第7章 援助論

はじめに
 施設職員は、家事労働や家事介護の延長のように捉えられ、誰でも出来る仕事だと位置付けられている側面がある。本章では、施設福祉職員の専門性とはいったい何かを考察する。その考察によって援助者の専門性に、若干明るい見通しが立てられるような形で提示する。

第1節 学問の所在と学ぶ姿勢
はじめに
 本節では、社会福祉一般に置いて、どのような形で一人一人が専門性を身につければよいかを考察する。

第1項 学問の所在と援助者の専門職性
 福祉職の職業適性として、人間的な魅力や人柄の良さ、相手に気配りができるなどが挙げられる(鎌田〔2003〕)。そして、職業適性を羅列し、福祉の仕事の専門性、あるいは特徴を語ることがある。例えば、援助者は、利用者に共感し、責任感があり、時には冷静でなくてはならないと1。しかし、本来、専門性とは「個人的な人間性への問いだけではすまされ得ない」(足立〔1996,P.99〕)。例え、人間性を問う場合でも、なぜ人間的な魅力が必要なのか、援助者と利用者の関わりの中で、「社会福祉における援助技術と言われるものの意味とその性格についての臨床的視点からの理解がきわめて重要」(足立〔1996,P.99-100〕)になる。
 またよく言われるのが、福祉専門職2とは「ソーシャルワークの価値のもとで習得した知識、技能を用いて援助活動を行う人」(秋山ら〔2004,P.107〕)を指すとされる3。この知識・技能・価値は、社会福祉が学問として存在していることを前提にしている。もし学問として社会福祉が確立していないのなら、知識も価値も意味付けられないからである。ところが、社会福祉の学問としての位置づけは、現在も論争されて答えは出ていない4。時には、社会福祉は学問ですらないとも言われる。例えば、実証科学として、普遍性が獲得できるのか5。あるいは、社会福祉の大半が子育てや介護など、日常茶飯時性が熱意や経験があれば誰でも容易に出来る単純労働と見なされ、そうした実践や社会福祉学の理論形成の道を問うこと自体が困難であると考えられているからである(田中〔2001,P.20〕)。
 田中(2000)は、社会福祉が学問として位置づけるには、「社会福祉対象の特性が、社会福祉学方法論を規定する」(田中〔2000,P.20〕)とされる。簡単に述べると、社会福祉は何を対象にし、どのような視点で考え、どのように振る舞うのかということに尽きる。
 社会福祉において、どのような対象の特性があるかについて筆者は、対象論(第6章)や施設論(第5章)で述べたように、総じて福祉対象者は、社会において正義・自由・平等・権利などの言葉が行き届かないところ、覆い隠されてしまう所に置かれがちである。社会福祉学とは、覆い隠されるもの・ことを丹念に掘り返して新たな角度から光を当てようとする試みにあると考える。そうすることで、語るはずのことや語り損ねたことを何とか語ろうとすることに社会福祉学の意義はあると考える(圷〔2004〕)。

第2項 一般論の把持について
 福祉対象者(利用者)は様々な現象や問題を抱えて援助者の目の前に出現する。そのため、援助者は、その問題に対応しきれずに、安直に福祉サービスを提供する事で対応する傾向が強い。しかし、福祉サービスを提供するその判断基準に学問的な裏付けがなければ、それは、単なる援助者の経験主義的・主観的あるいは気ままな判断でしかない(田中〔2001,P.19-20〕)。もし自分の人生観だけで独善的に気ままに判断を下し、福祉サービスが提供されれば、虐待や人権無視を助長する危険性が生じる6
 よって、自分の狭い人生の経験だけではなく、多様な人生や価値観があることを学び、その価値観などを自分なりに考えることが大切である。そのためには、“福祉対象者をどう捉えるのか”を自分なりに吟味し、再構築し、一般論(理論化)を把持することが重要である
 一般論の把持とは、自分の置かれている社会的な環境(文脈)を大きく考える。例えば、福祉社会とは何か。あるいは、対象理解の仕方もいきなり自閉症の特徴を学習するのではなく、例えば障害とは何かと大枠を捉えていくことを指す。こうした基礎的な知識や知見を自分なりに構築して、はじめて対象者の個別性(より微細な特徴へ)、社会福祉諸分野の特殊性(施設の機能など)が理解できるといえる。つまり、いくら小さいブロックを積み重ねても自分が思い描く社会の在りようなどのイメージがなければ単なる重なりでしかない。
 そして、自分が構築しつつある一般論を媒介に、他の人と自らの実践(思想・振る舞いなど)を比較検討することで、自らの一般論は試され、自分の実践がより生産的・創造的になる(田中〔2001,P.20〕)。
 一般論(理論化の思考)は次章で述べていくが7、重要なのは、援助者一人一人が、対象者が抱えている社会福祉問題への客観的認識(学問的裏付け)による、価値判断(権利・発達保障に支えられた視点)を確立することである。そして、その価値判断を制度的にどう結び付け実践するかが援助者の専門性といえる(秋山〔2000,P.33〕)。

