このページの存在理由


このページでは、読んだ本の感想を書いていきます。
なぜこんな、どこにでもあるページを今さら造ろうと思ったのかについて言い訳します。

現在、日本の出版業界は、今までに例を見ない程の深刻な不況に陥っています。とにかく本が売れないし、そのせいでどんどん新刊本のサイクルは短くなっています。たまに欲しい本があって書店にいっても、そんな事情ですでに返品になっていたりして、されでますます本を買う客が減る・・・といった悪循環に陥っています。
わたし自身も、確かに最近めっきり本を読まなくなりました。けっこう読んでいるつもりなのですが、やはり減ってきてます。また、買うとしても、すでに満杯である書架のスペースを考慮して、文庫本を中心に買っているため、新刊本の類いとはご不沙汰してました。欲しい本があっても、文庫になるまで待とう、と思いとどまってしまうわけです。
でも、もうそんなこと言っていられません。中央公論社が身売りしましたし、わたしの身の回りでも、ずっと続いていた書店が廃店になってしまいました。近所の書店はかつては三軒あったのですが、数年前に一軒つぶれ、これで残るは一軒。それも、スーパーの中にある、申し訳程度のしょぼい書店ですから、読みたい本を手軽に手に入れる環境とは程遠いです。スーパーの営業時間にあわせているから、夜は早くしまっちゃうしね。

で、この手の出版文化の危機に対して、個人ができることなんて、ほとんどないのですが、とりあえず、今まで以上に本を買おう、と思ってはいます。
ただ、もっと他の人にも役に立つ方法を、と考えたところで、思い当たったのが読書感想文を書く、ということでした。
わたしにしても、たいてい本に関する情報は、雑誌などの読書感想文(つまり書評)によるところが大きいのですから、たとえわたしのウェブページを読む人がほんのわずかであったとしても、もしかしたらこの感想文を目にすることで、それが購買意欲に結びつくかもしれないな、とそう思ったのでした。

世間には、もっと本がすきなひとがいっぱいいるはずです。そういったひとたちひとりひとりが力をあわせて、この出版の危機にたいして少しずつ何かをしていけば、もしかしたら何かが変わっていくかもしれません。

まあそういった動機で、この日記を始めます。最初の日記は98/11/07から始まります。

2001年1月の追記:
上に書いたような理由で始めたこの読書日記ですが、ここのところ断続的な更新になってます。その理由は、とにかく本が高い、ということです。売れないから高くする、という悪循環なのでしょうが、それにしても高い。高すぎる。欧米に比べれば、ハードカバーの価格はこれでも安いのかもしれませんが、それならペーパーバックにあたる文庫の価格も、それに準じたものであってもいいはずですが、やはり文庫も高い。
ブックスオフなどの、中古書店の進出もその原因かも知れませんが、これほど高いとなかなか他人には勧めにくいし、自分自身もたくさん買うことはできません。
そうした経済的な事情から、今後はもう少し肩の力を抜いて、本当に他人に勧めたい、高い値段分の価値はある、と私が感じた本があった時だけ、この日記を更新しようと思います。


目次

01/2902/2008/07
09/1607/0306/1706/1605/3005/2305/1504/2704/2004/1703/1001/1801/0212/1012/0811/2011/08

これまでに読んだ本

「無限の本質」12「「食べ物情報」ウソ・ホント」「愛と癒しのコミュニオン」「神童」1「神童」2「永遠の仔」「キリンヤガ」「変身の恐怖」「死のロングウォーク」「鈴木の人」「バトル・ロワイアル」「弥勒」「人形の誘惑」「何の為のニュース」「東京妖怪浮遊」「環境ホルモン・何がどこまでわかったか」「さよなら、ニンゲンたち」「QuickJapan」22号「ゾット・ワロップ」1「ワガネ沢水祭りと黄金人」「性のミステリー」「マイクロソフト帝国 裁かれる闇」「ゾット・ワロップ」2「勇気の架け橋」とある本


03年8月7日

「とある本」について書く。
ここで名前を出さないのは、・・・えーと、後で理由は推測していただけると思う。なぜ取り上げたのかというと、今まで読んだことがないような、すごい小説だったからだ。

推理小説仕立てになっている。世界中の人間を滅ぼそうという陰謀を企てている秘密結社が『犯罪オリンピック』と称する大量殺人事件を次々と引き起こしていく、というもの。五冊組みの、とても長い小説だ。文庫とはいえ、全部買うと4000円以上のコストがかかる。以下、内容に抵触する感想文になるが、構わず続けることにする。

この小説は、色々な意味ですごいと思う。
『本当に美しいものは美しいとしか言えない』などという、およそ文章で食べている者なら決してやらない・・・というよりプライドがあれば断じて拒否する禁じ手を使い、それを数回繰り返して強調するとか。

ひとを神人と獣人に分けて、後者なら殺されても仕方ない、とするのも、なかなか言えない主張だ。何か、頭がくらくらしてきて、自分の頭の悪さを恥じるばかりだが、ふつう、こういう考え方は、世間から徹底的に批判されたり軽蔑されたり、忌み嫌われたり後ろ指差されたりするものだったような・・・創作物だからいいのかな。確か「選民思想」とか「差別」とも言われるんじゃありませんでしたっけ。思っていても、口にしないものだと思っていた。いやあ、すごい。

それから、『23世紀にひとは滅びるのだから、せめて22世紀に滅ぼしてやろう』というよく分からない論理と、それで動く巨大テロ組織というのはユニークな設定だ。他の追随を許さない、とはまさにこのことだろう。「いっそ」ではなくて「せめて」。どうもそういうニュアンスなんだ。

不可能大量殺人のネタが23世紀の科学だっていうオチは、卑怯だけど、まあ容認できる。だけど、だったらこんなに長い本にすることはないのではないか。そういうオチだと分かっていたら、最初から読まなかったしね。いくら最後に『おめでとう。ここまで読んだあなたは神人です』とか言われても、なあ。

