政治信条




愛国者(patriot)


革命支持


無関心


立憲君主主義者



 彼らの1791年における政治的見解を知るのは明らかに極めて興味深いことだが、これはとても難しい作業であり大いに慎重に取り組まなければならない。この時期に士官や兵たちが国境を越えたり、それぞれの連隊にとどまったり、あるいは民間人から軍に入隊したのには、多くの理由がある。多くの士官がエミグレ(émigrés)になった理由は理解しやすい。貴族は新たな情勢に対して当然ながら嫌悪感を抱いていたし、既に告発者が動き始めており時に苛立った兵士たちが彼らの信用していない士官たちを追い出していたことを踏まえるなら、多くの場合貴族の立場は軍内部において安全とは言えなかった。彼らに対して共感を持っていたと思われる他の者は、周囲の状況や、多くの者にとって極端な王党派から親しく迎えられるとは思えない異国の地を彷徨うことを嫌って、依然として軍に残っていた。退役することは危険だっただけに、選択肢はエミグレ(émigrés)になるか、それとも軍に残るかのいずれかになった。実際、後に退役しようとしたダヴーは自身の愛国心について完全に証明したにもかかわらず疑われ投獄された。さらに、1791年時点では誰も軍が極めて惨めな状態に陥るとは想像できなかった。かくして、新たな主義主張に多少は共感を抱いている者たちと、貴族でないがために閉ざされていた出世の道が開かれたことに気づいた者たちは、そこにとどまる大きな動機があった。
 一方、多くの民間人と軍役を離れた兵士たちにとって、軍に加われば明るい展望が開けそうであった。かつての兵士たちは志願兵部隊において新たな出世の道が開かれていると見た。民間人に関しては、まず第一に国中を熱狂の波が通り抜けていったことがあり、そして多くの若者にとって、友人たちの喝采を浴びながら、短期間であれ戦争の期間を通じてであれ軍に入隊することはごく自然で喜ばしいことだった。明らかに長期間を要しないであろう作戦によってひとたび敵が追い返され国の安全が確保されれば、後は栄光の記憶と伴に凱旋するだけだ。そうした称賛に値する感情が多くの者を兵士に変え、彼らは数多の戦と国々を見てその遺骨をエジプトやスペイン、ロシアに残すことになったのだが、彼らの幾人かが入隊時に持っていた熱狂はいつも長続きしたわけではない。国内の混乱に危険を感じた者や、愛国者との間で妥協をせざるを得なかった者たちにとって、軍は最良で最も安全な避難所となった。そこでは高い地位にいない限り、市民生活ではしばしば個人の復讐心を十分満足させることができた告発者たちから逃げる最良の機会があった。そうしたあらゆる理由が1791年に軍の戦列を満たす要因になった。さらに、この時期において将来の元帥たちの胸中に何があったのかを知るためには、その後に起きたことも考慮に入れなければならない。
 この革命の第一段階における愛国者(patriots)として、オージュロー、ブリュヌ、ダヴー、グルーシー、スーシェ、ジュールダン、ケレルマン、そしてミュラの名を上げても問題ないだろう。おそらくベルナドットもそうだ。このうち、ミュラとその指揮官だったランドリューの間で長く続いた個人的諍いを別にすれば、私の知る限りオージュロー、ブリュヌ、スーシェの3人だけが他人を告発する(当時は犯罪者と見なされた者にとっては処刑台と同義だった)のに加わったことがあるか、軍において派遣議員が行った残忍な仕事に対して共感を示したことがある。オージュローはいつも乱暴な言葉遣いをしており、彼とスーシェの言葉はいずれもおそらく彼らの意図より強いものだった。元帥の中でブリュヌだけが革命のもたらした血の汚点を持っている。彼が街頭でド=ランバール公妃の首を掲げた卑劣漢であるという王党派の非難は真実ではないし、その王党派自身は自らもまた卑劣漢である資格があることを示すかのように最後は彼を死に至らしめた。ダントンの友人で彼から「我がパタゴニア人」と呼ばれ、ロベスピエールの取り巻きでもあったブリュヌは、同朋を食い物にしていた卑劣な「革命軍」に奉職しており、その一部隊を指揮したことすらあった。彼はキュスティーヌ将軍などを破滅させるためのいわゆる陰謀にも加わっていた。グルーシーは典型的な革命主義的貴族で、進歩の理念に満ち、彼自身が攻撃を受けた時には驚くと同時に憤慨した。ケレルマンは単に善意を持った昔ながらの士官であって、愛国者たちの当初の主張は称賛したが、彼らの軍におけるやり方に反対せずにはいられないよき兵士でもあった。ダヴーの態度については既に言及している。1791年に連隊内にいた愛国者がなぜ断固とした帝国下の秩序支持者になったのかは理解しやすいだろう。ベルナドットの共和主義は奇妙な種類のもので、彼自身の利害に対する関心を妨げることはなかった。この時期のミュラは熱狂的な愛国者だったが、彼は弱い人間でありすぐに冷めた。