マニャーノ戦役
シェレールの回想



共和国暦7年風月21日から花月7日までのイタリア方面軍による軍事作戦の要約
シェレール将軍著


 政治的、軍事的経歴において常に幸運な機会に恵まれない人物に、わけても彼を中傷する機会を捉えようと手ぐすねを引いている敵がいるとすれば、それはなんという悲劇だろう! もし彼が失敗すれば、それは百倍にも誇張される。不十分な成功を収めても失敗とみなされ、純粋な意図ですら愚かさか裏切り行為となってしまう。
 しかしながら自制心が働くため、自らの正当化のためペンを取ることに対しては常に抵抗感が働く。だがやがて彼の沈黙は最も馬鹿げた陰口を黙認するものとなり、不誠実にも悪意が彼に向けられ、軽信性が暗黙のうちに抱かれた真実でない見解を正当化する理由をそこに見出す。なぜなら世論は評判によって形作られ、誰もが言葉を信じるからだ。かくして彼は口論に参加することを強いられる。最もばかばかしく最も間違った非難の重みに押しつぶされたままでいたくないなら、自らを正当化することを余儀なくされる。それが私の現状だ。
 大臣としての私は、共和国暦6年及び7年における私の報告書の発表によって申し開きができる。これらの記録は信頼の置ける資料に基づいており、陸軍省に保管されている。
 今や将軍である私が自らの義務を果たしたと証明すべき時だ。この任務は、自らのことを話す必要があるためだけに、より困難である。しかしもし自分がしていないことを信じられた結果としての俗説を妨げたいと望むのなら、自分がなにをしたかよく話す必要がある。
 陸軍省を離れた私は、3度目となるイタリア方面軍司令官の地位を引き受けた。言及しておかなければならないのは、その地位を提示された何人かの将軍が拒否したために私が指揮権を引き受けたことだ。この献身的行為は滅多にないもので、私が思うに僅かな模倣者しか生み出さないだろう。なぜなら中傷、陰謀及び嫉妬心が私の前にアルプスを越え、その毒を軍の中で精製するであろうことを、私は疑い得なかったからだ。
 大臣が再び司令官になることに伴う不信を隠すつもりはない。私は地位が強いる義務のために兵たちと顔を合わせない軍の憲法上のトップとして、あまりに多くの特殊な利害に伴う怒りを招いていた。従って私は、名誉ある献身の感情と伴に出発した。私より学のある友人たちはこの危険な地位を受け入れるのをやめさせようと無駄に試みたが、私は政府の希望に無条件に従った。
 しかしながら政府が2つの軍を指揮させるため送り出したこの男は、軍事的評価を得ていなかったのか? 彼は勝利と無縁だったのか? 彼の盾には、フランス兵にとって最も喜ばしい褒賞である栄誉ある銘が全く刻まれていなかったのか? フランス軍の栄光に関する素晴らしい絵巻を広げて見れば、戦士たち、我らの武器の名誉を築き上げた者たちの中に私の名を見つけ出すことができる。そこにはサンブル河畔で勝利を得られた2つの戦いと、数日後に強襲で奪われたモンス及びモン=パリセルの戦いがあり、私がその成功に果たした役割を証明してくれている。
 我らの敵の希望である4つのフランスの要塞は、彼らに1年の労力と夥しい流血を払わせた。公安委員会はこれらを再征服するよう私に命じ、それは電光のような共和国の攻撃によって6週間で陥落した。かつて私の戦友であったベルナドット、クレベール、デジャルダンは自分たちがあなたの勝利の桂冠を分かち合うにふさわしいかと聞いたものだ! 必要とあればその証拠を求められるのがあなただからだという理由で。
 さらにウルセ河畔とエヴェイユ河畔では血腥い戦いがベルギーの運命を決し、スプリモンでは私が勇敢な兵たちを勝利へと導いているのが見られた。
 ルール河畔のデューレン近くでは、スプリモンの戦場から逃げ出した敵が、山に積み上げられた防御陣地に守られていた。私はそこへ我が兵士たちを率い、敵をそこで攻撃し、これを打倒し、ラインの向こう岸まで追撃した。フルーリュスの勝者ジュールダンよ、これらの記録が信頼に値するかどうか話してくれ!
 ピレネーの向こう側、フルーヴィア河畔では、デュゴミエがその死によって英雄たちの、しかしなから数は少ない軍を残した。私はスペイン軍と戦い、6万人を超える敵に全戦役を通じて一握りの勇敢な兵で抵抗した。
 公安委員会は私にアペニンの山頂へ駆け上るよう命じた。敵は今日同様、フランス南部を脅かしていた。共和国暦4年霜月2日、私はイタリア方面及びピレネー方面軍の兵士たちの真価を率い導いた。敵は山々の山頂から追い落とされ、イタリアの平野まで追撃された。イタリアの門戸はこの勝利の音に開かれた。いくどもの勝利に輝いたマセナ、オージュロー、ジュベールよ、私は諸君を指揮するに値しただろうか?