自分の作品を小説ではなく『大説』と称しているところも考えると、もしかしたら、稚拙な表現や問題発言の数々で、他の作家たちを挑発しているのかも知れない。
だが、何のために? 
分かんないなあ。
あと、袋とじの中は本当にたいしたことは書いてないので、読み終わって、その内容にかんする種明かしとかどんでん返しがあると期待して封を切る前に、お近くのブックオフに立ち寄ることをお勧めする。ブックオフはあんまり好きではないけれど、こういう本の処分には最適ではないかと思われる。いや、もうすでに大量に並んでいるかも知れないなあ。

いや、出版不況でどこも大変だろうと思うけれど、こういう本が出版される状況であるのなら、まだまだ大丈夫なのかも知れない。こういうのを出して、売ろうとするだけ余裕があるわけだから。じゃ講談社は倒産しないだろうから、ここから出る本は買わなくても安心だろう。よかったよかった。

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02年2月20日

「無限の本質」を読み終わった。
感想から述べると、前作の実践的なトーンは薄れ、それ以前の作品にみられる概念的な説明が増えているようだ。訳者もあとがきで述べているように、やや唐突な終わり方で、いかにも書きかけの話がカスタネダの死で打ち切られたような印象があるが、それも意図的に仕組んでいたのかもしれない。
というのも、このエンディングは、どこかしら「未知の次元」を思わせるものがあるからだ。
カスタネダの著作は、ドンファンたちが消えてしまってから、その先にはほとんど進んでいない。何度も何度も違ったレベルで思い出されたドンファンの教えが、「未知の次元」以降も繰り返し語られている。
ドンファンシリーズは、その内容のとんでもなさから、フィクションだとする意見が多い。カスタネダがもしこれらの著作を空想で作り上げたのだとすると、ドンファンはさしずめ、とても都合のいい物語の進行役だったに違いない。だから時間が先に進まない構造でここまで著作を出してきたと考えれば、納得がいく。
で、仮にその通りに、カスタネダが架空の物語を作り出していたのだとすると、「無限の本質」の次の作品は、ドンファンから離れた、彼自身の物語が語られることになっていたのではないだろうか。あるいは、ドンファン以外の戦士たちとの交流について。たとえば「魔女の卵」の著者フロリンダ・ドナーとカスタネダはどういう関係だったのかなど、まだ語られていない部分も多く残っていると思われるからだ。
「未知の次元」の後で、いったんはドンファン以後の話に進みかけていたことを思うと、同じような終わり方をしている「無限の本質」も、その次には新たな展開を見せていたのではないか、と想像してみたりもする。 まあ、すべては儚い夢想にすぎないけれど。

ここでカスタネダの著作について、書いておく。
ドンファンシリーズは全部で11作。
「呪術師と私」「呪術の体験(分離したリアリティ)」「未知の次元」「呪師に成る(イクストランへの旅)」「呪術の彼方へ(力の第二の輪)」「呪術と夢見(イーグルの贈り物)」「意識への回帰(内からの炎)」「沈黙の力(意識の処女地)」「夢見の技法(超意識への飛翔)」「呪術の実践」「無限の本質(呪術師との決別)」 このうち、「未知の次元」だけが講談社。確か文庫にもなっているはず。それ以外はすべて二見書房。

ネイティブアメリカンが使っている薬草の資料収集のため、フィールドワークをしていた人類学者カスタネダが、そこで出会ったヤキ族のドンファンという人物に幻覚性植物を与えられ、そこで色々と不思議な体験をする。これが最初の本、「呪術師と私」の内容だ。 この頃はまだ、文化人類学的な学術書としての体裁をある程度保っていたし、実際そういう評価もあったようなのだが、これ以降の作品となると、学術的色彩はどんどん薄れて行って、ドンファンの教えに翻弄され、深みにはまって行くカスタネダの姿が描かれていく。
これらカスタネダの著作では、初期にはペヨーテなど幻覚作用をもつ物質の摂取体験について語られているが、やがてそういった体験は二義的なものとなり、それよりも、そうした物質を摂取することによって得られた体験はただの導入でしかなく、普通に生活しているうちは決して気づかないし触れることのない世界について、次から次へと展開されていく。

カスタネダの本は、今となってはたぶん、ほとんどのひとが知らないだろう。60年代から80年代にかけては、オカルティズムにかかわるひとたちの間では、グルジェフと並んで必ずといっていいほど取り上げられたものだが、神秘思想そのものが、ポップ化しすぎて、訳がわからなくなった現在、そもそもオカルティズムに興味をもつようになるひとなど、それほどいないような気がする。それでもUFOに興味があるとか、超能力に引かれるとか、予言に関する書物がなんとなく気になる、とかいった人たちは、そこから神秘思想の世界に足を向けるのなら、このカスタネダやグルジェフ、クロウリーなどといった人物の本を読んでみるのもいいと思う。

それから、カスタネダを読んだものの、途中で止めてしまったひとにたいして。たぶん一番多いのが「未知の次元」「イクストランへの旅」あたりで止まってるひとじゃないかと思う。この次の次の作品「イーグルの贈り物」はすばらしいので、もうちょっと頑張って二冊読めばいい。また、「イーグル」で終わってしまっているひとにも、「意識への回帰」「沈黙の力」は、ドンファンの「思い出された」「右側の教え」が語られており、刺激的な作品になっているので、読み進めることをお勧めする。

もっともこんなことを偉そうにいえる自分でないことは分かっている。カスタネダにしても、それ以外の本にしても、神秘思想とは随分とごぶさたしている。
オカルティズムから遠ざかってしまった理由は、いくつか思いつくものの、どれも決定的な理由とは考えられない。

ただ、だからといって、ドンファンをはじめとするこれらの思想なりライフスタイルが、今はもう全然有用ではない、ということにはならない。死について想起することを説くドンファンの教えは、グルジェフと並んで、あの頃の私たちに、確かに何かを与えてくれた。今こうやって「意識の本質」を紐解き、久しぶりにカスタネダに触れると、あの頃感じたものと同じような印象を抱く。

まだ何か、書き忘れていることがあるような気もするのだが、とりあえずこのへんで。
今、ドンファンシリーズを最初から読み返している。「管理された愚かさ」って、やっぱりいいなあ、なんて思いつつ、読書中。

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02年1月29日

「無限の本質」(二見書房・2400円)はひさびさのカスタネダの新刊にして遺作だ。前作が出てから数年たっている。原書はもっと早く出ていたのだが、翻訳を待っているうちに、私の方でもその存在をすっかり忘れてしまっていた。

