長野県の玩具 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
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信濃の国・長野県は広いので、便宜上、東信、北信、中信(ここだけは西信と呼ばない)、南信の四つに分けられる。各地域の中心には盆地があり、これらの盆地は峠でさえぎられているため、地域の特性がにじむ文物が生まれた(1)。また、東信、北信は関東圏の、中信、南信は関西・東海圏の影響を受けているといわれる。そこで、郷土玩具も東と北、中と南の順で紹介していく。まずは東信の中心である上田市の信仰玩具。左の蘇民将来は正月7〜8日にかけて信濃国分寺八日堂から護符として頒布される(表紙13)。国分寺は真田氏が徳川軍を翻弄した2度の上田合戦の舞台にもなったところである。右は別所温泉にある北向観音から授与される大黒天の木槌(高さ14cm)。表に出世・開運、裏には信濃国北向山と朱書されている。別所温泉へは上田市から上田交通別所線に乗って行く。丸窓のついた古い木造車両は今でも走っているだろうか。(H23.1.15)
北信へ移ると、野沢温泉には道祖神がある。ご神体は1月14日の物作りの日にカワグルミの木の皮を剥いで作り、木肌に墨と紅の絵の具で男女の顔を描く。着物はこの地方特産の内山和紙で作り、家紋を入れ帯を締める。1年間災いから家族を守ってくれる神だが、ひな人形のような親近感が感じられる。本来は各家庭で作るものではあるが、最近は販売もされている。写真もそうした一対で、現代風のお顔をしている。高さ20cm。(H23.1.15)
この付近の野山には、かつて農作物を害するほどアケビが繁茂していた。江戸末期、それを利用できないかと考えた地元の篤志家が、蔓(つる)を温泉に漬けて皮を剥ぐなどの工夫をしながら笠台や土瓶敷きを作り始めた。その後、鳩車や赤かごなどを編んで温泉土産として売り出したが、実用的でない鳩車やかごは田舎ではさっぱり売れない。そこで、これらを鳩や念仏かご(花かご)に縁のある善光寺へ持っていったところ、善光寺土産として好評を博したという(1)。鳩車では胸のふくらみ、顔、首をより本物の鳩に近づけるよう改良を重ねた結果、郷土玩具の番付では横綱を張るまでになった。唐人笛は日本古来の笛とは異なりラッパに似ている。富山の薬売りがこのようなラッパを鳴らしながら行商したのをヒントにした。高さ20cm。(H23.1.15)
北信の中心地で県庁のある長野市は善光寺の門前町として古くから栄えた。善光寺にまつわる伝説では「布引き牛」(牛09)と「苅萱(かるかや)道心と石童丸」の話が有名である。石童丸は、世を儚(はかな)んで出家した父・苅萱道心を求め、はるばる九州から高野山を訪ねる。この人形は、高野山・無明の橋でようやく親子の初対面を果たす場面である。石童丸は花桶を提げた苅萱道心に父の形見を差し出すが、僧は身分を明かさない。自らも出家し道念と名乗った石童丸は、父とは知らぬまま苅萱道心のもとで修行に励む。後日、苅萱道心は善光寺へ去ってそこで亡くなるが、道念も後を追って善光寺を訪れるという悲話である(2)。石童丸人形が売られている苅萱山西光寺は長野駅にほど近く、親子が刻んだという二体の苅萱親子地蔵尊を本尊としている。高さ12cm。(H23.1.15)
善光寺といえば鳩。境内には鳩が群れ、山門に掲げられた額の文字にも鳩が象ってある。参拝土産として雅味のある素焼きの鳩笛もあったが、戦後廃絶した。替わって、善光寺の銘はあるものの余り特徴の無い鳩笛が売られている。右は須坂のカッコウ笛。色彩、形、音色は土笛(陶製)ならではのものである。胸に開いた穴を指で押さえたり離したりしてカッコウの鳴き声を出すのだが、これがなかなか難しい。高さ7cm。(H23.1.15)
