『精神の生態学』(G.ベイトソン)思索社1990



目次


メモ
遊びと空想の理論
精神分裂症の理論化に向けて
ダブルバインドとは何か
精神分裂症の理論に必要な最低限なこと
ダブルバインド。1969
学習とコミュニケーションの階型論
自己なるもののサイバネティックス
コメント
冗長性とコード化

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ベイトソンにおけるコミュニケーションの考えについての私的メモ
人間の個体という「遺伝」的なものも大きく左右している。
生物の限界として設定している。
動物との類似性を多用している。時には、昆虫などにコミュニケーションのコードなどの解析を見て取れることがある。
進化論を導入し、コミュニケーション及び情報の解析を進めている面がある。

学習と関係性を重視している。
学習については、遺伝など、生物としての人間に焦点が当てられている面が多い。
関係性については、そうした、学習に基づいて、無意識な面、情報のコードの解析、受信と送信の意味の関係性に焦点が当てられている。

分裂症についての疑問
ダブルバインドがすべての分裂症を作り出す温床になるのだろうか?
妄想や幻覚が存在するとしたら、発症において関係性でなったとしても、進行しているものもまた関係性なのであるか。
分裂病の生み出す言語活動は、ダブルバンドなのか。

根本的と思われる思考のスタンスについて
形式、実体、差異
ハートの中で進行する知のプロセスが、喜びや悲しみの感情を伴うものだといっても、科学者としてそこから目を背ける必要はなにもありません。
そこですすめられているのは、哺乳動物にとって死活の問題なのである他者との関係をあり方を算定する作業なのです。
芸術が関わるのは、精神過程の様々なレベルの間に結ばれる関係なのです。
フィーリングとは、内なるハートの演算だけでなく、外に伸びる精神の経路での演算とも繋がれている。外の世界でのクレアトゥーラ(差異)の働きを認知するとき、我々は美しさ、醜さに気づいていく過程、すなわち思考によってのみ得られることを我々が感知するからでしょう。
差異=観念
我々の外にある我々自身の心の中にもう一つの小さな精神が見いだされるといえるかもしれません。
「一粒の涙に知性がこもる」−ブレイク
「情感(ハート)には理知(リーズン)のうかがい知れない理知がある」−パスカル

エピスデモクラシーの正気と狂気
自分の関心は自分であり、自分の会社であり、自分の種だという偏狭な認識論敵前邸にたつとき、システムを支えている他のループは皆考慮の「外側」に切り落とされることになることになります。
「有機体の中の遺伝子」から「環境の中の人間」を経て、「生態系」へと積み上がる階層を考えないといけない。
そのそれぞれの段階で、様々な観念が様々な回路へプログラムされ、互いに作用する中で変化を続けている。それら、差異とその複合体の相互作用と生存とを扱うのが広い意味での生態学であります。



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遊びと空想の理論
一般則

メタ言語的:事物集合のすべてをメンバーに表す
メタコミュニケーション:言葉の内にある感情など
メタ言語も、メタコミュニケーションもその広大な部分が暗黙の内に差し出される点を確認のこと
また、メタコミュニケーションをどのように他者が解釈するのかというべき一段階高次のクラスに属するメッセージが現れる。
コミュニケーションの進化を考えるときに、生物が他者に発する「ムード・サイン」に”機械的”に反応するレベルを徐々に抜けて、そのサインを、指示記号として認識できるようになる段階が決定的に重要であることは明らかである。

コミュニケーションの進化のことで、コージプスキーのいう「地図と土地」の別がどのように発生したかという問題である。
メッセージを作る素材は、それを表すものと違う。
人間レベルで起こっている指示的コミュニケーションは、語や文とモノやこととの関係づけられ方を規定する複雑なメタ言語的(といっても言語化されない)ルール一式ができあがった後に、はじめて可能になった、ということは確かである。

遊びと空想と技芸の領域における、複雑きわまりない現実と虚構の絡みが展開される。
遊びの中で交換されるメッセージないしシグナルは、ある意味で正しくない。あるいはそのまま意味していないということ
これらのシグナルは、現実には存在しないモノを指し示すということ

夢と空想のただ中にある人は。「これは現実ではない」という思いを抱くことはできない。夢と空想とは、あらゆる内容を扱うことができるにも関わらず、その夢または空想自体に及ぶメタ・ステイトメントを、その内側で汲み上げることはできないのである。目がさめかけている場合をのぞいて、夢見る人は自分が見ている夢を「夢」と指す・・・フレームする・・・ことができない。
これらのフレームは、多くのケースで、当人が生活の中で意識し、それに対して「遊び」「仕事」などの言葉を与えているものなのだ。また一方で、そうした明確な言語的表現を欠いていて、当人がそれについて全く意識していないというフレームもあるだろう。