かつて、オカルティズムに傾倒していた頃、カスタネダをはじめ、色々な本を読んだ。
当時その手の本をひもとくと、小説や学術書、趣味の本など、ふだん読んでいる他の普通の本を読んだ時に抱いた感想とは異質な印象を受けたものだった。しばらく遠ざかってはいたものの、このカスタネダの遺作を読んでいると、昔感じた、あの気分が蘇ってくるようだった。

この本やその周辺については、また日を改めて、もう少し詳しく書こうと思う。長くなるかもしれないし、落ち着いて思考をまとめる時間もほしい。今回は、ようやくカスタネダの11作目が出た、という告知にとどめておく。

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99年6月17日

「「食べ物情報」ウソ・ホント」(講談社・900円)という高橋久仁子さんの本を読んでいる。「買ってはいけない」批判で、あちこちで引き合いにだされている本だ。クロレラ信仰など無意味な健康食品称賛を徹底的に批判している本で、「××で健康になれる」といったお題目に洗脳されているひとたちにとっては貴重な本だと思う。

ただ、-もちろん「買ってはいけない」のひどさについては、私も憂慮している側の人間で、そのあたりの話は別項目でも書いているぐらいなのだが、それを前提にしても、この高橋さんの本の主張を、全面的に支持する気分にはなれない。
もちろんひとびとの健康にたいする不安をあおったり、そこに付け込んで商売をしようとする輩は大嫌いだ。高橋さんは、そういう風潮にたいして「病気を治すのは薬品であって、食品ではない」という考え方。それは分かるのだが、薬は薬、食品は食品、と厳密に区別しようとし過ぎてはいないかと思う。

それに、「健康食品」を標榜する食品をきらうあまり、やや論理性に欠ける、と言ったら言い過ぎにしても、強引な論理が見られたりする。
たとえばオリーブ油の項では、まずオレイン酸の利点について、研究データもあるなどと書き、その後でオリーブ油に含まれるオレイン酸について、こんな風に書いている。

確かにオリーブ油中のオレイン酸は75%と群を抜いています。しかし、ナタネ油にも59%近く含まれますし、飽和脂肪酸のかたまりと思われがちの牛脂や豚脂にもオレイン酸が40%以上含まれています。これなら牛脂や豚脂もオレイン酸リッチを宣伝文句にできそうですね。

この部分は、まったく逆の書き方もできる。75%という数字と、59なり40%という数字が近いか遠いかという解釈の仕方で、「オリーブ油はやはりすばらしい」といった書き方をすることだって可能だろう。そもそも高橋さんも「群を抜いている」という表現で、オリーブ油のオレイン酸含有量を肯定的に評価している、と判断されてもおかしくない書き方をしている。

蛇足だが、高橋さんの場合、薬膳なんかは、どういう風に考えているんだろうか。興味がある。
実際に「効いた」経験のある私としては、あるいはそれが偽薬効果であったとしても、薬膳の方法論を支持したいのだが。

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99年7月03日

「愛と癒しのコミュニオン」(文春新書・690円)を読んだ。前半はとてもいい。ただ、後半まで読んでくると、いわゆる「ニュー・エイジ」の匂いが強くなり、ついていけなくなる。

帯には「日常生活における癒しへの道」と書かれており、「聞くこと」による関係性の深化をめざし、そのことによってひととひとはより強い絆で結ばれていることが再確認できる、というような話が中心になってる。もっともだろうし、親子関係の断絶や、親しいひとの苦しみや悲しみをどうすればいいのか悩んでいるひとにとっては、とても有用な本であり、そのことを否定しようとは思わない。実際、自分でも実践してみようかな、と思っている技術もいくつか載っており、具体例として収録されている、関係性のトラブルと、その解決の事例にしても、たぶん嘘じゃないだろう。

わたしもこの本の悪口を書きたいわけではない。ただ、

自分が病気になったのは、自分でそういう道を引き寄せて、それが必然で起こったこと。

だとか

偶然はひとつもない。無意味なことはひとつもない

という部分は、私としては受け入れがたいものがあり、そのせいで、そうした記述が見られる後半部分になってから、あまり感情移入ができなくなってしまった。たとえば前者は、コソボ空爆でひどい目にあったひとたちも、実は自分でそういう事態を引き付けていた、とか、極端にいうとそういう考え方に繋がっていく。それ以外にも、けっして自分のせいじゃなく、ひどい目にあっているひとは沢山いるわけで、そういうものを「神の試練」だとか「成長するチャンス」だとかみなす考え方は、とても受け入れられない。

あと、前半部分では「コミュニオン」なるものが作者の考えた概念なのかと思っていたら、それが実在するムーブメントであり組織であることが「後書き」にいたってようやく記されており、やや鼻白んだ気持ちになった。それなら最初からそう書いておくべきだろう。言っている内容は悪くないのに、なんだか騙されたような気分にさせられる。

あ、でも全体としてはいい本だよ。自分で自分を愛することの大切さにかんしては全く同感だし、エニアグラムが出てきたのも懐かしかったなあ。

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99年6月17日

「神童」を全四巻まで読み終わった。3巻あたりから、話の流れがあきらかに慌ただしくなっているが、それでも全体のトーンを崩してしまうほどではない。

四巻まで読んでいて、やっと分かったのだが、主人公の「うた」の顔って、伊藤重夫の書く女性に似ている。全然性格は違うんだけども。もっとも伊藤重夫なんて、知らないひとの方が多いだろうなあ。

四巻に出てくる聾者の聞く音楽にかんする話は、とても興味深く読んだ。風船で音の響きを味わう、というのは、なんかとても素敵だ。この部分のエピソードがあるということだけで、作品の質が何ランクもあがったような気もする。もっともランクとかそういう話は、この作品にはあんまりそぐわない。うーん、なんと言うか、「品がいい」とでも形容すればいいんだろうか。

