軍務



 彼らが出世した極めて特有の環境を考えると、兵士から昇進したその経歴についてまとまった議論をすることは不可能だ。マセナとスールトの場合、戦略ではなく訓練に関する彼らの知識が機会を与えた。志願兵部隊に入ってマセナは3年で将軍に、スールトは2年ちょっとで准将になったが、そのうち2年間は絶え間ない戦いだった。独立した軍の指揮を取るまでにマセナは6年、スールトはもっと長い戦争経験を積んでいた。普通の環境であれば彼らは各局面でより経験を積んだライバルと対面しなければならなかっただろうし、もし同じ地位まで出世したとしても、それはもっとゆっくりしたものだったに違いない。軍は即時の問題に対応しなければならない組織であり、フランスが戦力を再建している間にかの国を救ったのは連合軍がフランスに与えた予想外で異常な猶予だけだった。
 共和国の軍隊に旧常備軍の士官と兵士たちが大きな影響を及ぼしたとの見方は重要である。例えば1798年、東方軍がエジプトに出発した時、その軍には32人の将軍がいた。このうち14人は1789年以前にフランスで士官として奉職したことがあり、さらに2人、クレベールはオーストリア軍に、ザヨンチェクはポーランド軍にいたことがあった。残りのうち11人は1789年以前に兵士か下士官(sous-officiers)だった。かくして32人中27人は旧システム出身であり、たった5人だけが1789年以降、つまり革命下で軍に入ったことになる(原註)。東方軍が主に有名なイタリア方面軍から派遣されていたことを考えるのなら、この旧常備軍出身者が占める比率の多さは驚くべきものである。
 ただの兵士であった者でさえ貴重な知識を持っていたのであり、君主制下の軍隊に所属していた元帥たちこそがフランスにとって最も大切な貢献を成した。6人の民間人たち、ベシエール、ブリュヌ、ランヌ、モルティエ、サン=シール、そしてスーシェの誰であろうと、ボナパルト自身の偉業を別にしてもケレルマンがヴァルミーで、ジュールダンがワッチニーとフルーリュスで、あるいはマセナがチューリヒで成したような貢献はしなかった。疑いなくランヌ、サン=シール、そしてスーシェは常備軍出身の元帥たちの大半を大きく上回る能力を持っていた。それでも彼らは初期の戦役で指揮を取ることはなかったし、彼らの仕事を覚える必要があった。
 これに関連して二つのことを記しておかなければならない。一つは元帥間にある非常に大きな年功の差。もう一つは最初に高い指揮権を担った将来の元帥は、後に出世した者たちに比べあらゆる意味で不利な条件にあったということだ。自信、規律、そして経験に伴って進歩した後の時代の兵士たちに可能であった移動も、戦争の初期においては致命的なものになりかねなかった。さらに、初期の指揮官たちは一般的にその地位を得る前に経験を積む機会がなかった。かつて兵士であったジュールダンは、志願兵大隊の指揮権を与えられてから2年も経たないうちに訓練された幕僚たちのいない状態でフランスの主力軍を率いて決戦の指揮を取らなければならなかった。一方、スーシェは連隊を指揮するようになってからスペインで第3軍団を率いるまで16年かかった。公平な比較のためにはサン=シールを取り上げる方がいいのだが、それは困難である。というのも彼は比較的早い時期から軍の中で重要な地位を占めていたにもかかわらず、1808年にスペインへ行く以前は戦場で完全に独立した指揮権を握ったとは言いがたいからだ。さらに、初期の指揮官たちの傍には無責任ながら全権を握っていた派遣議員がおり、あらゆる行動に干渉していた。ヴァグラムの戦いでナポレオンが左翼における敗北を無視して右翼で攻勢に出ようとしている時に、彼を止めることができる人間がいることを想像してみればいい。私は、指揮官というものは高度な戦争技術を経験から学ぶことはほとんどないというサン=シールやナポレオンと同じ信念を抱いているが、それでも多くの問題について経験がものを言うのは事実だ。革命初期の指揮官たちを扱ううえでは十分に気を遣う必要がある。ジュールダン、ケレルマン、モンスイ、そしてペリニョンはいずれも第一級の指揮官ではないが、それでも1794年には4人全員が共和国の重要な軍を率いて成功を収めたのだ。
 さてここで、第一章でほのめかしておいた将来の元帥たちの“分類”を行おう。
 25人の元帥たちを、彼がこの戦争で最も重要な経験を積んだ軍に振り分けるとしたら、1797年の講和あるいは休戦までの期間については以下の分類ができるだろう。
 まず最初に“北方及び東方国境の軍”に奉職した者たちは、以下のようになる。

 北方軍

ジュールダンマクドナルド

 サンブル=エ=ムーズ軍(1794年にアルデンヌ軍、北方軍の一部、そしてモーゼル軍の一部によって組織された)

ジュールダンルフェーブルネイスールトベルナドット

モルティエ

 ラン=エ=モーゼル軍(1795年にライン方面軍とモーゼル軍によって組織された)

ダヴーサン=シールウディノ

 中央軍

ケレルマン。彼をここに置いたのはヴァルミーの戦いがあったからだが、この戦争において彼が最も長い軍歴を積んだのは南方戦線である。

 ラ=ヴァンデの軍

グルーシー

 そして南方国境のグループは以下の通り。

 アルプス方面軍

ケレルマン

 東部ピレネー軍

ペリニョン

 西部ピレネー軍

モンスイ

 イタリア方面軍

ベルティエマセナオージュローセリュリエランヌ

ミュラマルモンスーシェヴィクトールベシエール

ブリュヌ

 もちろん、彼らの初期の軍歴が必ずしも上の分類に限られたものでないことは理解してもらいたい。例えば、“北方”にはジュールダンとマクドナルド以外にも多くの者が所属していた。しかしここでは、上に記した特定の軍における経験が、各事例において彼らの性格に最も大きな影響を与えた点を考慮している。ケレルマンとジュールダンについては2つの軍を割り当てた。
 こうした初期の経験において最も明確な対照を成している戦役として、一方には“サンブル=エ=ムーズ”と“ラン=エ=モーゼル”グループが、もう一方には“イタリア”グループがある。

 原註:かつての士官16人:ボナパルト、アンドレオシ、バラギュアイ=ディリエール、ベルティエ、ドゼー=ド=ヴェイグ、デュギュア、クレベール、ド=ムヌー、デュ=ミュイ=ド=サン=メイム、ベルグラン=ド=ヴォーボワ、カファレリ=デュ=ファルガ、ダヴー、ド=ドンマルタン、デヌゼル=ド=ヴァルロワ、マンスクール、ザヨンチェク。かつての兵士11人:ボン、シャヌ、デュマ、フリアン、フュジエール、ルクレール、ミュラ、ランポン、ヴォー、ヴェルディエ、ヴィアル。1789年以降の入隊:ベリアール、ダマ、ランヌ、ミルール、レイニエール。


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