経歴



 我々の目的に従えば、元帥たちは次のように分類できるであろう。

 士官経験者

フランソワ=クリストフ・ケレルマン

ルイ=アレクサンドル・ベルティエ

エマニュエル・ド=グルーシー

ジャン=マテュー=フィリベール・セリュリエ

ボン=アドリアン・ジャノー・ド=モンスイ

ジャック=エティエンヌ=ジョゼフ=アレクサンドル・マクドナルド

ルイ=ニコラ・ダヴー

カタリン=ドミニク・ド=ペリニョン

オーギュスト=フレデリック=ルイ・ヴィエス・ド=マルモン

 兵士経験者

ミシェル・ネイ

ジョアシャン・ミュラ

ニコラ=ジャン=ド=デュー・スールト

ジャン=バティスト=ジュール・ベルナドット

フランソワ=ジョゼフ・ルフェーブル

ニコラ=シャルル=マリー・ウディノ

ジャン=バティスト・ジュールダン

クロード=ヴィクトール・ペラン

アンドレ・マセナ

ピエール=フランソワ=シャルル・オージュロー

 民間人

ジャン=バティスト・ベシエール

ジローム=マリー=アン・ブリュヌ

ジャン・ランヌ

ルイ=ガブリエル・スーシェ

ローラン・グーヴィオン=サン=シール

エドゥアール=アドルフ=カシミール・モルティエ

 ポニアトウスキ公は帝国期に所属する元帥なのでここでは取り扱わない。
 フランスの君主制が真に崩壊した時、即ちルイ16世がヴァレンヌで捕まった1791年6月時点において、将来の元帥たちのうち9人は、常備兵のみで構成されていた陸軍の士官であった。残りのうち10人はその時点かそれ以前において兵もしくは下士官として軍に奉職していた。残る6人は民間人だった。士官のうち、ケレルマンはmestre de campつまり准将だった。ベルティエは幕僚大佐。ド=グルーシー侯は中佐、セリュリエは少佐、モンスイは大尉で、マクドナルドは軍務に就いて5年経った少尉だった。ダヴーとペリニョンはいずれも6年軍務に就いていた少尉だったが、後者はちょうど退役したばかりだった。マルモンは少尉になって1年経過していなかった。ボナパルト自身は6年近く軍務を勤めていた砲兵中尉であり、月に100フランの給料で生活していた。従って以上の元帥9人と将来の皇帝は、フランス旧制度下の軍隊の訓練と発想をもって革命期の経歴を始めたことになる。
 私の指摘した兵士階級のうち、兵士になってネイは3年、ミュラは4年、スールトは6年が経過していた。ベルナドットは副官であり、軍務について10年になっていた。1789年時点でフランス衛兵隊に16年勤めていたルフェーブルは、その後国民衛兵隊の少尉になった。他の者は軍務に就いたことがあったが、この時には軍から離れていた。このうちウディノは3年、ジュールダンは6年、ヴィクトールは9年、マセナは14年軍に奉職した。マセナはadjudant sous-officierまで出世していた。オージュローはフランスと他の国で約17年の軍務経験があった。以上の兵士階級の者たちはいずれも、特に一部の者はたいへんよく、軍における一般的な規則と生活、いわゆる軍の内部経済について知っていた。
 ベシエールは美容院に勤めていた。ブリュヌは出版業を営んでおり、ランヌはペンキ屋にいた。彼らはいずれも軍のことなどほとんど考えたこともなく、それぞれの仕事に打ち込んでいた。スーシェはおそらく父の後を継いで絹商人になる準備をしていた。将来の元帥のうち2人は軍への入隊を拒否した。サン=シールはむしろ芸術家になろうとしていた。実際に少尉の地位を提供するとの申し出を受けたモルティエは、それを断った。
 かくして将来の元帥たちのうち9人は旧軍の士官であり、それぞれの地位と組織について普通の知識と伝統と先入観を持っていた。ボナパルトも同じ経歴の持ち主だった。他の10人は兵士として奉職したことがあり、少なからぬ経験と訓練と規律を我が物としていた。10人と言ったのはルフェーブルが常備軍の士官ではなかったためであり、またフランスの副官はイギリスのそれと同じではなくより低い地位に当たるものであって、従ってベルナドット、ルフェーブル、マセナは士官のうちに数えられない。多くともたった6人、つまりベシエール、ブリュヌ、ランヌ、モルティエ、サン=シール、そしてスーシェが軍事的知識を一切持たないただの民間人だった。ただし、ランヌの場合は疑問もある、というのも地元の報告によると彼は常備軍で兵役につき上級曹長になったとされているからだ。決闘で傷を負った彼はうんざりして家へ戻り仕事に就くつもりだったが、そういう生活にはいずれ飽きるだろうと確信して再び志願兵部隊に入隊した。この話を裏付ける証拠はないが、彼の所属する志願兵大隊が編成された同じ日にまるで彼に軍隊経験があることが知られていたかのように彼が少尉に選出されたという事実は、この報告の傍証になりそうだ。従って、適切な人数はおそらく士官が9人、兵士と下士官が11人で、民間人はたった5人ということになる。

 翻訳者註:ランヌの経歴を巡って地元に異論が伝わっていることはMargaret Scott Chrisawnの"The Emperor's Friend"でも指摘されている。Chrisawnによると、ある女性は彼女の曽祖父であるエイノール連隊の大尉ヴィクトール・ド=モンドランが革命勃発直後にランヌを将校つきの当番兵として雇ったと主張しているが、当該連隊にそうした記録は残っていないという。また、ルクトゥールのある商人は軍を辞めて地元へ帰ってきたランヌに向かい、軍に戻った方がいいと忠告したと述べている。


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