ワーテルロー
ネイの手紙



 ネイ元帥からオトラント公(フーシェ)への手紙

 公爵閣下

 この短く不幸な戦役において私が行った振る舞いに関して、この数日、実に誤った中傷的な報告がおおっぴらに出回っています。新聞はこの不愉快な誹謗を繰り返し、それに信頼を与えようとしているように見えます。25年もの間、祖国のために戦い、その栄光と独立のために血を流してきた後になって、私を反逆者として告発しようとする試みがなされています。人々に対し、軍そのものに対し、経験したばかりの惨事を作り出したのが私であると悪意を持って印象付けようとしているのです。自分自身について語るのは辛いことながら沈黙を破ることを強いられたため、そして特に誹謗をはねつけるために、私は臨時政府の長であるあなたの前に私が目撃した短く正確な物事の経緯を訴えるために、この手紙をしたためました。
 6月11日、私は陸軍大臣から帝国司令部に赴くよう命令を受けました。私は何の指揮権も持たず、軍の戦力と構成について何の情報も持っていませんでした。皇帝も大臣も事前に私が今回の戦役で必要とされる可能性があると窺わせるようなヒントを何も与えなかったため、私は何の準備もせず、馬も馬車もお金も用意しませんでした。そのため私は旅行に必要な費用を借りなければなりませんでした。12日にラオン、13日にアヴァーヌに到着し、14日にはボーモンへたどり着きました。私は最後の町でトレヴィゾ公から2頭の馬を購入し、それと伴に15日には唯一の士官である私の筆頭副官と同行してシャルルロワまで前進しました。私は敵が我が軽歩兵部隊の攻撃を受けてフルーリュスとゴッサリーへ退却した時にそこへ到着しました。
 皇帝はすぐデルロン将軍とレイユ将軍が指揮する第1、2歩兵軍団、ピレ将軍の軽騎兵師団、ルフェーブル=ドヌーエット将軍とコルベール将軍麾下の親衛軽騎兵師団、及びヴァルミー伯[ママ]の騎兵2個師団の計8個歩兵師団及び4個騎兵師団の指揮を執るよう私に命じました。一部はまだ私の直接指揮下に入っていませんでしたが、この兵と伴に私は敵を追撃し、彼らをゴッサリー、フラーヌ、ミル、アッピニーから撤退させました。その地で我が軍は野営しましたが、まだマルシエンヌにいた第1軍団は別で、彼らは翌日まで合流しませんでした。
 16日、私はル=キャトル=ブラにいるイギリス軍を攻撃するよう命じられました。我々は形容しがたい熱意をもって敵に向かって前進しました。何者も我々の激しさに抵抗することはできませんでした。戦闘は盛んとなり、勝利はもはや疑いないものと思われました。しかし、私が予備としてフラーヌに置いてあった歩兵第1軍団を呼び寄せようとした時、皇帝が私に状況を知らせることなくこの部隊の使い方を決め、第2軍団のジラール師団も含めてプロイセン軍と激しく交戦していた彼の左翼を強化するためサン=タマンへ向かわせたことを私は知りました。この情報によってもたらされた衝撃は私を困惑させました。今や麾下に想定していた8個師団ではなくたった3個師団しか持っていなかった私は、勝利への望みを断念する他ありませんでした。そして、あらゆる努力と我が兵の勇気と献身にもかかわらず、私は日が暮れるまで自陣を維持することしかできませんでした。午後9時頃、使われることのなかった第1軍団が皇帝から私の下に帰されました。かくして2万5000人から3万人の兵たちが戦闘の間中、完全に麻痺し、一発の銃弾も撃つことなく、右から左へ、左から右へと無駄にパレードをしていたのです。
 この誤った移動に伴う憂慮すべき全ての結末と、そして全般に終日見られた軍の拙い配置に対するあなたの注意を喚起するため、私は細部に関する説明をしばし中断せざるを得ません。例えば皇帝が、不意を突かれ抵抗できなかったウェリントン卿に彼の全軍を振り向ける代わりに、この攻撃を二次的なものだと見なしたことが、どれほど致命的だったでしょうか。どうして皇帝は、サンブル河を渡った後で同じ日に2つの戦闘を交えることが可能だと思うことができたのでしょう。それは倍の敵と対峙することを意味しており、その場にいた軍人ならそのことを理解できないことはほとんどあり得ません。こうした策を採る代わりに、彼がプロイセン軍を見張るため1個軍団だけ残して強力な軍の大半と伴に私を支援するため進軍していたら、英軍は間違いなくル=キャトル=ブラとジュナップの間で壊滅させられていたでしょう。そして、連合国の両軍を分断するその場所が一度我々のものとなれば、皇帝はプロイセン軍の右翼を迂回し逐次彼らを打ち砕く機会を得ることができたでしょう。フランスと、特に軍の一般的な意見では、皇帝はまず英軍の全滅に全努力を傾けるべきだったというものです。そして当時はそうした計画の達成に有利な状況がありました。しかし、運命は別の結果を選んだのです。
 17日、軍はモン=サン=ジャン方面へ進軍しました。
 18日、会戦は1時に始まりました。それについて詳述した公報は私に触れていませんが、私がそこで交戦していたことは改めて述べるまでもありません。中将ドルーエ[ドルーオ]伯が既に上院でこの会戦について話をしています。彼の説明は正確ですが、彼が特に語らなかった部分や彼が知らなかったいくつかの重要な事実については例外であり、その点について公表するのは私の義務です。午後7時頃、かつて私が見た中でも最も恐ろしい修羅場の後で、ラベドワイール将軍が私の下に来て、グルーシー元帥が我が軍の右翼に到着し英国とプロイセンの連合軍左翼を攻撃しているという皇帝からの伝令を伝えました。この将官は戦線に沿って、いまだ勇気と献身が揺らいでいなかった兵たちの間にこの情報を広め、兵たちは疲れきっていたにもかかわらず新たな活力を示しました。ところが驚いたことに(むしろ憤ったと言うべきかもしれません)その直後に私が知ったのは、グルーシー元帥は全軍が確信していたように我々の支援に到着するどころではなく、彼と我が軍の間には4万から5万人のプロイセン軍がいて我が軍の最右翼を攻撃し退却に追い込んでいたのです!
