●再び八幡の地に 闕所、所払いとなった淀屋辰五郎は宝永6年(1709年)、大阪の地を離れ、江戸に潜行します。そして6年後の正徳5年(1715年)、日光東照宮100年祭の恩赦で初代淀屋常安が徳川家康から拝領した八幡の山林300石が淀屋に返還されます。そしてその翌年の享保元年(1716年)に辰五郎は八幡に帰ってきて男山のすそ野に近い八幡柴座の地に住まいを構えました。淀屋辰五郎旧邸跡の碑が建っている所には、辰五郎が住まいしていた当時の門だけが残っています。 |
●辰五郎、八幡の地に眠る 淀屋辰五郎は、八幡に帰ってきてから1年後の享保2年12月21日、30歳(35歳の説もあり)の若さでこの世を去り、石清水八幡宮を勧請した行教建立の神應寺墓所に眠っています。桂川、宇治川、木津川の三大河川が一望できるここには4つの石碑があり、そのうち3つは2代目の淀屋个庵(言當)、3代目箇斎、3代目の父にあたる五郎右衛門(二代目言當の弟)。しかし、この3人のお墓は大阪の大仙寺にありますので、ここにある3つの石碑は墓石ではありません。 |
●辰五郎、戒名の謎 その3つの石碑の左手に、ひときわ小さい墓石があります。これが辰五郎のお墓です。先代の石碑と比べてもかなり小さく、豪商の面影を見ることはできません。これは、闕所となった自分を先祖に詫びているのでしょうか。また、この墓石に刻まれた辰五郎の戒名の「潜龍軒咄哉个庵居士」。「龍」は辰五郎の「辰」と自身のことと解すれば、次のような意味を持つのではないでしょうか。 「闕所という理不尽な処分を受け、この身は雨宿りをするが如く、今は軒の下に潜めてはいるが、いずれ世に打って出てやるぞ」と。 また、辰五郎は邸宅に杉山谷不動尊に近い「ひきめの滝」あたりから竹の樋を使って邸に水を引き、楽しんだという「砧の手水鉢」が松花堂庭園内の書院前に今も残っていて、栄華を極めた淀屋の夢にふれることができます。 |