精神分析家は、そういう無意識のフレームを説明原理として用いる。それによって分析家自身の思考が簡便化されるわけだが、実際のところほとんどの分析家は、それは単なる説明の道具としてでなく、患者の無意識の中に実在するものとして捉えているようである。
キャンバスの上に絵を描いたときに、それをフレームで囲い込もうとする心理そのものなのだ。絵が額縁で囲われるのは、そうやって下界を自分たちの心理的特性に合わせて整理しておくことが、我々の精神のスムーズな機能のために望ましいからに他ならない。それはいわば、「内的な特性の外的な現れ」だ。
心理フレームには除外の働きがある。一部のメッセージが内に囲われることによって他のメッセージが外に追いやられる。その逆もある。
心理的フレームは、これまでの「前提」と読んできたものと関わっている。フレーム自体が、知覚と思考の前提システムの一部になっている。

フレームの働きはメタ・コミュニケーション的といえる。フレームをもうける役を果たすすべてのメッセージは、その事実によって、内側に来るメッセージの解釈の仕方を規定し、あるいはその理解を助けるものである。その逆も成り立つ。(ゲシュタルト心理学における「図」と「地」を想起する)
サイコセラピーとは、患者のメタ・コミュニケーションの性癖を変えようとする試みであり、その正否は、フレームをどれだけ有効に操作し得たかにかかっている。
治療以前と治療後では、患者とセラピーの間のルールの変更がメタ・コミュニケーション的に行われる。



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精神分裂症の理論化に向けて
コミュニケーションの基礎
ラッセルの「論理階型理論」:クラスとそのメンバーの間に連続性はない。コミュニケーションの現場、人間の心理の現実を問題とした場合、両者の不連続は絶えず不可避的に破られるものなのだ
人間のコミュニケーションに使われる諸々のモード
「遊び」「非遊び」「空想」「神聖」「比喩」等々があげられる。シグナルがそれによって分類されるメッセージよりも高次の論理階型に属している。

ユーモア:思考や関係の奥に秘められたテーマの探索、異なった論理レベル、モードが比喩として意味が生じるとき、コミュニケーションの様式のラベル付けが解体し、再統合されるとき、ユーモアが生まれる瞬間といえる。

いつわりのモード同定シグナル;モードを同定するシグナルが「偽り」のものになりうる。そこから進んで、「メッセージの受け取り方についてのメッセージ」を無意識の内に歪曲しているという奇妙なケースも登場する。自分自身についてのメッセージが正しく伝えられないケースのほとんどはこの項に収まる。

学習;学習のもっとも単純なレベルにあるのは、受け取ったメッセージに基づく適切な行動がとられるという状況である。

多重の学習レベルとシグナルの論理階型化:シグナルを多重のレベルに振り分ける能力自体が学習の所産である−その働きを多重の学習レベルが担っている- からだ。

分裂症者が不得手にするのは、とりわけ、他のメッセージの論理階型を明確にするメッセージを扱うことなのである。
患者は、その特異なコミュニケーションの修正がある意味で適切であるように出来事が継起する、どんな意味の宇宙に囚われているのか、ということだ。



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ダブルバインドとは何か
二人あるいはそれ以上の人間。この複数の人間の内一人を「犠牲者」としてみることが、定義上必要である。
繰り返される経験。ダブルバインド構造に対する構えが習慣として形成される。

第一次の禁止命令
これをすると、おまえを罰する
これをしないと、おまえを罰する

より抽象的なレベルで第1次の禁止命令と衝突する第2次の禁止命令
それがふつう非言語的手段によって伝えられる。
第1次のレベルのメッセージのどの要素とも矛盾する

犠牲者が関係の場から逃れるのを禁止する第3次の禁止命令

作用
ダブルバインド状況に囚われたものは誰も皆論理階型の識別能力に支障を来す、というのが仮説
ここれはぬきさしならない関係が支配している。すなわち、適切な応答を行うために、行き交うメッセージの類別を正確に行うことが、自分にとって死活問題だと感じられている。
しかし、相手から届くメッセージは、その高次のレベルと低次のレベルにおいて矛盾している。
それについてコメントできず、相手のどちらのレベルのメッセージに対して反応したらよいか分からない状況にはまってしまう。



