ワーテルロー
ドルーオの演説



 貴族院
 1815年6月23日

 ドルーオ伯:皆さん、職務ゆえに昨日朝は貴族院を訪れることができなかったため、この議場で行われた発言について私は新聞を通じてのみ知り得ました。そこで見た我が軍の栄光を傷つけ、我々の災厄を誇張し、残された手段を過小評価するような発言には悲しみを覚えます。これらの発言が、その偉大な価値と軍事的知識によって何度も国家的表彰にふさわしい活躍をした著名な将軍によってなされたことが、私にとっては何よりも驚きでした。元帥の意図が不当に理解されたこと、彼の考えが悪意を持って聞かれたのに違いないと私は信じます。今朝行った彼との会談からも、私が間違えていないことは確信できました。
 皆さん、私はこの極めて短く、極めて不幸な戦役で起きたことについて、つたない言葉ではありますが敢えて話すことをお許しになるようあなた方に願います。私が何を考え、何を恐れ、何を望んだかを述べましょう。私は率直に話すつもりです。皇帝に対する私の愛着は疑い得ないものではありますが、何よりも私は我が祖国を愛しています。私は熱狂的にわが国の栄光を愛しており、そしてどのような感情であっても私に真実を裏切らせることはできないでしょう。
 フランス軍は6月15日に国境を越えました。軍はいくつかの騎兵軍団、6つの歩兵軍団と帝国親衛隊で構成されていました。6つの歩兵軍団は以下の者たちに指揮されていました。