 決して立場を求めたことはなく、その素晴らしい実績に匹敵する地位に決してつかなかった人物が、主張された軽蔑の念と忘却によって、かつていた栄誉ある地位からどうして突然に落ちてしまえたのだろうか。
 否、彼はフランス兵の名にふさわしくない行いはしなかった。否、彼は祖国の名誉を危うくはしなかった。もし私の指揮下にある軍が敗北を喫したというのが真実なら、それこそ私がこれまで縷々述べてきた勝利の桂冠を真っ先に曇らせるだろう。しかし否、私は共和国軍の記録に屈辱を与えるような敗北は喫しなかった。私は正確な真実を話し、私が指揮を執った短い期間において過去の業務で獲得した栄光の一部を奪い去るようなことは何もしていない点を証明するであろう。
 私は風月21日にミラノに到着し、30日までそこにとどまった。その間にチサルピナ共和国の総裁政府と、その領地に関する対応や戦役開始に必要なものについて協力し、軍の集結に関する命令を出した。
 野戦軍は歩兵と騎兵で5万人の戦力を持ち、戦時編成の大隊とフランスの騎兵連隊から引き抜かれていた。加えて1万から1万1000人のピエモンテ、ポーランド、スイス及びチサルピナの外国兵がいた。
 野戦砲兵は様々な口径からなる八十数門の野戦砲で構成されていたが、大砲輸送に必要な馬匹1500頭がいなかった*。
* 供給を委ねられた会社は実際に馬匹を送ってきたが、軍務にはふさわしくない状態で、ほんの僅かな数だけが受領された。
 ピエモンテとチサルピナ各地は、イタリア方面及びナポリ方面軍に2万4000人以上を徴兵されたため極めて弱体で定数を大きく下回っていたフランスの守備隊23個大隊が守っていた。加えてピエモンテ兵及びチサルピナ兵の守備隊数個大隊と、騎兵の兵站拠点があった。
 野戦軍は歩兵と騎兵で約6万1000人の戦力があったが、ここからピエモンテの治安維持に必要と思われる数を減らさなければならなかった。この状況下で利用できる戦力を構成したのは歩兵4個大隊と騎兵2個連隊で、この小規模な部隊の構成人数はおよそ...5000人。
 トスカナの部隊は騎兵と歩兵合わせて...7000人。
 ヴァルテリナの師団が...6000人。
 合計...1万8000人。
 この計算によれば、野戦軍には歩兵と騎兵で4万3000人が残る。砲兵と工兵は含まない。
 交戦を開始するようにとの命令を受けた時にどのような出来事にも対処できるよう、私はこれら全戦力にマントヴァに集まるよう命じた。
 この季節にはポーの両岸をある程度ぬかるんだ土地が縁取っているためフェラーラとボローニャはしばらく敵の大軍が集結する舞台にはなり得ないように思われたため、私はそこの防衛にいくつかのフランス守備隊大隊とピエモンテ1個大隊、及び騎兵150騎のみ残した。
 ブレシアとベルガモの山地はこの季節は通行不能なため、私はブレシア、ベルガモ及びペシェーラを守備隊4個大隊のみで占拠した。加えてヴァルテリナの師団及びヘルヴェティア軍の師団が私の左側面を守り、トレントへ前進することになっていた。
 芽月初旬、全軍がマントヴァに集められた。私はトスカナを占拠した。この征服には一発の銃弾も必要なかったが、私がそこに送った兵はその地に残った。数多いオーストリアの支持者を抑え込むために必要だった。
 私は野戦軍を6つの師団に分けた。うち5つは敵の正面で活動するつもりであり、セリュリエ将軍が指揮する6番目[の師団]はアディジェを渡河した後にトレントでヴァルテリナの師団及びヘルヴェティア軍の師団の1つと合流する。これらまとまった3個師団は、敵の右側面の山岳部で行動する。
 芽月1日、私はマントヴァへ行った。2日、敵の布陣に関する情報を得た。同日、皇帝及び大公への宣戦布告を総裁政府から受け取った。3日、軍に軍旗を授与した。4日、私は将軍たちを集め、私の指示を伝え、それぞれに全面攻撃の計画を知らせた。5日、軍は敵に接近するべく6つの縦隊で出発した。そして6日夜明け、パストレンゴの戦いが行われた。
 私が準備のために費やした活動は、私が義務を果たし政府の意図に答えるため一時も無駄にしなかったことを証明している。
 敵はアディジェとガルダ湖の間、パストレンゴの高地に大規模な部隊を配置した。彼らはそれ自体が強力なこの地形を、大砲を備え付けた堡塁と塹壕で覆った。前衛部隊として配置された6個大隊がブッソレンゴ村を保持し、ヴェローナとの連絡線をつないでいた。敵はヴェローナから12マイルの場所、パストレンゴの背後に2つの船橋を架けた。大砲を伴う数千の兵がチゼ、カルマザン及びアフィの高地に配置され、その右翼はガルダ湖に達し、左翼はアディジェに拠っていた。2万人から2万5000人の部隊がヴェローナとその周辺を占拠。レニャーゴとその前方及び後方に置かれた哨戒線は1万人から1万2000人が布陣した。
