階層




英国の士官階級相当


英国の兵士階級相当


その他



 1791年6月時点における将来の元帥たちの正確な社会的地位を知るのはおそらく興味深いことだろうが、一人のイギリス人にとって彼らを適切に位置付けるのは極めて難しい。我々はこの時期のフランス国民を貴族、ブルジョワ、そして平民と分けて考えがちである。しかし、ルイ=ナポレオンの元帥たちの一人であるド=カステラヌによると、高貴な人(un homme de qualité)は貴族(un noble)と呼ばれるとぞっとしたという。というのもその中には家族が貴族に叙された者も含んでいたからだ。真に名門の貴族である高貴な人(l'homme de qualité)は、彼自身が貴族に叙されたのではなく、その家系が古い騎士階級(ancienne chevalerie)に所属している人である。例えば大貴族(grand seigneur)の真似をしたマルモンのような人が、こうした事情を知っている誰からも決してそのように見てもらえなかったのは、このような背景があったからだ。生まれの人(un homme de naissance)はそれほど運が良くなかった者たちで、有名な家門の出で彼自身が貴族に叙された者を指す。グルーシー伯爵は幸運な者の一人で、王の馬車に入るよう招かれたこともある。そのためには途中に貴族への叙任を挟むことなく彼の爵位が1360年まで遡れることを証明する必要があった。
 元帥たちをフランスの社会階級に適切に当てはめることは潔く諦め、彼らがフランスで占めていた地位と同じ立場にあったと見なしてイギリス社会であればどう見られていたかについて分類することを試みよう。彼らの両親の地位に関する知識が助けになるだろう。工兵中佐だったベルティエの父はCommandant des ingénieurs hydrographesという重要な地位にあった人物で、サン=ルイ十字章を持っていた。元帥の母はマリー=フランソワーズ・リュイリエール=ド=ラ=セールといった。ダヴーの父ジャン=フランソワ・ダヴー(d'Avout)は騎士(Écuyer)であり、Seigneur de Ravièresで、シャルトル王立連隊の中尉だった。彼の母はアデレード=ミナール・デュ=ヴラールといった。グルーシーは、騎士(Chevalier)でありPage de la Grande Écurieだったフランソワ=ジャック・ド=グルーシーの息子だった。ケレルマンの家系はnoblesse bourgeoiseに属しており、彼の父はストラスブールのPremier Échevinだった。彼自身は1769年にマリー=アン・ド=バルベ=マルボワと結婚した。マクドナルドはフランス軍に奉職していたスコットランド人中尉の息子だった。ヴィエス=ド=マルモンは、エノー連隊大尉でサン=ルイ十字章を持ち田舎に古い地所を保有していた男の息子だった。ボン=アドリアン・ジャノー=ド=モンスイは、名目上はAvocat au Parlement de Besançonだったが実際は土地所有者でありモンスイに住んでいたフランソワ=アントワーヌ・ド=ジャノーの息子だった。モンスイの地所を1789年に購入した将来の元帥は彼の名に“ド=モンスイ”を追加したが、革命が始まるとそこから接頭辞を落とした。ペリニョンはジャン=ベルナール・ド=ペリニョンの息子で、彼自身オート=ガロンヌから選出された立法議会(Assemblée législative)の代議士だった。セリュリエは、Seigneur de Sore et de Saint-Gobertだったマテュー=ジローム・セリュリエの息子で、父は近衛連隊に入っていたが、この部隊は一介の兵士であっても入るためにはその家族が貴族(noble)か少なくともhors du communでなければならなかった。ボナパルトの父は、ネッケルが1779年に税金割り当てのため招集した議会に出たコルシカ貴族の代表だった。ボナパルト自身のブリエンヌ幼年士官学校への入学は、彼の家族が貴族であることが証明されたために可能となった。
 兵士だった者たちは以下の通り。オージュローは使用人あるいは果実商人の息子、ジュールダンは外科医の子、ルフェーブルはユサール[軽騎兵]のために働いていた粉屋の子、マセナとウディノは商人か貿易業者の子、ミュラの親は宿屋の主人で、ミュラによると人夫だった。ネイはかつて兵士であり後に桶屋となった男の息子で、スールトは公証人の子だった。ヴィクトールは裕福な農家の息子だったと言われており、父はhuissier royalでもあったという。ベルナドットは、Procureur au Sénéchal de PauでありJeanne de Saint-Jeanだったアンリ・ド=ベルナドットの子だった。家族はベルナドットを法律の道に歩ませようとしており、ミュラは僧職に、ヴィクトールは行政官にさせられそうになっていた。彼らのうち幾人か、例えばベルナドット、ミュラ、そしてウディノはいい教育を受けていた。マセナやネイなど他のものは親によって与えられた教育は限られていたが、軍において帳簿をつけたり収入を分配する必要のために兵士として普通のよい教育を受けた。古い格言に言う一人の兵士を殺すには1トンの鉛が必要ということが真実なら、全ての軍において兵士を生かし続けるためにはほぼ同量の紙が必要になるというのもまた真実である。
 6人の民間人について分類するのは簡単ではない。思うに、モルティエを例外として、彼らは最も高くても中産階級(bourgeoisie)の地位に置くべきだろう。ベシエールは裕福な外科医の子だった。ブリュヌの父は弁護士(avocat)で、叔父は手に入れるために20年の軍務が必要となる軍事勲章であるサン=ルイ十字章を持っていた。ランヌは農家の子だった。サン=シールの父は革なめし工で、かつては屠殺業者だった。スーシェの父は絹商人と言われているが、同時に彼はJuge Conservateur de la Charité de Lyonとも称していた。モルティエは他の民間人よりも高い地位にあった。有力者であった彼の父は1789年にカンブレシー選出の代議士として三部会に出た。将来の元帥自身は1791年にカラビニエール連隊尉官の地位を与えられた。もしこれが文字通り正しければ、彼は士官経験者に入れる必要があるだろう。2つのカラビニエール連隊は聞こえの悪い部隊だった。この連隊内の地位は、少なくともルイ14世の時代には、通常の連隊における中隊長の地位を買い取るには貧乏すぎる士官たちに与えられていた。しかしモルティエは彼の部隊には決して参加せず、志願兵部隊を通じて軍に入った。この分類の中で最も教養がなかったのがランヌで、我々が言うところの3つのR[読み、書き、算術]しか知らなかった。他の者はそれなりかあるいは良い教育を受けていた。例えばブリュヌは、出版社に入ったのは食べていくためだったが、法律家を目指していたし、作家でもあった。他者からは酷い目に遭うことを望まれていたサン=シールも、良い教育を受けていた。
 もし私の分類が正しいなら、1791年時点の常備軍で士官であったか、過去に士官として奉職した経験のある全ての将来の元帥、即ちベルティエ、ダヴー、グルーシー、ケレルマン、マクドナルド、マルモン、モンスイ、ペリニョン、そしてセリュリエと、加えて民間人のモルティエと多分スーシェ、及びおそらく兵士の中のベルナドットの計12人は、イギリスで常備軍に多くの士官を供給している階層に所属していた。全部兵士の区分に入っている4人、つまりオージュロー、ルフェーブル、ミュラ、そしてネイはこれまでイギリス軍の兵士を供給してきた階層に属していた。兵士区分のうち5人、ジュールダン、マセナ、ウディノ、スールト、そしてヴィクトールと、民間人のうち4人、ベシエール、ブリュヌ、ランヌ、そしてサン=シールの計9人は我々の士官や兵士たちの中にはあまりいない階層の者たちである。しかしなお、分類するうえではフランスの異なる階層に関するより微細な相違について私が持っているよりも詳しい知識が必要になるだろうと思われるため、ここに提示した分類もかなり控えめに受け取った方がよさそうだ。一つのイギリスの村においてさえ、異なる階層の間に線を引くのは極めて難しい。おそらくブリュヌには叔父と同じ道を歩んで士官になるコースが開けていただろう。また、マセナやウディノをネイと同じ階層にしなかったのが良かったのか疑問もある。ただ、私の分類にミスがあるとしても、元帥たちを粗野な兵士から成り上がった指揮官たちの群れとして描き出すことはできないだろう。ほとんど全ての者がそれなりか良い教育を受けていた筈だ。幾人かは兵士から出世したが、彼らは新しい地位を立派に務め上げた。フランス人好きとは到底言えないロバート・ウィルソン卿は、1814年に宿屋の息子であるミュラと一緒に食事をした時のことについて「チェスターフィールド卿にはこれほど見事な主人役を務めることはできないだろう」と述べ、さらに「欧州随一のジェントルマン」である摂政殿下ですら「彼の王らしい振る舞いには嫉妬を感じるのではないか」とほのめかしている。イギリス軍が最も多く接触を持っていた者たち、例えば穏やかなモルティエや粗野なスールト、乱暴なネイあるいは短気なヴィクトールのいずれも、実に騎士道にかなった敵であった。彼らの手に落ちた我々の負傷者は安全だった。もし我々がネイピアの公平さを疑うとしたら、それは彼が負傷した捕虜として世話を受けたことがあるスールトについて取り扱った部分においてだろう。元帥たちの世話が及んだのは士官に対してだけではない。スールトとムーアを追ってコルーニャへの競争を行っていたネイは、イギリス軍の軍人と結婚していた者を含む多くの取り残された女性と出会った。彼は彼女たちに対し、スペインの女子修道院に避難するよう命じた。我々の同盟国は反対した。この女性たちは異端である。ネイは「諸君の躊躇いは理解できる。では、代わりにカトリック信仰の点では保証付きの擲弾兵1個中隊を送ることにしようか」と言った。修道女たちは異端者を選んだ。このことや、より深刻な意味については1815年に思い出されるべきだった。