四巻では、162ページの、扉が閉ざされていく時のうたの表情、それから最後の演奏のシーンがとてもよかった。

最初に書いておくのを忘れたが、各巻の末尾には、章ごとのBGMが紹介されていて、いったいどういう音楽なのか、みんな聞きたくなる。

それにしても、作者はとてもいい趣味をもっていて、うらやましいというか、何というか。

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99年6月16日

今回は特別に漫画。さそうあきらの「神童」(双葉社・全4巻各580円)だ。

色々賞をとっているけれど、とにかく本屋に原物があまり置いていない。けっこう探してしまった。それに、手塚治虫文化賞の優秀賞を取っていなかったら、私もその存在に気付かなかったから、たぶん読まなかっただろう。

といって、さそうあきらの漫画は、これが初めてではない。まとまった作品としては、「愛がいそがしい」を以前に読んでいて、これもわりあい気に入っていた。物語のトーンは相変わらず、心地よいものだ。二巻まで読んだ限りでは、しみじみとした余韻を、より深く味あわせてくれるようになった感じがする。神童であるピアニストの話。たぶん作者にとってピアノという楽器は特別なものなのだろう。「愛が・・・」にも登場していたが。

二巻でいったん感想を書く気になったのも、もしかしたら初めてかも知れない。ふつう、何か本や漫画を読み始めると、終わってしまうか、連載中の場合最新刊まで読んでしまってから感想を書くのだが。

登場人物の姓の多くが、神奈川県近辺の地名になっていることを考えると、作者の住所もそのあたりなのかな、などと、作品とは関係のない思いがふとわいた。

二巻最終ページのうたの顔はとても素敵だし、和音のピアノから愛情を感じるシーンの背景にピアズリー風・クリムト風のイラストが描かれているのも、実に納得できる。背景としてはうっとおしい絵柄に感じられる向きもありそうだが、あれはあれでいいのだ。というより、あれしかない、という感じがする。いいなあ、と思った。

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99年5月30日

天童荒太「永遠の仔」(幻冬舎・上巻1800円下巻1900円)を読んだ。優希ちゃんはよく失神するなあ(^^;

いきなり茶々から入ってしまったのは、この小説、安易に感想を語れるようなものじゃないからだ。すごくテーマが重い。それに、結末も暗い。児童虐待を扱う小説の中では(いや、そもそもこのジャンルの小説がそんなにたくさんあるとは思えないが)名作、の部類に入るのかも知れない。

ただ、・・・これだけの大作を作った作家本人には大いに敬意を表するが、・・・この小説を読んだことで何が変わるんだろう、という思いがしてしょうがないのだった。登場人物のだれひとりとして幸せにはなれないし、この本を読んで、児童虐待を現にしているひとが、反省してやめるようになるかというと、大いに疑問だし。

本の中の、どこかに登場人物の台詞として書かれていた、児童虐待をするやつの子供もまた、虐待をするのだ、という台詞も、文脈の中では不適切だったと考える。まあそれを肯定するような書き方ではなかったかもしれないが、結末とあわせて考えると、気分がめいってくる。

読者は、被害者だった「仔」たちにたいして同情をもつことができるが、それはあくまで傍観者としての視点であり、中に巻き込まれていく感じがない。加害者である優希の父親や、笙一郎の母親の描き方も、後者はみるからに子供を放置してトラウマを植え付ける典型的な性格であり、前者は虐待以外は普通の父親であるという、その普通さの描き込みがまだ足りず、やはり「実の娘を虐待する、人でなしの父親」という面だけが強く印象に残ってしまう。

要するに、深刻な問題を投げかけているのだから、普通のエンタテイメント作品よりも、もっと普通の読者にえぐりこんでくるようなものであればよかったと思うのだ。つまり、読者が一人残らず、自分も虐待をしてしまうかも知れない。この本で描かれている加害者は、私と何ら変わりのない人間だ、と衝撃を受けてしまうような、そういうものだったら、よかった。そこまで期待するのは欲張りなのだろうかね。

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99年4月17日

待望の高見広春「バトル・ロワイアル」(太田出版)を買って、読んだ。1480円。すごくおもしろい小説だった。

この小説を知ったのは、雑誌「QuickJapan」23号の記事からで、最近つまんなくなってきたなあ、と思いつつも惰性で買っていたこの雑誌だが、そんな惰性も悪くないなあ、と思わされた。

記事では、四月十五日にこの小説が太田出版から発売される、とあり、それを目にしてから、結構期待していたのだった。その期待は十分報われたような気がする。

この記事だけで、なんでそんなに期待していたのかというと、この小説が日本ホラー大賞で落選した、という話、そして、それが小説のおもしろさではなく、題材の社会性によってなされたらしい記述があったからだ。

ひとことで言うと、この小説は離島に連れてこられ、隔離された42人の中学生が、互いを殺しあう、というのが筋で、それを坂本金八先生のような教師やら、かなり戯画化されている(たぶん意図的)専政的な独裁政治体制などといった、ブラックなパロディやユーモアが味付けしている。

「QuickJapan」の記事によると、この小説は、ホラー大賞の選考委員から、面白さを認められながら、「42人の生徒が殺しあうっていうのは、やっぱりちょっと問題がありすぎる」(荒俣宏)とか、「今の時期に、こういう中学生が殺しあいをするような小説に賞を与えてしまっては、やっぱりホラー大賞のために絶対にマイナスだ」(高橋克彦)とか、「いくらホラーで面白くても、こういうのを書いちゃいけないんじゃないかな」(林真理子)といった理由ではずされてしまったそうだ。

このお三方は、いつから政治家になったのかしら、という茶々はともかく、こと文学作品に関しては、内容とは関係ない部分であれこれけちをつけるのは、読者以外はしちゃいけないことだ。特に高橋克彦の発言は、一選考委員が何様のつもりだ、と言ってやりたい。まあ芥川賞で有名になった、平野某の「この小説が受賞することは、芥川賞にとってよいことだ」などといった発言をもじって「バトル・ロワイアル」が落選したことで、ホラー大賞はその権威を大きく失墜させた、と言いたい。

ホラーだったらなんでもやっていい、というつもりはない。いや、いいとは思うけれど、それをここで声高に主張するつもりはないね。だが、小説の本来の面白さとはかかわりなく、その反社会性やら非道徳性のみがクローズアップされ、それで賞の当落が決定されてしまうなんて、前代未聞の話だ。永山則夫がペンクラブに加入できなかった時同様、そして筒井康隆の小説が問題になった時同様に、わたしは憤りを感じる。