 以上が敵の配置である。
 私の攻撃計画はすぐ決まった。ヴェローナからレニャーゴまでのアディジェ全正面で敵を陽動して足を止め、可能なら彼らがアディジェとガルダ湖間に配置した兵を粉砕することを決断した。敵の右翼に対する突然かつ激しい攻撃は、彼らに来援する時間を与えないと判断したのだ。
 そこで私は軍を2つの主力部隊に分けた。モロー将軍指揮下の3個師団はヴェローナとレニャーゴを覆い、これらの地点からアディジェ右岸を経てパストレンゴに到着し得る救援を陽動し止める役目を担う。そして私は他の3個師団と伴に敵の防御を固めた宿営地へ行軍する。
 芽月6日の夜明けに攻撃が始まった。堡塁と防御を固めた宿営地は4時間に及ぶ猛烈な戦闘の後に銃剣によって奪取された。逃げ出せなかった者は全て捕虜となるか戦死した。我々は敵の大砲全てとアディジェに架かる2つの橋を手に入れた。デルマ将軍は負傷しながらも攻撃指揮を執り続けた。ダレム将軍は2発の銃弾により重傷を負った。
 ブッソレンゴ攻撃を委ねられたグルニエ将軍は、剣を手にこの村を奪った。彼は続いてパストレンゴ宿営地の右翼へ行軍し、デルマ師団がそこから敵を追い払うのを助けた。
 防御を固めた宿営地への攻撃の間、セリュリエ師団はチゼの山地をリヴォリとコルンナまで一掃した。この将軍は彼の前に現れた敵全てを追い払い、多くの捕虜を得てリヴォリに陣を敷いた。
 フランス軍左翼がこれら輝かしい優位を得ていた間、モロー将軍が指揮する右翼の師団はヴェローナとレニャーゴ郊外の敵と戦っていた。サン=マッシモ及びサンタ=ルチア村は夜明けに奪取した。敵は奪回すべくヴェローナから2万人を繰り出してきた。サン=マッシモ村は7回も奪回と再奪回が繰り返され、フランス兵は最後に戦場の支配者としてとどまった。戦場はオーストリア兵の死者と負傷者に覆われた。モロー将軍はこの機会に1400人から1500人の捕虜を得て大砲2門を奪った。
 レニャーゴ牽制を委ねられたモンリシャール師団は、その地にいた兵を打ち倒し要塞外部の斜面まで追撃した。敵は夕方5時にかなりの増援を受け取り、我々の兵に占拠された村々に再攻撃を行った。我々は激しく戦った。モンリシャール師団はいくらかの損失を蒙ったが、日が落ちるまでその陣地を保持した。目的を達成した彼らは最初にいたところまで後退した。
 敵はこの日捕虜4500人を含む9000人近くと軍旗2旒、大砲12門及びアディジェに架かる橋2本を失った。パストレンゴの堡塁とヴェローナ城下の戦場はオーストリア軍の死傷者がごろごろしていた。我々の損失は死傷者3000人にのぼり、その中には数人の将官と民間人が含まれていた。
 この日の成功は最も喜ばしい希望を私に抱かせた。ヴァルテリナの師団と合流したヘルヴェティア軍の師団が私の左側を行軍し、私が6日の会戦を戦った時にはトレントに到着したであろうと信じる理由があった。この会戦の結果はアディジェにかかる2つの橋を私にもたらし、セリュリエ師団が遅滞なくトレントへ行軍すれば、そこで2個師団と合流できるであろう。それからこの小規模な軍がアディジェの線の側面及び背後を脅かし、欧州に存在する中でも最良のものの一つであるこの防衛線を敵に放棄させるであろう。軍に見捨てられたヴェローナの抵抗はそう長くないだろう。そして戦役の開始時点から最も困難であった目的が達成される。
 敵はパストレンゴの戦いで私の正面に5万人以上の兵力を配置した。ヘルヴェティア及びヴァルテリナの師団による増援は私の兵力を敵と均衡させることになり、成功を期待できるだけの権利があった。
 6日の戦い直後、私はヴァルテリナ師団を指揮するデソール将軍に関する情報を得るため士官を派遣した。私はヘルヴェティア軍の師団との合流をとても当てにしており、すぐにこれら2個師団の将来の作戦に関する命令を作成したほどだ。突然、デソール将軍が自分の戦力のみでやって来たことを私は知らされた。彼はその戦力だけでサンタ=マリア峠を突破することを余儀なくされ、それからグロレンツァに布陣する敵を9000人で攻撃した。グロレンツァはメラノとトレントへ通じる峡谷の先端にある。
 ヘルヴェティア軍がルツィエンシュタイクを突破しグリゾン地方を奪取した後で、ほぼ全軍を左翼へ投入したことを私は知った。ルクルブ将軍はフンスタームンツ近く、イン峡谷のナウダースにまで行軍していた。
 デソール将軍はサンタ=マリア峠を強行突破した後で、グロレンツァ付近の敵を面前にした。彼にとって退却は攻撃よりも危険だった。彼は躊躇うことなく優勢で有利な陣を占める敵に向かって行軍した。芽月5日、彼は敵を圧倒し、1200人以上を殺し、4000人以上の捕虜と敵の大砲全てを得た。だがルクルブ将軍の師団が合流しなかったため、ティロルの中央に突入してトレントへ前進するには弱すぎた。彼はそこで停滞し、グロレンツァの上方に布陣した。
