ネールヴィンデの戦い 1793年3月18日



(以下の文章はGallicaに保存されているCharles-François Dumouriezの"[La] vie et les mémoires du général Dumouriez"第4巻第7章をBabel Fishで英訳したうえで、さらに日本語訳したものである。勝手翻訳なのでこのページは隠しページ扱いとしている)


 コーブルク公はトンル、サン=トロン、ランデンの間を前進してきた。6日[訳注:Ramsay Weston Phippsの"The Armies of the First French Republic"などを見る限り、16日の間違いである可能性が高い]に行われたティールモンの戦闘で、彼はその地域を確保した。両軍は互いのすぐ近くで野営した。デュムリエ将軍は17日を敵の陣地の偵察、兵士たちを戦闘のために配置すること、そして攻撃計画を立案するのに費やした。彼の前にはジョーレンの街を源流として大ギーテ川と平行に流れレオーの下流でそれと合流する小ギーテ川があった。この川は両軍を分けるように流れていた。川は2つの稜線に囲まれており、一部を帝国軍が占拠していたその稜線はランデンやサン=トロンに向けて高くなっていた。

 コーブルク公はマーストリヒトとリエージュから必要な糧食を入手するために彼の軍全てをトンルとサン=トロンに配置しなければならず、結果としてランデン方面へ伸びる左翼が弱くなり迂回や撃破しやすくなる筈だとデュムリエは想定した。また彼は、戦場の中でも大変重要な場所で、一方の軍が他方に対する攻撃を企図する際に攻撃側にとっては支点となり、防御側にとっては抵抗する拠点となる便利なレオーの町をコーブルク公が占領していないことも知っていた。

 ランデンからレオーまで展開している敵の戦線の前にはオーベルヴィンデ、ミドルヴィンデ、ネールヴィンデという3つの村があった。その中央下方には「ミドルヴィンデの墓地」と呼ばれる丘があり、3つの村と、ランデンの町と村々を隔てる小さな谷間を扼す場所となっていた。攻撃の際にこの場所を占領したものはこの地域全体を押さえることになり、間違いなく敵を退却させられるであろう。

 こうした条件に基づき、デュムリエは以下に示すような会戦計画を策定した。ラマルシュ将軍率いる前衛部隊によって構成された最右翼の第1縦隊は、ネールヘリッセンの橋を通ってランデンとオーベルヴィンデの間にある平野まで進出し、敵の左に展開して側面をおびやかす。ルヴヌール将軍が指揮するアルデンヌ方面軍の歩兵によって構成された第2縦隊は、同じ橋を通って前進。騎兵部隊の支援を受けながら迅速に「ミドルヴィンデの墓地」を確保したうえで、墓地に置いた12ポンド砲も使いながらオーベルヴィンデ村を攻撃する。ヌイリー将軍の第3縦隊もまた同じ橋を通って進出し、他の部隊と同時にネールヴィンデ村をその右側から攻撃する。

 以上の3個縦隊で右翼部隊を構成し、その指揮はヴァランス将軍が執る。攻撃が成功した際には、右翼部隊は左へ90度旋回し、目の前にいる敵の左翼部隊を押し込みつつランデンを通り過ぎてサン=トロンまで戦闘を続ける。

 シャルトル公率いる中央部隊の攻撃は2個縦隊で構成する。ディートマン将軍率いる第4縦隊はラーエルの橋で川を渡り、帝国軍の少数の猟兵で守られている村を迅速に突破してネールヴィンデ村の正面へ直接前進する。ダンピエール将軍の第5縦隊はエスマエルの橋を通り、ネールヴィンデの左側へと前進する。この2個縦隊は斜めの戦線を形成しながら右翼部隊の動きに追随する。

 ミランダ将軍が指揮する左翼の攻撃は3個縦隊で構成する。ミアチンスキー将軍の第6縦隊はオーベル=ヘルペンで川を渡りその正面を攻撃。さらにネールランデンへ前進するが、その間に第5縦隊より決して前に出ないよう注意を払う。リュオー将軍の第7縦隊はオルマエルの橋で川を渡り、サン=トロンへ通じる主要道路を通って攻撃する。シャンプモラン将軍の第8縦隊はネールリンターより下流のビンゲンの橋で川を渡り、レオーを奪ってそこを会戦が終了するまで保持する。

 完全に成功すれば、戦闘が終わった時点でフランス軍はその左翼をレオーに、右翼をサン=トロンに置いて帝国軍の退却路となるトンル方面に対応するようになる。ギーテ川にかかる橋には砲兵隊を置き、敗北時に各縦隊の退却を掩護することができるようにする。

