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| 碑の歌 寂しさに秋成が書よみさして庭に出でたり白菊の花 この碑は、白秋文学碑として第1号の碑であり、生前白秋が自分の碑の建立に関与 したのは、この見桃寺の碑のみであった。 歌碑は建物の左側の前庭の植え込みのなかに建てられている。 碑文の歌は「雲母集」の中の『見桃寺抄』の一首で、三浦市白石町19−2見桃寺境 内に昭和16年11月2日、白秋自身が臨席除幕した。高さ70センチほどの丸みのあ る 自然石に、白秋の流れるように美しい自筆の万葉仮名降りの筆跡が陰刻されて いる。 白秋は、三崎の人々に建碑を求められたとき、はじめて三崎を訪れたときに作った歌 いつしかに春も名残りとなりにけり昆布干場のたんぽぽの花 を示し、歌舞島に建てることを望んだが、三崎ではコンブが採れないことから、碑文の 歌にかえ場所を見桃寺にしたいきさつがある。 大正2年5月に一家をあげて三崎に転居し、再興するために魚の仲買を営んだが失 敗し、一家が東京に引き揚げるとき、白秋は俊子とともに三崎に残り見桃寺に移った。 白秋が三崎にいたのは、大正3年2月に俊子の肺結核療養のため、小笠原父島へ渡 るまでの9ケ月の短い間だったが、歌集「雲母集」に納められている歌は、この時期の 作品であり『雲母集余言』で 『・・・9ケ月間の田園生活は極めて短日月であったが、私の一生涯中最も重要たる 一転機を画したものと自信する。初めて心霊が甦り新生是より創った。』と言ってるよう に、白秋が立ち直る過程を、歌と詞で示した。』 参考 かもめ文庫 「かながわの文学碑」から 湘南文学 第5号から |