第3項 考察
 実践と理論にはギャップがあると良く言われる。しかし、これまで論述してきたように、実践と理論は密接につながっていることが分かるはずである。むしろ、実践者自らが現実を読み解き、自らの価値や理論を見いだし、紡ぎ出すものなのである(横田〔1999〕)。
 対象者・利用者の心理・社会的な状況、社会制度、固有の障害や疾病についてなどあらゆることを他の学問から援用・応用し対象者への認識を深めること。その作業を通し、自分なりに「人」について考えることである。
そして、一旦、自分なりに措定した一般論からは予測のつかない様々な事柄や理解不能な出来事に出会うことが多々あるのも現場である。しかし、それでもあきらめずに、丁寧にそれらの出来事を吟味し、洞察し、多様な論理と接続し、ただ経験だけではなく自らの概念を構築しようとするところに一人一人の専門性が生まれると考える。

第2節 施設内業務の専門性(ソーシャルワーク・ケアワークを中心に)
はじめに
 前節では、大まかに自己の専門性の所在を述べてきた。本節では、施設現場には専門性がないといわれる批判に目配せをしながら、現場の何をどう考えたらよいのかを論じる。

第1項 福祉施設は専門性がないのか
 入所施設特に、養護施設・障害者福祉施設では、ソーシャルワークとケアワークが未分化であると論じられることがある(日本社会事業学校連盟〔1996〕)。そして、入所施設ではソーシャルワークとしての業務は存在しているが、実際には明確に意識されることなく、ソーシャルワークは機能していないと言われる。言い換えると、施設職員はソーシャルワークに対する明確な意識がないため、知識も技術もない。よって専門性を持っていないという論調になる。
 では、入所施設におけるソーシャルワークにはどのようなことがあるのか。それを例示すれば、
 施設業務には、こうした相談業務が常に伴っているものの、業務の大半は身体介護−ケア(食事・排泄・入浴など)に費やされる。そのため、ソーシャルワーカー養成=社会福祉士を目的とした実習生でも、ほとんどの日程が介護実習で終わってしまう。そのため、施設のどこにソーシャルワークの意義があるのかが見いだしにくい。あるいは、ソーシャルワークとケアワークの違いを教えてくれる人がいない中で何となく実習を行うケースも多い。
 中村(2004)は、「教育場面でソーシャルワークや面接技術を教え相談指導の専門職を養成しても、その教育を受けた者の大部分が、施設の生活指導員や児童指導員の介護業務に就く」(中村〔2004,P.169〕)と述べる。そこには、せっかく高度な面接技法を学生に教えているのに、それらのノウハウは使うこともなく、大半の学生は、排泄介助などの単調な日常業務(介護業務)の繰り返しで時を過ごしている教育機関の嘆きが聞こえる。
 では、本当に施設には専門性がないのか。改めてソーシャルワークとケアワークの範囲を区別しながら施設内の業務について考察する。

第2項 ソーシャルワークとケアワークの区別について
 ソーシャルワークとケアワークの範囲と違いはどのように区別されるのだろうか。いくつかの文献を参考8にまとめる。
 まずケアワークの範囲について
  では、ソーシャルワークについて、ケアワークとの比較で述べると
 共通基盤としては、
 福祉施設現場は利用者の生活(ある意味そのもの)に関わっている9。確かに、施設現場は排泄・食事介助が業務の中心だが、援助者は、ケアワークの2のように自立を目指した個別支援計画を立てる。しかし、個別支援計画は、家族などの外部の意向、本人の意向を含むソーシャルワーク3の要素もある。例えば、パニックなどで暴力行為があれば、その原因を推測しながら、受容・共感・統制された感情表現など、援助技術の原理を用いながらコミュニケーションを取って対応している。そして、落ち着いたら、食事に促し、時には入浴介助を行っている。このように、日常業務は、ケアワークとソーシャルワークが連動しているのである(高木(2000):佐藤(2004))10。福祉施設の業務がソーシャルワークとケアワークが未分化であることが問題ではなく、意識していかに用いるのかどうかにあるといえる。共通基盤を踏まえた上で、ソーシャルワークもケアワークも目配せしてこそ、施設職員の専門性が発揮される。

