1793年―フランドル戦線



・連合軍の反撃

 前年ベルギーを解放したデュムリエのフランス軍だったが、戦役の成功により任務は済んだと考えた志願兵たちが勝手に帰郷を始めたため、その兵力は次第に減少していった。それでもデュムリエは新たにオランダへの攻撃に踏み切る。3万人(2万3000人の説もある)のフランス軍がベルギーからオランダ国境へ向かい、7万人の軍勢がその右翼を守るべくマーストリヒトへ向けて進んだ。これに対して戦場にいたオーストリア軍は全部で約7万人だったが、イギリス、ドイツ諸邦、オランダの計3万8000人が増援にやって来る予定だった。デュムリエは2月17日から(21日からの説もある)5000人の部隊で守備隊3000人を擁するブレダ攻撃を始め、24日にそこを奪取した。

 一方、ミランダ将軍率いるフランス軍右翼部隊は2月11日からミューズ河北岸に沿ってヴェンローへの前進を開始した。これに対しザクセン=コーブルク公麾下のオーストリア軍が東方から接近した。敵の動きに気づいたミランダは北上を止め、2月10日から(21日からの説もある)2万人の兵(1万人の説もある)で8000人の守備隊が守るマーストリヒト包囲を開始。一方、連合軍側ではザクセン=コーブルク公がクレアファイト将軍、ヴュルテンブルク公、カール大公率いる3万5000人の部隊をミューズ河東方にいるフランス軍に差し向けた。3月1日、マーストリヒト包囲部隊を守るためアルテンホーフェンに配置させられていたフランス軍(9000人)は、オーストリアの2個騎兵連隊(1000人)の攻撃を受け、2300人の損害を出して壊走。フランス軍は2日にはエクス=ラ=シャペルから西のリエージュへと逃げ、3日にミランダもマーストリヒト包囲を諦め退却した。フランス軍はベルギーのルーヴァンまで退却したところでやっと壊走状態にあった部隊の再編に成功するが、その時点で兵力は1万3000人ほどに減っていたという。

 さらに3月5日にはヨーク公麾下のイギリス軍がオランダへ上陸。デュムリエはブレダを落とした後もオランダ領への進軍を継続し、3月4日にはドルドレヒトに接近していたが、ミランダの敗北を知って部隊をベルギーへ引き上げる。3月10日にはルーヴァンでミランダの敗残の部隊と合流。再編したフランス軍を率いて東進し、16日には1万人の兵をもってカール大公の前衛部隊(6000人)とティールモンで接触、これを押し返す。損害はフランス軍500人に対しオーストリア軍800人だった。だが、デュムリエはオランダやナミュールにまだ一部部隊を残しており、決して全部隊を集めた訳ではなかった。

・ネールヴィンデンの戦い(1793年3月18日)

 増援(大半は訓練不足の徴募兵)を受けて4万人から4万5000人まで(諸説ある)兵力を増やしたデュムリエは、ティールモン東方の丘に部隊を配置する。右翼はヴァレンス将軍、中央はシャルトル公、左翼はミランダ将軍が指揮を取った。一方、17日にはザクセン=コーブルク公のオーストリア軍主力(3万9000人)が戦場に到着。その兵力は4万3000人に到達した。オーストリア軍は部隊をフェラーリとコロレードがそれぞれ率いる2線に配置し、カール大公が右翼、クレアファイトが左翼の予備部隊を指揮した。18日午前9時、フランス軍の総攻撃が開始される。最初に行われたヴァレンス部隊のネールヴィンデン村への前進は、クレアファイトの予備部隊の反撃で村から撃退されるが、続く中央部隊の攻撃でフランス軍は村を奪回する。その後、ネールヴィンデンは両軍が激しく奪い合う場所となり、さらに3回に渡ってその持ち主を変えた。正午ごろ、フランス軍は部隊再編のため攻撃を一時中断。デュムリエが右翼部隊と中央部隊を使ったネールヴィンデンへの再攻撃を準備している間に、北方(フランス軍左翼)でミランダ将軍がカール大公の攻撃を受けティールモンへ壊走した。壊走したフランス軍左翼部隊の3分の1は、訓練不十分な1792年の志願兵大隊で構成されていたという。正面の敵を追い払ったカール大公は夕方早い時間にネールヴィンデン付近に到着。デュムリエはギーテ河東岸へと退却していった。フランス軍の損害は4000人で連合軍はその半分(2800人の説も)だった。この戦いで連合軍の参謀を務めていたのが、1805年にウルムでナポレオンに降伏することになるマック大佐である。

 連合軍は翌日から西方への前進を開始。デュムリエはブリュッセル東方にあるルーヴァン前面へと後退した。3月23日には3万8000人のオーストリア軍に攻撃を受けてルーヴァンの街中へと退却を強いられた。この戦闘でフランス軍は2000人の損害を蒙り、オーストリア軍は900人を失った。追い詰められたデュムリエは革命政府に対する反乱を部隊に呼びかけるが、部下の反対にあい、4月5日にはオーストリア軍の中へと逃げ込むはめになった。

