夜になるとその匂いは増した
 
 昼は静かに放たれていたその香りは、夜になると一段と匂い立つ。その甘い香りに包まれて三蔵一行はジープの上で眠っている。しかし八戒だけはその匂いに誘われジープを離れ、今は大きな木の下にいる。
 「金木犀より控え目だと思ってましたけど、そうでもないですね」
 大きな木はシャープな緑の葉に小さな白い星屑のような花が零れるように咲いている。日が落ちた今はその姿は見えづらいが、替わりに銀色の大きな円い月が昇り、全てのものに月色を投げかけ辺りは真夜中の青に沈んでいる。酔わせるように漂う甘い香りに鮮やかな天満月。静かな夢心地に浸りながら銀木犀に凭れて白銀の月を眺めていると、声が降ってきた。
 「今晩は、良い月ですね」
 聞き慣れない声に八戒が驚いて振り向くと、いつの間にか人がいた。人の気配に気付かず背後を取られた事にも驚いたがそれ以上に、見慣れた白い姿に八戒は瞳を大きくしたまま動けなくなった。その人は長い髪を三つ編にして後ろに垂れ、白い法衣を着て、似た姿をした神様と名乗った男には無かった経文を双肩に掛けていたのだ。
 声もなく立ち尽くしている八戒に微笑んだその男は、長い溜息を吐きながら夜空を仰ぐ。
 「お団子か月餅か、せめてお酒があれば良かったですね」
 「お団子と月餅は無いですけど、お酒ならありますよ」
 「それは、嬉しいですね」
 今まで月を眺めていたその男は、八戒を振り向くとにっこり微笑む。その額にチャクラを認めて八戒の瞳は再び丸くなった。


 (本物でしょうか?)
 八戒はジープに戻り荷物を漁りながら考える。彼の言に従っているのは正体を確かめたいという好奇心が大多数だが、相手の出方を見るのに都合が良いという計算と、実は自分も同じ事を考えていたからだった。
 (う〜ん、この人も聡いとこあるんですけどねぇ)
 そう思いながら八戒は、助手席で毛布に包まって寝ている三蔵を見つめる。たぬき寝入りはお互い分かってしまうのだが、これは本当に眠っているようだ。それは後部座席の悟浄も同じである。いつもなら荷物を漁る気配で二人とも起きてしまいそうなものだが、今は身じろぎ一つしない。確かに今日は戦闘があったがそれは午前の事だったし、取り分け数が多いという程でもなかった筈だ。
 (珍しい事もあるもんですね)
 険しい山越えや自分の荒い運転など歯牙にもかけない八戒は、酒壷と盃を持って三つ編の三蔵法師の下へと戻った。



 酒壷からとくとくと盃に注がれると、銀木犀の香りの中に酒の芳香がふわりと混じる。良夜に乾杯と言って二人は盃を傾けた。
 「そう言えば般若湯、と言うのを忘れてました」
 「……今更、隠語を使っても遅いと思いますけど」
 「あぁ、それもそうですね。にしてもこのお酒とても美味しいですね。新酒ではなく香りの低い古酒ですか?深い旨味があって、その上にとろりとした独特の甘さがありますね。そうそう、この銀木犀の香りに良く合っていて嬉しいです」
 「正確な年数ははっきりしないそうですが、少なくとも20年は経ってるそうです」
 「それはそれは、まるで今宵のためのような酒ですね。良かったんですか?」
 「えぇ、僕も飲みたい気分でしたし、お酒はこれしかありませんでしたから。つまみがないのが残念なんですが」
 「肴なら、ほら、あそこにあるじゃありませんか」
 そう言って三つ編の三蔵法師が顔を上げたのに釣られて、八戒も夜空を見上げる。そこには銀に輝く望の月。傍らに座るその人は、たおやかな笑みを浮べて杯を仰ぐ。八戒が空いた盃に古酒を注げば、円い月が酒に浮かんだ。
 眠れない事は八戒にとって日常である。日々戦闘の中に身を置いている上では、逆に護身に役立っている所もある。気配や敵意に敏感になっている自分が、初対面の三蔵法師と思しき人と酒を酌み交わしている現状に、八戒は自分を不思議に思う。一緒に月見酒をしましょうと酒を無心されて、素直に応じてしまっている。恐らく自分が警戒していると分かっている筈だが、そんな自分が用意した酒を美味しそうに飲んでいる。
