「天蓬?」 八戒はキッチンに掛かっている時計を見て火を止めた。味見を終えたビーフシチューの煮込みは十分で、すぐにでもお皿に盛れる状態になっている。グリーンサラダと柘榴のムースは冷蔵庫の中で冷やされ、ガーリックトーストはトースターの中で出番を待っている。なのに肝心な食べる人の用意が出来ていない。天蓬がバスルームに消えて小一時間経過している事を確認した八戒は、小さな溜息を吐くとエプロンを外してバスルームへと向かった。バスルームに鍵は掛かっておらず、八戒はなんなく扉を開けると湯気が雲のように外へと溢れる。 「天蓬ー、起きて下さい!お風呂で寝て溺死なんて死因をお葬式の時説明するの、僕は嫌ですよ」 猫足バスタブの縁に頭を乗せうたた寝していた天蓬の耳に、八戒は大きめの声で話しかける。 とバスルームに八戒の声が反響してから暫し後 「…ん―――、はっかい。オハヨーございます」 「遅ようございます、天蓬。夕飯出来ましたよ。貴方がリクエストしたビーフシチューです」 「うれしーですー。貴方のお料理ってほんとーに美味しいですもんねー」 「お褒めに与り至極光栄なんですが、どうせなら食べてから言ってもらいたいですね」 腰に手を当てて半ば呆れ顔の八戒を、天蓬はバスタブの縁に両腕を乗せ、その上に顎を乗せた格好で見上げた。 その顔には極上の笑みが乗っている。 「感謝してますよー。だからーお礼をしますね」 ゆっくりとした口調やまだ寝惚けているような顔からは想像も出来ない素早さで、天蓬は八戒の手を取りバスタブの中に引きずり込んだ。派手な音を立てて服を着たままバスタブの中に落とされた八戒は、泡と一緒に浮かんでいたアヒル隊長を追い出してしまった。 「何するんですか!?天蓬。可哀相にアヒル隊長を吹っ飛ばしちゃいましたよ」 バスルームの隅で尻尾を向けて仰向けでひっくり返った気の毒なアヒル隊長を八戒は指差し、自分を後ろから抱き込んでいる天蓬を振り返る。 「アヒル隊長には後でちゃんとあやまっておきますよ。それに僕と八戒が一緒に入ったら、アヒル隊長にはちょっと狭いと思うんです」 まったりとした口調とは裏腹な手早さで、天蓬は八戒の濡れた衣服を剥ぎ取っていく。 「天蓬、シチューが冷めちゃいますよ」 「温め直しても美味しいですから、問題ないですよ。でも貴方が温まらずこのまま出たら、風邪をひいちゃいます」 これは由々しき問題でしょうと笑う天蓬に、八戒は諦めの溜息を吐く。大体先程から口では文句を言っても天蓬の行動には無抵抗で、既に全裸にさせられていた。 「判りました。じゃあとっとと温まって、ちゃっちゃと洗って早く出ましょう」 言うなり八戒はシャワーコックを捻り2人の頭上に暖かい雨を降らす。 「もう、天蓬ってば頭も洗ってないじゃないですか」 「ここのところレポート提出が続いていたでしょう?お陰で寝不足だったから湯船が気持ちよくて、ついウトウトと」 言いながら欠伸をした天蓬の頭に、八戒は泡立てたシャンプーを付けて洗い始める。 「はい、目を閉じて下さい。やっぱり天蓬1人でお風呂に入らない方がいいですね。危ないです」 「だから一緒に入りましょうって言ったんですv」 「すみません、ちょっとビーフシチューの味を整えてて手が離せなかったんです」 八戒は素早く二度髪を洗い終えると、少し温めたリンスコンディショナーを天蓬の髪に馴染ませる。それからよく濯ぎ終えるとクルクルと天蓬の長い髪を巻き上げ髪留めで止めた。 「はい、終わりです」 「じゃあ今度は僕の番ですね。目を閉じて下さーい」 嬉々として天蓬はシャンプーを泡立てると、八戒の髪に付けて洗い始める。 「天蓬って自分の事は全然構わないのに、どうして僕の事にはこんなにマメなんです?」 不思議ですよね、と言った八戒の髪を天蓬は丁寧に洗いながらくすりと笑いを零す。 「その言葉そのまま貴方に返しますよ。