長野県はローカル鉄道ファンにとっては嬉しい土地である。上田交通のほか長野電鉄が健在で、高く連なる山並みを眺めながらのノンビリ旅を提供してくれる。信州を代表する土人形の産地・中野へは、長野市からその長野電鉄に乗り、須坂を経て信州中野駅で降りる。中野の土びなには伏見系(京都府)の中野人形と三河系(愛知県)の立ヶ花人形の2系統があって、今も盛んに制作されている。しかし、販売は年に一度、月遅れの桃の節句(3月31日と4月1日)に開催される “ひな市”のみなので、遠くに住むものには入手が難しい。この人形も、時間があった学生時代に泊りがけでようやく手に入れたものである。右の角兵衛獅子の高さ10cm。(H23.1.15)
大晦日の夜、正月を告げる初音(はつね)売りが竹笛をピーピー鳴らしながらやって来る。「初音、初音は要らんかね...」待ちかねた子供達は、「三つちょうだい!」などと言いながら駆けだして行く。二年参りや初詣には買った初音を鳴らしながら出かけるのが常であった(3)。写真は手前が初音、奥がウグイス笛で、いずれも松本市在住の方が少年時代を思い出しながら作ったもの。「あなたにも出来ますよ」と、作り方の説明図も一緒に頂戴した。長野県内では松本市など中信地域ばかりではなく、長野市や上田市でも同様の風習があったという。また、やはり初音と呼ばれる同じ格好の竹笛が福島県会津地方に今も残っている。こちらは元旦の朝に売りに来る(福島県21)。初音の長さ8cm。(H23.1.15)
長野県は山間地の豊富な木を材料として、家具などの木工品や皿・菓子器などの工芸品の生産が盛んである。また、郷土玩具にも木を使ったものが多い。そこで忘れてならないのは大正期に版画家・山本鼎(かなえ)が指導した「農民美術運動」の影響である。農閑期を有効に生かし農家の生活を安定させることを目的に県内全域で行なわれたこの活動では、生活に密着した郷土性と素朴な美を求めて多様な木彫産品が創作された。木端人形、松川人形など姿を消したものもあるが、現存する風俗彫刻(登山人形など)や動物彫刻(雷鳥や岩魚、ほかにカモシカや猿など)、はす切り彫刻、遠近農家額縁などはその流れをくむものだろう。雷鳥は国の特別天然記念物に指定されている長野県の県鳥である。材料は信濃の語源ともなったシナノキ。登山人形の高さ13cm、雷鳥の高さ8cm、岩魚の長さ18cm。(H23.1.29)
道神は道祖神、手向け神、塞(さえ)の神などとも呼ばれ、道を護り、妖気邪神を防ぎ止める神である。特に山梨県、長野県、静岡県など中部日本に多く、関西以西には少ない(代りに地蔵が祀られる場合が多い)。一方、中世以降は夫婦和合、縁結びの神など陰陽崇拝と混同した習俗となり、男女の性の象徴を示した石像となって路傍に在ることも珍しくない。道神面の作者によれば、“この秘面は道神を外より内に持ち込む手段として”昭和31年に創作したものという。写真は張子製だが木彫もある。高さ19cm。(H23.1.29)
松本張子は江戸末期の創始で、大阪張子の流れを汲むといわれる。大黒やだるまなどの縁起物のほか大小の天神人形も作られた。天神の頭(かしら)は練物製の首人形で、その串を張子の胴体を通して木の台座に固定してあることから、串天神と呼ばれる。後継者不足で長らく廃絶していたが、現在は地元の信州人形研究会によって復元されている。高さ21cm。(H23.2.19)
江戸中期から士族の妻女が手仕事として作り始めたという押絵雛は、信州では松本だけのものである。題材も節句物の内裏雛や天神をはじめ、浮世絵、歌舞伎物、軍記物、風俗物など豊富であった。明治を境に衰退していたが、地元で人形店を営む三村夫妻の地道な研究によって昭和49年に復活した。夫妻は伝統を次世代に引き継ぐべく、押絵雛の人形教室も主宰している。高さ11cm。(H23.2.19)
