――― 気に入らねーな ――― 執務室で筆を動かしていた三蔵は、眉間に深い皺を刻み手を止めた。 ここ最近1つの事を中心に物事が進んでいる 仕事も、気持ちも すぐに筆を取リ直す気も起きず、三蔵は袂からマルボロを取り出すと、慣れた手つきで端を叩いて一本頭を出した煙草を口に咥えた。火を灯すその勢いで煙草を吸うと先ずは一服、そのまま紫煙を吐き出した。立ち上がって窓際へと歩を進めると、見るつもりのない庭へと視線を向ける。 やはり目には入らず、頭に浮かんでいるのはまったく別の事だった。 悟能を慶雲院に連れ帰り、最初にしたのは傷の手当てだった。 最初は大丈夫だと言って手当てを拒もうとした悟能を、血の付いたままの服を着続けるつもりかと指摘すると、小坊主が着替えを置いた。仕方ないといった風情で悟能が上着とシャツを脱ぐと、その顔にはまったく不似合いな裂傷が腹部を大きく横断し、開きかけた傷口からは血が滲んでいた。控えていた小坊主が息を飲んだのが判る。 俺としてはこんな状態で、平気な顔をして一緒にここまで歩いてきた事に対して舌打ちしたい気分になった。捕らえる前に聞いた悟能の情報を思い起こせば、一ヶ月前に悟浄に拾われ、今まで家に居た事を考え合わせれば、死にかけた傷である事は間違いないだろう。その時特徴として挙げられていた緑の瞳は、今は伏せられている。それを覆い隠すように長い前髪がかかり、俯き加減で少し横を向いているため表情は窺えない。替わりに首筋から肩のラインが目立ち痩身が際立っているが、支えてやらねばならない脆弱さはまったく無い。逆に安易に触れれば切られるようなしなやかな筋肉が付いており、無意識か拒否のためか、片手は傷を覆うように広げられている。 無言の気迫に押されて、手当てする事を忘れた小坊主は、目を見開いたまま傷を凝視し固まっていた。 「ごめん、な」 その重い沈黙を破ったのは悟空の声だった。 「そんな傷があるなんて知らなかったから、俺思いっきりけっちゃって…」 項垂れ肩を落した悟空は、語尾を小さくして呟く。その声に悟能は漸く顔を上げた。 「違います。これはあの後僕が走ったからいけないんです。だから貴方のせいじゃないですよ」 「ん、でも痛かったよな」 顔を上げた悟空と視線が合い、ひどく驚いた様子で悟能は目を瞠った。 「あ…いえ。大丈夫ですよ」 先ほどまであった頑なに拒むような気配を消して、悟能が微笑む。それは悟空を安心させるためのものだとは判ったが、まるで陽炎のような笑みだった。 「……おい」 これ以上このままにして置きたくなくて、完全に置物と化していた小坊主を正気づかせる。と我に返った小坊主は慌てて手元にあった薬箱に手を伸ばし、油紙に膏薬を塗るとそれを貼るために恐る恐る悟能に触れた。 その時、僅かに揺れたのは悟能の方だった。 油紙が貼られて包帯が巻かれると、次は頭に巻いた布が解かれる。応急処置で当てられていた布が落ちて、抉り出された眼球のため落ち込んだ瞼が現れる。小坊主の手が再び止まったが、今度はすぐに気を取り直して周囲にこびり付いた血と汚れを拭い、(目は施しようがなかったためそのままにされた)再び布が当てられ包帯を巻く。 その間悟能は目を閉じたまま動かず、大人しく手当てを受けていた。小坊主の手が離れると、小さくすみませんと言って頭を下げる。 作業を終えた小坊主の視線を感じて下がるよう命じると、あからさまにほっとしてそそくさと部屋を辞していった。 「おい、終わったぞ」 「あ、そうですね」 ぼんやりとしていた悟能は、声を掛けると思い出したように脇に置かれた着替えを手に取り、長袖の白いシャツを着始めた。緩やかな動きでシャツを着る悟能を見ていて、俺は気付いた事に目を眇める。 