生殖の哲学
小泉義之
河出書房新書
2003

はじめに
ドゥルーズの原典へ挑戦するにあたり解説系の新書や関連文献からドゥルーズの主な視点とは何か。解説している作者はドゥルーズから何をくみ取っているのか。いわば水泳の前の準備運動の一環として読んだ本。なお、原典の方、いまは少し岸辺にはい上がって休憩中(そろそろ遠くに泳いでいかないといけませんという心の声が聞こえてはいますが)。
 作者の小泉義之はドゥルーズについて新書を発表(講談社新書)していた人で、ニーチェの研究を当時していた永井均との対談・論文「なぜ人を殺してはいけないのか」(河出書房新書)で生命、生殖系の立場に立って筆舌が鋭かった。さらに「レビナス」(NHK出版)でも生殖と生命について書いていた。いつの間にか、食指が動いて手にしている本の中で小泉氏の文献が自然に集まってしまった格好になった。
 ドゥルーズの原典に当たって一番理解できないのが、造語であった。リゾーム、欲望する器械、内的平面、アンジェスマン…それは身体のことなのか、精神のことなのか、それらを貫いて新たな思考をうち立てているのはおぼろげながら分かるものの、どうイメージして良いのかさっぱりであった。
 そうした意味で、小泉氏のドゥルーズへの視点は、檜垣立哉「ドゥルーズ」(NHK出版)と結びついて、生殖〜それは嫌らしい意味ではなく、人間としての当然の事としてしかしながらタブー視されたものへの思考の開陳。それを未来へと貫いていく一つの虹のようなことであるのではと私なりにイメージすることに到る。現在の様々なタブーや科学技術、倫理を笑い飛ばし、価値転倒を促し、新しい生成を肯定する。いくつかの読みかけの解説系の論文も少しずつ解きほぐしていきながら、この『生殖の哲学』はドゥルーズのことを直接的に書いているわけではないにしても刺激的だったし、考察に富んでいると思った。
以下、この本のエッセンスを取り上げながら私も考察を加えていきたい。

生殖について
本書を貫いている視点はすでに、はじめに、で書かれている。

 ヒトラーのクローンが作られたら大変だって?何を騒いでいるのか。ならば、ヒトラーと闘うローザ・ルクセンブルクのクローンを作れば良いではないか。あるいは、こう考える私・小泉のクローンを作れば良いではないか。
 この小咄の教訓は三つある。第一に、恐怖をあおる空想に対しては、希望をもたらす空想を対抗させること。第二に、技術を一部のものに独占させるのではなく、万人共有財産にすること。第三に、生−権力の一部のものに独占させるのではなく、万人のために奪取することである。
 この小咄の教訓は繰り返し、本書において述べられていく。科学、生物学に広がる途方もない無知や恐怖心をあおる学説が大手を振っていて、生殖技術や遺伝子操作によってもたらされる結果について人々は恐怖心をあおられていること。そこには、根強い優生思想が、どうしようもなく蔓延している(出生前診断など)こと。作者は、それらを批判し、そもそも、人を殺すことには罪の匂いがつきまとうが、人が人を生むことは肯定されるべきであるし、歓待されるべきであること。そして、分子生物学や遺伝子の技術は、いまや現代にあって途方もないところにあること。それは、神をも超えた、パラダイムが開いていること。希望に満ちていることを明らかにしていく。
 特に作者にとって本当に重大と思われる視点として胚や生殖細胞を人為的に操作できるようになったことであり、より精確には、胚や生殖細胞のポテンシャルを人為的かつ自然的に現実化できるようになったこと。もう一つ重大なことは、生殖技術を万人のために開くなら、ジェンター/セクシャルティ/セックスの三位一体の体制と婚姻制度や家族制度が解体されるだろうという予測。より精確には、それらの性と生殖の体制のまさに外部が開かれるだろうと考えている。
 それに伴って、国家の反動的な生殖補助技術による規制や管理を批判する。これ(管理や統制)は、国家による生−権力と呼ばれ、国家と法はあらかじめ人間が人間を生み続けていて、その後で、それに規制して形成されるものである。しかし、作者は国家と法は、生殖のおかげで成立しているのだ。国家や法が、生殖の遂行に口だす謂われなど一つもないと論破する。生殖は未来の存在根拠であり、未来は生殖の認識根拠である。という意味で、国家の存続は生殖抜きには考えられないといえる。(しかし、生殖の方は、基本的には生−政治をあてにしていない)
 また作者はクローン技術は、生殖の外部性への扉を開くことを述べる。その理由の一つが単性生殖が可能になること。望むなら、自分の体細胞の一部の発生から胚を作り出して妊娠・出産できる技術がある。これは、男性を不要にして出産できる技術であるが、これまで有性生殖だけで子供をなしてきた人類は、技術の力能を解き放つことによって、単性生殖も可能にしてしまう。そして、ここに来て、性愛なるものは解体すると考える。
 それは肉体関係、性的な愛をかわすことも不要になる。そして、異性愛にしろ、同性愛にしろ、セクシャルティには肉の歓びがつきまとうが、否定、肯定しようとも、生殖ということからは自由ではない。しかし、クローン技術の力能を体験し思考することを通して、現在の肉の歓びを純粋な友愛に転化し、現在の生殖を純粋な子供への愛へ転化させるであろうと結ぶ。
 最後の転化については、私は疑問を持ってしまうが、いずれにしろ、生殖の持つポテンシャルや潜在性を解き放つ技術はすでに目の前にあること。それが肯定されることは、生まれてくる人々を社会的に歓待すること。それは、我々の責務であること。人間として唯一譲れない「人生に対する行為」であることこそが重要である。