それに、なんと言っても面白いのだよ、「バトル・ロワイアル」は。いずれもう少し詳しく書きたいとは思っているが、今日のところは、こういう小説があるのだ、と少しでも多くのひとに宣伝したい気分なので、紹介のみにて。

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98年11月7日

読書日記のはじまりに相応しい、よい本を読んだ。篠田節子の「弥勒」(講談社・2100円)は、ひさしぶりに買う篠田節子のハードカバーになった。

このひとの本は、どれも面白いのだが、本が増え過ぎるのを懸念して、ずっと文庫本だけを買うようにしていた。例外は「夏の災厄」ぐらいなもの。これはストーリーを聞いて、がまんできずに買ってしまったものだった。だから、彼女の最近の作品は、全然読んでいないということになる。

そんな久しぶりの篠田節子の本だったが、やっぱりすごく面白くて、1日で読み終わってしまった。文庫に入っているほかの作品にくらべ、当然だが筆力がかなり上達していて、読者を本の世界に引き込んでしまう力も、ますます強くなっている。そのため、昔ディックなんかを読んだ時の、読み終えてふと現実に返った瞬間の、なんとも言えない気分を、懐かしさとともに味わうことができた。

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98年11月8日

井上章一の「人形の誘惑」(三省堂)を読んでいるが、途中で止まってしまった。
日本独特の、店頭で客寄せに置かれる人形にかんする考察であり、題材はとても面白い。たとえば、ケンタッキーのカーネル人形は、現在ほぼ日本にしかないものだなんて知らなかったし、ペコちゃんの由来、薬屋の店先にあるかえるの人形は何を意味しているのか、など、雑学の知識を蓄えるにはうってつけの本だと思う。実際、作者もまめに取材していて、その姿勢には頭が下がる。
だが一番の問題点は、こうしたジャンルのものとしては、もう致命的といってもいいのだが、文章が読みにくいのだ。
非常に残念だが、まあこういうこともあるから、面白いのかも知れない。

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98年11月20日

オバタカズユキの「何の為のニュース」(イーハトーヴ出版)を読んでいる。この本もまた、どうも途中で止まってしまいそうで当惑している。

正直にいって、読む前はもっとジャーナリスティックな内容を期待していたのだが、そんな期待はあっさり裏切られた。
このひとも、井上章一同様、読みやすい文章を書くひとではない。
書く題材からいって、そのことはあまり問題にはならないのだが、内容についても、「それは違うんじゃないの」と言いたくなる話が多い。
ただ、書いていて分かってきたんだけど、このひとの文章はテレビの中で話しているひとに向かって「おいおい、何をばかなこといってんだよ」と突っ込むようなもので、それにたいして私が「それは違うだろ」と言うのも、やはり同じ穴の狢というか、実に非生産的なことなので、詳しくは語らない。ちょっと具体例をあげるだけにしておく。

冒頭の「荒れる中学生」、ナイフによる教師殺害事件の前後にナイフを使った事件が相次ぎ、それでマスコミは「中学生が荒れている」と騒ぎ立てた。でも本当にそうなのか?という疑問から、作者は「とりたてて荒れているわけではない」という結論を導き出しているが、ここで作者が取り上げている材料から、読者がその同じ結論を導き出すのにはいささか無理がある。検鏡府会、とまでは言わないものの、わたしならここで作者があげた材料から、まったく反対の結論を導き出すことができる。
つまり、これだけ相次いで同じ期間にナイフ事件が続いたのは、決してファッションでもないし、偶然でもなく、鬱屈していた中学生の精神が、なにかのきっかけに爆発したのだ、と。ナイフはたまたまその形をとって現れた、というだけにすぎず、これが発生時と同様、いきなり収束したのは、彼らの精神の荒廃が、もっと陰湿な別の形で表現されるようになったからで、問題は何も解決していない、とかね。ことわっておくが、これはわたしの意見ではない。ただ、こういう物の見方にもっていくことだってできる、といいたいだけ。

「なんでもあり思想」はまったくその通りだと思った。特にちかごろの若い者にたいする大人のいらだちは、決して教育的な見地やモラルの喪失を憂いているからではなく、たとえば電車の中でのキスにいらだつのは嫉妬であり、地べたに座り込む若者が気になるのは、「ひょっとしたら襲われるかも」という防衛本能が働くからだ、という部分には、なるほど、と思わされた。

「裸の接待」は逆に、全然頷けなかった。内容もあんまり書きたくない。

「選挙投票率」は、「ああ、そうですか」というしかない。何か、個人的な体験でもって語るべきでないものを無理に自分の周りに引き込もうとしすぎている気がする。

「国民の怒り」、まともすぎてる(苦笑) でも「国民の怒り」って、私も甘くみていたんだけど、本当にあるような気もするな。

あー、結局ぼやきにつきあって、こっちもぼやきで返してしまっている。してみると、本当はこの作者の意見をそれほど嫌っていないのかな。まさか。

しかし、せっかく読書日記をつけているのに、こうつまらない本が続くと、がっかりする。自分が書店で手にとって買った本だから、自分の目がたいしたことない、ってことにもなるからね。

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98年12月2日

今日までに笙野頼子「東京妖怪浮遊」(岩波書店)と読売新聞科学部「環境ホルモン・何がどこまでわかったか」(講談社現代新書)、それからグレゴリー・S・ポール&アール・D・コックス「さよなら、ニンゲンたち」(河出書房新社)を読みはじめ、笙野頼子は読み終わった。
私事でなかなかこのページが更新できなかったが、近い内にこの三冊にかんする感想をアップするつもり。

98年12月8日

「東京妖怪浮遊」は、独特の世界観というか、雰囲気が楽しめてよかったと思う。たぶんこういう話は、このひとにしかかけないんだろうな。
「環境ホルモン・何がわかったか」はまだ読み終わっていない。たぶん時間がかかると思う。
読売新聞は、早くから環境ホルモンの取材に力を入れていたけれど、それがどの程度の内容なのか知りたくてこの本を買ったのだが、ちょっと失望した。
それはこの本が結局「疑わしきは罰せず」というスタンスで書かれているみたいだから。
まあそれはそれでひとつの見識なのだろうが、例えば一番わたしが気にしているピスフェノールAの毒性については、洗えば洗う程、溶け出す量が増える、という調査結果が踏まえられておらず、その結果各地の自治体がポリカーボネイトを給食食器から追放した動きにたいしても「騒ぎ過ぎだ」というような態度で評している。

