気配が消えて三蔵は目を覚ました。
傍にあるのが当り前のように馴染んだ気配は、なくなるだけで不安へと変わる。三年間同居していた悟浄もこの事にはひどく敏感で、ヤツも目を覚ましたのが判った。お互い寝たふりをしたまま悟空の鼾だけが高らかに響く。やがて八戒の気配が山小屋から遠ざかっていく。珍しくもヤツはそのままで、俺は痺れを切らして起き上がった。そして背を向けて横たわる悟浄を一瞥したが、結局何も言わずに小屋を出た。

 三蔵の気配が遠ざかり、悟浄は寝返りを打って2人が出て行った扉を見た。
 後少し、三蔵が動かなかったら出て行こうと思った。
けれどここ最近の八戒の様子から、自分ではない方がいいだろうと手を握り締めたのだ。
 「後は頼んだぜ、三蔵サマ」
 悟浄はもう一度寝返りを打つと、再び目を閉じ体力回復に努める事にした。



 外に出ると思ったより明るく、空にはまるい月が掛かっている。
三蔵は煙草を取り出し火を灯すと、溜息のように紫煙を吐き出した。別に危険な気配があるわけではない、八戒も暫らくすれば帰ってくる筈だ。これだけ四六時中一緒にいて、顔を付き合わせていれば、逆に一人になりたい事もあるだろう。悟空を除いた3人は、野宿の時はお互い気配に敏感過ぎて熟睡出来ない。浅い眠りを繰り返し、逆に疲労を蓄積してしまう。今まで一人の時間が長かったせいもあり、三蔵はそう理解して、夜に一人離れる八戒を止めた事はない。けれどそんな八戒を悟浄が連れ戻すたびに、ざわめくような気分にさせられた。今日に限ってヤツが出てこなかったのは、そんな気持ちを見透かされてるようで面白くない。
 「ちっ」
 八戒は悟空と違って声は聞こえない。だがヤツはいつも声の聞こえない八戒を探し出して、連れ帰っているのだ。
 見上げる月は八戒の居場所を教えるように一層輝いたが、三蔵にはどこか笑っているように見えた。
 
 森に入れば一面落ち葉に覆われている。しかしよく見れば木々の間に小道があるのが判る。月明かりに示されるように進むと、湖へと続いていた。ほとりに八戒が座っているのを見つけて思わず溜息が出る。湖面の月を眺める顔はそれ程思い詰めているわけでもなく、微かに笑っているように見える。一瞬近付くのをためらったが、ここまで来れば気付いている筈だと三蔵は歩みを進めた。
 「貴方も月に呼ばれました?」
 「何だそれは?」
 振り向きもせず問われて、そんな訳あるかと思う。俺を外に連れ出したのは間違いなくお前だ。
 だが八戒は溜息交じりでひどく残念そうに呟いた。
 「逢引の最中だったんですけど…」
 「月とか?」
 「えぇ、でも相手の方が上手だったみたいです」
 本音を言いたがらないのはお互い様だ。吐露する時は余程の時で、そうではなかった事に安堵しながら腰を下ろした。短くなった煙草を落として踏み消し、新たな煙草を咥えると、目に入った月は役目を果たしたというように遠くにいた。

 これならば一人にさせても良かったかもしれない。
 そう思いながら灰を落したが、隣に座る八戒の機嫌は悪くない気がする。
 「すみません、やっぱり起こしてしまいました?」
 「役不足だったんだろう。だから俺も呼ばれたんだ」
 月ではない。お前がここにいるから来たのだ。
 そう心の中で呟けば落とした視線の先に水月がいて、思わず目線を外す。 
 「見透かされたみたいですね」
 的を射る一言にドキリとさせられる。だが八戒は笑い飛ばすことなく、珍しく自分から体を寄せてきて、甘えるように肩に頭を乗せてきた。しかしその触れ方はひどく慎重で、まるで真綿にでも触れるような臆病な接し方だった。それが気に入らない。覚えた気配。馴染む体温。他の誰でもない。こいつだけは触れ合っても嫌悪ではなく、安堵の出来る唯一の存在なのだ。あれだけ触れ合ってもまだ判らないのだろうか。だからこちらから手を伸ばし、肩を抱いて引き寄せる。八戒がそれを知るまで。判るまで。何度でも。
 「三蔵?」
 抱き締めれば不思議そうな翠の瞳、判らないお前が悪いと思う。
 「浮気してた罰だな」
 「…え…ちょっと、待って下さい」
 唇で耳から首筋へと触れていけば、八戒は身を竦ませる。腕の中にある存在を両腕で戒めて、確かめるように抱き締める。触れ合う場所から温もりが広がり、安らぐと同時に痛みを伴う熱へと変わっていく。それは八戒と出会ってから初めて知った衝動。それは消える事なく体の内に巣食い、慢性的な飢餓をもたらした。握り締めても零れ落ちていく砂を必死に留めようとする感覚にも似て、腕の中の存在を繋ぎとめる。
 「三蔵」
 名前を呼ばれて顔を上げれば口付けられる。いつの間にか八戒の手も背中に回り、お互い抱き合うような形になっていた。抱き締めあう腕に、自分を見つめる翠の瞳。溢れてくる想いを唇に乗せて右の瞳に口付ける。閉じた瞼がもう一度開く時、灯した熱が孕んだ瞳が一際美しくなる。
 「一緒に月を見てくれないんですね」
 拗ねたように言うくせに、腕は首に絡まり啄むような口付けを繰り返す。
 「それなら、こうすればいいだろう」
 三蔵は両手で腰を抱いて八戒を膝上に乗せると、背後から抱き締めた。そのまま上着のスリットから手を入れ、もう片方の手で釦を外し始める。キスを邪魔された八戒は、咎めるように振り返った。
 「寒いんですけど」
 「いいのか月を見なくても」
 唇の端を吊り上げた三蔵に、八戒は凭れかかる。
 「それなら貴方も見て下さいね」
 そう言って八戒は月よりも綺麗に微笑む。

 追いかけてきたのは月ではない
 呼ばれたのも月ではない

 今、腕の中にある八戒の肌に触れて吐息を奪う。
 熱を育てるためにゆっくりと深く、角度を変えて絡めて、長い口付けを。
 肌の上を指が滑り熱を煽る。
唇が離れてもう一度深く抱き込めば、こげ茶の髪の向こうに月は更に小さくなり、まるでランプのような明かりを落としていた。霞んだ姿は照れて隠れたようにも、これからの行為を見てみぬふりをしているようにも見えた。


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2005/12/16
2006/01/21