江戸時代からの伝統を持つ姉様人形で、江戸姉様(東京都36)、京姉様などと並んで古くから知られていた。戦後ほとんど作られなくなっていた松本姉様を伝統的技法で復活したのも前回紹介した三村夫妻である。人形には布製と紙製がある。写真は紙製人形で髪型は“つぶし島田”(高さ24cm)。江戸姉様同様、日本髪(髪型は30種以上ある!)と帯の美しさに重点が置かれ、背後から鑑賞するものなので、顔は描かないのが普通である。しかし、姉様人形も関西に近づくに従い、目鼻口を描くようになるのは面白い(4)。東北地方でも鶴岡(山形県19)では顔を描くが、これなどは日本海側の海上交通を介した上方文化の影響かもしれない。(H23.2.19)
七夕行事に人形を軒に吊るす風習は信州や越後にみられる。越後にはわら製の人形もあるが、松本地方では紙や布を使って様々な人形が作られる。代表的なのは紙雛形式のもの(雛人形08)だが、板や角材で出来た衣文(えもん)掛け形式の人形もあり、こちらには実際に着物を着せて飾る。風通しの良い軒下に飾るのは、七夕人形に厄を託し、風で厄を吹き祓ってもらう“厄落とし”の意味からであるが、一説には夏の虫干しを兼ねているのだという。また、天の川が増水したとき織姫を背負って川を渡るガータリ(足なが)や、笠を被り馬に乗って田畑の見周りをする田の神(迎え馬)(福島県29)など、人型をした珍しい七夕人形もある。高さ50cm。(H23.4.16)
中南信はかつて養蚕が盛んであったので、松本だるまの腹には養蚕が当たるよう願いを込めて“大当り“と書いてある。また、眉と頬が墨ではなく黒い糸であしらってあるのも珍しい。養蚕の衰退とともに消滅寸前となっていたが、豊科のほか里山辺(松本市)の業者も復活して伝統が守られた。高さ21cm。(H23.4.16)
中信の南部、木曽川沿いの地域を木曽地方と呼ぶ。特産の木材を使った産業が盛んで、製品も木工家具のほか神棚、下駄、ろくろ(木地)細工、曲げ物、桶、箸、簪(かんざし)、櫛など実に多彩である。さらにそれらに付随して漆芸、沈金、蒔絵なども発達した。木製の郷土玩具も多いが、なかでも昔から農耕馬として活躍した木曽馬を木馬に仕立てた「木曽駒」は有名である。写真は五宮(いつみや)神社の祭礼で行列に加わる木曽馬の姿を模したもの。細く割った竹に五彩の色紙をつけた花を200本ほど鞍に飾った美しい木曽馬は“花馬”と呼ばれて祭りの主役である。高さ14cm。(H23.4.16)
「木曾路はすべて山の中である」の書き出しで始まる『夜明け前』は馬籠宿や妻籠宿が舞台である。木曽路は中山道の一部であり、上流の奈良井川から木曽川に沿った区間に過ぎないが、中仙道といえば木曽路を思い浮かべるのは見所ある景観が木曽路に集中しているからだろう。馬籠・妻籠と並んで有名な宿場に奈良井宿がある。中仙道の難所の一つ、鳥居峠を控えた宿場町で、伝統的建造物群保存地区に指定されており、旅籠の雰囲気を伝える軒提灯や千本格子などが今も残っている。土産物店が軒を並べる一角に、店主手作りのカラクリ玩具を販売する「藤屋」がある。この“ビックリねずみ”のカラクリは動画でご覧いただくとして、ほかにも蕎麦を打つ猿、親が餌をつつくと背中のヒヨコが見え隠れする鶏、うなぎを掴もうと四苦八苦する人など、いろいろある。高さ13cm。(H23.4.16) からくり玩具の動画をダウンロードできます。再生にはQuickTimeが必要です (File size 4,851kb)。
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