「さよなら、ニンゲンたち」は、うーん、うまく説明できないが、サイバーパンクとか好きなひとにはいいかも知れない。そうそう、あと攻殻機動隊なんかにも似た雰囲気がある。もっともあんなふうにエンターテイメント然とはしていない。ずっとかたい本で、読むのに骨が折れる。

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98年12月10日

ここには原則として雑誌の話は書かないつもりだったけど、今日買った「QuickJapan」22号はとてもおもしろかったので、書いておきたい。
この雑誌は創刊準備号から買っているが、最近ちっともおもしろくなくなっていて、もうやめようかな、とここ数カ月思っていたのだけど、時々こういう話が載るから止められない。北山耕平インタビューは最高だった。力のある言葉だった。これはやはり先日、十年ぶりぐらいに買った雑誌「ロッキング・オン」に掲載されていたジョン・レノンのインタヴュー同様、こころに直に伝わるような言葉だった。そういうのは、やはり読んでて伝わってくるものなんだ。
人間の内的な物って、外的なものとシンクロしてるからね。だから自然の真ん中に入っていくと、要するに自分が一杯に広がるよね。そうすると自然界で、次に何がおこるかっていうことは、自分の中で次に何がおこるかっていうことと同じになってくるわけ。
こんな調子の文章なんだけど、これで興味を持ったひとは読んでみてほしい。鶴見済のインタヴューも載っていて、これもなかなか面白かったし。

今日はそのうえにカスタネダの本も買ってきた。今日は雑誌とハードカバー、それに文庫を買ったのだけどこの三冊で四千円。高いなあ、と思った。やはり売れなくなっているせいで、値付けもタイトになってきているんだろうか。


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99年1月2日

最近更新が滞っていたけれど、本はきちんと読んでいる。そういえば、元旦の朝刊各紙には、大手出版社の広告がいっぱい載っていたけれど、あれもやはり、本が売れないことにたいする対策のひとつなんだろうか。ただ、今の本は雑誌と文庫、それにコンピュータ関連の書籍を除いて高いよ。かなり高い。だから売れないというのもあるが。

つまり

1売れないから値段をあげる

2値段が高いから売れない

3また1に戻る

といった繰り返しになっている気もする。もっとも値段をあげる以外にも、各出版者が知恵を絞っているのはわかる。おもしろそうな本が、とくに単行本ではめじろ押しといった状況になっている。ただ高いだけであんまり話題になっていないけれどもね。

ちょっと脱線したので、もとに戻す。
ウイリアム・B・スペンサー「ゾット・ワロップ」(角川書店)はまだ読みかけの佳作。Amazon.comでも絶賛されていると言うから、筋については詳しく書かなくてもいいかも知れない。ただ、幻覚とか世界観の崩壊みたいなものがテーマになっているから、その手の話がちんぷんかんぷんのひと(まあ、時々いる)にはお勧めできない。もっとも私も読みかけだから、正当に評価することはまだできないのだけれど。

伊達一行「ワガネ沢水祭りと黄金人」(集英社)は書店で衝動買い。中編がふたつ収まっていて、これも読みかけ。表題作の方は読んでいない。もうひとつの中編「ヒョドロ穴」は、すばらしい作品を作ろうという気持ちばかりが先走っている感じだ。面白いんだけど、一般受けしないのは確実。<私>がヒョドロ穴に落ちて、<私>としていろいろな状況を通過し、別人の体験をくり返していくあたりはよかった。「虎ょ! 虎よ!」を少し思い出した。

伏見憲明「性のミステリー」(講談社現代新書)は、性にかんする昨今の問題を考えるうえで参考になるだろうと思う。特に、初心者と言うか、この手の話を全然しらないひと向き、なのかも知れない。わたしもそう妻に勧められてこれを読んだ。ただ、ベクトルで性の指向やジェンダーを分類しようとする方法は、確かに図式としてみる限りにおいては明解なのだが、実際にこの本に登場する人物に当てはめていく際にとてもややこしく感じた。それに考えてみれば性の分類ベクトルはX軸とY軸だけじゃないのだから、もっともっと複雑な分類が本当なのであって・・・それを考えると、これは著者の苦肉のアイデアなのかもしれない。実際、自分でもこれ以上分かりやすく分類せよ、と言われたってできないものな。

ウェンディ・ゴールドマン・ローム「マイクロソフト帝国 裁かれる闇」(草思社)は上下巻の大作だが、長さを感じずに面白く読めた。この本は、Windows3.1がMS-D0Sの競合ソフトDR-DOSを負かすために、わざと不正なコードを入れて、DR-DOSのうえでは動かないようにした、という話だとか、マイクロソフトが製品の品質ではなく、策略や圧力・不当な宣伝などの卑劣な行為によって、敵を次々打ち負かしていった歴史を記している。もしこの本の内容のたとえ三割でも本当なら、それだけで最低の会社だろう、と断言したくなる、そんな本だ。
ただ、たとえばネットスケープだとかJustSystemだとか、MSが乗り出してきたとたん、シェアがあっという間に失われていったライバル企業は、今でも多いよね。こういうところを考えてみると、やっぱり本当なのかな、などと思ったりもする。
マックファンにとって、この本の一番の衝撃は、実は別のところにある。ジョブズがずっとビル・ゲイツの友人であり、例えばAppleがWin95を訴えた時も、何かとゲイツのために骨をおっていた、という下りだろう。つまり、あの衝撃的なApple-MS提携の話は、ジョブズがAppleに復帰した時から、もはや定められた運命のごとくであった、ということだね。
考えてみれば、私はジョブズが昔AppleにいたころのMacは持っていないし、そんなにシンパシーないんだよね、彼には。まあ確かに利益をあげて会社を立て直したことは認めるが、ヒーロー視するつもりは全然ない。OpenDoc潰したり、といった功罪の「罪」の部分も、決して少なくないしね。

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99年1月18日

「ゾット・ワロップ」をやっと読み終えた。ジョナサン・キャロルに似ている云々と帯にあって、それが買った動機なのだが、キャロルよりはむしろディックに似ていて、両方ともすきなわたしとしては、満足の行く内容だった。