第3項 介護業務の専門性について
 ケアワークは子育てや高齢者介護など誰でもできることだとみなされている。実際に誰もが子どもがいれば乳幼児のオムツを替え、病気をすれば看病もしている。
 しかし、ケアワーク一つ、仮に排泄介助をとってみても実に多様な学問が介在している。例えば、知的障害児の排泄介助は、発達的・療育的視点で行うことが必要である。その視点には教育学、心理学、様々な療法(行動分析など)、リハビリ、小児保健、小児医学が関係している。その他、衛生学(清潔とは何かなど)、ケア学(看護・介護技術など)、障害学(障害把握など)、援助技術(言葉がけなど)なども含まれてくる。その上で、具体的にどのような計画を立てるのかという現実的な処理が行われる。このようにさまざまなシステムや学問的な裏付けが排泄介助一つにも存在している。
 実は、このことに気づいたのは、筆者が福祉施設に勤めて10年経ってからであった。何気なく、日々便通が悪ければ浣腸をしたり、便をこねる利用者には、手を突っ込ませないようにつなぎを着せたりしていた。日々の排泄介助は、反射的であり、業務上決められたものだった。一応支援計画では、例えば便コネの減少を図るとか、自力で排泄できるように支援すると書く。しかし、その方法は、定期的に便座に座らせるとか、汚したらすぐに着替える程度であった。
 その時、ふと、いったい排泄とは何か。便失禁をする発達年齢はどの程度なのか。次への段階的な具体的な方法に何があるのかなど何一つ知らないことに気がついた。それを自分なりに理解するには、上記のような多様な学問から知見を借りて、深めないとできないことが分かった。つまり、いかに自分は表層でしか仕事をしていなかったのに気づき、同時に仕事の一つ一つを極めようと志したとき、仕事そのものがすごく奥が深いことを知ったのであった。

第3節 援助者の振る舞いについて
はじめに
 これまで、施設職員や福祉従事者にとっての専門性とは何かについて述べてきた。仕事の中身における専門性、様々な学問を学びながら自分の人間観や認識を高め専門性を磨くことを述べてきた。本節では、では、利用者との関わりの中でどのように振る舞うべきなのかを中心に論じていく。

