米田家文書
米田征司 博士/准教授の祖父米田匡が米田家文書を対馬歴史民俗資料館に1981年11月9日に寄贈。
(長崎県立長崎図書館に問い合わせ、米田家文書の所在が判明。(問合せ日:2017年3月30日、回答日:2017年4月5日) 長崎県立長崎図書館
郷土課 山口様に米田家文書について調査ご協力頂き、心中より感謝申し上げます。)
米田家文書は、全てフィルムで撮影され、複製・製本された物を米田家で保管している。
対馬古文書等採訪調査報告(P159の(46)) (国士舘大学人文学会紀要,1, (1969-03))に、米田家文書の概要が述べられている。以下に概要を引用。
「米田家は琴崎明神社の祠官であって、永禄十二年三月廿四日付琴崎大宮司宛宗調昌書下ほか中世文書十一通を伝領しているが、その文書は雨水に漬かったらしく、数通はほとんど披見に堪えない状態にある。」
※補足
・祠官[しかん]: 神職(神主)
・永禄十二年: 1569年
・琴[きん]崎明神社: 胡禄[ころく]神社(所在地:長崎県対馬市上対馬町琴)とも呼ばれている。以下に関連サイトを示す。
http://blog.tsushima-net.org/?eid=1037
https://www.instagram.com/p/BFxKOKmRsng/
http://www.buccyake-kojiki.com/archives/1061712455.html
http://blog.tsushima-net.org/?eid=1496
・米田家文書 [こめだけもんじょ]: 米田匡[こめだただし]が歴史民族資料館に寄贈したことから、米田匡家文書としても記録されている。
・米田 [こめだ]と米田 [よねだ]: 米田征司[よねだせいじ]の父米田忠成[よねだただなり(旧姓こめだ)]が、対馬市上対馬町琴から北九州市小倉に生活の場を移した後、苗字の読み方を“こめだ”から“よねだ”に改めた。
米田家文書が登場する書籍
@ 書籍『中世の対馬』には、中世対馬における朝鮮綿布の流通・加工の実態、および貨幣としての利用実態などが述べられている。其の中で、天文三年(1534年)以降、伊奈郡内の土地売買に綿布が使用される事例が増加することが示され、伊奈郡の財部氏・米田氏なども上級領主との土地売買により「端広」 「端広木綿」を支払っている事実について米田文書が典拠として挙げられている。(P86,93)
また、対馬における古文書の所蔵者について記載がある。次に引用する。「対馬における古文書の所蔵者は、中世以来の旧家で、親方といわれる給人・郷士の家柄が多く、それに神社・寺院が次ぐという。対馬には古文書尊重の風習があり、古文書は、母屋から離れた「コヤ」に特別の箱に入れて保管したため、火災の難に遭わず、多く伝来したという指摘をしている。」(P273)
A 書籍『上対馬町誌 資料編(2004年発行)』に、米田家文書が掲載されている。(P316-319)
掲載内容は次のページに示す。
米田家の先祖が登場する書籍
書籍『楽郊紀聞1 ―対馬夜話―』に、琴崎大明神の伝承が記録されている。P449(巻七 29)に神主として先祖が登場している。
登場箇所を以下に引用する。
「同村琴崎大明神の前の磯の、磯のものは、三月三日の外は、村の者も取る事ならず。三日は明神の祭也。此外海苔の口明けに、村中一日のりを取。其外は村の者も、其のあたりに行事さへならず。社人両家米田氏、是はいつ取りても、勝手次第也とぞ。弘化四丁未九月廿七日、渡島卯介話。」
また、楽郊紀聞では琴崎大明神に関して、霊験がある事は珍しいことでは無いと述べられている。例えば、全功寺の住持僧が、酒宴の際に酔狂して、拝殿に飾っていた御幣や祝い奉った神躰などを打ち砕いた。其の晩、全功寺の屋根の上に、所々光りものがあり、10日程して病み、その後4、5ヶ月後に戸口の外に倒れて死んだとのこと。(巻七 32) 他にも霊験について、同巻33にも述べられている。さらに、米田家文書にも「琴崎大明神霊験記」と言う文書が存在している。
※補足
・楽郊紀聞(中川延良、鈴木棠三校注、東洋文庫307 平凡社): 解説は司馬遼太郎著「街道をゆく 壱岐・対馬の道」P201-202から引用を次に示す。「楽郊とは対馬藩士中川四郎五郎の号で、江戸後期の人である。厳原(府中)城下に住み、対馬の民俗、民話、伝承、村々での出来事、風聞などいっさいを書きとめた。ぼう大なもので、鈴木棠三氏がそれらを整理し、綿密に校注して、そのうち二千条をえらび、『楽郊紀聞』二巻(平凡社・東洋文庫)とう書名で出されている。中川楽郊のえらさは、たれかから命ぜられたわけでもないのに、対馬一国の人文について民俗学的な採取方法によって説話をあつめ、書きとめ、のちのち対馬に関心をもつ者のための資としたことで、その動機に後世への貢献という意識がはっきりあることである。しかもこういう作業が、学問と知的所産ともされにくかった時代にやっているというのは、なみなみなことではない。いまひとつこの人のおもしろさは、その奇妙な号でわかるように対馬を楽郊(楽園のような土地)とおもっていたことである。この作業そのものが、作業者の人間と人生観のあらわれといっていい。中川楽郊はごく小身の者であった。役目も学問に何の関係もなく、毎朝、藩主の月代を剃って髪を結うというふうなしごとをしていた。」