・外患

 デュムリエの逃亡後、フランス国境まで退却したフランス軍は新たな指揮官(ダンピエール将軍)の下で再編を進め、4月下旬にはどうにか3万人の兵を集めた。一方、ザクセン=コーブルク公とヨーク公の率いる連合軍はゆっくりとした速度で前進。4月23日にヨーク公がトゥールネーに到着した段階で、最前線の兵力は4万5000人にまで膨らんでいた。政府により攻撃を命じられたダンピエール将軍は5月1日に前進を開始。コンデで包囲されている守備隊(4300人)との連絡を取ろうとしたダンピエールだが、サン=タマン付近で連合軍と戦闘になり2000人の損害を出した。政府から再攻撃を命じられたダンピエールは8日に再度サン=タマン付近のライムに兵力を集める(3万人)が、連合軍はすでに充分な部隊(6万人)を率いて待ち構えており、彼らの反撃でフランス軍は退却を強いられる。この戦闘の損害はフランス軍が1500人、連合軍が600人で、ダンピエールは戦死した。フランス軍はしばらく抵抗した後でヴァレンシエンヌ付近に下がった。

 連合軍はさらにヴァレンシエンヌを包囲すべく前進した。ダンピエールの後任となったラマルシュがこれを迎え撃った。5月23日にヴァレンシエンヌ北方のフランス軍をザクセン=コーブルク公の部隊が攻撃する間、東方から回り込んだヨーク公の部隊がファマールのキャンプへ突入。フランス軍はキャンプから追い出され、カンブレー方面へ退却した。このヴァレンシエンヌ(ファマール)の戦いでフランス軍は2万7000人、連合軍は5万3000人が戦闘に参加し、損害はフランス軍3300人、連合軍1100人だった。連合軍は早速ヴァレンシエンヌ包囲を始める。一方フランス軍側では、既に辞意を示していたラマルシュに代わる指揮官として、27日にキュスティーヌがカンブレーへ到着した。

 一方、勝利を重ねている連合軍だったが、その前進速度はフランス軍が立てこもる要塞攻めのため鈍っていた。ヴュルテンブルク公が包囲していたコンデ(包囲期間は4月8日−7月12日)及びヨーク公の包囲したヴァレンシエンヌ(同5月25日−7月27日、降伏は28日の説もある)の双方が陥落するまで、連合軍主力はフランスとベルギーの国境に止まっていた。だが、コンデの陥落はキュスティーヌにとっては致命的だった。厳格な規律を軍隊に持ち込んだ彼は兵士たちには人気があったが、政府側からはその人気故に疑いの目で見られるようになった。彼が軍務省を無能だと批判したことも政府側の反感を買った。コンデ陥落後にパリに呼ばれた彼はそこで逮捕され、8月27日に処刑された。北方軍の指揮は暫定的にキルメーヌが取った。守備隊9000人(9500人の説もある)を持つヴァレンシエンヌが1000人の損害を出して落城したことにより、キルメーヌはアラスまで退却した。

・ダンケルクとオンドスコートの戦い(1793年9月8日)

 8月上旬、フランドル地域の要塞攻めを終えた連合軍10万人が、4万人のフランス軍に対して前進を始めた。だが、ここで連合軍の政治的な思惑の違いが表面化し、統一作戦は崩壊。ヨーク公のイギリス軍など5万人(3万7000人の説もある)は政治的判断からザクセン=コーブルク公の制止を振り切って8月10日(15日の説もある)にダンケルクへと北上し、一方ザクセン=コーブルク公のオーストリア軍4万5000人はケノワ包囲のため前進を止めた。ヨーク公は8月後半にダンケルク外縁の拠点を巡るいくつかの戦いで勝利を収め、8月24日から包囲を開始。月末にはイギリス艦隊が到着し、9月3日には攻城砲が配置についたが、ダンケルクと外部の連絡は遮断されていなかった。新たに北方軍指揮官となったウーシャールは部隊をダンケルク近辺に集結。フランス軍は増援と新たな指揮官(スーアンとオッシュ)をダンケルクへ送り込んだ。ヨーク公は3万人(3万5100人の説もある)で包囲に当たり、ダンケルクに南方から接近する道路を防衛すべく1万8000人の部隊(1万6000人の説もある)をオンドスコートに配置した。ただ、攻囲に必要な大砲などはまだ到着していなかったという。フランスの戦争大臣カルノーは反撃を企図し、ウーシャールの北方軍に対し増援を与えた。