第1項 専門家の批判について
 専門性の所在は、日常業務の中でも見られることだし、自分の狭い価値観だけではなく、広く一般論を学ぶ姿勢から専門性を身につけていくことを述べてきた。ところで、社会福祉の専門性を強調する見方がある一方、福祉職が専門家として福祉利用者に対して抑圧的であるとか権力を行使しているという批判がある。
 上田(2002b)は、障害者の自己決定権を尊重するためには、専門家の専門性を自己否定しなければならないと思っている専門職者がいることを挙げながら、「従来専門職者が非常に狭い(しかも誤った)専門性に閉じこもっていたためにパターナリズムに陥って障害者の自己決定権尊重に逆行したのであって、専門職者が広い視野を持ち、患者・障害者の将来の人生の様々な可能性まで見渡せるだけの専門性を持つことによってはじめて、専門職者の専門性と障害者の自己決定権を両立させることができる」上田(2002b,P.87)と述べる。上田(2002b)は、リハビリテーションを主軸に論じてはいる11が、この広い視野の獲得こそがまず持って必要であるという指摘は援助者としての一つのあり方を示している。
 確かに、我々は狭い価値観で世の中を見ていることを自覚し、広く学ぶことが必要である。同時に、福祉対象者も目の前の問題解決や場当たり的にしのぐかのような処方箋を求めることがある。特に障害者施設であれば、とりあえず生活ができればよいとか見通しが立たないまま年月を過ごしていくことが多い。
 さらには、援助者は専門職として、利用者の“あるがまま”を受け入れて、全てを包み込むような「受容」の態度が求められている。その上、広い視野に立ち、利用者に対等な立場で一緒に問題を解決することが望まれる。しかし、利用者が援助者を拒絶し、受容しないことも十分あり得る。それは、話せば分かるという安易なものでもなく、どうしようもない場合もある12。その時、援助者の方法に従わせるような受容やある一定の拒絶までは許すと言った、条件付きの受容で、利用者を操作する可能性も高い(山下〔2002〕)。
 なるほど、場当たり的なものではなく、より広い視野に立って利用者ともに歩む姿勢や受容的態度は、単に主観的な判断で利用者に接し、自分の業務の範囲だけで押しつけるよりは良いことである13。しかし、はたして援助者は利用者の将来の人生を見渡せるだけの視野を持つことができるのであろうか。仮に、広い視野でその利用者の人生の可能性を見渡したとしても、結局、「専門家が彼らを指導し、教え、援助する」(田中〔2004,P.37〕)ことから一歩も外に出ていないのではないか14。特に、福祉施設の場合は、利用者が長期に渡り、あるいは場合によっては死ぬまで同じ所にいることが多い。副田(1994)の言う、いくら援助者(ワーカー)が社会科学の知識をフル動員させたとしても、「ワーカーの提案する特定の援助方法・内容に従うことが、将来、必ずクライエントの積極的自由や最善の利益・福祉をもたらすとは誰も断定することができない」(副田〔1994,P.32〕)はという指摘は重い。
 筆者は、当面の間このパターナリズムあるいは専門門的判断と福祉利用者の自己決定尊重の間でのジレンマは解消されない15問題ではないかと考える。度々取り上げているが、社会福祉の役割は、社会において期待される社会規範〜障害者の社会への適応と統制、その一方で、人権尊重を基調にした障害者の自己実現や生活の質の向上・社会変革の間で常に揺れ動くものである16。つまり、専門職として、利用者の自己決定権を尊重し、自己の要求を満たすように支援することと、利用者の障害そのものへのアプローチ(社会性向上や適応など)は、度々矛盾し、常に妥協を余儀なくされるからである。問題はその振る舞い方である。
 時々援助者の中に、これまでの学習の成果を利用者に開陳し、断定し、一方的にサービスの内容を決定し従わせる人がいる。あるいは、就労による自立や問題行動の是正だけに集中する傾向がある。また、自分の働きかけの効果や結果を重視してしまう。
 制度に精通すればするほど、また障害構造などを学べば学ぶほど、目の前にいる利用者を定義づけたくなる。あるいは、施設や現実の限界を知れば知るほど、目の前の業務が全てだと思いこみ、型どおりにきっちり仕事をすれば良いと思うようになる。それこそが、上田(2000b)のいう狭い視野しか持たない専門家であり、それは権力然とした態度として表れるものである。

第2項 利用者から学ぶ態度
 では、そうした権力然とした態度ではなく、利用者との関係性の中で専門性を見いだすことができるのだろうか。
 その答えの一つに、まずは、目の前にいる利用者をじっくりと考えてみることが大切だと考える。目の前に存在する利用者のこれまでの生き様はどうだったのか。あるいは、家族はどうだったのか。そして、今いる施設は社会的にどのように形成され、その利用者は入所に到ったのか。そして、これからその利用者はどうなるのか。ケアの技術論ではなく、その利用者の社会的な文脈を一生懸命考えてみる。そして、利用者は、ただ単に救済される対象ではなく、利用者との非言語・言語の対話を試みることである17。つまらない冗談とかくだらないと切り捨てるのではなく、まず真摯に話を聞くことである18。そして、その話の中に潜む問題を一緒になって考え、もっと良い暮らしがあるのではないか、関わり方があるのではないかと内省することである19。それは、利用者との関わりの中から利用者から学び、自分の価値観(人間への理解)を深める姿勢である20
 言い換えると、利用者の何が社会福祉の問題として捉えられ、そして何を棄てられたのか。その中にあって、見逃されている問題(タブー視されているもの)を掘り起こす。あるいは、今よりも良い暮らしとは何かと考える中で、自分が勤めている施設では取り組まれていなくても先進的な所からヒントを得るかもしれない。
 そこから、自分がここで働くことの意味を捉えることはおそらく重くなる。学べば学ぶだけ、考えれば考えるだけ重くなる。しかし、人がそこにいる意味は決して軽くない。しかし、それだけ人を見つめ、考えることは、一面では捉えられない多様性に気づいていく。福祉施設は単にケアサービスを提供するだけの単調な仕事ではなく、豊かなものだと気づくのである21
 あらゆることを学びながらも権威者然とせず、そこに自然に寄り添う。そして、利用者から学ぶ姿勢で自分の価値観を柔軟に更新する。そのまなざしは広く、知的好奇心と幾分かのねばり強さを持って自分なりの仮説(理論)を把持しようとする。そんなことが一施設職員にできるのかという疑問の声もあるが、もしプロフェッショナルを志すのであれば、そのような姿勢が求められると考える22