 (まぁ確かに美味しいお酒でしたけど…)
 これを古酒だと分かるくらいに酒を知っている。という事は普段から酒を飲みつけている訳で、そういったところは自分の知る三蔵と同じである。ただ、彼と持っている雰囲気は大分違う。見た目も手伝っているとは思うが彼は苛烈な面が強く外に出ているが、今目の前にいる人は年齢が上のせいもあってか柔和な雰囲気を持っている。一見風に流れる柳のように柔軟だが、中々折れない強さも持っているのを、何気ない仕草や態度に感じる。警戒心を抱く自分に対して、問題視していない態度は余程自分に自信があるのか、それとも度胸が据わっているのか。
 「私の顔に何か付いてます?綺麗な人に見つめられると、ときめきますね」
 咎めるでもなく、笑みを崩さず言われて八戒も我に返る。言われるくらい長い時間見ていたと知って一度視線を泳がせたが、もう一度見つめて言ってみた。
 「そうですね。そのチャクラが…」
 「あぁ、これですか。珍しいですか?」
 「いえ、僕の知り合いにも付いてます」
 「そうですか。元気にしてます?」
 「……ご存知、なんですか?」
 「えぇ、とてもよく知ってますよ」
 途端に警戒心を漲らせた八戒を、三つ編の三蔵法師は嬉しそうに見つめて優しく微笑む。まったく無警戒な表情や態度に八戒が逆に戸惑っていると、空になっていた八戒の盃に三蔵法師は酒を注いだ。
 「飲みませんか?」
 結局八戒は殺気を収めるとその酒を受けた。まだ完全に警戒を解いていないものの、無言で酒を飲んだ八戒に三つ編の三蔵法師は微笑み自分の酒を飲む。言葉が消えると辺りには虫の声が響く。
 「本当にいい月夜ですね。お酒も美味しいですし、酌み交わす相手もいますし。貴方には美味しいお酒を用意していただきましたから、私は肴を提供しましょう。今度あの子に江流と言って御覧なさい。きっとあのたれ目が丸くなりますよ」
 「江流、ですか」
 「ええ、あの子の幼名です。私が付けました」
 八戒が目を丸くするのを楽しそうに眺めて、その人は月を仰ぎ見る。
 「あの子は小さい時から口が足らなくて、言い訳もしない子でしたからね。自分の事もあまり言わないでしょう?」
 「……あの、名前を伺ってもいいですか?」
 今までにこやかに垂れていた細目が見開いたのを見つめて、今度は八戒がにっこりと微笑む。
 「これはしたり、でしたね。私の名は光明といいます。初めまして、八戒さん」
 今更自己紹介された事よりも、自分の名を知っていた事にやはりと思う。
 「…僕の名もご存知なんですね」
 「ええ、だってあの子が付けたんでしょう?戒めの名を」
 その言葉に八戒の瞳が伏せられ笑みが消えたのを、光明は静かに見守る。
 「貴方の声を聞いたんでしょう、生きたいという。貴方に生きて欲しかったんですよ。あの子は滅多に読経しないですから」
 「戒めの名を与えてくれましたけど、禁戒を言われた事もないんです」
 「生きることは枷ではありませんか?少なくとも貴方はそう考えているのではありませんか?」
 「……………」
 八戒は顔を上げて光明を真っ直ぐ見つめる。微笑むような細目から真摯な眼差しと見透かすような視線を受けて、結局何も言わずにもう一度目を伏せた。
 「実はこうして月見をお誘いしたのには訳があるんです。貴方の憂いを一つだけ、取り除いて差し上げようと思いましてね」
 お節介かもしれませんが、と続ける光明に八戒は意図が分からず首を傾げる。
 「妖力が強まっているのが不安なのでしょう?最初は呪文を使ってましたけど、最近はそれをしなくても気が操れるようになってますよね。妖力制御装置をしているにも拘らず召喚魔の力とも対等になって、妖力が増して押さえきれないのではないか、と不安なのでしょう」
