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その他

うっきゃり詩集

友人うっきゃりさんの排他的詩集

INDEX

徒然なるままに

無題

浮気の定義

続・浮気

「醜い」について

「謝ること」について

自分の存在意義

「恐怖感」について

愛のかたち(予告)

うっきゃり詩集

友人うっきゃりさんの排他的詩集

徒然なるままに

慢性という言葉は嫌いである。 人間というのは日々進化していくことによって人間ということへの証明をしてきた。 しかし最近の私は慢性的であり自分自身が一番嫌いな人間になりつつある。 ここでいう進化とは、現在という座標からどんな形であろうと移動することをさしているのだが、この状況を打破するためにはどんな形であろうと自分から動くべきであろう。 例えそれによって見当違いの方向に進んでしまっても。 だから私は進もうと思う、それくらいの勇気はもっているつもりだから・・・

無題

最近の私は病んでいる。 情緒不安定な自分に精神的倦怠感と自虐的嫌悪感に苛まれている。 理由を自分では理解しているが、理解したところで解決する術が見つかるわけでもない。 この無限とも思われるループにはまりつつある私は今日も少しずつだが着実に病んでいくのだろう。

浮気の定義

人は浮気についての定義を個人個人でもっていると思う。 例えば私は最後までいったら、浮気でそれ以外は違うと思う。 これは、言い換えると自分がここまでしても浮気ではないという自己弁護にすぎない。 相手のことを思えば当然相手の考える浮気の線をこえてはいけないのであろう。 それができないのならその人と付き合ってはならないのではないだろうか。 自分のエゴのためだけに人を傷つけていいなんてことはないのだから・・・

続・浮気

最近の私の変化には皆が驚いている。 つい先日も知り合いから、「以前の君からは考えられないね」といわれた。 しかし、相手のことを考えることができる人間になったのだと誉められているのだ、と極めて肯定的に受け止めることにした。 私は浮気できない人間になったのではなく、浮気しない人間になったのである。 人から見れば至極当然なのだろうが私の中では人間が二足歩行したのと同じくらいの進歩なのだ。 これからもこの進化をとめず生活していきたい。 人間がそうしてきたように。

「醜い」について

人の好みなどというのは千差万別である。 しかしどんなものにも美醜というのは存在する。 しかしそれは人の内面に存在するもので各々が基準を持っている。 そのなかでもっとも多い意見が世論となりその時代の色になる。 そして時代が変われば美醜に限らず全ての事柄の基準が変わってくる。 そして今現在には基準が存在し少しずつその色を変えていっている。 私にもそれなりに美醜感覚があるが誰も私と同じ基準ではないだろう。 そして変わっていくだろう。 だから今は醜いと思っているものでも将来美しいと思う時がくるかもしれない。 そのときまでとっておきたいと思う。美しいという言葉を・・・。

このタイトルに対するKZYの見解

美醜という言葉の基準を何にするかは、人によって様々である。 対象の外見なのか、内面なのか、または、別のなにかなのか・・・いや、それらに当てはまらなくても、対象の一瞬の姿が美しいとか醜いと感じることもあるだらう。 自分は自分がそう感じたように素直に受け止めたい。 たとえ、他人が逆の美醜を感じたとしても・・・

「謝ること」について

日本人というのは謝りすぎる人種である。 自分が悪くなくても物事を穏やかに進ませるために謝る人が多い。 謝るというのは自分が悪いと感じるときにしか使うべきではない。 謝りすぎる人間は本性がわからない。 だからといって最近の若者のように悪いことがわからないのもどうかと思うが・・・。 もっと自分をしっかり確立させなければいけない。 曲がった方向に確立してしまってもいいとは言わないがその方がまだ救いの道はある。 まわりの境遇に気を使うのは良いと思うがそれを言い訳にして自分のおもっていることを全くいわないのは損であろう。 人生というのは一度しかない自分を表現出来る唯一の舞台であるのだから・・・

このタイトルに対するKZYの見解

謝るという言葉の中には、「負ける」ということの意味も含まれている。 昔から、「負けるが勝ち」という。例えば、商売をしていて、お客さんに値切られるということがある。 商売人は値引きすることによって、客が多く商品を買い、利益を得られるのだ。 また、お菓子に付いてくる「オマケ」もそのような考えから、うまれるているのだ。 それは「オマケ」という言葉自体からも読み取れるだらう。しかしながら、まけっぱなしというのも快くない。 ここぞ、という時には、自分の本音を言うべきである。 本音を隠して、安全な道を選んでしまっては、自分という存在で無くなるから。

自分の存在意義

最近自分に疲れている。 どういうことかというと自分という存在をこの世から消したいと思うようになってきた。 過去のぬるま湯生活が私の体を発酵させたらしく、急激に多忙になった自分がひどく鬱になるときがある。 その都度精神的に弱いことをあらためて自覚させられ自己嫌悪で気分が悪くなる。 そして自分の存在がうすれていく。 なにか人の役に立ちたいと思ってもみるのだが自己の美化にすぎないと考え自分のいやらしさにまた気分が悪くなる。 そうこうしているうちにまた無駄な時間が過ぎていく。

「恐怖感」について

人間が恐怖するのは何故か? それは主に人間の妄想が創り出すものである。 例えば人間は暗闇のなかにその身をおくと大方の人間は恐怖を感じるだろう。 それは人間が勝手にそこになにかあると思うからなのである。 そして大抵は単なる妄想でありそこには何もない。 また先入観というのも恐怖を創り出す要素である。 人間が古くから恐怖するものに幽霊などがあるが例えば墓場や寺などは古くからそういうものが出るとされている。 そういう所にいくと人間は自分勝手に想像し恐怖を感じるのである。 つまり恐怖とは気持ちの持ち様で大幅に削減できるだろう。 それ故私はあまり恐怖を感じない。 そのうち出会うであろう恐怖に恐怖を感じているが…。

このタイトルに対するKZYの見解

日本人は恐怖を感じると、それを誤魔化すかのようにアルモノに置き換えてきた。 それは「祟り」「鬼」である。 飢饉・疫病がはやれば、管公のしわざであるとし、災害が起これば鬼のしわざであるとした。 そう、ヨーロッパでも同じことが起きていた。「魔女狩り」。 その考えを改め、現実に目を向けていかなければ、自分達が作り出した「悪魔」や「鬼」に食い殺されるだろう。

愛のかたち(予告)

未完。

このタイトルに対するKZYの見解

「愛」には形はない。 形あるものは、すべて壊れるから。 強いて言うならば、「愛」とは「信じること」。 親子愛、友情愛、恋愛、家族愛・・・。 互いに信じることが、「愛」だと思う。

うっきゃりさんは・・・

現在、行方不明。 突如「芸人になるっ!」と言い残し、大学を辞めて芸人目指して修行中らしい。 お笑いブーム中でも現れる気配なし・・・?

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