「おっし!今日はばっちりだぜ」
 先ずは時計で時間を確認し、勢いよくカーテンを開けると窓から注ぐ光に目を細めて悟浄はベッドの上で大きな伸びをした。まばゆい白いシーツに何度か瞬きをしつつ顔に掛かる長い髪を掻き上げて、悟浄はのっそりとベッドから降りる。昨夜はごっそりと気力を奪われたため否応なく早い就寝となっていた。シャワーを浴びながら抜け落ちた記憶を辿って何故早く寝たのか、その理由を考えているうちにハタと思い出す。そうだ、悪い夢を見たのだ。爽やかな朝の清々しい気分はそこで終了し、悟浄はがっくりと首を垂れる。しかし終わった事である。タンクトップとジーンズを身に付けた悟浄は、被ったタオルで濡れ髪をガシガシと拭きながらすぐに気を取り直した。そしてコーヒーメーカーをセットしてから、小さな美人のいる部屋の扉をノックした。
 そっと部屋を覗くと、昨夜悟浄のギャンブラーの沽券をこっぱみじんこにしてくれた美人が天使の寝顔で眠っている。白いベッドにはカーテン越しに柔らかな朝の光が射しこみ、殺風景な部屋の筈がそこだけ夢のように綺麗な世界に見える。
 (この姿からは全っ然想像できねぇよな〜)
 暫し見惚れてから昨夜の悪夢を思い出して悟浄は溜息を吐く。起こすか少しためらったが、結局声を掛ける事にした。
 「オハヨ〜ウ、起きれるかぁ?」
 起きなかったらもう少し寝かせてやろうかと思っていた矢先、長い睫毛が震えてゆっくりと瞼が開く。朝陽を透過して若葉にも似た明るい翠緑の瞳が、ゆっくりと自分の姿を映していくのを悟浄は夢見るように見つめる。そして微かな笑みを浮べた美人は朝陽を浴びて眩しく光る露の気配にも似て、悟浄は儚いものを確かめるように、自分でも知らずに小さな白い額に口付けていた。その行為に翠の瞳は大きく見開いたが、朝の光を一身に取り込んて柔らかく細まり、輝きを増してそれは美しい笑みを見せた。
 (うわ〜百戦錬磨の悟浄サマの名が泣きそう〜。魔性の瞳だな、こりゃ。美人すぎて惑うわ)
 上半身を起こしてベッドから悟浄を見上げる子供は、悟浄の大きなTシャツを着ていて少し寝乱れたように片方の肩が露わになり、白い肌が光を浴びて透明感が増していた。綺麗すぎる子供の前で心の中で軽口を叩いている悟浄ではあるが、実は自分がとった行動に今気付いて驚きのあまり硬直している状態である。もしかして俺ロリだったのか?と新たな自分に対面して正直泣きそうなくらいのショックを受けている悟浄は、額に触れた唇を片手で覆い懺悔の気分で赤い瞳を閉じると、長いストレートの髪がさらりと揺れる。朝陽を浴びて鮮やかな色を放つ赤い色は、昨日食べた林檎の皮のように艶やかで、小さな手が伸びて綺麗な赤色に触れた。思わぬ行為に悟浄は驚いて目を見開き、綺麗なものだけで作られたような子供を見つめる。子供は血のように赤い髪を何でもないように小さな手で触れていて、自分の中に痼っている髪の、いや過去のわだかまりを浄化してしまうような光に満ちた笑みを浮べていた。



 さて今朝も林檎を二切れだけ食べた子供は満足そうな顔をしている。何となく腑に落ちない悟浄ではあるが、無理強いする訳にもいかず、結局残りの林檎とコーヒーを朝食にして子供と共に家を出た。
 顔の広い悟浄が、昼間から綺麗な子供を連れて街に来れば当然目に付く。案の定すぐに黒山の人集りが出来た。
 「やだぁ〜どうしたの悟浄。これからはロリ?」
 「うそぉ〜もう私達と遊んでくれないわけ?」
 「純心目覚めたとか言っちゃうの〜?私の体忘れちゃった〜?」
 「もしかして〜身代金欲しさにさらっちゃったとか〜?この前ボロ負けしてたもんねぇ」
 「あ〜なんだそうなの〜?だったら家に来てよ〜。私尽くしちゃう〜」
 「そうよ、そうよ〜。悟浄のためだったら私がんばっちゃう〜」
 赤い長髪に長身な悟浄が、クラシカルで上等な長袍を着た綺麗な子供を連れていればそれだけでも目立つのだが、更には取り巻きのお姉さん達に囲まれて一種見世物のようになっている。親探しをしているのでそれは大いに構わないのだが、このままでは話が進まないと悟浄は大きな溜息を吐く。それから軽々と子供を肩に乗せるように抱き上げると途端に黄色い歓声が上がり、悟浄はウィンク一つで黙らせた。
 「……あのさ、俺が皆を忘れると思う?」
 「「「「「思わなぁ〜い」」」」」
 あれだけ好き勝手言っていたお姉さん達だが、こういう時だけは声が揃う。綺麗に一纏めにした悟浄は、そこですかさず本題を切り出した。