 ヘルヴェティア軍が命じられた私への救援を送り込んでくるまでかなりの時間がかかるため、イタリア方面軍の1個師団は麻痺した状態となり私にとって何の役にも立たなくなった。
 この致命的な状況下で、イタリア方面軍はその後の難しい部隊配置を迫られた。もしヘルヴェティアの師団がヴァルテリナ師団と合流し、グリゾン地方占領の後でトレントへ行軍してさえいれば、疑いなく敵はアディジェの防御を放棄することを余儀なくされる立場となっていただろう。
 結局のところ、私は布告された戦役計画にあったよりも2万1000人も少ない兵力で戦役を始め、継続しなければならなかったことが分かる。というのも、一方ではヘルヴェティア軍の師団が私を支援せず、他方では本来ならイタリア方面軍の一部を構成していたはずのヴァルテリナ師団もグロレンツァ近くで麻痺していた。そして最後に私は戦役が始まる前に既にトスカナ占拠のため7000人を野戦軍から派出することを余儀なくされていた。イタリア方面軍が蒙った敗北はこれらの要因に割り当てられるべきであり、決して他の原因を求めてはならない。
 ドナウ方面軍がラインへ後退したことを知るや否や、私はイタリア方面軍が合意された戦役計画を守れなくなると予想した。左翼のティロルにオーストリア軍が、そして正面にヴェローナの軍がいる状態では、計画履行を保証できなかったからだ。
 加えて私は確かな情報として、6日の戦いの直後にヴェローナのオーストリア軍と合流するようカール公子がロシア軍に命じたと知らされた。いくつかの部隊はその場所に陣を敷いた。また、このロシア軍の行軍はラインで起きたことの必然的な結果だった。ドナウ方面軍が後退し、ヘルヴェティア軍はグリゾン地方とシャフハウゼンからバーゼルまでのライン河畔の陣地に集結してこれ以上ティロルを脅かさなくなったため、ドナウとティロルに関するあらゆる懸念から解放された敵がイタリア方面軍に投入できるもの全てを送り込んでくるのは自明だった。
 教育を受けていない者は、パストレンゴの戦い後に私はアディジェに架かる2つの橋を使い、続けてヴェローナへと行軍し、この地を攻撃し大胆な襲撃によって奪取すべきだったと主張した。この論法には戦争に関する重大な無知が現れている。おそらく会戦と同じ日であれば逃亡兵にまぎれてヴェローナに入城するのは可能だっただろう。だが予想しなかった出来事が、私にこの見込みを残してくれなかった。
 敵がポロに持っており、それを使ってヴェローナへの退却を実行した2本の橋のうち、一つは彼らの手で破壊された。前衛部隊は2番目の橋に向けて精力的に追撃を行い、敵にその橋を切断する時間を与えなかった。だが前衛部隊の400人がようやくこの無傷で残った唯一の橋を渡ったところで、橋の上部に使われていた大きなボートが壊れ、川の速い流れに引きずられて我々の手元に残った橋の2艘のボートを破壊した。修復には5時間以上を要した。敵をヴェローナまで追撃する機会は過ぎ去った。強化され5万人に守られた町に城門を閉める時間だけを与えてしまえば、そこを強襲で奪うことはできないからだ。
 6日の会戦の後、私はヘルヴェティア軍からの増援を得られず、またイタリア方面軍に所属している部隊が私の左翼後方25リューのアルプス山頂で麻痺状態になるとの予感を覚え、山地を越えてヴェローナの平野部にある全軍をヴェローナ城のある山へと行かせようとした。この大胆な計画は、実行可能だとしても不利な点がないではなかった。なぜなら弱体な4500人の守備隊しかいないマントヴァを敵の戦力に晒すうえに、チサルピナの平野をオーストリア軍のなすがままにするからだ。ミラノにたどり着きチサルピナ共和国を転覆するには2個ユサール連隊で可能だった。
 にもかかわらず、もし私の計画が達成可能なら、私はそれに挑戦しただろう。なぜなら私が突然にアディジェの防衛線を渡り、そしてたとえヴェローナの平野部であっても確実に敵が攻撃を受けると決して想像していない地点において、結集した全軍で敵と戦うことができただろうからだ。そうすれが彼らがチサルピナへの遠征を考えるのを妨げられたであろう。
 私は計画を伝えるため全将軍を集めた。しかしブオナパルテのイタリア全戦役において実績ある士官として行動し、そして特に我々が通り抜ける必要がある同じ山地について正確な偵察を行った工兵大佐モベールは、アディジェに面した山の斜面は極めて険しいため騎兵も砲兵も通行できず、これら2兵科のための道を準備するには多大な時間が必要だと全将軍の前で宣言した。従って、事実冒険的であるが、剛勇をもって挑めば極めて有利な結果をもたらしうるこの計画は、諦めなければならなくなった。山地を3万3000人から3万4000人の歩兵で通過し、騎兵も砲兵もないまま、ずっと数が多くこれら2兵科の提供を受ける敵とヴェローナの平野で戦うのはとても危険だった。そしてもしこの歩兵が敗北したら、彼らはどこへ退却するのか? イタリアはどうなってしまうのか? 時には敵の陣地を奇襲し奪取するため、2000人から3000人の部隊で似たような一撃を試みる者もいるだろう。だがその試みを1つの軍で実行する者はなべて不運に見舞われるだろう。