 眠れないのは不安があるからで、今最も気にしていた原因を言い当てられて八戒は二の句が継げない。自我がなくなる日が近いのではないか、と考えていたのだ。
 「そのまま動かないで下さい。私でもこれくらいは出来ますから」
 そう言って光明は八戒と対面に座ると、目を閉じて印を結び呪を唱え始めた。
 光明が座禅する姿を八戒は黙って見つめる。その姿は自分の知る三蔵と重なり、同じ様に唱える姿を思い出す。魔界天浄ではなく、何故か初めて出会った姿が思い浮かんだ。夜明けに読経を唱える三蔵と夜に呪を唱える三蔵は、声も姿も違うのに、根底にある揺るがない芯の強さを双方に感じて心が震える。
 (あぁ、そうか。どちらも自分のためにしてくれているから……)
 自分を包むように、内に沁みるように、淀みない静かな声が響く。やがて吽という強い語調で呪が終わると、八戒の気がすっと治まる。勿論消えた訳ではないが、妖力制御装置で押さえきれていなかった分が以前と同じ様に制御された。八戒がそれを実感して瞬きをすると、光明が優しく笑った。
 「その妖力制御装置に呪をかけました。これで制御する力が増幅された筈ですけど、どうですか?」
 「ええ、確かに。でもこのカフスを嵌めたままでも気は使えますよね?」
 「勿論です。妖力だけを封じましたから、大丈夫な筈です。確かめてみて下さい」
 言われて八戒は手の平を握ったり開いたりした後、気を集中してみる。すると手の平に気が溜りほんのりと明るくなり、今までと同じように扱える事を確認した。ぼんやりとした気の明りはしかしそれ程大きく膨らまず、やがてふわりと消える。辺りはまた月の光が支配する青い闇へと戻り、虫の声が戻ってきた。
 「ありがとうございました」
 そう言って八戒が頭を下げるのを、光明はただ優しく微笑み盃を掲げてみせた。
 「いいえ、美味しいお酒のお礼ですから。そうそう、あの子を責めないであげて下さいね。あの子はこの呪を知らないんです。何しろ史上最年少で三蔵になったものですから、まだ色々と学んでいる最中なんです。まぁ、これは一生とも言えますが…」
 「え、彼は幾つで三蔵になったんですか?」
 「十歳の時ですね」
 「そんなに小さくてもなれるものなんですか?」
 「えぇ、あの子はその資質を十分に持っていました。なにしろ私は十年間、あの子をずっと見続けてきましたから」
 「…………」
 訊ねた事はなかったが、自分が想像していたよりも長い三蔵の経歴に、八戒は軽い衝撃を受ける。ふと、使い込まれた銃が思い出された。
 (成程、銃が必要な訳ですね)
 資質は十分でも体は小さな子供が、経文を守るには必須なものだ。しかし今の会話を総合すると、どうやら光明は生まれた時から三蔵の事を知っているらしい事になる。だとすれば…
 「貴方が無一物を三蔵に?」
 「えぇ、あの子が貴方に説いたんですか?」
 「はい、僕が過去の災禍に遭った頃に」
 「それは…、随分とあの子に気に入られてますね」
 「は?」
 「あの子は情が深いから大変でしょう」
 「えっと……」
 まったく予想外の展開に八戒はしどろもどろになってしまう。三蔵との関係まで見透かされている気がして、動揺から珍しくも言葉が出てこない。そんな八戒を楽しげに眺めていた光明だが、子供を見守るような穏やかな声で言った。
 「あの子を慕ってくれているんですね。でも貴方の事も大事に思ってますよ」
 「僕は、…あの人に恩のある身ですから」
 「貴方の存在もあの子の助けになってますよ。殺し文句を言われてたでしょう?」
 「それは…」
 「あの子が三蔵法師になってから、自分を曝け出せるのは限られています。信頼出来る相手もまた然りです」
 「でも、それは僕だけではありませんし…」
