 |
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★あっちこっち愛知 ☆高師・天伯原の開拓 |