 優生思想について
 私が、社会福祉の現場にいる手前、生殖に関して作者が優生思想と障害者への差別的な言説について述べていることにも注目する。
 再び、生殖補助技術について。生殖補助技術は現行では不妊治療の一環としてのみ使用されている。厚生省の専門委員会における報告書では、安全性についての章がある。これは、母胎の安全性ではない。障害児が生まれてくるリスクをなくそうとするものである。さらに、優生思想の排除も掲げられているが、これは着床前診断や減数手術における選択的中絶などの障害者差別を許さないために掲げられているわけではない。ここにおける優生思想とは、精子・卵子・胚の提供者を匿名とすることである。それは、提供する人の選別を行う余地を与える可能性を排除しようとすることである。しかし、そこのどこがおかしいのか。セクシャリティの相手と生殖の相手を選ぶ基準が分離しているだけである。優秀な精子を選ぶこと。これは家畜と同然ではないかという恐れもあるが、優生思想が人類を家畜以上の集団にすることは出来ないし、むしろ家畜に学ぶことが多いと述べる。
 人口政策は一種の家畜化政策であるが、人口政策は成功した試しはない。家畜による頭数の統制は、殺しているから成り立っているのであって、受精数や妊娠・出産の数は統制できないし、出来るはずがないからである。このことから、産むことを制限するという人口政策はうまくいくはずがないという一例からも明かである。また、優生思想に基づいた遺伝子操作もまたうまくいくはずがない。劣性なものは常に生み出されるし、切り捨て淘汰を行うことによって統制が図られているという意味で、家畜による統制にも似た事が成されている。しかし、それすらも十分効果があるわけではないし、許されるはずがない。
 さて、主目的としての優生思想と障害者差別についてだが、
障害者差別は最近の構築物ではなく、人類誕生以来の現在と言うべきであって、内なる優生思想は死ぬまで治らないし、現生人類が死滅するまで治らないだろう。障害者を安んじて育てられない社会が悪いという人は、一方では、当面は選択的中絶は仕方ないと諦め、一方では改革プランをまじめに考えることを放棄している。だから、私としてはさんざん聞かされたから、とにかく政治的社会的な改革の方向性を示して見ろとといっておきたい。
 ここまではいわば顕教である。しかし、顕教だけでは足りない。いつだって改良主義は現状維持に止まる。そこで密教を確立する必要がある。率直に言ってしまいますが、私は障害者がたくさん生まれた方が、少なくても闇にも葬られている障害胎児を生かすだけで、よほどまともな社会になる。街路が自動車に寄ってではなく車椅子や松葉杖で埋められている方が、よほど美しい社会だと思う。痴呆老人が都市の中心を徘徊し、意味不明の叫びを発する人間が街路にいる方が、よほど豊かな社会だと思う。そのためには何をなすべきかと問題を立てる。そのとき、未来と生殖のことを真剣に再考することになる。
劣等なものこそ優等である。この価値転倒は、感性や趣味に関する美学的な争いである。
 生殖技術が優生社会を目指すかに見えて、多様な障害を生み出す技術でもある。切り捨て淘汰を許しさえしなければ、確実に劣性社会を切り開く。だからこそ進めるべきであると。そして、もっと進めると、価値転倒のみならず、生殖技術は価値創造も生み出すことも可能である。人間でない、人間が創造する外部としての生殖、生物(フランケンシュタイン、狼男、吸血鬼等々)が生み出されることによって、つねに価値は人間の内部によって規定されたり納まってきたものがそうではなくなる可能性を秘めている。