全体の構成以外にも、ディックににた特徴がひとつあって、それは死んだ親しい者に対する悲しみをどうするか、というのが主題になっている点だ。この小説の場合、主人公の娘がそれで、死んでしまった娘を別の世界で生かそうとする試みが、痛切に胸に突き刺さる。

こういう題材は、有名なところでは「ループ」なんかにも見られたが、最近増えているのかな。もっとも内容は全然別物だけれど。

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99年3月10日

ジェフリー・ハーバリー「勇気の架け橋」(解放出版社)は、いわゆる「必読」の類いの本だろう。とはいえ、2400円と高価だし、わたしも毎日新聞の書評で取り上げられなかったら、読まなかっただろう。そもそも、大きい本屋に行っても、なかなか置いてある場所が見つからなかった。

毎日新聞を読みそびれた人のためにちょっと解説すると、グアテマラの内戦をあつかった本だ。

アメリカの中南米にたいする政策は、あまり知られていないがとても非人間的なものが多く、日本では「テロリスト」として名高い中米の政治指導者が、実はアメリカのプロパガンダによってレッテルを張られた結果、独裁者とみなされるようになってしまった、というような例もあるようだ。

グアテマラの場合、国内が民主化の道をたどりはじめた時、グァテマラの農産物を搾取できなくなることを恐れたアメリカの大企業が政府やマスコミを動かし、よりアメリカにとって御しやすい軍事政権の樹立を画策したのたのが、悲劇的なことに、それが思惑通りに成功してしまった、という歴史がある。

その結果、マヤ先住民をはじめとする一般市民にたいする、想像を絶するほどの大量殺戮が行われてきている。

その残虐さについては、毎日新聞の書評でも、「あまりにも非道を極めていて、とてもここに引用する気にならない」と書かれていた程のすさまじいもので、私もここであえて例示することはしない。

この本がすばらしいのは、そんな圧制の中で銃をとり、立ち上がったひとりひとりの登場人物が、みんなそれまではごくふつうの生活をおくる一般市民だったということが、とても分かりやすく描写されている点にもあると思う、

この手の本というと、全く無視してしまうひとも多いけれど、できればそういうひとたちに読んでもらった方がいいんだよなあ。グアテマラの悲惨な状況が世界に広まれば、それだけアメリカも好き勝手なことができなくなる。そう、この話は決して大昔の話ではない。ゲリラと軍が休戦した今でも、首謀者不明のテロが勃発しており、現在もそうした状況はおおきく変化してはいないのだから。

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99年4月20日

塔島ひろみの新刊「鈴木の人」(洋泉社)が出ていたので、即座に買った。1500円。このひとの本は、わたしにとって「買わなくてはいけない本」のひとつだ。

買わなくちゃいけない、というのは、あらかじめ作者のファンで、内容がだいたい予想できているとか、期待しているものが得られる見込みがある場合のことなので、すごく保守的な買い方ではあるけれど、塔島さんの場合、あまりにも世間にその天才が知られなさ過ぎているから、もっと売れて、みんなの話題にのぼるようになり、評判を得るようになればいいと思うし、私がだした代金の一部が、印税として塔島さんにわたるのであれば、それはうれしいことだ、とも思う。

なんか変な形で話がそれているような気がするので、内容の紹介を書く。この本は、全国の鈴木さんにかんする考察である。終わり。・・・と終わってしまうけれど、本当にそういう本なのだから仕方がない。実際、まだ全部読み終えてはいないのだけれど、目次を見る限り、今言った通りの内容だ。

では、どこがおもしろいのかと言うと、それはもう、前著「ドキュメント ザ・尾行」やら「楽しい[つづり方]教室」を読んでいたひとならすぐに分かるだろうが、このひとの独特の文章にあるのだ。例えば、「鈴木の人」には、こんな箇所がある。

・・・鈴木さんは「東北地方の南部、および関東、中部他方の太平洋側に多い。西日本では極めて少ない」そうである。(中略)せっかく頑張って分布しているのだから、そこには何か意味があるのだろう。鳥類図鑑を見ると、「本州中北部には多いが西日本には多くない」なんて、鈴木さんみたいな鳥がいた。カッコウだ。それから蝶々の図鑑を見ると、「本州中部地方以北に多く、近畿以南の暖地では多くない」という鈴木さんみたいな蝶がいた。蝶のくせにメスアカミドリシジミなんて、貝みたいなやつだ。
つまり鈴木さんは鳥に譬えるとカッコウで、蝶に譬えるとシジミ、ということだ。
でも、それが何を表すのかは、さっぱりわからない(たぶん何も表さない)。

とまあ、こんな調子だ。塔島さんの文章は、真面目に書いているのだけれど、何か変でとても面白いし、着眼点も、説得力があるんだけどやはり変だ。たとえば、この中で某鈴木さんのうなぎに関する文章を彼女は「名文だ」と書いていて、確かに言われてみるとなるほど、と思ってしまうのだが、しかしよくよく考えてみると、何も言われずにこの文章(うなぎ礼讃)を読んだところで、面白くもなんともないだろうと思うのだ。そういう、ふつうにしていたら見過ごしてしまうようなことの中からおもしろさを見つけだす技術にかけては、塔島さんはとてもすぐれた才能を持っていると思う。

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99年4月27日

スティーブン・キング「死のロングウォーク」(扶桑社)を読んだ。文庫で563円。新刊ではないし、最近話題になっているわけでもないのだが、雑誌「QuickJapan」の最新号に高見広春のインタビューが掲載されていて、「バトル・ロワイアル」のアイデアの発想元にした、というような話だったので、それで興味を引かれて買ったのだ。

キングの作品としては、かなり古い頃のものらしく、状況説明が不十分であるとか、色々欠点はあるが、さすがにキングだけのことはあり、おもしろく読んだ。100人の少年が、最後のひとりになるまで、ただひたすら歩き続ける、という話で、脱落者はその場で射殺されることになっている。このあたりの設定は、確かに「バトル・ロワイアル」に非常によく似てはいる。もっとも、おもしろさだけで言えば、「バトル・ロワイアル」の方が上だろう。