ここまでの自分なりのまとめ
ダブルバインドは、分裂症者の行き場のないものとしての閉鎖的な空間に自らをはめ込み、抜け出せないでいる状況を説明しようとした理論である。
日常のおいての、会話のやりとりの中に見られる、矛盾した隠喩(本音、あるいは自ら整理できない感情)を相手が受け取ったときに、相手を操作しようとする時に見られる、アンバランスなコミュニケートを説明している。
転移、逆転移、愛情に見られる不誠実さ等々。それが、親密であればあるほど、事態は緊迫する。
関係として、捉えると、ダブルバインドの支配力が強ければ強いほど、周りは混乱する。そして、発言の機会がないままに、事態は無気力感に包まれる。

物語の言及
フィクションによって「現実」を表現しようとするときに複数のレベルでのメッセージが共存するという点に関わる、物語の形式的な問題である。
特にドラマは興味深い。そこでは演技者も観客も、現実のリアリティと演劇的リアリティの両方についてのメッセージに同時並列的に反応する。
人間とは何か?私が私というとき、私はなにを意味しているのか?おそらく、我々が「自己」と呼ぶものは、我々の知覚と適応的行為の習慣の集体に、その瞬間瞬間の「行為に内在する状態」をプラスしたものなのではないでしょうか。人間関係の場で、その時点の私を性格づけている習慣と内在状態とが攻撃されることは、つまり、その時点での相手との関係の一部として表出する私の習慣と内在状態とが攻撃されることは、私の存在を否定するのと同じです。その相手が私にとって大切な人間であればあるほど、否定されることで私の受ける傷は深いものになるでしょう。



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精神分裂症の理論に必要な最低限なこと
ダブルバインド理論
学習の生じるコンテキストは、常に何らかの形式的特性を持っているということ
この構造づけられたコンテキストもまた、より大きなメタ・コンテキストの中で生じるということ。このコンテキストの階層は、理念上、無限の同心円をなしている。それは、最終的に閉じられていない。
狭いコンテキストで起こることは、より大きなコンテキストによって左右されるということ。そして、コンテキストとそれを含むメタコンテキストとの間に矛盾または衝突が起こる場合があるということ。それが閉塞状態を引き起こすことがあるということ。
メタコミュニケーションとコミュニケーションは互いに影響しあうが、発語のコミュニケーションすべてにメタコミュニケーションが影響を及ぼすことはなく、段差がある。
観察者と対象を分離するのではなく、観察者自身も含めた全体を観察する。

この世界では実のところ、物質的存在としての「私」は関与せず、従って「リアル」でない。しかし、経験のシンタックスの核としての「わたし」は、コミュニケーションの世界にしっかりと存在する。他人の経験の中にも『わたし』は在り、他人同士のコミュニケーションが「わたし」を傷つけることもある。その傷は、わたしのアイデンティティ−わたしという経験の統合体−を破壊するほどのものにもなりうる。

コンテクストというものが関与するには、それが、有効なメッセージという働く場合に限られる。つまり、今我々が見据えようとしているコミュニケーションの階層システムの多重のレベルに映し出される−リプレゼントされる−ことではじめて、コンテクストはコミュニケーションの世界でのリアリティを獲得するのだ。
このシステムは、メッセージと伝達経路が作る広大なネットワークのことである。



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ダブルバインド。1969
精神の中に、モノも出来事も存在しないというのは明らかである。
精神の中に含まれるのは、知覚表象、イメージ、そのほか何らかの変換形と、そうした変換形を生み出す規則だけである。これらの規則が、どのような形で存在するのかは知られていないが、それらが変換形を生み出す機構そのものを形成していることは想像される。
ともかく、それらの規則はふつう、我々の意識的な「思考」の中に具象的に現れるものではない。
ダブルバインド理論とは、変換形生成の規則に生じる何らかのもつれについて−そしてそれらのもつれが獲得されていくプロセスについて−論じるものである。

ダブルバインド理論がそのベースとする第2次学習について
すべての生きたシステムに共通の特性として「適応」の能力がある。
これらのシステムにあっても、適応が起こるためにはフィードバック回路の存在が前提となる。
フィードバックがなされる以上、そこには試行錯誤のプロセスと比較のメカニズムが働いていなければならない。
試行錯誤には必ず錯誤がともなう。錯誤は、生存を脅かし、精神の安定をも脅かす。そのマイナスを最小限にくい止めるためには、適応が常にヒエラルキー構造を持っていることが必要になる。
次の適応レベルにおいては、低次レベルでの変化を成し遂げるに必要な試行錯誤の回数を減らしていくという、第2次等級の適応変化が起こっている。そのような関係が積み重なってヒエラルキーが形成される。
多くのフィードバック・ループを重ね合わせ、結びつけることにより、我々は、それぞれの個別問題だけでなく、問題のクラスにも対処する習慣の形成も行っているのである。
在るか図の前提や「きまり」をものにすることで、その数より多くの数の問題からなるクラス全体が解決できるように、行動している。それが可能なのは、学習することが学習されるから、すなわち「第2次学習」というものが起きるからだ。
習慣とは代え難く身にしみたものであるが、その硬直した性格は、適応のヒエラルキーの内に占める習慣の位置に由来する。
習慣が前提とするところを、その都度分析したり発見し直したりしなくてすむからこそ、習慣というものは経済的であるわけだ。
習慣が前提とすることが、抽象的な事柄だという点。