第1はデルロン伯
第2はレイユ伯
第3はヴァンダンム伯
第4はジェラール伯
第5はルマロワ伯
第6はロボー伯

 軍はサンブル河のこちら側でいくつかの散兵と遭遇し、彼らを打ち破り、400―500人の捕虜を得ました。そして軍は河を渡りました。

第1及び第2はマルシエンヌ=オー=ポンで
軍の残りはシャルルロワで

 後方に残った第6軍団は、ようやく翌日になって渡河を実行しました。
 軍はシャルルロワからフルーリュス街道を前進しました。ヴァンダンム軍団は[午後]4時頃に、馬匹とともにフルーリュス街道を抑えていたいくつかの大砲に支援された歩兵と騎兵8000―1万人で構成されていると見られる敵師団を攻撃しました。
 この師団は打ち破られ、歩兵の方陣は我らの騎兵によって崩壊し、そのうちの一つは完全に刃の下に切り伏せられました。
 一連の騎兵突撃の中で、フランスは勇敢で尊敬に値する戦友だった皇帝の副官、ルトール将軍を失いました。(ここで将軍はしばし発言を止めた。彼の目からいくつかの涙がこぼれた)
 翌朝、我々の前哨線はフルーリュスへ行き、フランス軍は我らが20年前に最も素晴らしい軍事的偉業に輝いたフルーリュスの平地に入りました。敵軍はサン=タマンとリニー村の背後にある斜面に布陣していました。右翼はサン=タマンからそれほど遠くないところまで延長しているように見え、左翼ははっきりとリニーの向こうまで伸びていました。
 正午頃、砲兵に支援された第3軍団の歩兵が[サン=タマン?]村を攻撃し、村の前にある森を占領し村の一角へ突入しました。
 すぐに彼らは強力に押し返されました。新たな砲列に支援されて彼らは再び攻撃を開始し、いくつかの極めて執拗な試みの後で、ついにプロイセン兵の死者と負傷者でいっぱいの村を占拠しました。
 この間、第4軍団はリニー村を攻撃しました。彼らはそこで多くの抵抗に出会いましたが、それでも頑強に支援された攻撃が行われました。
 敵がこちらの視界内と斜面に配置した砲兵に対する砲撃を行うため、砲列は二つの村の間にある空間を全て占めました。
 私はこの砲撃が我々の有利に展開するのを安心して見ていました。我々の砲列を守ろうとしていた兵たちは移動して地面の起伏に隠れることで何の損害も受けませんでした。一方、敵の兵は、砲列の背後の斜面に密集して布陣させられており、徹底的な破壊を蒙りました。我々が完全にリニー村を占拠するや否や予備を峡谷の向こうにある敵の陣地に送り込むことが、皇帝の狙いのようでした。
 この機動はプロイセン軍左翼を完全に孤立させ、それを完全に我々のものにしてしまったでしょう。作戦を実行する時は[午後]4時から5時の間にやっと訪れましたが、その時我々のはるか左翼方向で第1及び第2軍団の先頭に立っていたネイ元帥が、正面に極めて多くの英国軍を迎えて支援を求めていることが皇帝に知らされました。陛下はその2個軍団を支援するため、老親衛隊の猟兵8個大隊と予備砲兵の一団をサン=タマン村の左翼へ向かわせるよう命じました。しかしすぐにこの増援が必要でないことが判明し、彼は軍が突破を予定していたリニー村へ部隊を呼び戻しました。親衛擲弾兵は村を通り抜け、敵を崩壊させ、軍は勝利の歌を歌いながら峡谷の背後へ、最も美しい軍事的偉業を成し遂げたばかりの戦場へ進出しました。
 この偉大な勝利の日を記念するどのような戦利品が他にあったのか分かりませんが、私が見たのは同じ場所に集められたいくつかの軍旗と24門の敵の大砲でした。
 あらゆる状況において、私はこの時ほどフランス兵がより高貴な熱狂とともに戦ったのを見たことはありません。彼らのエラン(活力)、彼らの重要さは大きな希望を抱かせるものでした。翌朝、私は戦場を視察しました。そこは敵の死者と負傷者によって覆われていました。
 皇帝は負傷者に支援と慰めを与えるようにしました。特に彼らを集めるための士官たちと兵士たちも残しました。
 農民たちはフランス軍の負傷者を極めて丁寧に運びました。彼らは急いで手助けをしてくれました。しかし、彼らが多くの憎しみを抱いているようであったプロイセン兵を移動させるためには、手伝いを強いるよう脅す必要がありました。
 偵察報告によると、会戦後に敵は二つに分かれたことが判明しました。英国軍はブリュッセル街道を移動し、プロイセン軍はムーズ河へ向かいました。騎兵軍団と第3及び第4歩兵軍団の先頭に立ったグルーシー元帥が、後者の追撃を委ねられました。皇帝は英国軍がたどった道を、第1、第2及び第6軍団と帝国親衛隊を率いて追撃しました。
 先頭にいた第1軍団は何回か敵の後衛部隊を攻撃して崩壊させ、夜まで彼らを追撃しました。夜になって敵はモン=サン=ジャン村の背後にある高地に陣取り、その右翼をブリュイネ村まで、左翼をワーヴル方面へはっきりとしない距離まで伸ばしました。天候は酷い状態でした。皆、敵は輜重隊がソワーニュの森を通過する時間を稼ぐために布陣したのであり、夜明けには自らも同じ移動[退却]をするだろうと信じていました。
 夜明けになっても敵が同じ場所にいるのが判明しました。天候はぞっとするような状態で、道路があまりに様変わりしてしまったためその地で砲兵を機動させるのは不可能でした。[午前]9時頃、風が地面を少し乾かすようになり、正午に攻撃を行うことが皇帝によって命じられました。
 数日間の行軍で疲労した兵たちを布陣させた敵を攻撃し、大規模な会戦をすることが必要だったのか、それとも彼らに疲労から回復する機会を与え、敵が静かにブリュッセルへ交代するのを許すべきだったのでしょうか?
 もし我々が幸運だったならば、多くの支持者が我々を呼んでいる敵の首都からほんの数リュー[リーグ]の距離しかない時に、退却する敵を追撃しないのは許しがたい失敗であると、あらゆる兵は言明したでしょう。
 しかし幸運の女神は我々の努力を裏切り、かくして会戦を行ったのは極めて軽率な行動であったように見えてしまいました。歴史がより公正な判断を下してくれるでしょう。
 第2軍団は正午に攻撃を行いました。ジェローム公の指揮する師団は敵右翼正面に位置する森を攻撃しました。彼らは最初は前進し、押し返され、数時間もの執拗な戦闘の後でようやくそこを完全に占拠しました。
 左翼を主要街道に置いた第1軍団も同時にモン=サン=ジャンの家々を攻撃し、そこに腰を据え、敵の陣地まで達しました。2個軍団を指揮していたネイ元帥は自ら主要街道上にいて、状況に応じて軍の移動を指揮していました。
 元帥は戦闘中に、敵の中央に攻撃を集中し、その間に敵が守りきれていないと見られる大砲を騎兵で奪うつもりだと話しました。私が彼に命令を伝えた時に、彼は何度か我々は大勝利を得るだろうと言いました。
 しかし英国軍の左翼に合流したプロイセン軍団が我々の右翼を覆い、夕方5時半前後に攻撃を始めました。16日の戦いに参加しなかった第6軍団が彼らと対峙するべく配置され、若年親衛隊の1個師団と親衛隊のいくつかの砲列が支援しました。7時頃、我々の右翼方向遠方に、大砲とマスケット銃の砲火が見えました。我々は、グルーシー元帥がプロイセン軍の移動に追随し、勝利に参加するべくやって来たのだと疑いませんでした。我が戦線全域で歓喜の声が聞こえました。8つの戦闘[?]で疲労していた兵士たちは活力を取り戻し、さらなる努力を重ねました。皇帝は今こそ決定的な時だと判断したようです。彼は全親衛隊を前進させ、4個大隊にモン=サン=ジャン村近くを通過し敵の陣地へ進んで銃剣でもって抵抗するものを全て排除するよう命じました。親衛騎兵と他の手元に残された全騎兵がこの移動を支援しました。高地にたどり着いた4個大隊は、マスケット銃と散弾の恐るべき斉射に迎え撃たれました。戦列を離れた多くの怪我人が、親衛隊は壊走したのだと信じさせる要因になりました。パニックは近くの部隊に広がり、彼らは大慌てで逃げ出しました。この混乱に気づいた敵の騎兵が平野へ解き放たれました。彼らはいまだ退却していなかった老親衛隊12個大隊によってしばらく支えられましたが、親衛隊自体も説明しがたい動きに巻き込まれ、秩序は維持しながらも逃亡兵の動きに追随することになりました。
 砲兵の全車両は街道に殺到しました。彼らはすぐに酷い渋滞を起こし、移動することは不可能になりました。多くは道路上に放置され、兵士たちによって荷馬を外されました。
 全てがシャルルロワとマルシエンヌの橋へと殺到し、そこから残った者はフィリップヴィユとアヴァーヌへ向かいました。
 以上が災厄の日に関する説明です。本当ならフランス軍の栄光を満たし、敵のあらゆる虚しい望みを断ち切り、そしておそらくフランスがとても望んでいた平和を近いうちにもたらした筈でした。しかし、神は異なる決断を下しました。神は多くの大惨事の後で、我らの不幸な祖国を再び国外からの破壊に晒すことを望んだのです。
 (後略)

"La vérité sur les cent-jours" p133-141


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