 「確かに貴方だけではありませんけど、聖だけではなく、魔も一緒に受け入れられるのは貴方だけでしょうね。闇を体現した貴方だから直視出来るのです。聖と魔を合わせ持つ者、それが第三十一代東亜玄奘三蔵法師ですから」
 「僕は、今でも自分は闇にいると思っています」
 「……確かに現状も闇と言えるかもしれませね。でも明けない夜などない、と私は思っています。それに本当の暗闇ならば何も見えないのではありませんか?少なくとも貴方はその目に捉えているものがある筈です」
 やはり三蔵法師だな、と思いながら八戒はモノクルの上から見えない右眼を覆った。消えない過去を見るために、この義眼を入れる事を承諾した。それにより生を受け入れ、生きるために左眼がものを見始めたのだ。だからこそ現在がある。
 「ふふ、その右眼。あの子の執着の証ですね」
 「この目がですか?」
 「ええ、その義眼あの子が用意したものでしょう?禁厭がしてあります。貴方を災いから守るために」
 「この目に呪が…」
 「勿論全ての厄災を防ぐのは無理でしょうけど、あの子の気持ちを感じますよ」
 ああそうだ、と八戒は目を閉じた。
 花喃を目の前で失って、全てに絶望して自暴自棄に右眼を抉り出した時、あの人の声が聞こえた。変わるものもあると言われ、その後百眼魔王の城が更地になったのを見た。いっそ左眼も抉ってしまえば見る事もなかっただろう、何もない風景がそこにはあった。まるでそこには最初から何も存在せず、全てが夢だったように本当に何もなかった。現実感を失い自分の無力さに膝を付いた時、あの人の読経する声が自分を貫いた。以来監督官と罪人という立場でありながら、違う関係を築いてきた。清一色という過去と向き合った時も、無一物を説いてくれた。自分は確かに知っている。抱えた罪に嘖まれた時も傍にいてくれた。時には厳しい言葉で、又時にはずるいくらい優しく死ぬ事を許してくれないあの人を。もう二度と味わう事もないと思っていた、心安らぐ時や、触れ合えば熱くもなる優しい温もりも、あの人が与えてくれた。目を閉じても浮かんでくる姿に、溢れてくる苦しい程の想いを八戒は言葉に出来ず俯く。
 静かな沈黙を虫達の声が賑わしていると、困ったような声がした。
 「あの子に怒られてしまいますね」
 静穏な口調に八戒は顔を上げて光明を見たが、視界がぼやけてはっきりしない。何故だろうと思っていると、すいと頬を撫でられた。そう言えば頬が熱いな、と自分でも触れてみると指先が濡れていた。自分が泣いているのだと分かって不思議な気持ちで濡れた手の平を見つめる。自分が覚えている限り泣いた事などなかった。人間の時も、妖怪になってからも。花喃が死んだ時でさえ涙は出なかった。花喃に出会って笑顔を覚えたが、自分はそういったものが欠如しているのだと思っていた。なのに今、どうしてか涙は止めどなく流れている。
 「恥ずかしい事はありませんよ、涙には浄化作用もあるんです。感情を外に出してあげるのは大切な事です。自身で自分の気持ちの有り様を確認出来ますから」
 光明が微笑んだのが気配でわかる。沁みる声と見守るような優しい気配に安心すると、高まっていた気持ちが徐々に静まり、同時に涙も収まってくる。違った印象だと思っていたが、こんな所は良く似ていると八戒はもう一人の三蔵を思い出した。
 (流石はお師匠様、と言うべきなんでしょうか)
 冷静さを取り戻すために一つ大きな息を吐くと、涙は完全に止まってくれた。その事に安堵すると急に八戒は羞恥にかられ、ポケットからハンカチを取り出し濡れた頬を拭う。ひと落ち着きした八戒を待って光明は、再び酒壷を持った。
 「さぁ、飲みましょうか。きっと違った味わいになりますよ」
 さり気ない態度を有り難く思いながらも、顔を見られるのが恥ずかしく、八戒は俯き加減で神妙に盃を差し出す。注がれた酒は光明の言った通り、まったく違う味になっていた。元々美味い酒ではあったが、香りは一段と高くコクもより深く濃厚に感じて、八戒は豚の角煮を作りたくなった。 