第4節 考察
 本章では、福祉職の専門性の所在を論じてきた。介護技術一つにしても何気ない会話の中にも考えるべき事は多様に存在することを述べてきた。現場における専門性とは、制度・政策の側面だけではなく、むしろ、〈実践〉とそこに要請される〈認識〉の道筋を探り当てることが重要である(三浦〔2006〕)。言い換えると、日々具体的になしている判断・思考・行動を考える際、自分の権限・裁量行使だけではなく、人間をいかに理解し、把握するのか社会福祉学(社会福祉学そのものへの問いも含む)のフィルターを通した認識が必要である。
 繰り返しになるが、これまでの論述をまとめると以下のとおりである。


1 鎌田ら(2003)では、福祉適正の因子分析を行い、さまざまな職種によって適正は違うと断りを述べながら、「他人の立場・目配り」、「意思の疎通・社会性」、「向上心・専門性」、「行動力・統制」、「客観性・冷静」、「責任感・堅固」が最も寄与率が高かったと分析している。
2 圷(2004)では、専門性、専門職性、専門職制度と分けて考察し、従来このカテゴリーが厳密に考察された物ではなく、人為的・意図的な構想課題(研究課題や政策課題)にならざるをえなかったものだと考察している。ちなみに、狭義の専門性は最も抽象度の高い行為像・行為主体像として規定し、専門職性は広い定義とは区別している。本論では、便宜上専門職は知識、技術、価値を体現している専門性を有した職業人という意味合いで使用している。
3 秋山(2005)では、社会福祉の専門性の研究において、「専門性」「専門職性」「専門職制度」の3つの概念が混在していると指摘している。その上で、社会福祉の専門性、ソーシャルワークの専門性、施設・機関の専門性、職員の専門性があり、専門性と専門職性の概念が不明瞭であったとしている。本論では、専門職性に傾きつつも、ソーシャルワークの専門性について論じている。
4 いわゆる政策論と技術論の論争については、秋山(2000)が詳しい。
5 秋山(2000,P.210)では、社会福祉学には学問における「定説」が存在しないことが大きな妨げになっていると指摘している。
6 金子(2000)を参照。金子は、関係性における権力、施設の空間的特性から施設職員はともすれば自分なりの考えだけが正しいと思いこみやすい主観的肯定に陥りやすいことを指摘している。
7 詳しくは、特に田中(2002)(2004)を参照。一般論→個別性への見方の重要性、ある仮説をもとにものの見方を思考していく考え方は示唆に富んでいる。当然、その仮説はあくまでも一時的な措定であり、柔軟に修正され構築されていく思考であると考える。その思考はむろん、あらゆる多様な視点や論理を吟味したものである。
8 中村(2004)、竹内(2004)、大橋(2000)参照
9 高木(2000,P.141)では、障害者の施設処遇で介護援助とソーシャルワークの双方を含むレジデンシャルソーシャルワークが理論的・実践的に組み立てられようとしていることについて言及している。いまやソーシャルワークかケアワークかという論議よりもむしろ、看護と介護によるケア学等の誕生など学問が越境し、ゆるやかに接続している。
10 田中(2006)は、知的障害者入所施設のケース記録やインタビュー形式の調査によって、日常業務における専門性について分析している。ある意味事例的で分かりやすい内容である。生活を支えているその多様な視点の分析には示唆が多い。
11 様々な職種によるチームアプローチのあり方−分業から協業へ。目的指向アプローチなど示唆に富んでいる。
12 山下(2002,P.206)参照。そこには、事例として、不登校のケースを扱っていて、どうしても援助者を利用者が拒絶する。その原因が、不登校の原因を作った学校の先生にその援助者が似ているという理由であったことを引き合いに出している。母親がその利用者にまったく違った人であると説明をするが、利用者の感情レベルで生じた反応は、理屈で説いても効果を発することがなかった。このように、援助者と利用者の間以外で惹起された拒絶は実際のと頃為すすべがない。