 山地を経てヴェローナへ軍を送り込ませることが不可能であることが決定的に決まった。またヘルヴェティアとヴァルテリナの師団と合流したイタリア方面軍の一部戦力を敵の右側面に振り向けることの不可能性も明らかとなったため、私はアディジェをヴェローナあるいはレニャーゴの下流で渡ることを決断した。5個師団に右翼へ向かうようにとの命令が出され、架橋部隊はカステラーラに送られた。
 この行軍が実行されている間、セリュリエ将軍は彼の師団の一部でこの移動を隠すよう命じられた。いくつかの大隊をポロの橋を守るために残し、残りでアディジェを渡りヴェローナへ向かうことになった。自らを危険に晒さないようにとの命令が出されていた。セリュリエ将軍は10日早朝にアディジェを渡河し、河に沿って下るように前進してブッソレンゴの対岸まで来た。敵はこの村が横たわる山の斜面にいくらかの兵を配置していた。我々の兵は彼らを猛烈に攻撃し、崩壊させた。兵たちの熱狂は尋常でなく、彼らは将軍の命令にもかかわらず無秩序なまま騒然とした追撃に身を投じた。全力で逃げた敵はヴェローナを発した大規模な部隊に救われた。3倍の数的優位を持っていた敵は大胆になり、今度は彼らを混乱しながら追撃してきた歩兵を押し返した。彼らはすぐにブッソレンゴの村まで戻ってきて、もし栄光に包まれた第7竜騎兵[連隊]とピエモンテ騎兵の精力的な突撃がなければ、激しい攻撃を仕掛けてきただろう。歩兵は再集結し、捕虜を連れながら落ち着いて橋の背後まで後退した。セリュリエ将軍は彼の全兵士と伴に河を再渡河した後で、受け取った命令に従って橋を破壊した。我々にとってはもはや無用の長物であり、かつそれを安全な場所に運ぶ手段がなかったからだ。
 軍は10日夕方、新たな配置に就いた。軍の中央はアルバレドの対岸に位置し、3個師団がアディジェと向かい合い、4番目は右翼で予備となった。モロー将軍が指揮する2個師団は私の左翼で直角に布陣し、ブッタ=プレダ[ブッタピエトラ]村とタルタロ川水源を占拠し、ヴェローナからの動き全てに注意を払った。
 この陣を占めることで私は2つの計画を持っていた。1つはヴェローナかレニャーゴ下流で強行渡河を試みるもの。後者の場合、私の架橋部隊はタルタロを経てカルピまで行くことができた。もしこの計画が実行できないなら、私は全軍を左翼か右翼、ヴェローナとレニャーゴのいずれかから出撃してくる兵に差し向けるのが可能だった。私の司令部は全軍の中央、イゾラ=デラ=スカラに置かれた。
 1人の将軍がイタリアのような土地でより幸運に恵まれるのは、よいスパイがいて初めて可能だ。なぜならこの国は非常に広く木々に覆われ、運河が交差しているため、敵の真の位置を知るのがほとんど不可能だからだ。私の約束、さらにはばら撒いた金をもってしても、私が有能で賢いスパイを手に入れるのは常に不可能であった(こうした体制はずっと前に準備されておくべきだった)。一方、敵は彼らへの献身を示す者を全土に持っており、私が陣を敷くや否やその位置を知っていた。
 後方から増援を受けた敵は芽月14日午後、モロー将軍が指揮する師団に対する強行偵察を試みに来て撃退された。この将軍は14日から15日にかけての夜間に、この偵察から察するに敵はすぐ彼を攻撃する意図を持っていると推測し、その場で戦いを受けるか敵に向かって前進するかについて命令を求めてきた。私は午前2時に、ヴィクトール師団に対してモローの部隊と平行に戦線を敷くように、そして他の3個師団に左翼の3個師団を倍増するべく強行軍を命じると返事をした。
 私の右翼から左翼までの距離はたった6リューしかなかったにもかかわらず、事態は一刻を争った。既に極めて悪かったマントヴァ周辺の道は打ち続く雨のため台無しになっており、右翼の3個師団が到着する前に敵が左翼への攻撃を始める恐れがあった。
 私は敵の意図を見誤ってはいなかった。彼らは15日を全面攻撃の準備に当てていた。一方、私はグルニエ及びデルマ師団に対し、軍の残りと合流すべく強行軍をせよと命じた。この命令は14日から15日にかけての夜間に出され、各将軍は夜明け前にそれを受け取った。