 翻訳者註:まず、この項目に登場する様々な旧制度下の役職については詳細不明。どのような役職であるか分からなかったため、原文のまま掲載している。
 ランヌに関する部分で使われる「3つのR」という言い回しについては「ネイ元帥」サイトのrougeaud1769氏から指摘を受け、上記のように翻訳した。深く感謝の意を表したい。
 Phippsは英国との比較で説明しているが、20世紀に入った段階でも志願兵制を採用していた英国と徴兵制を基礎に置いたフランスとでは単純な比較が難しい。英国は革命以前の常備軍的軍隊(貴族が士官、下層階級出身者が兵士となり、中間の階層に属する者は軍隊に入らない)を長らく保持していた珍しい国であり、それに対して大陸諸国は基本的に国民皆兵へと移行していた。
 David G. Chandlerも同様の階層分類について自身が編集者となったNapoleon's MarshalsのGeneral Introductionで触れている。それによると貴族出身がポニアトウスキ、グルーシー、ベルティエ、ダヴー、マクドナルド、マルモン、ペリニョン。低い身分の人間がセリュリエ、オージュロー、ルフェーブル、ミュラ、モルティエ、ネイ。残り13人は専門職や商業関係、あるいは下部中産階級の出身となっている。人によってかなり分類が異なることが分かる。



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