 「この子、森で拾ったんだけどさ。どー見てもいいとこの子じゃん?どっかで親が探してるとか聞かなかった?ちなみにこの子、これでも男の子よん」
 「うっそ〜ぉ、めちゃくちゃきれぇ〜な子〜」
 「本当、見えないよねぇ。あ、で名前は?」
 「それが喋んないんだよね。ちょっとショックな事があったみたいでサ」
 「あ!ショックなことで思い出した。悟浄は平気だった?何かあなたが住んでる森の中で、盗賊団が惨殺死体で見つかったって」
 「そうそう!盗られたものとか無かった?」
 「おう、家は平気よん。その近くに置き去りにされてたんだよ、この子」
 「それでショックで喋れないのね〜」
 「なっとく〜。こんなにきれいな子だもん、何か分かる〜」
 「そうよねぇ、ちょっと悔しいくらい綺麗だもんこの子」
 「本当、人形みたいに可愛いわよね〜」
 「あっ、待って。この子緑の目よね?どっかで聞いたような…」
 「え、マジ?」
 「うん、でもこう直接聞いたんじゃなくて〜、話してるのをどっかで聞いたような〜、え〜と、ちょっと待ってぇ…」
 ゆるいカールのかかった髪をいじりながら、一人のお姉さんが喉に刺さった小骨のような記憶を辿り始める。露店が並ぶ入り口付近で固まる恐ろしく目立つ団体が、騒いでいたかと思ったら急に静かになったので、行き交う人々もどうしたのかと遠巻きに事の成り行きを見守っている。とまったく違う所から声がした。
 「おや悟浄、どうしたんだいその子は?今まで隠してた子供かい?」
 「ちょっとぉ、オバチャン冗談きついっしょ〜。いや森で拾ったんだよ。で親探してんの。知らねぇかな〜」
 入り口の露店で香辛料を売っていたおかみは、まさか緑の目じゃないよね?と聞いてきた。
 「え!?その通り。この子すげぇ綺麗な緑の目なんだけど、知ってんの?」
 「あぁ、金髪のお坊さんに聞かれたんだよ」
 「あ〜思い出した!いつもの酒家で聞いたのよ。確かぁ、見かけたら天蓬に知らせてくれって言ってたの」
 露店のおかみとお姉さんの二人が同時に答えると、その場にいた全員が顔を見合わせた。




 「て事で行ってみたら天蓬の店閉まってんのよ。そんな訳だから昼メシお願い。結構歩いたから腹減っちゃってさ〜。あ、この子の分も。拾った時からリンゴを少ししか食べないんだわ」
 昼時、夜の仕込みをするために厨房に入ったマスターは、準備中である筈の扉を開けた馴染みの悟浄と見かけぬ小さな客の来店を受けた。馴染み客ゆえ仕方ないという顔をしたマスターだったが、二人がカウンターに座り小さな客を間近に見て片眉を上げる。
 「そりゃ構わんが、いいのかい?天蓬が探してたって事はこの子人形なんじゃないのかい?人形はミルクと砂糖菓子以外はダメだって聞くけど」
 「はぁ?人形〜?だってこの子、男の子だぜ?」
 「まぁ私も見分けられるほど専門家じゃないが、この綺麗な顔や服の感じからしてそうかな、と思ったんだよ」
 「そういや一言もしゃべってないんだけど…。でも恐い目にあったせいとも思えんだよなぁ。けっこうな数の惨殺死体の中で手足を縛られたまんま置き去りにされてたんだぜ、この子」
 「あぁ、聞いたよ。盗賊団が森の中で皆殺しになってたって。その盗賊団に攫われたって訳かい。営利誘拐だったら確かにどっちとも取れるね。じゃあ一つ試してみるかい?」
 「試すって、何を?」
 今まで動かしていた手を止めてマスターが悟浄を見る。そのどこか楽しむような瞳に、悟浄は咥えていた煙草の火口をクイッと上げた。
 「お前さんの昼飯をちょっと待ってもらう事になるが、構わんかね?」
 「ま、しゃーないか」
 マスターは悟浄の問いには答えず、止まっていた手を再び動かし始める。悟浄はカウンターに肘を付いて両腕を組み、煙草を咥える方向を変えたりしながらのんびりと灰にして、マスターの企みを見守る。灰皿に吸殻を押し付けたちょうどその時、子供の前にカップが置かれた。
 「ホットミルクだよ、どうぞ」
 置かれたカップは真っ白い液体に満たされ、そこからほわりと湯気が浮かぶ。それをじっと見つめてから子供は隣に座る悟浄を見上げた。
 「これも好きじゃないか?ほら〜、やっぱ人形じゃないんじゃねぇの?マスター」
 「いやいや、話には聞いてたけどやっぱりそうなんだ。すごいね」
 「なんだよマスター、負け惜しみ?」
 「まぁまぁ、もう一つ試してみようじゃないか。それで飲まなかったら、きっとこの子は人間だよ」
 「何?まだなんかあんの?」
 「そう。だから悟浄、ちょっとこっちに来てくれないか?」
 「は?俺に厨房入れってコト?」
