紫色の星空T |
「蚊遣りブタが無いんです」 「何だそれは?」 「夏の必須アイテムです。そんな訳ですので、一緒に買いに行きませんか?」 「それとこの格好になるのと関係があるのか?」 「大有りです。これも夏の定番スタイルだからです。付け加えれば、花火の正装といえばこれに決まってます」 「花火をするのか?」 「ええ、言ってませんでした?僕」 「……今、聞いた」 「そうと決まれば善は急げです。すぐに出掛けましょう。夏の一日は短いですからね。それにビールもあった方がいいでしょう?今ちょうど切らしてるんです」 反論を許さないご機嫌な八戒に背中を押される形で三蔵は、ビールがなければ家にいても仕方がないと渋々一緒に家を出た。 そうして2人は今、森の中を浴衣で歩いている。目に新鮮な八戒の浴衣は三蔵が贈ったものだ。薄茶で矢絣縞の浴衣に濃紺の一本独鈷の角帯を締め、八戒は涼しげに着こなしている。自分の見立てに密かに満足しつつも、他人に見せたくない独占欲も手伝って三蔵は憮然とした表情でぼやく。 「花火をするのは家に帰ってからだろう。どうしてこの格好で出掛けなきゃならねぇんだ」 「浴衣デートがしたかったからです」 臆面もなく微笑まれて、三蔵は二の句が継げない。力無く舌打ちをすると懐から煙草を取り出し紫煙を吐き出す。八戒は笑みを深めて、おつまみのリクエストはありますか?と訊きながら隣を歩く。やがて2人は街へと着いた。 商店街で買い物をする2人は、やたらと注目を浴びた。浴衣を粋に着こなした美形が二人でいるだけでも目立つのだが、その上三蔵が八戒(当時悟能)の聞き込みしたのが知れ渡っていて、からかわれたり冷やかされたりしたからだ。それに三蔵が青筋を立てて 「そうだ、こいつは俺のだから手を出すんじゃねぇ」 と切れる前に八戒が 「そうなんです。だから今、浴衣でデート中なんです」 とやんわり肯定する。すると 「お似合いだねぇ」 「よっ、ご両人」 などと声が掛けられ、お店の人はこれで楽しみな、と花火をくれた。 最初の目的である蚊遣りブタ、ビール、そしてつまみを買うたびに花火が増えていく現象に、三蔵は浴衣で買い物をしようと言った八戒の意図を知った。 「大漁GETですね」 「お前…最初からこれを狙ってやがったな」 「いやですねぇ、偶然ですよ。偶然。僕は三蔵と浴衣デートしたかっただけで、僕達の似合いぶりにお店の方達が、偶々花火をくれただけじゃないですか。でもこれだけあればかなり楽しめますね」 帰り道、たくさんの花火を抱えて八戒の声は弾んでいる。片や三蔵は、隣を歩く確信犯をじっと見つめたが、結局何も言わずに溜息を一つ吐いた。と、ガリッという嫌な音がして八戒の体が前のめりになる。 「八戒」 「大丈夫です」 持ち前の素晴らしい反射神経を駆使して、転ぶのは避けられた八戒だが、荷物を庇って座り込んでしまう。それでも花火が幾つか袋から飛び出してしまった。 「鼻緒が切れたか?」 「いえ、下駄の歯が石の上を滑ったみたいです」 「見せてみろ」 八戒の大丈夫をまったく信用していない三蔵は片膝を立てて座り込み、先ずは足首を確認する。無理な負荷は先ず関節を痛めるし、ましてや八戒は下駄に履き慣れていない。暗くなり始めた夕暮れに、差し出された八戒の足が白く浮かび上がる。腫れ上がってはいないようだが、念のため触れて確認する。足首から踝、足の甲までを辿っても腫れている箇所はないようだ。その代り、親指と人差し指の間が少し赤くなって鼻緒ずれが出来ていた。 「ここは平気か?」 「皮は剥けてませんし」 しかし指を滑らせただけで足が揺れる。やはり痛むらしい。 「脱げ」 「……三蔵、こんな道の真ん中ではご免被ります」 「下駄の事だ。お前の期待はそっちか?」 