【No.7 角川原義 句碑】

火の島へ一帆目指すよ芋の露

  城ヶ島公園を少し入ったところに、明朝体で陽刻した四角の銅板がはめ込まれて
 いる碑石がある。角川源義(かどかわげんよし 俳号:げんぎ)の句碑
 である。源義は、自分のつたない筆跡で句碑が建てられるをおそれて、明朝体をつかう
 ことを遺言したとのことである。かって俳人協会から出たカレンダ−に源義が色紙に書
 いた句が印刷されていたし、源義の高弟から贈られた短ざくを愛蔵しているが、人の目
 にふれるのを恥じるほどつたない字とは思えない。この碑は碑文と碑の建てられた場
 所が一致した数少ない碑の一つであるが、明朝体の碑文であることだけが、惜しまれる。

  角川源義は大正6年10月に富山市水橋町に生まれ、神通中学を出て、國學院大學
 を卒業した。在学中に柳田国男(民俗学者、詩人)の家で開かれていた民俗学の研究
 組織である「木曜会」に出席を許されて、民俗学の研究に励んだ。昭和17年に「悲劇
 文学の発生」を刊行した。
  戦後、角川書店を創立し、経営に当たった。金尾梅の門(なかお・うめの
 かど)の主催する俳誌「古志」の幹部同人として句作し、俳論を発表して活躍したが、
 27年に俳句総合誌「俳句」を創刊し、俳友石川桂郎に編集をゆだねたが、のちに自ら
 編集に当たり、「角川俳句賞」の創設、「俳句」別冊の「俳句年鑑」などを発行して、
 戦後の俳句興産の原動力となった。
                            かもめ文庫 「かながわの文学碑」から

  ことに三浦半島を愛し、しばしばこの地を訪れている。
 昭和50年10月27日没。この日を「終燕忌」と名付く。 昭和51年建立。
                            平成5年2月1日 三浦市
                                俳誌「河」同人会 説明板より