トゥールコアンの戦い
ヨーク公の報告



 以下に載せた報告書の写しは、今朝方ヨーク公殿下から送られ国務大臣ヘンリー・ダンダス卿が受け取ったものである。

 閣下、
 トゥルネー、1794年5月19日。
 前の手紙で、敵をフランドルから撤収させるためクレアファイト将軍麾下の兵との連携によって全軍による全面攻撃をするのが皇帝陛下の意図であることを伝えました。
 16日夜、軍はこの目的のため5つの縦隊で前進しました。
 左翼の2個縦隊はマルク川を強行渡河し、残る3個縦隊の作戦を守るため川沿いの哨戒線を勢いよく攻撃する予定でした。これら[3個縦隊]はルーベ、ワーテルロー[ワトルロー]、及びムクロン[ムスクロン]の敵陣を突破することでクレアファイトのリス川渡河を助け、それから彼の部隊と合流してリールとクルトレーの連絡線を断ち切るよう命じられていました。
 不運にも左翼の2個縦隊がマルクを強行渡河したのはあまりに遅く、彼らは長い行軍によって疲れきっていたため提案された計画の残りについては達成することができず、ブッシュ将軍麾下の右翼縦隊は予想よりはるかに多い数の敵をムクロンに発見したため、攻撃を断念して最初にいたワルコアンの陣地に退却する必要に迫られました。
 オットー中将は彼の縦隊と伴にルエールからワーテルローへ進み、いくらかの抵抗を受けた後でそこから敵を追い払い、トゥールコアンへと押し進みましだ。
 我が縦隊は英国軍7個大隊とオーストリア軍5個大隊、ヘッセン軍2個大隊、軽竜騎兵6個大隊、及びユサール騎兵4個大隊で構成されていました。我々はタンプルーヴからラノワへ前進し、短時間の砲撃後に敵をそこから撤収させましたが、その際に私は王立砲兵隊の勇敢で評価に値する士官であるライト少佐を失うという不運に見舞われました。
 ラノワにヘッセン軍2個大隊を残して私はルーベへ前進し、そこで敵が多数の兵と大砲を持っているのを発見しました。抵抗もそれに比例して強力でしたが、同様に無益であり、敵はすぐに退却を強いられ、ムクロンへと下がりました。
 この時点で右翼と左翼の2個縦隊について情報を得るべくあらゆる努力をしたにもかかわらず何の情報も得られなかったため、私はこれ以上前進するのは適切でないと考え、アバクロンビー中将指揮下の前衛部隊をルーベに残し、残りの部隊と伴にラノワ背後の高地に布陣することを決断しました。そのための命令も下されましたが、ラノワまで前進していた皇帝陛下に私の意図を伝えたところ、陛下はクレアファイト将軍との連携の必要性に鑑みてムーヴォーを攻撃すべく前進するよう私に命じました。
 それに従って私はアバクロンビー中将に、近衛4個大隊と伴に攻撃を行うよう命じました。彼は敵が強力な塹壕を掘っているのを発見しましたが、彼らをしばらく砲撃した後で極めて平静な近衛の側面大隊が彼らを強襲すべく最大限の秩序を保って前進し、第1大隊に支援され、さらにチャーチル中佐の第7及び第15軽竜騎兵にも助けられながら、敵に後退を強いました。敵は大砲3門と、ブードレまで行われた追撃時に軽竜騎兵に切り倒された多数の兵を失いました。
 我々の状況を思慮深く考察した私はアバクロンビー中将に近衛4個大隊と伴にムーヴォーにとどまるよう命じました。オーストリア軍4個大隊をルーベ防衛のために布陣し、フォックス少将指揮下の英歩兵第2旅団を左翼に布陣するためリールとルーベをつなぐ大街道上に派出しました。騎兵はこれらいくつかの部隊に偵察目的のため分けて配置しました。土地の形状からそれ以外の目的への使用は無理でした。私の前哨線はトゥールコアンを奪取していたオットー将軍と右翼側でつながりました。
 翌朝早く敵がトゥールコアンの陣地を大軍で攻撃し、その地を指揮していたドゥヴェイ大佐から彼のために陽動してほしいとの要請を受けました。そのため私はオーストリア軍2個大隊を送り出しましたが、彼らにはもし圧迫されたら私のところへ交代するよう命じておきました。しかし何らかの間違いによって彼らはそうする代わりにドゥヴェイ大佐と合流しました。このため私の右翼側に隙間が開き、そこから敵が私の部隊を攻撃できるようになりました。攻撃はすぐ後に行われ、私は残された唯一の大隊を最大の重要性がある地点を守るため使うことを余儀なくされました。
 この時、およそ1万5000人に及んだと見られるリールから前進してきた敵の大軍が姿を現し、さらにワーテルローにあるオットーの陣を突破してきたもう1つの部隊が我々の背後を攻撃してきました。手元に残った僅かな兵はこれほど優勢な数を前にしたため、一緒にいた士官たちに支援された私ができる限りの努力をして彼らを再編しようとしたにもかかわらず、すぐに退却しました。この時、リールから来た縦隊の先頭部隊もまたルーベとムーヴォー間の道路に姿を現し、近衛旅団と合流しようとした私の試みを成功させるのは不可能であることが分かりました。
 このような状況下で私はフォックス将軍の旅団との合流に注意を振り向けましたが、そのためルーベへ前進するとそこは敵が奪取していました。
 かくして部隊の全てから完全に切り離されてしまった私にできることは、オットー将軍のところまで無理やり押し通り、私自身の兵を解放するため彼と協力することしかありませんでした。
 私は第16連隊の数人の竜騎兵と伴に苦労してこれを成し遂げました。しかし私の部隊の退却を極めて容易にする手段としてオットー将軍の承諾を得たラノワへの行軍計画は、ヘッセン軍がその地の放棄を余儀なくされていたために断念され、私は残り終日オットー将軍の縦隊の後をついていくというつらい必要に迫られました。
 この前に私はアバクロンビー将軍に、ムーヴォーから私の部隊を集めるつもりだったルーベ背後の丘まで退却するようにとの命令を送りました。そして彼が退却を成し遂げるまでコールドストリーム大隊が連絡線を守るため配置されました。この命令の結果、アバクロンビー将軍は退却を始め、そしてルーベの丘に到着した際に部隊が集結できる可能性がない状態で周囲を敵に囲まれているのを知った彼は、ラノワまで退却を続ける決断をしました。あらゆる方角から襲い掛かってきた敵の執拗な攻撃の中で、彼はこれを成し遂げました。アバクロンビー将軍はラノワも敵の手に落ちていたのを知りましたが、彼は激しい砲撃下でこの町を迂回して避け、すぐ後でタンプルーヴに到着しました。
 フォックス少将は、リールから来た縦隊主力からの極めて活発な攻撃を断固として持ちこたえた後で、こちらも退却を始めました。近衛旅団から切り離され、ラノワが敵に占拠されているのを知った彼はルエール村に向かって行軍し、そこでオットー中将の縦隊と合流しました。
 この戦闘における我々の損害を同封しました。極めて多いことが悔やまれますが、戦闘が行われた場所を考慮に入れるなら、そしてこれらの土地に関して完全な知識を持っている敵がその優位をあらゆる形で活用し望みうる限り最も有利な視界を得ることのできた地域で戦われたこと考えれば、その数はもっと大量になっていてもおかしくはありませんでした。悪路と馬匹の損失、臆病な御者たちのため、大砲1門を放棄したのは止むを得ませんでした。士官と兵たちがこの戦いで彼らから期待できる限りの断固とした態度と決断力を示したことをあなたが陛下に確証してくれるものと私は望んでいます。どれか特定の部隊のみを評価するのは他の部隊に対して不公平となるでしょう。それでも私が特に気づいたこととして、アバクロンビー中将とフォックス少将の能力と冷静さがこの厳しい状況下でそれぞれの部隊を導いていたことは記しておくべきでしょう。
 私自身にとって慰めになったのは、私の麾下にある縦隊が作戦で意図された役割を完全に実行したこと、そして後に彼らが蒙った反撃において英兵の行動が皇帝陛下の側からの心からの感謝及び称賛の声に値したことです。
 敬具、
 フレデリック。
 ヘンリー・ダンダス閣下。