「僕に裸足で帰れと?」 「そうじゃねぇ。片足ずつでいい」 八戒は首を傾げながらも三蔵が触れた右足の下駄を脱ぐ。 「掴まれ」 三蔵はそう言うと下駄を手に取り、鼻緒を引っ張ったり、揉んで解し始める。その作業を見つめながら、八戒は言われた通り肩に掴まった。 「履き慣らしてなかったのか?」 「いえ、一回履いたんですけど、時間が短かったみたいですね」 作業を終えて三蔵は下駄を足元に置く。八戒はそっと足を下ろして履き心地を確かめると、当たりが柔らかくなっていた。 「どうだ?」 「楽になりました」 「なら、もう片方も寄越せ」 「はい」 八戒は今度は左足を脱いで片足立ちになり、三蔵の肩に掴まる。殊更ぶっきらぼうな口調の三蔵に、翠の瞳が柔らかく細まる。浴衣越し、手に伝わる三蔵の体温がひどく愛しい。やがて左の足元にも下駄が置かれて足を下ろした。 「三蔵、ありがとうございます」 「さっさと行くぞ」 照れ隠しか早口で踵を返す三蔵を、八戒は呼び止める。 「待って下さい。花火をしながら帰りませんか?」 「提灯の代わりか?」 「えぇ。まぁ時間は短いですけど、ないよりマシかと」 見れば辺りは夕闇となり、枝の影から見える空は日が落ちたのか橙色から紫色へと変わり、宵の明星が輝いている。間もなくこの森も闇へと沈んでいくだろう。 八戒は落ちた花火を拾いあげ、三蔵に渡して微笑んだ。 その花火は、細くて長い針金の先にある綿に火を点けるのだが、音も煙もない静かな花火だった。すっかり暗くなった森の中、火花も散らないその花火は森の静寂を壊す事なく灯りを提供してくれる。2つの色違いの花火が移動していると突然、闇夜を引き裂く乙男の悲鳴が響き渡る。 「ギャ―――――アアァァァッ!!」 そして静かな森を全力疾走で駆け抜ける音が遠ざかっていった。 「……………あの声、悟浄ですね」 「最近のゴキブリは鳴声がうるせぇな」 思わず立ち止まった八戒は後ろを振り返り、三蔵は騒々しさに舌打ちをした。 「どうしたんでしょう?」 「知るか」 「でも普通の声じゃありませんでしたよ?」 「なら、これのせいか」 「どうして判るんですか?三蔵。実は僕を差し置いてデキてるとか」 「んな訳あるか…」 心底嫌そうな顔をした三蔵は、鳥肌を立てて吐き捨てる。しかし悟浄も全身総毛立て、命からがら逃げ出していたとは知る由もない。そんな話をしているとフッと灯りが消えて辺りが暗闇になる。 「あ、終わっちゃいましたね。まだあるんですよ、コレ」 「…………」 八戒が三蔵のライターを借りて、いそいそと取り出した花火に火を点ける。三蔵は点火された花火を押し付け…、もとい渡されても最早何も言う気力はない。 花火の名はひとだまちゃんと鬼火の伝説。火薬類を一切使用していないこの花火は、音煙匂いもなく、闇に揺らめく炎は緑と紫色で、悟浄が本物のひとだまと間違えたのは言うまでも無い。 「さ、もう少しで家ですね。他の花火も楽しみですねぇ」 「………あぁ」 まるで何事もなかったように微笑む八戒は、まさに真夏の夜に相応しい。くわばら、くわばらと心の中で唱えようとした三蔵は、ふと気が付く。八戒がこの花火を点けたのが故意か作為かは判らないが、邪魔者が消えた事には変わらないという事実に。そして三蔵も又、揺らめくひとだまに相応しい表情になる。 2つの揺らめくひとだまは、ぼんやりと人影を浮かび上がらせながらゆらゆらと熱帯夜を泳いでいく。 もしかしたら、悟浄が見たのはそれだけではなかったかも知れないが… 原作設定:旅に出る前の2人 この花火は少しだけ名前を変えて存在します |
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2006/09/19