だって僕が洗ってあげた方が洗い上がりが全然良いですもん、貴方の髪」 「天蓬って髪フェチなんですか?そう言えばよく僕の髪触ってますよね?」 「ん ――― 八戒に関しては髪だけじゃないですよ」 こんな所も好きですしと言いながら天蓬が項に口付けると、八戒の首が竦まる。 「くすぐったいですよ、天蓬」 「はいはい、序に目を閉じて下さい。流しますからねー」 シャワーヘッドを持った天蓬はコックを捻りお湯を出す。天蓬よりも短い八戒の髪は、その分短時間で洗い終えた。 そして今度は色違いのくまのスポンジを手に取ると、2人はお互いの体を洗い始める。 「天蓬、今度のボディシャンプー良い香りですね」 「気に入って貰えました?この香り貴方のイメージだなぁと思って買ってきたんですよ」 「はい、背中向けて下さい天蓬。でもこういうのって洗い上がりも大事ですよね」 「そうなんですよねー。こればかりは使ってみないと肌に合うか判らないんですよね。良くなかったら前に使っていたミルク成分配合のやつに戻しますね。あれはしっとりすべすべでしたから」 さ、今度は八戒の番ですよと言って天蓬は八戒の背中を洗い始める。やがて爪先までお互い綺麗に洗い上げると、今度はアヒル隊長も交えて湯船に浸かった。 天蓬は背中を向けて座る八戒を抱きかかえると、甘えるように肩に顎を乗せる。 「んー良い香りです。やっぱり合ってましたねー」 「天蓬も同じ香りですよ」 ねぇと言って八戒は自分の前に浮かぶアヒル隊長に同意を求めるように話し掛ける。 「隊長も今度これで洗ってあげましょうねー」 「 ―――― 天蓬、もしかして又眠いんじゃありません?さっきから子泣きじじいみたいに重くなってきてるんですけど」 「うーん、正解。八戒をこうやって抱っこしてたら気持ちよくなっちゃって…」 「だめですよ、天蓬。僕、お腹空きましたから。それに折角天蓬のリクエストのビーフシチュー作ったんですよ」 「はっ!そうでした。うーでも眠いー」 「仕方ないですねー。もう充分温まったし出ましょ?ね?」 言うなり八戒はくるりと向きを変え、正面から天蓬を抱き締めそのまま湯船から引き上げる。そして軟体動物と化した天蓬をそのままずるずるとバスルームの外へと連れ出した。 後には呆れ顔のアヒル隊長がプカプカと湯船に浮かんでいた。 「こんなに美味しいビーフシチューが家で食べれるなんて、僕って幸せ者です」 「口に合ったみたいですね。良かったです」 軟体動物天蓬をタオルで拭いて髪を乾かしルームウェアを着せた八戒は、最後の仕上げにおねだりされたキスをして、天蓬はめでたく人間へと変化した。 「やっぱりお姫様のキスの効果は絶大ですね」 「え?王子様じゃないんですか?」 「どっちでも良いですv」 と言った天蓬からキスをされて、八戒は反論の口を塞がれてしまう。気力を削がれた八戒は呆れたように溜息を吐いた。 「…もう判りました。とにかく夕飯にしましょう」 「はいv」 という過程を経ての食卓である。 十分に煮込んであるビーフシチューは力を入れずともすんなり切れて、口の中に入れれば溶けていく食感で、天蓬は蕩けるような笑みを浮かべた。八戒はナイフとフォークを動かす手を止めて不思議そうに眺める。 「それにしても天蓬って本当に美味しそうに食べますよね」 「実際美味しいんですよ。味は勿論ですが、それ以上にこうして貴方と2人で食べるという事が最高の調味料なんですよ」 「貴方はどうですか?僕が居ないとよく食べてないですよね?」 「何となく1人だと食べる気がしないんです。そう言えば貴方の顔を見ると、お腹が空いてきますね。どうしてなんでしょう?」 「それは……僕が聞きたいです。僕、そんなに美味しそうな顔してます?」 今度は天蓬が不思議そうな顔をして小首を傾げ、八戒はじっと見つめた。 「うーん、少なくともア○パンマンには見えませんが」 「え ―― 、せめて食パンマ○にして下さいよー」 「どうしてですか?」 