 (でも、肴は十分ですよね)
 三蔵の話を肴に三蔵と観月の宴をしているのだから、と八戒は元に戻った視力で円い月を見上げる。涙の重さが減った分だけ軽くなった体に古酒が染みる。甘い銀木犀の香りもより一層強く感じて、ひどく気分がいい。酔っているのかもしれないな、と八戒は浮き立つ心で又酒を飲んだ。
 「どうですか?」
 「同じお酒とは思えないです。酒壷の中だけ時間が経って、更に寝かせたような深い味わいになってます」
 とても美味しいですと言って微笑んだ八戒の表情に、光明も目尻を下げて嬉しそうに返す。
 「それは、良かったですねぇ。あ、見て下さい。星が落ちてきたみたいです。願い事をしてみてはどうですか?」
 そう言って光明は盃に落ちた銀木犀の白い小さな花を見せる。酒に浮かぶ小さな星屑は、本当に夜空から落ちてきたようだ。
 「僕の盃ではありませんから、光明さんがどうぞ」
 「私ですか、そうですねぇ……」
 そう言って光明が月を見上げると、八戒の盃にも花が落ちる。八戒の盃には三つの星屑が浮かび、ゆらゆらと泳いだ。
 「あ、僕の盃にも星が落ちてきました」
 「それは良かった。丁度いいから二人で願い事をしましょう。望の月なんですから、きっと叶いますよ」
 二人は煌々と輝く銀の月を仰ぐ。何度も目にしている、特別目新しいものでもない月。けれど夜空にあるだけで闇に明りを照らし、日々形を変化させ、本当は同じ表情は二つとないのかもしれない。

 一人で見る月
 二人で見る月
 四人で見る月
 それだけで随分と違って見える

 八戒は光明三蔵法師を見つめる。まるでこの月と、銀木犀の香りが連れてきてくれたようだ。眠れない夜がこんなにも楽しい。目には月を、鼻には銀木犀を、耳には虫の声を、舌には酒を、心には三蔵法師を味わって、八戒は心地好い時に浸る。そして月と星とが咲く盃の酒を、願いをかけて飲み干した。



 「おや、もう終わりですか。秋の夜は長いといいますけど、楽しい時間というのは本当に経つのが早いですね」
 「そうですね。今度はもっと大きな酒壷を用意しますね」
 「楽しみにしてます。美味しいお酒をご馳走様でした」
 もう振っても出てこないほど酒壷を空にして、光明が盃を置いて立ち上がる。八戒も又立ち上がりながら、改めて光明を見つめた。
 「会って、いかれないんですか?」
 「貴方を泣かせたと知れたら、あの子に怒られてしまいますから」
 八戒の言葉に光明が悪戯っぽく微笑むと、ひやりとした夜風が通った。長い三つ編と肩に掛かった経文と白い着物がなびいて、新たな銀木犀の香りが下りてくる。強く香る芳香の中で行ってしまうんだな、と八戒は寂寥感の中で思う。飲んでいた盃の中に月と星のような花は映ったが、この人の姿は一度も映らなかった。それを知りながら、八戒は少しでもこの時間を引き延ばしたくて黙っていた。今もこの人には月影がないのだが、それを驚きもせず見逃す。月はもう西へと沈みかけていて、もう暫らくすれば空は闇色から紫へと変わりやがて日が昇ってくる。自分の知る三蔵の瞳の色は、この夜明けの色とよく似ていると旅に出てから気付いた。見送る八戒に光明は穏やかな表情を浮べている。やがて静かな声がした。
 「あの子の傍にいてくれて、ありがとう」
 また夜風が吹いて更に香りが強くなる。八戒は惑うような目眩を感じ足元が浮遊して、立っているのか座っているのかも分からなくなっていた。虫の声も一際高鳴り耳を揺るがす。意識が遠のく中で八戒が最後に覚えていたのは、光明の静かで穏やかな笑みだった。



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2007/10/30