ワッチニーの戦い
ジュールダンの報告



 北方軍司令官の市民ジュールダンから市民ブーショット陸軍大臣へ。
 アヴェーヌの司令部にて、共和国暦2年、1793年10月17日。

 共和国の兵は手を組んだ専制君主たちの手下に対する目覚しい勝利を得ました。数の優位も、彼らが確保していたほぼ難攻不落の陣地も、これらの利点全てをあわせても我らの兵の勢いを止めることはなりませんでした。中央と両翼を攻撃された敵は突破され、頑強な抵抗もその損害を増やすだけでした。彼らの陣地は極めて有利なものでした。樹木に覆われた高地を保持し、そこにたどり着くまでに直面する必要があるいくつもの砲兵陣地を構築していました。それを正面から攻撃するのは困難かつ危険でしたが、正面に余裕がなかったためそれを迂回するには中央をほとんど空にしなければなりませんでした。ですが私はこの方法を取りました。
 私はデュケノワ将軍に敵の側面に移動し、有利な状態で攻撃できる場所を確保するよう命じました。将軍は私の命令を勇敢かつ賢明に実行し、この機動が2日間にわたる会戦の運命を決しました。迂回されるのを見た敵は、その宿営地を守っているワッチニーの村を守るべく頑強な抵抗を行いました。この村は3度にわたって奪取、再奪取されました。派遣議員のカルノー及びデュケノワは兵の先頭に立ち、範を示して我らの兵からフランス共和国にふさわしい勇気を引き出しました。何者も彼らに抵抗できませんでした。この陣地は散弾と榴弾の砲撃にもかかわらず銃剣突撃で奪われました。不運にも夜が訪れ、それ以上敵を攻撃するのが不可能になりました。私はきょうの朝に敵を最後の塹壕まで突破することを期待していました。しかし夜の闇と正午まで続いた濃い霧のおかげで敵は退却を実行し、サンブル河をモブージュの上流と下流で再渡河しました。
 敵の損害は約6000人でした。我々の側はわずかに200人が戦死し、1200人が負傷しただけでした。私が敵の退却を知らされた時、敵は既にサンブルを再渡河済みでした。その動きを完全に隠した霧がなければ、そんなに簡単に退却できなかったでしょう。とうとうモブージュは解放されました。我々の優位は、もしグラティアン将軍の臆病な行為がなければもっと大きくなっていたでしょう。彼はワッチニー村への攻撃を増援しようとした時、旅団に退却を命じました。この将軍は部隊の先頭で派遣議員によって解任され、逮捕されました。
 この戦いで共和国の兵士たちが示した勇気と活力に私はとても多くを負っています。彼らこそ英雄です。工兵大佐(chef de brigade)の市民カルノー[派遣議員の兄弟]は大いに尽力してくれました。工兵士官を完全に失ってしまった北方軍にとって、このよき人物を保持するのは最も重要です。彼を雇い続けられるような命令をいただけることを期待します。私は敵の敗北から利益を得る手段を実行するつもりです。敵をフランス領土から追い払うために努力します。兵たちの価値、熱意及び勇気に期待しています。

 署名 ジュールダン。

"Réimpression de l'ancien Moniteur, Tome Dix-Huitième." p166


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