「だって色白だしハンサムだし、ドキ○ちゃんに様付きで呼ばれるんですよー。良いじゃないですか」 「なんだか僕、サンドイッチが食べたくなってきました。天蓬」 「ほら、やっぱり食パンマ○の方がいいじゃないですか。じゃあ明日はサンドイッチ作って下さい、八戒」 「ええ、いいですよ。僕も食べたくなっちゃいましたし。ところで天蓬って様付きで呼ばれたいんですか?」 「いいえー。でも、ほら人気がある人ってよく王子様的に様が付いてるじゃないですか。単にそれだけです」 「天蓬様」 「ヤメテ下さいよ、八戒」 眉尻を下げて情けない顔になった天蓬に笑いを零して、八戒は再び手を動かし始める。それに倣い天蓬も楽しそうにシチューを口に運んだ。生のほうれん草とガーリックトーストを咀嚼した天蓬はふと思い付いた。 「ねぇ八戒、サンドイッチなら明日それをバスケットに入れてピクニックに行きませんか?」 言われた途端八戒の手が止まり、表情が強張る。それを見て取った天蓬はさり気なく続けた。 「外はダメなんですね。じゃあリビングで日向ぼっこしてながら食べましょう。それならどうです?」 「………すみません、天蓬」 皿の上にスプーンを置いた八戒は、視線を逸らし俯いて消え入りそうな声で呟いた。 「僕の方こそすみません。貴方にそんな顔させたくて言ったんじゃないんです。八戒のお料理ならどこで食べたって美味しいに決まってます。だから気にしないで下さい」 済まなそうに微笑んだ八戒に、居たたまれなくなった天蓬は席を立ち、ふわりと八戒を抱き締める。 「ねぇ八戒、僕は貴方が一緒にいてくれるだけで嬉しいんですよ」 そう言って髪に口付けると、頭を胸に抱き寄せる。 八戒はそのまま目を閉じて、天蓬の鼓動と温もりを感じていた。 「八戒、明日はパイも作って下さい」 「いいですけど、どうしてパイなんですか?」 黒猫がプリントされたパジャマを着た天蓬は、ベッドの上に寝そべりながら八戒を見上げる。片や八戒は色違いの白猫がプリントされたパジャマを着て同じベッドに座り、明日のサンドイッチについて話をしていたところだった。実は食パンが少ないので、フランスパンを使ったオープンサンドも取り混ぜて良いですか?という内容だった。 「だって今話してたフランスパンの上に牛肉とチーズを乗せたのには、すっごく葡萄酒が合いそうでしょう?明日はピクニックなんですよ?だとしたらバスケットに葡萄酒、パイの三点セットは外せないでしょう」 見事な三段論法の結論に、八戒は『赤ずきん』という答えを導き出したが、賢明にもそれを口に出す事はしなかった。何故なら言ったが最後、その格好をする羽目になるのが目に見えたからだ。 「……えーと、判りました。そうしたらパイはデザート系ですね。レモンパイとかどうですか?」 「好みですvじゃあ明日のピクニックに備えて今日は早く寝ましょうね」 じゃれつくように抱きついた天蓬は、そのまま八戒を巻き込みベッドの上に横になる。とスプリングが2人分の体重を受けて軋んだ音を立てた。 「天蓬ほら、ちゃんと掛けないと風邪ひきますよ」 天蓬を抱き付かせたまま、八戒は器用に上掛けを引き上げる。そして2人の体がすっぽり覆われると、天蓬は八戒を大事そうに抱え込んだ。 「おやすみなさい、八戒」 「おやすみなさい、天蓬」 抱き締められたまま目を閉じた八戒は、天蓬の鼓動に耳を傾ける。この音と温もりに包まれていると安堵感が広がり、やがて眠りの波が押し寄せてくるのだ。まるで羊水で満たされた子宮のように感じながら、八戒はやってきた眠りの波に攫われた。 やがて寝息をたて始めた八戒の髪を何度も撫でながら、天蓬はいつまでもその寝顔を見つめていた。 |
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2004/11/12