ヴァルミーの戦い
ケレルマンの報告



 1792年9月24日
 (中略)
 ダンピエール=シュール=ウーヴルの司令部にて、9月21日、午後9時。

 急ぎ昨日のことをお知らせします。敵は夜明けに私の前衛部隊を指揮するデプレ=ド=クラシエ氏を攻撃しました。彼は有意義かつ賢く防御しながら私のところまで後退してきました。極めて数の多かった敵は、いくつかの縦隊に分かれて行軍しました。擲弾兵とカービン銃兵の先頭に立ったヴァランス氏は、私が兵を布陣した場所の前面にある高地で長時間[敵を]食い止めました。突破するのに苦労した敵は、多大な砲兵部隊の支援下で私の右翼へと兵を延伸してきました。そこで私は戦線を敷き、彼らの軍のこれほど多くがグラン=プレを突破してくるとはもちろんほとんど思っていなかったために自らの陣が望ましくないものであったにもかかわらず、彼らと朝7時から夕7時まで戦闘を交えました。彼らは数で大きな差があったにもかかわらず、決して敢えて私を攻撃しようとはせず、この日は至近距離からの14時間に及ぶ砲撃に費やされ、我々は多くの優秀な兵を失いました。敵は、特に騎兵と砲兵に多大な損失を蒙ったといわれています。
 デュムリエ氏が中将シャゾー氏と同様、私の軍を増強するため送ってきた准将のエムジェ氏麾下の兵は、素晴らしい活躍を見せ、約50人の捕虜を得ました。
 私は午後10時まで陣地を保持し、それから敵右翼側にあるもう一つの宿営地に布陣しました。そのために必要だった移動は今朝になってようやく終わったにもかかわらず、私は攻撃されませんでした。
 将軍、佐官及び尉官、そして兵士たちの行動に存在した価値と熱意には、十分な正当性が与えられます。砲弾によって火がつけられた3台の弾薬車の爆発で全ての列が失われたにもかかわらず、彼らは眉一つ動かすことなく、連携を乱すこともありませんでした。騎兵の一部、特にカービン銃兵はしばしば極めて致命的な砲撃に晒されました。彼らは勇気と沈着さの模範でした。私は敵の騎兵が戦闘を始めるものと予想し、勝利が期待できるよう私の騎兵を配置していました。砲兵准将のデスラレンム氏は、私と同様、砲撃によって乗馬を酷く傷つけられました。我々が気の毒に思った戦友たちの中には、あらゆる面で名声を上げた士官であり、志願擲弾兵大隊を指揮していた中佐のロルミエ氏がいました。
 難しい選択ですが、大いなる勇気を示した者たちのうち、私はシャルトル氏と彼の副官であるモンペンシエ氏の名を上げます。考えられる限りもっとも絶え間ない砲撃の中で極めて若いにもかかわらず冷静さを示したのは特筆に価します。
 昨日の戦闘を見た後では、最も手馴れた兵士たちでも自由を守るために身を捧げた者たちを圧倒することはできないことをフランス国民は確信できるでしょう。彼らは危険な陣地にとどまるというやり方で、将軍たちに対する全面的な信頼を示しました。デュムリエ氏は私と伴に砲兵隊と数時間を過ごし、もし彼自身が攻撃される恐れがなければその全軍を私のところへ連れてきていたでしょう。彼はその立場から私が期待すべきよりも多い兵を送っており、その私に対する行為はいくら称賛してもし過ぎることはありません。
 私の損害は死者と負傷者を合わせて約250人でした。昨日の戦闘でファブルフォン氏、ユスタース氏、及び私の副官ラジョレ氏が最も名を上げるような行動を取ったこともあなた方にお知らせします。
 次の機会に、議会に提言して援助を得られるようにすることをお願いする哀れな未亡人たちのことについてもお伝えします。

 中央軍司令官、
 署名 ケレルマン。

"Réimpression de l'ancien Moniteur, Tome Quatorzième." p23


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