 この行軍は極めて重要な思考に私を導いた。実は私はマントヴァ周辺の地図を軍内で一枚も発見できなかったのだ。共和国暦4年以来、我が軍はこの地域を占領していたにもかかわらず、地図が作成されることも、この地域に関する偵察がなされることも、道路について調べることもなかった。そのため私は多かれ少なかれ不正確な古い地図を信用することを余儀なくされ、軍が進む道路を無作為に示すことを強いられた。デルマ師団が行軍中にこの不利益を蒙った。ブッタ=プレダへ通じる道は通行不能だったため、彼らは多大な迂回を強いられ、不快な時間と憎らしい道を経た15時間に及ぶ行軍にもかかわらず、彼らが戦場にたどり着くことができたのはようやく極めて遅い16日になってからだった。
 命令を出した後で私は15日早朝にモロー将軍の司令部があるセッティモへ行った。長い行軍をする必要があるため会合に参加できないグルニエ及びデルマ将軍を除く全将軍を、私は集めた。そこで相互に合意したのは、軍を集結させた以上、敵を待つのではなく敵に向かって行軍する必要があるという点だった。
 ついでにここで私の見解を述べるなら、イタリア方面軍の司令官にとって、おそらく将軍たちを集めて困難な遠征を提案することは他のことに比べてそれほど不利ではない。そこでの意見はいつも強硬派に偏りがちであるし、この時もそうだった。しばらくの間ヘルヴェティアとドナウ方面軍からの支援が期待できず、自分たちで何とかするしかないのを軍が知るのは(そして私はそのことを将軍たちに隠さなかった)いいことだった。将軍たちが自らの状況を知り、おそらく長く血腥くなる作戦に対して自らの承認を通じて貢献することは必要であり、そうすることで皆が自らの立場をよく理解し結果として自らの努力を測ることができる。
 スパイが大まかに報告してきたところによれば、敵は多くの兵を14日から15日にヴェローナから出撃させ、ソーナとソンマ=カンパーニャに布陣させた。加えて7000人から8000人の部隊をモロー将軍の左側面、ヴィラ=フランカに置いた。攻撃計画は以下の通り。
 ヴィクトールとグルニエ師団は合流し、サン=ジャコモに行軍してヴェローナから出撃してくるであろう兵を食い止めるよう命じられた。デルマ師団はモンリシャール師団と交代でブッタ=プレダに布陣し、それからヴィクトールとグルニエを支援すべくドッソブオノへ行軍するか、あるいは必要ならモロー将軍の攻撃を援助する。この師団は結果として一種の予備となる。アトリとモンリシャール師団を率いるモロー将軍は、ソーナ及びソンマ=カンパーニャにいると伝えられる敵の攻撃を担う。その間、軍の左翼に位置し、モロー将軍の指揮下にあるセリュリエ将軍は、ヴィラ=フランカに布陣する敵の兵を攻撃する。
 これらの配置に対し、師団長の間には一致した連携が行き渡っていた。攻撃は朝6時に始まることになっていたが、悪路によってグルニエ及びデルマ師団の行軍が遅れたため、攻撃時間は午前11時まで引き続き延長された。間違いなく拙い事態だったが、改善する方法はなかった。
 その間、敵は我々を攻撃する準備をしていた。グルニエ将軍は16日朝にヴィクトール将軍との合流を成し遂げ、両師団は10時頃に移動を始めた。デルマ師団の先頭がブッタ=プレダ村の線に到達できたのはようやく正午頃になってからだった。ヴィクトール及びグルニエ師団によって攻撃が始まった。彼らは敵をサン=ジャコモ村の向こうまで積極的に押し返し、グルニエ師団が村を占拠した。この攻撃が我々の右翼で実行されている間、我々を攻撃する意図を抱いていた敵は、16日朝にモロー将軍が占拠していた宿営地に大挙して向かった。この将軍は前進するため既にそこを去っていた。敵は彼の背後と、ブッタ=プレダ村の先頭に到着したデルマ師団の正面を攻撃した。敵との遭遇にも驚かなかったモロー将軍は、右翼の兵で対応し、左翼をソーナ及びソンマ=カンパーニャに率いることで、敵を再びヴェローナへの道に布陣させた。この間、セリュリエ将軍はヴィラ=フランカを攻撃し、最終的にそこを奪って捕虜を得た。
 デルマ師団の最初の大隊も持ち場に到着したが、正面から精力的に攻撃され、右翼側で圧倒された。この師団より数で勝る戦力が正面におり、彼が陣地の前面に押し出すのを妨げた。だが、部隊を構成する全てを結集できなかったにもかかわらず、かなりの勇気と冷静さで常に機動した結果、午後2時前後には彼らは敵の攻撃全てを撃退した。正面で行ったいくつかの精力的な突撃は、1200人以上の捕虜と大砲5門をもたらした。
 右翼の戦闘は止むことなく4時間続いた。左翼の4個師団に押し戻された敵だったが、ヴィクトールとグルニエ師団に対しては持ちこたえていた。そして彼らはヴェローナから新たな兵を押し出し、ヴィクトール及びグルニエ師団に対し烈火の如き再攻撃をしてきた。血腥く執拗な長い戦闘の後で、これらの師団はかなり数で勝る敵に圧倒され、イゾラ=デラ=スカラへの後退を余儀なくされた。
 デルマ師団の右後方へと広がっていった敵の砲撃が、これら2個師団の退却を私に伝えた。だが彼らを助けられる兵力はなかった。というのも、差し迫った危険なしにデルマ師団をそこから外すことはできず、この部隊は退却をかばうため右後方へと展開した。
