レストランを出てBar Camellia の手前で明智は足を止めた。
「鍵を返していただきたいのですが」
食事中に真紅のオーバーカーテンの向こうを眺めた時、窓には雫が途切れる事なく付き、雨の気配を伝えていた。
すぐ脇には先程昇ってきた階段がある。
「部屋にありますよ」
鍵を持っていない事を誇張するように、高遠は軽く肩を竦めて両手を広げて見せた。
「今夜はShowではない、と言ってませんでしたか?」
顎の下に軽く握った拳を当てて、明智は溜息を吐く。
「ちょっとした余興ですよ。Showという程のものではないでしょう?」
magicianの笑顔に、明智は調べても無駄だという事を知らされる。
「お渡ししますよ」
明智を誘うよう優雅に身体の向きを変えると、高遠はBanquet
Room の続く通路を歩き始める。
それを断り切れずに明智は小さな溜息を吐くと、高遠に従った。
通路を抜けるとDome Atriumに突き当たる。狭い廊下の片側に白いレースのカーテンが付いた窓が並び、圧迫感を感じさせない造りになっている。にも拘らず明智は息苦しさを感じていた。窓の向こうを望むと、改札口に傘を手にした人が行き交う姿があり、明智には眩しく映る。
視線を戻すと左手に茶色の防火扉が目に入り、上には丸の内南口と標識されている。前を行く高遠の背中が少し遠ざかる。
雨に濡れても構わない、とふと思う。
タクシーを拾うまでと、降りてからマンションに入るまでの距離を考えれば、ずぶ濡れになる事もない筈だ。
――― この扉を開ければ窓の向こうの日常へと続いている ―――
行く手を見ると高遠の姿が消えている事に気付く。明智は即座に高遠の後を追い、もう窓を見る事もなかった。
Dome atrium が終わると静かに客室が並んでいる。そのドアに背を預けて、高遠は明智を待っていた。
「どうぞ」
遅れてきた明智を笑みで迎えて、高遠はドアノブを回し扉を開けた。客室に足を踏み入れたものの歩みを止めた明智をそのままに、高遠は扉を閉めてクラシカルな縦長の窓まで歩いて行く。閉じられた真紅のカーテンを背景にくるりと降り返ると、簡易な変装は一瞬で取り去られ、素顔の高遠遙一が現れる。そのままラジエーターの上の窓辺に座り、右手を明智の方に差し出すように見せると、そこには傘の鍵が乗っていた。
「お返しします」
意を決したように明智は高遠の元までまっすぐ歩くと、その鍵を取るために手を伸ばした。と鍵は急に沈み、明智は手首を捕えられる。一瞬目を見開いて高遠を見つめたが、その瞳を長く見続ける事が出来ずに明智は瞼を伏せる。
「これも余興のうちですか?鍵を…」
「鍵はお返ししましたよ」
言うなり高遠は掴んでいた手首を引いて、そのまま明智を抱き締める。息を呑んだものの、明智は身体の力を抜いて目を閉じると、バランスを取るために高遠の背に掴まった。
「確保です」
「貴方になら構いませんよ」
その言葉に明智は身体を起こして少しだけ離れると、高遠を見つめた。
「そんな顔をなさらないで下さい。私の方が困ります」
左手で明智の頬を包むと、高遠は困ったように微笑んだ。穏やかな瞳は夜の海のようで、包まれ瞳を逸らせず明智は途方に暮れる。高遠は指を髪に滑らせ、頭を抱えるようにしてもう一度明智を抱き寄せた。髪を梳くようにして撫でる高遠の仕草に任せて、明智はもう一度目を閉じると自分の早い鼓動が聞こえる。
――― これが夢でも構わないと思う 夢なら目覚めて諦めもつく ―――
なのにこうして伝わってくる確かな温もりは、これが現実だと教えてくれる。
穏やかな瞳も、柔らかな笑顔も、抱き締めてくれる腕も、こうして髪に触れる優しい仕草も…
縋り付いたままの明智の髪に指を潜らせ何度も撫でながら、高遠は警視庁の中に居た明智を思い浮かべる。警視というpersonaを付けた明智は、現場に居た時の表情と随分違って見えた。
――― 何が彼をこんな風にさせているかは判らない。 ただ、自分がその要因であればいいと願うだけだ ―――
この腕の中の明智に、自分が出来る事があるのを高遠は知っていた。
暫く動かしていた手を止めて慈しむよう抱き締めると、高遠は顔の見えない明智に呟いた。
「もしかして泣いてますか?」
「そこまで悲観的ではありません」
即答した自分の答えにはっとして明智が身を起こすと、笑みを浮かべた高遠と目が合う。
「明日はお休みでしょう?」
その問い掛けに明智の頬が朱に染まる。
「その事を確認するために、わざわざ警視庁まで来たのですか?」
「ええ、そう言いましたよ。にも拘らず、ここまで1人で来て下さった貴方にお礼をしたいのです。目を閉じて下さい」
そう言うと高遠は、両手で明智の頬を包み額に口付けた。反射的に目を閉じた明智の耳元で高遠は、もう良いですよと囁く。目を開けた明智にmagician
は後ろ手を付いて座り、後ろをご覧下さいと微笑んだ。
明智が振り返ると、先程は平素であったツインベッドは血の様な深紅の薔薇で飾られていた。一瞬で薔薇園に変わったベッドに、驚嘆して近付き花に触れると、薔薇は綻び花弁を散らす。
と明智は急に視界を奪われる。眼鏡が消えた事に気付いた時には、視界が廻りベッドの上に仰向けで倒されていた。スプリングの反動で花弁が舞い散る。
「それが無いと折角の貴方の顔が見れないのですが」
薔薇に埋もれた明智がベッドの上で身を起こすと、高遠の手が顎に掛かる。
「これくらい近ければ必要ないでしょう?貴方の素顔も見せて下さい」
近付く高遠の気配に明智は目を閉じる。長い口付けに自由を奪われ、明智はもう一度寝かされた。再び目を開けると、高遠の肩越しに真紅のカーテンがぼんやりと映る。
――― 今はせめて、その幕が開き日常の舞台が始まるまで ―――
明日に目を閉じた明智の身体からジャケットが離れた時、鍵の鳴る音が聞こえた。
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