 3月18日の朝7時から8時にかけ、全ての縦隊は同時に出発し、特段の問題もなく川を渡った。最初にラマルシュ将軍がランデンの平野部に行ったが、そこで最初の失敗をした。敵を探すのではなく、左翼をオーベルヴィンデ村に置いたまま待機し、砲兵と歩兵の移動が遅れていた第2縦隊を待ってこれと合流してしまったのだ。ようやく午前10時過ぎにこの部隊はオーベルヴィンデ村と「ミドルヴィンデの墓地」を十分な戦力で攻撃し奪取した。しかし、彼らは「墓地」を確保し続けようとしなかったため、オーストリア軍はそこをすぐ奪回し終日そこで戦闘を続けた。第3縦隊は迅速にネールヴィンデへ突入し、帝国軍を追い出した。しかし、ヌイリー将軍はすぐに村を放棄し、第2縦隊が接近してくる間に平野部に展開した。ヌイリー将軍はこの行動についてヴァランス将軍から命令を受けたと主張しているが、ヴァランスの方はヌイリーが命令を誤解したと言っている。

 帝国軍はすぐにネールヴィンデを奪い返したが、シャルトル公率いる第4、第5縦隊による攻撃で再びここを失った。素晴らしい士官だったドゥフォレー将軍はここで頭部に銃弾を受けて負傷した。攻撃はやがて混乱状態になり、村に溢れ返った歩兵たちは無秩序に陥ったため敵の2回目の攻撃部隊が現れた段階で村を放棄した。

 この危機的な場面でやって来たデュムリエ将軍は再び村を攻撃してこれを奪ったが、兵たちはすぐに村から後退してしまったため、彼にできることは残された双方の死者と負傷者で埋まったネールヴィンデから数百歩離れた場所にいる部隊に合流することしかなかった。帝国軍はようやく夕方になって村を再占領した。帝国軍の騎兵部隊がネールヴィンデとミドルヴィンデの間にある平野部を通ってフランス軍騎兵部隊に突撃したのは、この混乱状態の最中である。騎兵部隊の先頭で戦った有能なヴァランス将軍は負傷し、ティールモンへ後送されることを余儀なくされた。この帝国軍騎兵は厳しい反撃に遭い押し返された。この突撃の間に別の騎兵部隊が同様の勢いでネールヴィンデ村の左側から第4縦隊の歩兵に向けて突撃してきた。そこにいたトゥヴノ将軍は戦列を空けて敵を通過させ、そのうえで大砲の散弾やデュー=ポン連隊による一斉射撃を浴びせてほとんど全ての騎兵を壊滅させた。

 この時点で右翼と中央部における戦闘はフランス側有利な状況で安定したかに見えた。フランス軍は隊列を維持し、信頼と勇気に溢れ、戦場で夜を過ごし、翌日には再び戦闘を始めて勝利を確定するべく準備をしていた。帝国軍は退却を行う準備を整えており、実際に砲兵は既にトンルへ後退するよう命じられていた。

 しかし、左翼で起きた事態は全く異なっていた。第6、第7縦隊は彼らの正面を十分な戦力で攻撃したにもかかわらず、オルマエルに達した段階で志願兵大隊の兵たちは恐慌に駆られ常備軍の兵たちを見捨てた。混乱状態を見た帝国軍は騎兵の突撃によって事態をさらに悪化させ、この2個縦隊を完全な壊走に追い込んだ。砲兵士官のギスカールや多くの副官・幕僚が戦死したほか、リュオー将軍とイーラー将軍は軽傷を負った。

 まだ十分に戦える兵力があり、時間もまだ午後2時になっていなかったにもかかわらず、帝国軍はオルマエルの橋を再び渡って退却するこの2個縦隊を追撃しなかった。ミランダ将軍は、ティールモンに到着したばかりのミアチンスキー部隊所属の選抜歩兵8個大隊を使って退却している部隊を増援し、ギーテ川の手前にあるヴォメルゼンの丘を占領すべきだと進言された。しかし、取り乱していたためか、それともライバルであるヴァランス将軍が指揮した右翼の成功を見て怒りに駆られ、その成功を阻止したいと思ったためか、彼は退却命令を出し、戦場から2マイル以上も離れたティールモンの背後まで部隊を下げた。さらに不実なことには、この移動で中央と右翼部隊が敵の攻撃による圧力を全面的に引き受けることになるにもかかわらず、彼はデュムリエ将軍に対しこの移動についての連絡を全く行わなかった。しかし、敵もこの後退によって利益を得たにもかかわらず、左翼部隊をティールモンまで追撃してこれを完全に壊滅させることも、あるいは中央と右翼に対して側面から再度攻撃をしかけることもしなかった。

 レオーを奪取して保持していたシャンプモラン将軍はミランダ将軍の退却を見てこの場所を諦め、再びビンゲンの橋を通って川を渡った後でその橋を落とし、オプリンターに陣を敷いた。ミランダ将軍の退却後もフランス軍の左翼に対して帝国軍が積極的に仕掛けなかったのは、レオーにいたシャンプモランが側面を脅かしていたためであろう。