 元帥が支援できるようになる時間に関して皇帝が欺かれていたのか、それとも元帥の前進が想定していたより長期に及ぶ敵の努力で手間取ったのか、いずれにせよ現実には彼の到着が我々に告げられたその時、彼はいまだディール川沿いのワーヴルにおり、我々にとっては戦場から百リーグも離れた場所にいたのと同じことだったのです。
 少し後、私は皇帝に率いられた壮年親衛隊の4個連隊が前進するのを見ました。この部隊と伴に彼は攻撃を再開し、敵の中央を突破しようと望んでいました。彼は私にこの部隊を先導するよう命じました。将軍たちも士官たちも、そして兵たちも偉大なる勇気を示しました。しかしこの部隊は敵が対峙させた戦力に対し長く抵抗するにはあまりにも弱く、我々はすぐにこの攻撃がしばしの間奮い立たせた希望を断念することを強いられました。フリアン将軍は私の傍で撃たれ、私自身も馬を殺されその下敷きになりました。この危険な会戦を生き延びた勇敢な男であれば、夕方の間ずっと私が徒歩で剣を持ち、もはや退却をこれ以上妨げることができなくなった時に殺戮の場から最後に引き上げた者の一人であったことを、正当に証言してくれるものと信じています。同時にプロイセン軍は攻勢移動を続け、我が右翼はかなり後退しました。ついで英軍もまた前進しました。我々の退却を保護するためにまだ老親衛隊の方陣が4個残されていました。軍の花形であるこの勇敢な擲弾兵たちは、立て続けに後退を強いられながら一歩一歩陣地を失い、最後に数で圧倒されほぼ完全に壊滅しました。その時から退却の動きは決定的となり、軍はただの混乱した群衆と化しました。しかし、それは完全な壊走にはならず、また公報で中傷的に書かれているような逃げろと叫ぶ声もありませんでした。私自身は絶えず後衛部隊の中におり、全部の馬を殺されていたため彼らに徒歩で随行し、疲れきり打撲傷に覆われもはや歩く力もなかったため、行軍の際に私を支え退却の間見捨てようとしなかったある伍長のお蔭で命が助かりました。夜の11時に私はルフェーブル=ドヌーエット中将に会いました。そして彼の幕僚の一人であるシュミット少佐が寛大にも残された唯一の馬を私に与えてくれました。こうして私はただ一人、幕僚すら連れず、会戦が終わる前に完全に見失った皇帝の運命も知らないまま、そして彼は殺されたか捕虜になったのだろうと思いながら、朝4時にマルシエンヌ=オウ=ポンに到着しました。この町で見つけた第2軍団参謀長のパンフィール・ラクロワ将軍は私に対し皇帝はシャルルロワにいると述べ、私は陛下はサンブル河を防衛するため、そして兵がアヴァーヌ近くで再編できるよう手助けするため自らグルーシーの部隊の先頭に立つつもりだと思いました。そしてこの確信に基づき私はボーモンへ向かいました。しかし騎兵部隊があまりにも我々の近くを追撃し、すでにモーブージュとフィリップヴィユへの道路を遮断していたため、勝利した敵の前進に対抗できる場所で一人でも兵を捕まえることは完全に不可能だとわかりました。私はアヴァーヌへの行軍を続けましたが、そこでは皇帝に関する情報を得ることはできませんでした。
 陛下についても参謀長についても何の情報も得られないこの状況下で、絶えず混乱は増し、そして親衛隊と戦列連隊のいくらかの古参兵を除きあらゆる者が好き勝手な方角へ向かっている中で、私は陸軍大臣がいくらかの増援を軍に合流させるべく送り出し素早く状況に応じた策を採れるよう、できるだけ早く真の事態を彼に伝えるため、すぐサン=カンタンを経由してパリへ向かうことを決断しました。パリから3リーグ離れたブールジュに到着した時、私は皇帝がその場所を朝9時に通過したことを知りました。
 公爵殿、以上がこの悲惨な戦役の正確な歴史です。
 私は今、我が国軍事史の中で例のない大きな不幸の犠牲者となった、優れた数多い軍の生き残りに対し、どうして私が告発されるのかについて聞いてみたいのです。私は我が国を裏切ったと言われています――おそらく度を越した熱意をもって国に奉仕したこの私がです。しかしこの中傷は、どのような事実や推測によっても支持されませんし支持できません。恐ろしい速さで広がっているこの不愉快な報告はどこから出てきたのもでしょう? ここで行った探求の中で私が真実を無視することも見出すことも恐れていなかったのだとすれば、私が基本的に欺かれていたこと、そしてこの戦役の失敗と放縦を裏切りのベールで覆い隠そうとする試みがあったことがあらゆる状況から証明されると言わなければなりません。その失敗は出回っている公報には明言されておらず、それに対し私は真実の声を上げてきましたが効果はなく、まだ上院にも知られていません。私は閣下が正義と私に対する思いやりから、この手紙を新聞に掲載し、可能な限り広く公に知らせてくださることを望んでおります。

 敬具

 元帥モスクワ公

 1815年6月26日、パリ

 Napoleonic Literature "Waterloo Excerpts"


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