おわりに
 この最後の差別や優生思想については、ではなぜ優生思想が悪いのか。差別が悪いのかと考えたこともあった。無条件で非難に値することなのかとも…しかし、それは突き詰めればはやり非難されることなのである。少なくても生殖という生物としての人間の行為を考えれば、政治的な社会的な視点で語られるよりも、生物としての在り方として考えることである。しかし、社会的なファクター抜きで、現に生きている人がそれについて生物的な視点にのみで語ることは厳密には無理である。しかし、いずれにしろ、道徳とか倫理とかそれ以前に在るものとし、問いとして立てた場合、多様な行為や所作が在ったことを引き合いに出しながら、現在埋め尽くされている支配的な言説に対して異議申し立てをする態度をとることは必要であろう。そういった意味で、障害者への差別や優生思想についてとことん考え抜いた上で異議申し立てをするその態度は、少なくても真剣に考えていない人よりはましであると言える。
 障害者を育ててきた親は数限りなくいる。さらに、そうした人々は出生前診断などを受けなかった故に生んでしまったということで片づけるわけにはいかない。そうであったとしても、生んだことを後悔したとは言えないし、後悔したかもしれないけど、いまはそうでないかもしれない。障害者とともに共有した時間を貴重なものと受け止めている人もいるし、ポジティブに考えている人もたくさんいる。こうした事実もまた存在するのである。中絶するのかどうかと言うのは、その人の社会的・経済的な理由によって選択されうることがあるかもしれないが、価値観として産まれてくる子供はいかなるものであれ歓待されるべきだし、淘汰するものではないと考える。
 偏見、差別に関してはたくさんの論文があるが、竹内章郎『「弱者」の哲学』科学全書49,大月書店,1993と原田正樹「「共に生きる」という関係づくりとゆらぎ」『「ゆらぐ」ことのできる力』6章,誠信書房,1999を挙げる。
 竹内に関しては機会があればまとめていくが、出生前診断と優生思想、それに伴う障害者などの弱者の排除についてじっくりと語るように解きほぐしていっている。しかし、最後の障害構造の理解からの多様性への配慮は少し脇が甘かったと思う。
 原田は学生の講義の中で、福祉とは偽善なのか、障害者の気持ちは分かるのか、出生前診断による中絶はどうなのか学生のアンケートや記述から多様性について述べている。ゆらぎを主眼に置くならそれで良いかもしれないが…偽善であるかどうかや共感についてはどうでもよい問題である。いずれにしろ、ゆらぐことから深めていく作業は問いを立てるという意味で最初に行う重要なことである。

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