木のはぜる音で八戒は目を覚ました。 ぼんやりと見える朱色の明かりは小さく生きているように明滅し、形を変えている。聞こえてくるのは大きな鼾と複数の寝息、そして枯れ木が燃える音。辺りに妖気は感じられない。八戒は毛布の中で寝返りを打つと、再び目を閉じる。が、すぐに溜息と同時に体を起こした。本当なら目を閉じて、眠れないまでも体を休めた方が良いのだが、こういった時は浅い眠りになり、繰り返し夢見て却って疲労してしまうのを経験上知っていたからだ。それならば火の番でもしていようと、八戒は小さくなった火に木の枝をくべた。 深まる夜に小さな炎の明かりは温かく、傍で丸くなって眠るジープも含めて眠る人達を守っている。あまり大きくならないように気をつけながら、八戒は静かに踊る朱色の炎を見つめていた。焚き火の明かりが落ち着いた頃、ふと八戒は何かに呼ばれた気がして顔を上げた。そして気配を殺して立ち上がると、静かに山小屋を出て行った。 外は思ったより明るく、息を吸い込めば目を覚ますような冷たい空気が体の中に入ってくる。吐き出す息はおぼろげに青い闇へと消えていく。見上げれば黒々とした夜空に円い月がぽかりと浮かんでいた。 「成る程、僕を呼んだのは貴方ですか」 夜空を見上げた八戒に、月は誘うように明かりを落とす。 「起きている者同志、良いかもしれませんね」 八戒は月影の中を歩き出した。 月の雫に濡れた枯葉の上を、八戒は誘われるままに影の木立を抜けていく。と急に目の前が開けて、光りが変わった。目の前には湖が広がり、夜の鏡には澄んだ月が待っていた。湖面には細波一つなく、空の姿を映している。 「ここなら確かに近くなりますね」 八戒は近くにあった倒木に腰を下ろすと、魅入るように水月を眺めた。 どの位そうしていただろう。 煙草の匂いと覚えのある気配が近付いてきて、八戒は振り向かず口元を緩める。 「貴方も月に呼ばれました?」 「何だそれは?」 「逢引の最中だったんですけど…」 「月とか?」 「えぇ、でも相手の方が上手だったみたいです」 くすくすと笑う八戒の隣に三蔵も座った。 珍しいな、と八戒は月を見上げる三蔵を眺めた。こういった時は悟浄が来る事が多く、三蔵は起きていても見逃して、一人にさせてくれる事が多い。なのに今日はこうして探しに来てくれた。 「すみません、やっぱり起こしてしまいました?」 「役不足だったんだろう。だから俺も呼ばれたんだ」 今度は湖面の月を眺めながら三蔵が呟いたので、八戒は今度こそ翠の目を丸くした。すると三蔵が表情を隠すように顔を背けたので、八戒は笑みを零す。 「見透かされたみたいですね」 そう言って八戒は体を寄せると、珍しく自分から甘えるように三蔵の肩に頭を乗せて月を見た。見上げた月は先程よりも小さくなって、遠くにいる。替わりに今は三蔵が近くにいて、温もりが伝わり自分が冷え切っていた事を教えてくれた。 俯いた先にある炎は赤い。赤は過去に繋がり血を思い起こさせる。 カフスを外せば戒めのような蔦模様の痣が体中に這い回る。 人間と妖怪。最高僧と大量殺戮者。旅の行方。いつまで持つか知れない自我。 揺らめく炎を見つめていると、普段は喧騒に紛れてしまっている不安が膨れ上がってくる。 考えても仕方のない事だと思ってはみても、どうしようもなくて溜息で重さを減らしていた時だった。小屋の外から届く明かりに気付いたのは。留まる気持ちを少しでも変えたくて、誘われるように夜へと歩き出してみた。夜気は冷たく澄んでいて、思いっきり吸い込めば、淀んだ気持ちを少しでも洗い流そうとしてくれた。 見上げればそこにあるのは月。闇を照らし影を伴い、静かに光りを放つ姿は美しく、三蔵を彷彿させた。すぐ傍にいるようで手には届かず、光を放って道がある事を教えてくれる。けれどそこを歩いて行くのは自分自身の足なのだ。分かれ道や遮るものがあったとしても、自分で選び乗り越えて行かねばならない。 「何だかよく似てますね」 八戒は月と一緒に夜道を歩いていくと、辿り着いた湖で月は待ってくれていた。空から地上に降りてきてはくれたものの、やはり触れる事は出来ない。けれど近くにあって、まるで旅を始めた頃のようだな、と八戒は思った。毎日一緒にいて、やがてそれが日常になっていった。今ここで月に触れれば掬う事は出来なくても水の温度と感触が判るように、今はそんな距離でいる。筈だとは思っても…… 八戒は湖上の月を再び見上げた。 彼女と一緒にいた時とは違う不安がこうして押し寄せてくる。 「多くを望んでいる、という事でしょうか…」 八戒の呟きを月は黙って聞いている。 永遠だと思っていた花喃との時間にも終わりがきて、一人残されてもこうして生きて、今は三蔵へと想いを馳せている。彼は自分だけの人ではない、頭では判っていても花喃とは違う距離感と環境に、戸惑い不安になり焦燥する事もある。しかしそれ以上に恐れているのは、その先にあるだろう喪失。どんな形であれ、永遠が存在しない以上必ず訪れるだろう、その恐怖。 「また落ち込みそうですね」 再びの八戒の呟きに、月は長い雲を棚引かせる。それはまるで腕を伸ばして指し示している仕草に似ていた。すると流れてくるマルボロの匂いと馴染んだ気配が近付いてくる。それだけで自分の気持ちが軽くなったのが判る。結局は彼と2人だけの時間が欲しかったのか、そう思うとおかしくなって笑みが零れてしまう。月を見上げれば微笑むように輝いていた。そんな月を三蔵と2人で眺めるのが嬉しくて、自分から触れてみた。月ではない三蔵は思った以上に温かく、それだけで胸が一杯になり溢れてしまいそうで、瞼を閉じる。 満ちていたのは月だけではなくて 夜空からは星が零れ落ちる |
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