いつもの嗅ぎ慣れた匂いに、八戒はゆっくりと目を開ける
 
 「起きたか」
 「……おはようございます」
 何度か瞬きをしてから上体を起こす。いつもならハンドルに凭れるようにして眠っている筈だが、今は何故かシートが倒され横になっていた。振り返ると後部座席には誰もいない。しかし三蔵はいつものように助手席に座り、煙草を吹かしている。超絶低血圧の三蔵が自分よりも早く起きて、しかも目がくっついてないなんて珍しいな、と思いながら纏っていた毛布を畳む。軽く伸びをして見上げると、青空が広がっている。
 「今日も良い天気になりそうですね」
 「そうだな」
 「さてと、先ずは顔を洗って食事の支度をしましょうか」
 「もう終わった」
 「は?」
 八戒が目を点にすると、悟空の声が聞こえてきた。
 「八戒起きた?八戒の分の缶詰ちゃんと取ってあるかんな!でもご飯はちゃんと焚いたんだぜ、水が多くてお粥みたいになっちゃったけど、食うよな?あっため直すからちょっと待ってて!」
 そう言って駆け足で来た悟空は、又飛ぶようにして行ってしまった。離れた場所に赤い髪も見えて、どうやらそこで竈を作り火を起こしてご飯を炊いたようだ。声もなく見送った八戒は、もう一度空を見上げて日の位置を見て、結構高い所にあるのを確認した。
 「……すみません、寝過ごしちゃいましたね」
 「で、飯は食うのか?」
 「勿論食べますよ。でもどうして起こしてくれなかったんですか?」
 「猿や河童がどれだけ騒ごうが、お前が頑固に起きなかったんだ。起きるのを待つしかねぇだろ」
 そう言って三蔵は短くなった煙草を捨てた。後部座席を見ると新聞が放ってある、という事はかなり長い時間三蔵は待っていてくれたようだ。かなり頭がはっきりしてきた八戒は、ふと思い出した。
 「江流」
 「!!」
 ジープから降りようとドアに手を掛けた三蔵の体が、大きく揺れて硬直した。たれ目が予想以上に大きく見開き自分を見つめるのを、八戒はにっこりと微笑み返す。
 「……どこで聞いた?」
 「夢の中で、月の化身のような人に」
 「珍しくよく眠ってると思ったら……、そういう事か」
 「信じるんですか?」
 「カフスの符呪を見れば分かる。そこらの輩に出来る事じゃねぇ」
 「貴方はこのやり方を知らないから怒らないで下さい、と言われました」
 「ちっ」
 降りようとしていた三蔵は結局助手席に座り直し、又袂から煙草を取り出して咥える。そして紫煙を一つ吐き出してから、正面を見据えたまま不機嫌そうに口を開いた。
 「他に何か言ってたか?」
 「そうですねぇ、貴方の事を色々と…」
 「オイ!」
 「とても優しい方でした。月と貴方の事を肴に二人でずっと酒を酌み交わしてたんです。良い夜でした」
 「人をだしにしやがって」
 面白くなさそうに愚痴った三蔵は再び煙草を口に付ける。それから黙って煙草を吸い、紫煙を吐き出す動作を何度か繰り返した。八戒もその沈黙を破ることなく、辺りに嗅ぎ慣れた匂いが広まっていくのを任せている。そして右耳に嵌めたカフスにそっと触れてみた。今自分では見えないが、確かに強まっていた力が制御されて自分の中に治まっているのを感じる。遠くで悟空と悟浄が言い争っている声が、風に流れて聞こえてきた。
 「楽しかったか」
 「はい」
 「ならいい」
 夢の楽しい一時を思い出して八戒がふわりと微笑むと、三蔵の手が添えられた。指が目の縁をすいと撫で、それから右の瞼に口付けが下りてきた。もしかしたら寝ながら泣いていたのかもしれない、と思い付いたが結局八戒は何も言わなかった。そして三蔵も、何故自分を誘わなかったと言わなかった。視線を絡ませお互いの瞳を見詰め合っていると、悟空の声が大きく聞こえてきた。
 「……行くぞ。猿が喚いてかなわんからな」
 「はい」
 今度こそ三蔵はジープから降り、八戒も後に続く。すると即座にジープが車から竜の姿に変化した。
 「きゅ!」
 「おはようございます、ジープ。あなたもお待たせしちゃいましたね、ご飯まだでしょう?」
 肩に止まり頬に頭を摺り寄せてくるジープの背中を撫でてやりながらその場に残った荷物を持つ。畳んだ新聞を袋に入れる折、ふと思い付いて中の物を漁ってみた。
 「どうした?」
 「いえ、何でも」
 「酒なら残ってねぇだろうな」
 「今度はもっと大きな酒壷を用意します、て言っときましたよ」
 「お前と師匠じゃ樽だろうな」
 光明の話をしながら二人は悟空と悟浄の待つ場所へと歩き、待ちきれないようにジープが先を飛んでいく。途中大きな銀木犀の木の下を通ると、やはり甘い香りに包まれて昨夜の余韻に八戒はやわらかく微笑む。
 
 八戒が荷物の中に見たのは、盃に付いた銀木犀の花と、確かに空になっていた酒壷だった。


end.
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2007/10/30