13 金子(2000)では、権力関係は発生し続けることを認識しつつ、援助過程に家族などの批判力を内包しつつ、職員が常に援助内容を客観化し、利用者の自己実現を援助し、その成果から援助者側が専門職として向上を遂げる循環を指向することを述べる。客観化とは、科学的な根拠に基づくことである。
14 副田(1994)では、福祉サービスの利用者がもはや自律的にあるいは問題に対処できないため、他者に依存せざるを得ない状態にあり、ワーカーはクライエントに役立つ情報や福祉資源、提供決定方法にかんする情報を多く持っており、ワーカーがクライエントに対し実質的な権限を持っていることを指摘している。構造的に権力関係は避けられないことを指摘している。その後、援助者として望ましい態度としてバイスティックの7つの原則、記録の利用者との共同制作(アクセス権)など詳細に考察されている。
15 副田(1994)は、このジレンマは、社会の福祉追求とクライエントの自己決定のジレンマであると指摘している。クライエントの最善の利益を妨げている原因に社会資源の不足も挙げられている。しかし、社会資源の不足は、これまで社会福祉が工夫や努力で資源を創出してきたことやクライエントの自己実現を図るために工夫してきたことを述べながら、そうした創意工夫こそがワーカーの仕事のおもしろさであると述べる。
16 横山(2004)参照。横山は、PSWの精神障害者への社会的統制を担っている自分と、自己実現や社会正義を目指す自分の葛藤を3人のPSWからインタビュー形式で調査している。結局、専門知識をどのように用いるのか。他者としての利用者を自分はどう捉えるのかが焦点になっている。
17 援助者から観た対象者という視点ではなく、対象者と位置付けられた人々の葛藤やそのレッテルに対する反発やあきらめに着目する(岩田〔2001〕)という意味での対話である。
18 田中(2004,P.39)参照。
19 田中(2004.P.38)で、「…まずもって具体的利用者を師とし、そこから学ぶことを通して、人間とは何であり、生きるということは何であるかということを根本からもう一度、自分の問題・課題として捉えなおす必要がある」と述べる。この人間への理解は、一面的に、容易に考えるものではない。
20 田中(2001,2002,2004)参照。筆者の力量不足で論じきれなかったが、(2001)の林竹二の学ぶ姿勢について、(2002)の仮説演繹的社会福祉学方法論の提示などが特に参考になる。
21 菅野(2003,PP.87-123)の中で、社会の成り立ちと「本当の私」という題で考察している。他者を理解しようとする態度は、しばしば、他者の全てを知ろうとすると勘違いをしがちである。あるいは、本当の自分を分かって欲しいと思いがちである。しかし、本来人は分かり合えないものである。さらに、人は社会的な役割を担っているが、そこには、自分のことをどう思っているのかという「他者のまなざし」によって主体性や人格が作り上げられていると考察している。その上で、他者からの承認が得られ、〈いま・ここ〉の役割の意味を自分で深く了解することによって、〈本当の私〉と出会えると論じている。
22 直接的ではないが、野地(2001)を参照。特に、その中に出てくる靴磨きを生業にしている取材記事は参考になる。一見靴磨きは誰でも行えることであるが、よりよい靴磨き(サービス)を提供するのには膨大な知識と技術の研究が必要であり、それに終わりはない。そして、自分の知識を披露したり偉ぶったりせず、一日一日、良い仕事をすることが自分の喜びとする姿勢に学ぶことが多い。
23 社会福祉の場合、具体的な利用者との関わりを通じて立ち現れてくる個別的・事例的な性格を持つ。ゆえに、経験や判断によって導かれた既知性とは別に、未だ知られない部分が存在することを前提にする。そのため、情報収集=認識姿勢は、可能な限り利用者と利用者を取り巻くものの実像ないしトータルな姿を適切に描き出されることに関心が注がれる。よって、いわゆる事務職の労働実践を大量処理や効率という視点で説明すれば、固定的なプロセスとした場合、社会福祉の労働実践は、この個別性への洞察は、新たな事象を開くという意味で発展的なプロセスを踏んでいると言える(三浦〔2006〕)。


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