 デュムリエ将軍は戦闘の間、ずっと右翼と中央の戦列を整理しこの方面での成功を確保するのに専念していた。左翼を支点として行われる機動において最も重要なのがこの方面だったからだ。午後2時ごろから、それまで激しかった左翼方面からの砲声が聞こえなくなったが、彼は当初それは成功を意味するものだと思っていた。地形の関係上、第6、第7縦隊を見ることは出来なかったが、砲声の進展度合いから考えて彼らは全面にいる敵を押し込んだうえで、戦線から突出しないために前進を止めたのだと判断していた。しかし、想定外だったミランダ将軍の退却について推量することは不可能だったし、右翼と中央の混乱状態を回復させるのに専念していた時にそのことに気づかなかったのはおそらく幸せだったのだろう。

 日没時、彼は帝国軍の右翼部隊が左翼を増援するために送られてきたのに気づき、嫌な予感を覚えた。しかし、未だにミランダ将軍から何の連絡もなかったため、この時点ではそれはまだ単なる疑惑でしかなかった。そのため彼はこの日の夕方をネールヴィンデ村前面で過ごした。彼はこの疑惑をトゥヴノ将軍には話さなかったが、次第に現実の心配事になってきていた。彼は参謀長と2人の副官、2人の召使を連れて左翼の方向へ出発した。午後10時にラーエル村へたどり着いた時、戦闘中に価値ある活躍をしたダンピエール将軍が命令もないまま夜になって村を捨て、師団を率いてギーテ川を再度渡り最初に布陣していたエスマエル村まで後退したのを見て、彼は驚愕した。さらに道路を進みミランダの部隊が占領していると信じていたオルマエルの橋に近づくと、そこにはオーストリアの槍騎兵がいたため、既に敵に奪われたことが判明した。トンルからティールモンへ通じる道を行くとティールモンの街まで1リーグ半の地域は全く部隊が存在せず、主要道路上には騎兵の支援を受けていない3、4個大隊が何の命令もないまま展開していただけだった。彼は左翼が恥ずべき退却をしたことを知った。

 彼はティールモンでミランダ将軍が冷静に友人への手紙をしたためているのを発見した。ヴァランス将軍は、右翼と中央によって戦いはほぼ勝っているのだから戦闘せずとも前進するだけで成功を決定付けられると全力を傾けて説得を試みていた。デュムリエ将軍はミランダ将軍に対し、同夜のうちに部隊を集めてヴォメルゼンの丘と主要道路、オルマエルとネールヘルペンの橋を占拠し、少なくともギーテ川の渡河点を押さえて川を背後に敵のただ中で戦っていた右翼と中央の退路を確保するよう厳しく命じた。

 これが国家の運命を決めたネールヴィンデの戦いの全貌だ。もしミランダ将軍が彼の2個縦隊が最初に混乱した時に退却を命じるのではなく、ギーテ川に戦線を敷いて左右両翼と連携できるオルマエルとネールヘルペンの橋を確保していれば、この戦いは完全な勝利になっただろう。この2個縦隊が2000人以上の損害を出したのに対し、残る部隊が激しい戦闘の後でわずか600人しか失わなかった点から見て、この退却は致命的なものだった。帝国軍は1400人の損害を出した。フランス軍は約3000人が戦死または捕虜となり、1000人以上が負傷し、多くの大砲を失った。

 両軍とも失敗をした。フランス軍は決定的な場所である「ミドルヴィンデの墓地」攻撃に際して十分な圧力をかけなかったし、そのうえ理由も分からないままそこを放棄した。ヌイリー将軍は深く考えることなく口頭の命令でネールヴィンデを放棄した。ミランダ将軍はオルマエル村を確保した後で兵たちの恐慌状態を上手く抑えられず、退却を命じた結果、部隊は壊走した。帝国軍による失敗の第一は、ギーテ川を防衛しなかったこと。第二はフランス軍右翼部隊の3個縦隊が自らをレール、ネールヴィンデ、ミドルヴィンデ、オーベルヴィンデ村からの砲撃に晒しながら攻撃に出た際に、その先頭及び側面を攻撃しようとしなかったこと。第三は標高が高く有利な場所であった「ミドルヴィンデの墓地」を放棄し、そこに砲兵を配置しなかったこと。第四は右翼部隊がレオーを占拠しなかったこと。第五は壊走したミランダの部隊を追撃しようとしなかったこと。第六は右翼部隊が前面の敵がいなくなった段階で、ネールヴィンデ前面で戦っていたフランス軍中央縦隊の左側面を攻撃しようとしなかったこと、などである。



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