純朴な男だったジュールダンは極めて真面目で、例えば「祖国は危機にあり」といった愛国的な言辞の有効性に対する多少哀れで多少こっけいな信念を持っており、彼自身に与えられた待遇の結果その党派にうんざりしても当然と思われるようになった後もなおその信念を持ち続けた。彼は自身が名目上所属している派閥による邪悪な行為とは何の関係も持っていなかった。おそらくランヌ、ルフェーブル、マセナ、ネイ、ウディノ、サン=シール、そしてヴィクトールはいずれも彼らに関係する範囲で革命を支持していたと見られるが、このうちサン=シールを除く者たちはさして幅広い視野を持っていなかった。マクドナルドは革命に無関心で、もし彼の妻がついて来られるようであったなら、亡命していたとしてもおかしくない。この慎重なスコットランド人がフランスでいい支持を受けていたことも触れなければ不公正ではあるが、それにしても彼がみずからの籤が引かれるかどうかという興奮しやすい競争を楽しんでいた疑いは残る。彼が家族の経験から、失われた大義のための亡命に伴う暗い側面を知っていたのは確かだろう。スールトが自らはどの派閥にも属したことがないと話しているのはまぎれもなく事実だ。私は彼を、自由に関して分別ある考えを持っていた立派なルフェーブルと同じ分類に入れるべきだろう。
 マルモンは彼自身を立憲君主主義者としており、同じ体制はおそらくベルティエ、ベシエール、モンスイ、モルティエ、ペリニョン、セリュリエもふさわしいと思っていたが、彼らの間にも違いはある。モルティエの見解について私は何も知らない。モンスイは交友関係がその見方を語っている。一人はカルノー(穏健派と見なされている)であり、他にはいつも王政主義を疑われていたモローや、王党派に転んだピシュグリュ、王党派の一人であるウィロー、そして最も過激な王党派支持者であるジョルジュ・カドゥーダルがそうだった。彼らはいずれも彼が旧制度(ancien régime)に満足していたと信じる傾向があった。1791年の立法議会(Assemblée législative)に選出されたペリニョンは、ジャコバン派の行き過ぎを警戒してすぐ議会から去った。彼は第一次王政復古に十分満足していたように見える。セリュリエはまさに革命を歓迎した者たちの一人であるように思える。彼はその時、それまで長い間point de condition、つまり生まれのために昇進することができなかった少佐になるために必要な推挙と資格を全て持っていた。にもかかわらず、彼は亡命を試みた末にある愛国者によって引き返させられたと申し立てられた。この話はおそらく根拠のないものであるが、彼がどのように思われていたかを示している。皇帝と最も長く友人関係にあったものたちの中の二人は間違いなく王党派だった。ベルティエは、彼にいい待遇を与えてくれた旧制度(ancien régime)に満足する十分な理由があった。愛国者はいつでも彼を疑っていたし、おそらく1791年春に彼の率いる兵が王の叔母Mesdamesのローマへの出立を阻止しようと試みた群集を鎮圧してからは一層拍車がかかった。加えて彼はラファイエットの党派の者だと信じられていた。彼が命を永らえたのは極めて幸運であり、彼自身が確固とした支配者の参謀長になることでようやくあるべき地位にたどり着いたと感じたに相違ない。立憲君主の近衛隊に奉職していたベシエールは、この部隊が解散された後もパリにとどまった。おそらく彼は、国王が密かに給与を支払いつづけていたと主張されている信頼すべき者たちの一人だった。8月10日のテュイルリ宮襲撃の際に、彼は少なくとも防御側の数人の脱出を助け、それからしばらく身を隠した後で南方へ戻り、そこで東部ピレネー軍(Armée des Pyrénées-Orientales)に入った。従って、忠節の価値を知っていた上り坂にある将軍ボナパルトが、彼をすぐに嚮導隊の指揮官にしたのは極めて自然なことである。ベシエールが本当に親衛隊を指揮した元帥になったのもまた当然だった。冷静で控え目、高潔で忠実だった彼がデュロックと同じ1813年に不幸にも死んだことはナポレオンにとって大きな損失だっただけでなく、後の眼に皇帝が友人のいない人間として追放されたように見える要因となった。めぐり合わせがどちらの側につくかを決めるうえで大きな役割を果たしたのは間違いない。ある伝説ではモンスイは彼の運命を決めるために羽根を空中に放り投げたが、それは彼に取って幸運なことにフランス側に落ちたという。

 翻訳者註:日本では愛国者というと右翼的なイメージが強いが、この時代の愛国者というのはむしろ左翼、即ちジャコバン派を意味している。フランス革命期には左翼のジャコバン派の方がナショナリスティックな性格を持ち、それに対して右翼である王党派がよりコスモポリタン的であった。ちなみに革命期のボナパルト将軍はジャコバン派寄りだと見られていた。
 ブリュヌが「パタゴニア人」と呼ばれていたのは、彼が背が高かったためである。南米パタゴニアには背の高い原住民がいると言われていたのが理由だろう。



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