 この師団に食い止められた敵は、のんびりと追撃してきた。彼らがこの移動を実行したのは夕方6時以降だった。私がモロー将軍に関する消息を聞けたのも、やっとこの時間になってからだった。相次いで送り出した3人の士官は戦死するかたどり着けなかった。しかしながら参謀長が彼のところに到着し、夕方になって戻り、この将軍が常に敵を押しながらヴェローナ近くまで前進したと私に知らせた。
 2個師団の退却によって私に残された選択肢は、夜の間にセッティモの左1リューの場所に位置するヴィガージオの村まで後退しそこに3個師団を集めるようモロー将軍に命令を送る以外になくなった。  モロー将軍は敵に追撃されることなくこの命令を実行した。私は夜明けにイゾラ=デラ=スカラへ行った。そこではデルマ師団が戦闘配置につき、ヴィクトールとグルニエ師団のドゥイカステリ及びカスティリオーネ=マントヴァーノへの後退を守っていた。
 将軍たちの作戦を批判する必要があると望む者たちは、モロー将軍がヴェローナ前面の陣地を離れることに同意しなかったと主張している。この見解は間違っているうえにたちが悪い。それはモロー将軍が軍事的な知識をほとんど持っていないと仮定しているようなものだ。この士官は、会戦の少し後にヴェローナから1リュー離れた場所で孤立した2個師団が5万人のオーストリア軍を相手に支えられると信じるには、あまりにも優れた将軍だった。もし彼がその場所にとどまっていれば、オーストリア軍は夜明けに必ず彼を包囲しただろう。モロー将軍は単にこの日の夕方、ヴィガージオで私と合流した時に、もし状況を知っていた場合、自分だったら翌日の夜明けに後退する方が好みだと言っただけだ。
 18日、私は軍をより集中して布陣させた。2個師団がミンチオを渡り、残り4個は右翼をサン=ジョルジオに、左翼をモリネッラの水源に置き、正面をこの運河に守られていた。
 様々な会戦と戦闘によるフランス軍の損害は、戦死及び捕虜が3500人、軍の後方へ運ばれた負傷者が5000人近くだった。敵の損害はほとんど倍に達しており、捕虜もそれを認めていた。この最後の戦闘では、極めて珍しいことだが、押し戻された師団が900人近くの捕虜を得ていた。戦場にはオーストリア兵が散乱していた。他の師団は約2000人の捕虜を集め、大砲も奪った。
 事実に対する知識のために、そして私が現時点までに知る限り将軍たちの作戦に対して判断する能力がない者たちによるうわべだけの異論に答えるためにも、進展させることが重要な多くの考察に対してこの会戦は材料を提供する。
 まず、会戦を行う必要はなかったとの見解がある。だが私がしたくなくても敵が私にそれを強いたであろう。なぜなら私が彼らに向かって行軍していたのと同じ時、彼らも私を攻撃すべく行軍していたからだ。戦闘を避けるためにはマントヴァあるいはペシェーラに後退する必要があった。しかし、10日前に敵を打ち破った軍の姿勢として、これは適切だろうか? ロシア軍の到着を防ぎたいと考え増援を受ける前に敵と戦えと将軍に命じた政府の指示に対する適切な対応だろうか? そして結局のところ、攻撃を受けるより敵に攻撃を加える方が価値があるのではないか? もし私が右翼の4個師団に強行軍を命じていなければ、軍は間違いなく敗北した。モロー将軍は5万人に対してその陣地を保持することは決してできなかった。彼の2個師団が打ち破られれば、必然的に他の4個[師団]も敗北に巻き込まれたか少なくとも退却しただろう。従って会戦が必要不可欠であったならば、繰り返すが攻撃を加える方が受けるより良かった。
 もし攻撃配置を批判したいと望むのなら、それは勝利に慣れた者たち、自ら危険に目を閉ざすことなく、しかしながらこれらの配置こそが勝利に導く唯一のものだと確信している者たちの意見が一致した結果として生まれたものであると、私は答えよう。
 ならばいい攻撃計画を持ち、有能な将官たちとよき兵士たちによって構成されていた軍の手から勝利が剥ぎ取られた理由は何か? 厳しい批判だ! 軍の指揮権という重荷を委ねられた人々に対して[批判を]声に出す前に、宿営地に行き、敗北と勝利の原因を学ぶがいい。将軍がよい配置をした時でも、その実行はほぼ全部部下の将軍たちの手に委ねられていることを知るだろう。互いに数リューも離れた場所へ大きな分遣隊を出して戦うことを強いられ、自ら百歩離れた場所を見ることができない戦場で、司令官が同時にあらゆる場所にいることはとても不可能。そんなところでは偶然が交戦の運命を大いに動かし、時にはたった1個部隊の後退が充分に会戦の敗北の原因となることを知るであろう。たとえ多大な数的優勢を仮定したとしても、敢えて会戦の間違いない成功に責任を負う将軍がいるだろうか? イタリア方面軍の司令官に、この仮定は当てはまっただろうか?
