階級



 “北方”の歴史に入る前に私がしなければならないこととして残されているのは、革命戦争の開始時点で将来の元帥たちがどの階級にあったかを記すことである。1792年4月20日、皇帝に対して宣戦が布告された時、多くの士官の亡命に伴う昇進や志願兵大隊の設立によって将来の元帥たちの大半はその立場に変化が生じていた。彼らは以下のような状況にあった。もっとも先任だったケレルマンは中将(Lieut.-General)になっていた。ベルティエはAdjutant-Generalで階級は大佐(Colonel)だった。グルーシーは竜騎兵連隊の大佐(Colonel)で、セリュリエは中佐(Lt.-Colonel)、モンスイは大尉(Captain)、そしてマクドナルドは歩兵中尉(Lieutenant)だった。若きマルモンは砲兵部隊にélève-sous-lieutenant、つまり士官候補生(Cadet)として入っていた。彼らは全員、常備軍に属していた。かつて常備軍で士官の地位を得ていた者の一人ダヴーは志願兵部隊に入り、そこで大隊の中佐(Second Lt.-Colonel)になっていた。ペリニョンはまだ軍に再入隊しておらず、パリの立法議会の一員であった。砲兵大尉(Captain)ボナパルトはコルシカにおり、そこで彼は志願兵大隊の中佐(Second Lt.-Colonel)になった。
 革命開始時点で兵士に過ぎなかった5人のうち、1792年4月20日にベルナドットは常備軍歩兵中尉(Lieutenant)、ルフェーブルは大尉(Captain)だった。ミュラは依然として兵士(private)で、近衛騎兵(Garde à cheval)から猟騎兵(Chasseurs)に戻っていた。一方、ネイはユサール(Hussars)のmaréchal des logis chef上級曹長(Sergeant-Major)に昇進していた。常備軍大隊の軍曹(Sergeant)になっていたスールトは、今や志願兵大隊の教育係だった。
 軍を離れたかつての兵士5人のうち、1792年4月20日にオージュローは彼によると国民衛兵部隊に所属していたことになるが、階級は不明である。残り4人は志願兵部隊におり、ジュールダンとマセナは大隊を指揮する中佐(Lt.-Colonel)であり、ウディノは中佐(Second Lt.-Colonel)だった。ヴィクトールはadjudant sous-officierだった。
 6人の民間人、ベシエール、ブリュヌ、ランヌ、モルティエ、サン=シール、そしてスーシェのうち、宣戦布告時点ではたった3人だけが軍に入っていた。ベシエールは国王近衛騎兵(Gardes à cheval du Roi)の兵士(private)で、ブリュヌは志願兵大隊のadjudant-major、モルティエは別の志願兵大隊の大尉(Captain)だった。残り3人は後に志願兵部隊に入っており、ランヌは1792年6月にsous-lieutenantとして、他の者は明らかに兵士(private)として、サン=シールは1792年9月に、スーシェは1793年1月から7月の間に入隊した。従って、将来の元帥のうち最初に軍に入ったのはケレルマンの1752年で、最後はスーシェの1793年となり、その間には41年の差がある。
 急速な昇進の見本としてベルナドットを見ると、常備軍連隊の副官(Adjutant)だった彼は1791年11月に別の連隊に中尉(Lieutenant)として入った。戦争が始まったのはようやく1792年4月になってからだが、同年11月には彼はadjudant-majorとなり、1793年7月には大尉(Captain)となった。翌1794年の2月には中佐(Lt.-Colonel)、4月に大佐(Colonel)、6月に准将(General of Brigade)、そして12月には将軍(General of Division)となった。志願兵部隊も素早い出世への道を開いており、中尉(Lieutenant)だったダヴー、かつて兵士(private)だったジュールダン、マセナ、ウディノ、そしてヴィクトールは、入隊後一気に、もしくは極めて短期間のうちに中佐(Lt.-Colonel)になった。志願兵大隊指揮官のうち高位の将軍になった者としてはシャンピオネ、デルマ、ルクルブ、モロー、ピシュグリュ、スーアンなどもいた。既に見てきた通り、ボナパルト自身も短期間ながら志願兵大隊にいた経験がある。
 こうした突然の階級の変化は多くの嫉妬を招く原因となった筈である。36年に及ぶ軍歴を持つセリュリエ中佐(Lt.-Colonel)が、ほとんど経験を持たない多くの中佐たちを見てどう思ったかは想像に難くない。そのうえで彼らの相互の階級について将来の主君も含めると以下のようなリストができる。

中将(Lieut.-General)

ケレルマン

大佐(Colonel)

ベルティエ

中佐(Lt.-Colonel)

グルーシージュールダンマセナペリニョンセリュリエ

大隊を指揮しない中佐(Second Lt.-Colonel)

ウディノダヴー

大尉(Captain)

モンスイモルティエルフェーブルボナパルト

中尉(Lieutenant)

マクドナルドベルナドット

adjudant-major

オージュローブリュヌ

élève-sous-lieutenant

マルモン

adjudant sous-officier

ヴィクトール

sous-officier

ランヌ

教育係

スールト

上級曹長(Sergeant-Major)

ネイ

兵士(private)

ミュラベシエールサン=シールスーシェ

 翻訳者註:Phippsは冒頭で「1792年4月20日、皇帝に対して宣戦が布告された」と記しているが、この時、フランスの立憲君主ルイ16世が宣戦布告した相手は神聖ローマ皇帝ではなく「ボヘミア及びハンガリーの王」である。後の神聖ローマ皇帝フランツ2世は、この時点ではハプスブルク家領の後継者にはなっていたものの、まだ皇帝に選出されていなかった。
 また、Phippsは最初の方でグルーシーについて竜騎兵連隊の大佐(Colonel)であると指摘しておきながら、後には彼を中佐(Lt.-Colonel)に分類している。理由は分からない。



――「元帥分類」に戻る――

――ホームに戻る――