 1794年5月17日及び18日の戦死、負傷、及び行方不明一覧。
 第7軽竜騎兵。兵士6人負傷、兵士15人不明、馬匹4頭戦死、馬匹10頭負傷、馬匹31頭不明。
 第11軽竜騎兵。兵士1人戦死、兵站係1人と兵士1人負傷、馬匹1頭戦死、馬匹2頭負傷。
 第15軽竜騎兵。外科医1人と兵士5人戦死、外科医の仲間1人と兵士14人負傷、兵士2人不明、馬匹9頭戦死、馬匹9頭負傷、馬匹11頭不明。
 第16軽竜騎兵。兵士1人戦死、兵士2人負傷、兵士5人不明、馬匹2頭戦死、馬匹5頭負傷、馬匹3頭不明。
 王立砲兵。軍曹1人と兵士4人戦死、士官2人と軍曹1人と兵士17人負傷、士官1人と鼓手1人と兵士26人不明、馬匹31頭戦死、馬匹6頭負傷、馬匹64頭不明。
 王立軍事工兵。兵士5人不明。
 近衛側面大隊。軍曹1人と兵士17人戦死、士官3人と軍曹1人と兵士54人負傷、軍曹2人と鼓手3人と兵士25人不明。
 近衛第1連隊。鼓手1人と兵士6人負傷、兵士9人不明。
 コールドストリーム近衛連隊。鼓手1人と兵士6人負傷、兵士9人不明。
 第3近衛大隊。兵士1人戦死、軍曹1人と兵士8人負傷、兵士33人不明。
 第14歩兵。兵士8人戦死、兵士22人負傷、士官1人と軍曹3人と鼓手2人と兵士68人不明。
 第37歩兵。軍曹2人と兵士11人戦死、士官2人と軍曹4人と兵士34人負傷、士官2人と軍曹4人と鼓手1人と兵士140人不明。
 第53歩兵。士官3人と軍曹1人と兵14人負傷、士官1人と軍曹8人と鼓手2人と兵士191人不明。
 合計。外科医8人と軍曹4人と兵士53人戦死、士官10人と兵站係1人と外科医の仲間1人と軍曹8人と鼓手1人と兵士185人負傷、士官4人と軍曹17人と鼓手9人と兵士538人不明――馬匹47頭戦死、馬匹32頭負傷、馬匹117頭不明。
 士官の戦死、負傷、及び行方不明。
 砲兵。ライト少佐負傷後死亡、ボジャー中尉負傷、ダウンマン中尉不明。
 近衛側面大隊。リュドロー中佐、マナーズ中佐、ドラモンド大尉が負傷。
 第14歩兵。ブラウン少佐が負傷し不明。
 第37歩兵。マレー中尉、カニンガム中尉が負傷、クック大尉、マッケンジー中尉が不明。
 第53歩兵。スコット少佐、ブリスベーン大尉、ピアス准尉が負傷、リンド中尉不明。
 第15軽竜騎兵。外科医ブラッドレー戦死、外科医の仲間が負傷。
 参謀副官、J・H・クレイグ。
 注意、不明者の何人かは時間と伴に復帰しつつあり。

"A collection of state papers relative to the war against France, Vol. II." appendix p38-42


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