 9月6日夕方、フランス軍はダンケルク守備隊(1万人)が出撃してヨーク公の主力部隊を牽制する一方、オンドスコートを守るフライターク将軍麾下のハノーヴァー軍に対して6個縦隊が夕方から攻撃を加えた。この攻撃は各縦隊の連携が取れないまま実行され、ジュールダンの部隊は一時レクスペードを占領したが夜になってヴァルモーデン麾下の部隊に反撃を受け退却した。ダンケルクに新たな部隊を増援として送り込んだ後、ウーシャールは8日にオンドスコートへの攻撃を再開した。ヴァンダンムが左翼から、ジュールダンが正面から攻撃を実施し、ウーシャールが自ら率いた部隊が右翼から突入してオンドスコートの防衛部隊をディクスミュンドへと後退させた。戦闘に参加したのはフランス軍4万2600人(2万2000人の説もある)、連合軍1万7500人(1万2000人の説もある)。この間、ヨーク公はスーアン率いるダンケルク守備隊からの攻撃に対応するのが精一杯でオンドスコートの部隊を支援できず、8日夜にはダンケルク包囲を諦めて退却を決意した。双方の被害はいずれも3000人(フランス軍は1800人、連合軍は2300人との説もある)だった。

 勝利に勢いづいたウーシャールの北方軍2万2000人(2万6000人から2万7000人の説もある)は、さらに9月12−13日にメナンでオラニエ公のオランダ軍1万4800人(1万人の説もある)を攻撃し、2000人(3000人の説もある)の損害を与えてメナンを占領した。だがケノワから増援にやって来たボーリュー将軍麾下のオーストリア軍がクルトレーで9月15日に反撃に成功。ヨーク公も南下してオーストリア軍と合流し戦線に開いた裂け目を塞いだ。

・ワッチニーの戦い(1793年10月15−16日)

 一方のザクセン=コーブルク公は、ケノワを落としたらカンブレーを包囲する考えだった。クレアファイト率いる1万8000人のケノワ包囲軍は8月28日から(18日からの説もある)包囲を始め、9月11日(13日の説も)には5000人のケノワ守備隊を降伏に追い込んだ。この間、9月11日にはモーブージュから救援に赴いたフランス軍部隊が撃退され、同日カンブレーから前進した部隊も3000人の損害(4000人の説もある)を出して敗北した。この敗北が決定打となり、ウーシャールは北方軍指揮官の地位を追われてパリへ召還された。続いてザクセン=コーブルク公は9月30日からモーブージュ包囲を開始。2万人の兵を包囲に充て、その他に10万人の連合軍がサンブル河両岸に散らばっていた。モーブージュを守るフランス軍(2万人)の食糧は、10月中旬には尽き果てようとしていた。

 公安委員会のカルノーはこの地域でも反撃を計画していた。ウーシャールの後任として北方軍指揮官となったジュールダン将軍は、モーブージュ解放のため4万人(4万5000人の説もある)の装備不十分な兵をギュイズ周辺に集め、5つの縦隊を作って10月13日から前進を始めた。ザクセン=コーブルク公は兵をモーブージュ南東に集め、クレアファイトの部隊1万9000人(2万1000人や1万8000人の説もある)をモーブージュから10キロメートルほど南方のワッチニーからサンブル河にかけた地域に配置した。14日の小競り合いに続き、15日朝からジュールダンは連合軍の戦線に攻撃をしかけた。フランス左翼と中央は数千の損害を出して連合軍に跳ね返され、右翼の前進もワッチニーの前面で停止した。ジュールダンはその夜の間に左翼から(中央からの説もある)7000人(6000人の説もある)の兵を右翼へ動かし、16日朝に2万2000人の兵でワッチニーを攻撃した。フランス軍の攻撃はオーストリア軍を圧倒。最後には派遣議員カルノーとジュールダン将軍が自ら突撃の戦闘に立ったという話が伝えられているが、むしろカルノーの介入はフランス軍にとって不利に作用したという説もある。ザクセン=コーブルク公はその夜のうちにモーブージュの包囲を解いて退却した。連合軍の損害は5000人(3000人の説もある)、フランス軍は7000人(5000人の説もある)。ワッチニーの参加兵力についてはフランス軍6万人、連合軍3万人との説もある。

 フランス軍のスーアン部隊(1万人)はさらに10月21−22日にメナンで連合軍(8000人)を破り、22日にはアリューアン(トゥールコアン近く)でも1700人ほどの連合軍相手に勝利を得た。ただ、その後になってヨーク公がスーアンの右翼に対して反撃に出たため、フランス軍は27日にはメナンを捨てて退却した。ヴァンダンム将軍の部隊(1万2000人)はエミグレ軍を港町ニューポールへ追い込み23日から包囲を始めるが、イギリス海軍と連合軍の増援が到着したため30日には包囲を解いた。連合軍の反撃でフランドル戦線は安定。フランス政府は11月上旬に北方軍に対し再度攻撃を命じるが、天候不良と装備不足を理由にジュールダンはこれを拒否。両軍は冬営に入った。11月15日(16日の説もある)、前北方軍指揮官のウーシャール将軍が処刑された。


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