新しい『寄付の文化』としての共同募金

論文1「21世紀に向けて新しい『寄付の文化』の創造を目指して」〜共同募金の50年と改革の課題

「21世紀を迎える共同募金のあり方委員会」、「東京都におけるこれからの歳末助け合い運動のあり方について」、「歳末助け合い運動検討委員会」〜今日的視点に立っての大胆な見直し

共同募金の名称での運動は、1947年11月25日から一ヶ月にわたって展開された「第1回国民助け合い共同募金運動」が始まり。
背景に、一つは、終戦直後の互助的な意味合い。もう一つは、民間社会福祉事業を救済するための社会福祉関係者の組織的な運動。また、民間の福祉に行政が資金提供できない公私分離の政策のための対策として。
1970年までは、経済的貧困に起因するよう保護問題が社会福祉問題であり、その対応として生活保護に代表されるような金銭的給付を行うことが行政の中心的課題になる。同時に、共同募金もそうした人々を対象にして進められた。
しかし、皆年金・皆保険制度が出来かつ高度成長期と共に社会福祉サービスを利用する人々が、必ずしも生活困窮者だけでなく、全ての国民の対象となるものとなる。また、社会福祉制度の充実と共に、共同募金の役割が薄れることとなる。施設の拡大は、配分の金額を少なくさせ、効力も低下する。民間施設の措置水準の向上は共同募金の資金を必要としなくなる。そして、共同募金は、地域福祉の実践という社会福祉協議会への資金という意味合いが強くなる。
その後、1990年に社会福祉関係8法が改正され、在位宅福祉サービスの展開、地域福祉の計画的推進の時代に突入。今後の共同募金は市町村社会福祉協議会の展開する在宅福祉サービスをどう支援していくかが大きな課題となる。

風化行政
社会事業における物質的援助を軽視し、精神性を強調したものである。しかも、その思想のバックボーンは、報徳思想の推護の考え方で、国民の勤倹貯蓄と隣保相扶を奨励するものであった。このような思想善導があったればこそ、日本は行動経済成長を行うことが出来たと言えるが、一方では社会福祉サービス利用者に対する恥意識を強いものにし、かつまた社会福祉サービス利用者への人生の落伍者としての偏見とラベリングをきつくさせてしまった。従って、共同募金に対する意識も、自分は生活に困っていないが、社会的には困っている人がいるので、慈恵的に、慈善として金銭の寄付に協力するという考え方の域を出ないし、その寄付も自発的に行うというより、町内会、自治会単位での募金が行われているからおつきあいをするという認識であり、結果として強制感を伴うなどの指摘がされることになる。慈恵的に行われる募金のさいたるものが明るいお正月をとのスローガンで展開されている歳末助け合い運動といってよいだろう。

博愛の精神の発露のボランティア活動を推進するという形態をとる場合もあるし、金銭を寄付するという形態もある。日本では今、非営利団体の活動が注目され、その支援のあり方の法制化が論議されているが、それらの民間団体の活動のあり方を考える際の大きな要因と課題の一つは、国民がそれらの非営利団体に対して寄付をどう認めるかということであるし、そのような寄付がどれだけ行われるのかということである。
共同募金は、従来のような慈恵的意識を温存させかねない募金方法を改め、出来るだけ本人の博愛の精神に基づいた自発的募金活動により共同募金が行われるような防菌方法を改善すると同時に、21世紀の新しい社会システムとそれを支える民間社会福祉事業を推進させるために、新しい「寄付の文化」を提起し、それが国民個々人のライフスタイルに根付くように活動を進めることが必要であろう。

メモ
要するに従来の募金は、昔からの施しやお布施などに代表される身内の互助的な拡大版が共同募金であった。しかし、共同募金は全国規模で行われるため、どのように自分のお金が活用されているのか、実感できないし、社会福祉施設やサービス利用者はどのようなものかという理解も一般には少ない。そうした意識もあるし、即物的にどのように使われているのかを知りたい。しかし、西欧では、博愛精神といって、神の身許で善行を自発的施すのが当たり前であり、富の寄付は正義であるという風土である(本当のところはどうなのか分からないがイメージとして)。
現在の社会福祉施設は、いろいろないきさつもあるが、西洋のスタイル、思想で始まっている。共同募金はいうなれば、日本人の心に訴えてきたところがある。しかし、これからは、より共同募金の金額をのばしていくためには、マンネリ化を打破してモチベーションを高めないといけない。そこで登場したのが、とってつけた博愛精神である。そういう気持ちを持たないといけないと強制している段階で、それこそ善意の押しつけに見えるのは私だけか。

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