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学習とコミュニケーションの階型論
ラッセルの「論理階型論」
変化、あるいは、学習は、様々な階型論理を持ち、錯綜し、試行錯誤がなされる。

学習1

学習2
ゼロ学習:反応が一つに定まっている点にある。その特定された反応は、正しかろうが間違っていようと、動かすことのできないものである。
学習1:はじめの反応に代わる反応が所定の選択肢群の中から選びとられる変化
学習2:選択肢群そのものが修正される変化や、経験の連続体が区切られる、その区切られ方の変化
学習3:代替可能な選択肢群がなすシステムそのものの修正されるたぐいの変化。
学習4:個体発生上の変化を変化させる系統発生上の変化


精神医療の場で、学習2がもっとも顕著に見て取れるのが「転移」の現象である。
学習2で習得されるのは、連続する事象の流れを区切ってまとめる、そのまとめ方である。
コンテキストづくりにおけるその人特有の習慣がなぜ無意識的なものかという点について
ゲシュタルト知覚のプロセスも、また習慣というものも、無意識には広く含まれるのだ。
下位の論理階型にある現説をどれほど厳密に押し進めようとしても、高次の論理階型に属する現象を説明することはできない。

学習3
学習2で獲得される諸前提が自動的に固められていく性格を持つということは、学習3が、人間といえどもなかなか到達できないレベルの現象であることを示している。

階型論におけるクラス1〜3(あるいは4)はその中におけるメンバー(特性)は他のカテゴリーの中に含まれないとするとしたら、学習に対するこの考察は矛盾する。あくまでも、階型論を梯子式に眺め、含む含むという集合論的な論で進んでいる。



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自己なるもののサイバネティックス
自己は一般的に超越的とみなされるが「思考するシステム」はそうではない
観念は、差異が変換されつつ伝播していく因果的伝達経路のネットワークに内在する。それらの観念は、すべてのケースで少なくともバイナリーの構造を持つ。それはインパルスではなく、情報である。
このネットワークは「意識の囲い」の外側に伸び、無意識の精神作用のすべてを包括する。
さらにこのネットワークは、生物の皮膚の外側に伸び、情報の外部経路のすべてを含む。情報の「対象」に内在する効果的な差異も包合する。外界の事物や人間や、とりわけ我々自分自身の行為に内在する差異の変換形が伝わっていく光と音の経路も、ネットワークの一部をなす。



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コメント
様々な観念が依存しあって「観念の生態学」のサブシステムを作っている−その様々なサブシステムがすなわち「コンテクスト」なのである。
分裂病も、第2次学習も、ダブルバインドも、もはや個人の心の問題であることをやめている思考領域−それらが、個々の生物の皮膚で区切られるのではない。大きな精神のシステムの中を流れる観念のエコロジーの一部として捉えられる、そういう思考領域−が必要であるということである。



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冗長性とコード化
ことば対非言語的コミュニケーション
ノン・バーバルなコミュニケーションにおいて伝えられるのは、直接対面している相手もしくは環境世界と自分自身との関係に関わる事柄−愛情、尊敬、不安、依存など−であるように思われる。そして人間相互の関係では、この種の伝達が偽りのものになってしまうと、その関係はたちまち病的なものに進展するようである。

冗長性と「意味」
メッセージを作る事物の連なりを、同じ時・同じ場所に存在するメッセージを作らない事物と区別するのは、SN比(シグナルとノイズの比率)などの特性だ。
メッセージ素材のシークェンスを、一部欠けたままの状態で受信したとき、その欠けた項目を受信した部分の情報から、ランダムな当て推量の確率で推測できる場合、そのメッセージ素材は「冗長性」を持つといわれる。
ということは、冗長的であることとパターン化していることとが同義であることだ。まっせーじそざいにおけるパターンの存在が、受信者がシグナルとノイズを区別する助けになる。

ことばの発生の研究に向けて


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