この傷の状態で服を着るという動作をしても、悟能はまったくその表情を変える事をしなかったのだ。やせ我慢とは違う、まるで他人事のように、一瞬でも動きを止めたり息を飲む仕草も見せずに悟能はシャツを着終えた。 表面上柔らかな笑みを張り付かせても、中身は自分自身の手で目を抉り出した時と変わらないと気付かされる。 痛みがないわけではない ただ痛覚が違う処にあるのだ まだ ――― 眇めた瞳を更に細めた時、部屋の扉がノックされた。 「三蔵様、罪人の治療を終えたと伺いましたので」 顔を出した律師の手に手鎖があったのを見て、機嫌の悪さに拍車がかかり、より深い皺を眉間に刻み睨みつける。 「必要ない」 「……ですが」 怯えながらも言い募ろうとする律師の顔に、不安と恐れが如実に表れる。 「俺が連れて行く」 一瞬息を飲んだ律師は諦めたように小さな溜息を吐きだした。そして手鎖を持ったまま少し後ろに下がる。 「判りました。では案内致します」 「おい、行くぞ」 振り返れば、呆気に取られた悟能と目が合う。 「……はい」 口元に笑みを湛えて首肯した悟能が立ち上がる。一緒に付いてこようとした悟空にここで待つよう言い渡すと、律師を前にして部屋を後にした。 寺院の回廊を歩けば、好奇の目と卑下した視線が陰から悟能に注がれる。後ろを歩こうとした悟能の隣に、俺は並んで歩いた。 俺より僅かに背が高い。少し俯き加減で片目を覆われた悟能の表情は判りづらいが、黙して歩く姿に、無視したり甘受したりしているのではなく、視線の存在すら気付いてないのかもしれないと思えた。 暫く歩くと回廊も途切れ、寺院の北側にある錠の付いた部屋が並ぶ居房へと足を踏み入れた。その一番奥まった扉の前で律師の足が止まる。 「中へ」 扉を開き促すように律師が振り返ると、悟能が部屋へと入る。後を追って俺も中へ入ると慌てたように名を呼ばれたが、それを無視して悟能へと向き直った。 「三仏神の居る斜陽殿は山頂にある。先ずは傷を治せ」 少し驚いたように目を見開いていた悟能は、ゆっくりと笑みを刻む。 「…はい」 まるで蜃気楼のようだ 今、目の前にいる悟能に実際触れたとしても、その存在を疑いたくなるような笑みだった。 「三蔵さん?」 黙したまま立ち尽くしている俺に、悟能は不思議そうに首を傾げて声を掛けてきた。 覗き込むように向けられるただ一つの翠の瞳 悟空の守ったものだ 「………いや」 答えにならない返答をすると、俺は踵を返し部屋を出た。振り返り廊下からもう一度悟能を見ると、気にした風もなく静かに自分を見ていた。 「ありがとうございます、三蔵さん」 そう言って、もう一度悟能は口元に笑みを湛えた。 それを合図にしたように、律師が扉を閉める。 「ガチャリ」 大仰な音を立てて施錠されると、悟能は鉄格子の嵌った窓のある小さな部屋に閉じ込められた。院の外れにあるここに居れば、必要以上に好奇の目に晒される事もない。口煩い輩を少しでも排除できるのと同時に、一人にさせる不安もなくは無い。 自身にも憶えのある眠れぬ夜をこいつも過ごすのだろうかと、閉じられた扉を俺はもう一度見つめた。 部屋に戻ると悟空が不安そうな顔で待っていた。 「なぁ、悟能ってどうなんの?」 「さぁな、三仏神の決定が下るまでは判らん」 「それっていつ?」 「あいつの傷が治ってからだ。でないと山頂の斜陽殿まではキツイ」 「……そっか」 悟空はそのまま踞るようにして座ると、(不安がる時のコイツの癖だ)悔しさも滲ませた声で呟いた。 「あんなにキレーな目だったのに…」 言われて俺は、悟能の揃った瞳をまともに見ていなかった事に、この時初めて気が付いた。 |
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2004/03/08