キングの小説は、一時よく読んだものだけれど、最近ごぶさたしていて、その理由はというと、なるほどどの作品を選んでもはずれはなくて、そこそこ楽しませてもらえるものの、なんかワンパターンに思えてしまうのだ。人物の性格なんぞは、特に典型的なものが多い。それから、これを言ってしまえばもうおしまいなのだが、作品全体に流れるモラルというか、価値観が、すごく単純でついていけないのだ。「ゴールデン・ボーイ」などは、その中でも例外的存在ではあるが、主人公が少しずつ狂っていく様子を描写するキングの姿勢は、はっきりそうは書いていないもののやはりモラリスティックな立場にたっているのがうかがえる。それがいやだ、というわけじゃないけれど、その彼のモラルの掌の中で、たとえどんな恐怖や驚きがあったところで、結局は「めでたし、めでたし」なんだよなあ。いっておくが、この「めでたし」は、ハッピーエンドという意味ではない。何といったらいいか、物語はこれで終わり、さあ、現実に戻りましょう、と読み終えたとたんに突き放されるような感じ。それがあんまり好きになれないのだ。

こうした感じがあてはまらないキングの作品といったら、「塀の中のリタ・ヘイワース」ぐらいじゃないのかな。まあこの作品にしても、手放しで賞賛はできないけれど。

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99年5月15日

パトリシア・ハイスミスの「変身の恐怖」(ちくま文庫)を読んだ。940円。大好きなハイスミスの作品だが、翻訳が出ているものも、全部読んでしまっているわけではなく、これもまだ読んでいなかったもの。出版は1966年で、文庫になったのも97年12月だから、ちょっと前のことだ。なんか、全部読んでしまったら寂しいような、そんな気がしているのだろうかね。

ハイスミスの小説は、どれもはずれがなく楽しめる。少なくとも私にとっては、ぐんぐん作品の世界にのめり込むことができる作家なので、今回読んだこの「変身の恐怖」も、そういう意味では十分楽しめた。チュニジアでふとしたことから人を殺してしまった男の話。いや、死体も発見されないし、その現場を目撃していたものは、みな口を閉ざしているから、本当に殺したのかどうか、分からない。そんな彼を疑う男や、ニューヨークからやってきたものの、その事件を知って関係がぎこちなくなってしまう主人公の恋人やら、登場人物はみなよく書けていてリアルだ。ハイスミスの小説は、一般的には容認されないような罪を犯した人間が中心になる場合が多く、その当人の心情をあまりに巧みに描くものだから、読者はみんな主人公の見方になってしまい、彼の犯した犯罪など、ささいなことではないか、という気持ちにさせてくれる。そればかりか、彼の罪よりも、彼の苦悩の方がずっと深刻なのに、と同情さえしてしまう。

ただ、作品そのものはすばらしいけれど、問題なのは翻訳だ。とても下手だと思う。なんか有名なひとらしいし、もう死んでいるのであまり悪口は言いたくないが、あまりに稚拙だ。たとえば、こんな風だ。

彼はアイナのことを思って、今そこにアイナがいっしょにいて、アダムスと別れてから二人で浜辺を散歩しに行き、それから彼の離れ家に戻って二人で寝ることができたらと思った。

こんなまわりくどい言い方は、まったく日本語らしくないと思う。それから、

そして今アイナはインガムを愛し、その弟のジョエイを愛していて、教会に道徳的な支えと、そしてあるいは何か指導というようなものを求めていた。

という文章から、ジョエイがアイナの弟である、と理解するのは困難だろう。こういうおかしい文章にあうと、そこでいったんのめり込んでいる気持ちが途切れてしまうのだ。

翻訳は、自分のふだん使っている言い回しよりも、より多くのひとがスムーズに受け取れる表現を用いるよう心掛けるのが本当だと思う。非常に残念だ。でも私の好きな作家の翻訳は、往々にしてこういうことがあるんだよね。ディックだと仁賀某の創作翻訳(私自身は確認していないが、昔、日本読書新聞という新聞にその話が載っていた。)とか、バロウズの「ノバ急報」(これは最低。幸い絶版になって新訳が出た)とかね。

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99年5月23日

マイク・レズニック「キリンヤガ」(早川文庫)を読んだ。この作家の本は初めて読むが、このアンソロジーはとても面白く、さすが色々な賞をとっているだけのことはあるな、と思った。未来のアフリカで、すでに欧米人と同じような暮らし方をしている同胞に馴染めず、他の惑星に伝統文化のコミューンを樹立しようとするキクユ族の老人が主人公。彼は自ら呪術師となり、コミューンの精神的な核になろうとする。その星での色々な出来事が、章ごとに描かれていて、独立した作品となっている。そもそもそれぞれの章が別々の作品として発表され、色々な賞を獲得している、というから、さすがというか、何というか。

カンバ族・キクユ族といった名前で、大昔に読んだ「時間の比較社会学」という本を思い出した。もっとも内容はほとんど覚えていないし、覚えていたところで、この小説を味わうのには、何ら関係がなかっただろうとも思う。

西洋文化を熟知し、その恩恵も十分わかっていながら、それがもたらす害毒、退廃、伝統文化の破壊といった影響を憂慮し、あえて医療や工業製品など、あらゆる西洋文明の産物を排除した世界を築き、維持して行こうとする男の努力は、妄執といってもいいぐらい、ひたむきだったが、それがやがて時代の推移とともに破たんしていく。話の中には、動物たちが登場する寓話が多く語られているのだが、子供に話して聞かせるそれらの物語は、自分で考えて、そこから教訓を導き出すためのもので、この小説の中のひとつひとつの物語もまた、読者に複雑な感慨を抱かせるようなトーンでできている。誰が悪いのか、誰が正しいのか、こうなった原因は何か、どうすればよかったのか。そういった疑問が次々と頭の中に湧いてくるけれど、答えは見つからない。読み終わった後の印象も、どことなく複雑で、面白い本を読んだ時の感覚ともちょっと違うし、うーん。

とはいえ、つまらなかったわけでは決してない。一気に読ませるテンポのいい文体と世界設定のユニークさなども考えると、好きな本のひとつでもある。まあこの手の本は、とにかく読んでみてください、というしかないんだろうな。あんまり読書日記向きの本ではないようだ。

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