黄金の夏休みT |
八戒は歩いていた。しかし歩くというには御幣があるかもしれない素晴らしいスピードで、後ろには砂煙が舞い上がる程である。お願いだからいっそ走ってくれと泣いて縋りたくなる歩行速度だが、あくまで八戒は歩いている。その異様な光景に道行く人々は跳び退り、また人によっては物陰に隠れたり、急いで家に入り戸締りをしていた。何事か声を掛けようにも、見惚れるほどの綺麗な顔に表情は一切なく、ただ一点を見つめる翠の瞳は研ぎ澄まされた刀を思わせるほど異様な輝きを放ち、鬼気迫るオーラを大量放出していては決死の覚悟が必要とされた。勿論そんな勇気のある者はなく、もしまかり間違って声をかけたら石にされるか、はたまた惨殺されそうな気迫に人々は蜘蛛の子を散らすように道を開けていた。行く手を遮る者は蟻の子一匹なく、そんな事をすれば死よりも恐ろしい目にあわせそうな勢いで、八戒は一路慶雲院に向かっていた。 到着した八戒は怒れる三蔵以上の殺気を纏っていて、僧達は恐怖のあまり声も出ない。そしてそんな僧達など歯牙にもかけず八戒は寺院内を突き進む。家から寺院までの移動時間最短記録を更新したのだが、今の八戒にそんな事を省みる余裕など一切ない。体以上に逸る気持ちでやっと三蔵の私室まで辿り着くと、先程までの勢いはどこへやら足をぴたりと止める。そして息を大きく吸い込み息を整えてからそっとノックをする。どこかくぐもった低い声が聞こえて八戒は静かに扉を開けた。果たして待っていたのは、寝台の上に横たわる三蔵の姿だった。 「どうぞ」 八戒は持ってきた桃の皮をするすると剥いて果物ナイフで綺麗に半分に割ってから、食べやすい大きさに果肉を切り分ける。そしてガラスの器に盛り付け黒文字を添えると、寝台の上に身を起こしている三蔵に手渡した。 「少しでもいいですから食べて下さい」 「………あぁ」 「何か飲みますか?」 「…そうだな」 「内臓を冷やしすぎるのもよくないので温かいものにしますね」 そう言い置いて八戒は部屋を出て行った。残された三蔵は手渡された桃を見つめ、それだけでささくれ立っていた気持ちが和らいでいくのを感じた。 兎に角忙しかったのだ。三仏神の命で酷暑の中を遠出し、帰ってきたら休む間もなく水陸会に強制出席でその後も大きな法要が続いた。疲労困憊の上に猛暑が続き食欲減退を放置していたら水分しか受け付けなくなった結果、見事な暑気中りと成り果てて最悪な気分で不貞寝をしていた。小坊主どもがどんな食べ物を持ってきてもまったく食べる気が起きなかったのだが、八戒が持ってきたこの桃は不思議と食欲がそそられる。匂いに誘われるように三蔵は黒文字を手に取り一切れ口に入れた。よく熟れた桃は甘い香りを放ち噛めば程よい弾力をしながらも柔らかく切れて、舌に甘い果汁を残して簡単に喉を通っていく。そう言えば桃は邪気を払う力があると、どこかで聞いた気もする。 (そうか、だから桃か……) 桃を選んで持ってきた理由を察っすると食欲が沸いて、又1つ口に含んで咀嚼する。桃なら確か小坊主も持ってきていた。けれど八戒が持ってきた桃にだけ食欲が沸く。我ながら現金だと思いつつ三蔵は又1つ桃を食べる。と小さなノック音がして八戒がお盆を持って戻ってきた。その笑顔を見て又1つ機嫌が直る。 「あ、良かった食べてますね。その桃美味しいでしょう。黄金桃っていう種類だそうですよ」 言いながら八戒が急須から湯呑みにお茶を注ぐと、湯気と共に芳ばしい香りが広がる。体調を考えて少し温めのお茶を淹れた八戒はサイドテーブルに湯呑みを置く。そのまま俯き加減でこちらを見つめる翠の瞳は憂いを含んでいた。 「本当に、びっくりしましたよ。貴方が物も食べれず倒れたと悟空に聞いて」 「ちっ……」 朝から騒がしい声がないと思っていたら八戒の所へ行っていたらしい。伝書鳩ならぬ伝書猿か。八戒を連れて来た事は役に立ったが未だ姿が見えない。 「で、ヤツはどうした?」 「すみません、置いてきちゃいました」 「あ?」 「実は悟空に頼まれたんです。俺じゃ何も出来ないから美味い飯を作ってやってくれって。そうしたら三蔵絶対元気になるからって言われて…」 どうせ大袈裟に騒いだのだろう。目の前に立つ八戒は憂いた顔のままそっと手を伸ばしてきて頬に触れた。 「痩せましたね」 恐る恐る頬に当てられた手は心配というより不安に満ちている。三蔵はその上から手を重ねて持っていた器を湯呑みの脇に置くと、強くない力で抱き寄せた。寝台の端に座った八戒の背中に腕を回せば、八戒の手もそっと背中に伸びて互いの体温を確かめ合う。こげ茶色の髪を梳くようにして撫でると八戒は力を抜いて全身を預けてくる。 思えば会うのも久し振りなのだ。こうして温もりを確かめているだけでも安らぎ癒されていく。触れるという行為に安堵する存在など他にはいない。微笑みに滲む今にも消えそうな儚さは霧散する風にも似て、こうして抱き留めて匂いを、温もりを、鼓動を感じて八戒という存在を確かめる。 「ただの暑気中りだ」 「………はい」 長い沈黙の後漸く言葉を交わして顔を上げれば、震えるような翠の瞳。八戒もまた失う恐怖を知っている。しかもその記憶は自分よりも新しい。その上で怖がる八戒の手を取ったのは自分なのだ。判っていた筈なのにこんな時、こんな風に思い知らされる。だから大丈夫だと告げる代わりに口付ける。目元や額、頬から鼻先そして唇に。目を閉じた八戒は大人しく唇を開き、そして深いキスへと変わる。けれど貪るようなものではなく緩く舌を絡めあい、お互いを確かめ合うようなゆっくりと長く甘いキスをする。息が上がってきた頃に唇を離すと、翠の瞳はやっと明るい色になった。 「取り敢えず、貴方が元気になるまで食事を作りますね」 悟空にも頼まれましたし、と瞼を伏せる八戒に三蔵は唇の端を上げる。確かに超過労働には休暇が見合う。しかも八戒付きならと三蔵は長期休暇を心に決め込んだ。 「勿論三食だろうな」 「食べられるならおやつも付けますよ」 「なら先ず一番美味いものを食わせろ」 そう言って首筋に舌を這わせると、八戒は肩を掴んで三蔵を引き剥がした。 「先ずはきちんと食事が出来るようになってからです」 「出来ればいいんだな?」 言われた途端に顔を赤くした八戒を三蔵はもう一度抱き寄せる。 「仕方ねぇから一番最後にしてやる。その代わりつまみ食いくらいさせろ」 そう言って再びキスをしてきた三蔵に八戒は大人しく目を閉じた。 原作設定:旅に出る前の2人 きっとすぐに治るでしょう |
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2006/09/21