 「そう」
 口元に笑みを浮べたままのマスターに、悟浄は片眉を上げたが結局乗ることにした。厨房に入った悟浄にマスターは小鍋を渡し、一度出したホットミルクを下げる。そして冷たいミルクが入った瓶を悟浄の前に置いた。
 「お前さんが温めてごらん」
 「え?俺が?」
 「そう、沸騰させないように気を付けて。確か人肌くらいの温度だったかな?熱くてもぬるすぎてもダメだよ。さ、早くやったやった」
 「???」
 理由も分からず、悟浄は言われたままに手を動かし始める。焜炉の火を点けて小さな鍋に瓶から冷たいミルクを注ぎ、温めはじめる。真っ白いミルクの表面をじっと見つめて、火を止めるタイミングを見計らっていると、マスターが頷く。そこで悟浄は火を止めて、小鍋からカップへと温めたミルクを注いだ。
 「勿論お前さんのじゃないよ。ほら、その子に出してごらん」
悟浄はほわりと湯気の浮かんだカップを見つめてから、目の前に座る子供を振り返る。湖沼のように透き通った緑の瞳を見つめて、美人の小さなお客サマに芝居じみた丁寧な仕草でカップを置いた。
 「どうぞ、お待たせしました」
 出血大サービスのウィンクまで付けて微笑むと、翠の瞳は悟浄を見つめてからカップを見た。ほわりとした湯気の浮かぶミルクをじっと見つめ、カップに両手を添えて持つと口を付けて飲み始める。そしてコクコクと一気に飲み干し、カップを空にしてカウンターに置いた。その直後、子供はふわりと微笑んだ。今まで何度か見せてくれた微笑みよりもさらに可憐で、眩しいくらい幸せそうで、光の花束を絵にしたような美しさだった。今まで見てきた数多の美女をうまく思い出せずに悟浄は、ただ真っ赤な瞳を丸くして呼吸すら忘れた。茫然自失のまま時間が止まってしまった悟浄の肩が叩かれる。
 「あ?」
 「ほら、追加オーダーじゃないかい?」
 なんとも間抜けた表情で振り返った悟浄にマスターが指摘すると、子供は空のカップを差し出している。悟浄はなんだかマリオネットのような動きでカップを受け取ると、働かない頭でなんとかミルクの入った瓶を手に持った。
 「天蓬から聞いた話じゃ、気に入った人にしか笑いかけたりしないそうだよ。お前さんは気に入られたんだね」
 「何だよソレ?」
 「だから私じゃなく、お前さんが温めたミルクしか飲まなかったんだろうって事だよ。それと人形はミルクや砂糖菓子よりももっと大事なものがあるそうだよ?何だか知ってるかい?」
 「全然」
 「おやおや、天蓬とはよく飲んでるくせに人形の事は何も知らないんだね」
 「そりゃそうでしょ。俺は人形より生身のお姉さんのお相手に忙しかったモン。マスターだって知ってるっしょ?」
 「ハハハ、それもそうだね。でも女性と通じるものかもしれないよ?」
 「マスターこれ以上出し惜しみはカンベンよ?」
 「愛情が一番の栄養なんだそうだよ。この子がこんなに綺麗なのは多分そういう事なんじゃないのかな?天蓬がアフターケアで探しているんなら、この子を探していた金髪のお坊さんのとこに居たんじゃないのかね?」
 「え?!うわっチチチチ」
 マスターとの会話に集中するあまり、目の前で温めていたミルクが沸騰してしまい、慌てた悟浄は火を止めるつもりが熱くなった小鍋に触ってしまっていた。さらに焦って引っ込めた手が小鍋の把手に触れて鍋はひっくり返り、沸騰したミルクは派手な音と煙ともに焜炉を白くしてしまう。
 「おいおい、大丈夫かい?」
 呆れたようにマスターが言いながら、手には既に濡れた布巾を持っている。
 「あぁ、悪ぃマスター。あ!俺が拭くよ」
 「いいから。手が大丈夫ならお前さんはお客さんを頼むよ。何しろご指名なんだからね」
 言われてカウンターに座る、緑の瞳の小さな美人を悟浄は見つめる。
 「んじゃやっぱり、この子人形?」
 「その可能性が高くなったって事だよ。どっちにしろミルクなら子供でも人形でも大丈夫って事だね。後は砂糖菓子かケーキでも平気らしいけど」
 「どっちにしろ天蓬がダメなら金髪の坊主を当たるしかない、か」
 「そうだね。都の外れにある慶雲院っていう東じゃ一番の大きな寺があるだろう。そこに行けば何か分かるかもしれないよ」
 悟浄は三度温めたミルクをカップに注いで、小さな美人の前に置く。そして再び見られる笑顔を心待ちにしているその横で、マスターが悟浄のための炒飯を作り始めた。



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2008/06/12