 よろしい! 私はイタリア方面軍の全兵士と矛盾する恐れなく言おう。この会戦の失敗は唯一、敵の数的優勢、特に右翼のそれにのみ原因があると。さらに軍の行軍に伴う困難ゆえ、私の命令が実行され朝のうちに敵に襲い掛かることが不可能になったことにも起因している。もしデルマ師団がブッタ=プレダの陣地を朝6時に占めることができたなら、彼らはドッソブオノに向かい、グルニエ及びヴィクトール師団を精力的に支援しただろう。モロー将軍は宿営地で攻撃を受ける代わりに、ヴェローナから1リューの場所で敵と遭遇していただろう。ほとんど合流した5個師団で敵を正面と側面から攻撃すれば、この日の成功は極めて異なった形になっていたと私は敢えて信じる。
 この戦役における私の対応について自ら話しているのは、私が間違っているという批判に答えるためではなく(それに対する私の証言は戦役前に述べた)、会戦当日における司令官の義務について率直かつ明白な説明をするためだ。
 私は師団を指揮する将軍たちに、毎時間、もし必要ならもっと高い頻度で、それぞれの攻撃において何が起きているかを私に報告するよう命じた。デルマ師団は、上に述べたようにある種の予備となり、私はこの師団の位置が私の持ち場だと将軍たちに伝えた。攻撃の中央に位置していたため、私はそこで状況に応じて命令を出し報告を受けることができた。もう一つの理由も私がそこにとどまることを決めた。6日の戦闘で負傷していたデルマ将軍は、15日の行軍で酷い落馬をし、高熱で苦しんでいた。それでも彼は戦闘の間師団の指揮を執ることを望んだ。同師団には戦闘開始時から負傷した1人の騎兵将軍*と、准将の役割を果たしている参謀副官1人**しか残らなかった。それを相殺するために私はそこにとどまったが、将軍たちへこの中央地点に彼らの報告を提出しそこから私の命令を受けるよう伝えた指示の中では、この件には触れなかった。私は戦闘の間、デルマ師団の真ん中にとどまった。2時間の間、幕僚たちと同様に私も敵砲兵の攻撃の焦点にいた。何人もの兵が私の傍で戦死した。私はこの勇敢な師団の輝かしい機動と冷静さを目撃した。兵士たちは食事も取らずに15時間も行軍した後だというのに、敵の攻撃を常に撃退した。一度だけ単なる伝令役の猟兵が私に右翼への増援を口頭で求めたことがあった。同じ時に敵は精力的な突撃を行い[デルマ]師団の右側面を圧倒していた。私は彼に敵砲兵の砲撃を指し示し、彼の腰が引けた。私は猟兵に対し、将軍のところへ戻り、彼の状況について書いたものを私に送り、そしてモロー将軍が救援に来るまで持ちこたえろと伝えるよう命じた。私はこの将軍[モロー]に3人の士官を送り、右翼方面へ折り返してヴィクトール及びグルニエ師団を圧迫している敵の背後を取るよう命じた。最後に、もし私の期待に反して相互の支援ができないなら、イゾラ=デラ=スカラへ後退するよう告げた。
* ボーモン将軍。
** グランジャン参謀副官は、6日に戦場で准将に任じられた。
 司令官の義務は散兵の先頭に立って行軍することではない。おそらくそうすることは可能だし、極端な場合においてそれが会戦の行方を決める最後の試みであるならば、兵の先頭に立つべきである。しかし私がいた師団においてそうした対応は必要ではなかった。敵の突撃は全て精力的に撃退されていた。司令官は全体に心を配る。彼は救援や増援の送り出しを命じる。彼は弱体化した地点を新たな兵で支援する。彼は戦闘における全体の監視役であり、個別の機動の実行者ではない。自らの手で戦う者たちのように任務を果たすことはない。むしろ必要もないのにそうすることは非難に値する。同じような問題にもこの話は充分当てはまる。
 ずっと以前からフランス政府に対するのと同様、イタリア方面軍の司令官に対しても仕組まれていた陰謀を紹介する時が来た。私がミラノに到着した時から、我が任務の目的に関する極めて馬鹿げた噂が流布されていた。フランス政府とチサルピナに敵対する党派が、フランス総裁政府はチサルピナの放棄によって皇帝との平和を買おうと秘密裏に望んでいるとの話を広めたのだ。将軍である私は、この自由の破壊の実行者だとされていた。駐ミラノのフランス大使もこの悪名高い噂を知っており、総裁政府に書き伝えていた。
 6日の成功は彼らによって敗北に変換された。5000人近い捕虜がミラノを通過し、それが戦いの勝利を保証したにもかかわらず、彼らによれば軍は失敗に苦しんでいた。16日の戦い後になると状況は大きく変わった。2個師団の退却は司令官のせいにされ、彼らはもちろん我々の損害を誇張し、軍は壊滅したと言った。こうした噂が軍内に広められた。スパイが兵士たちの間を行き来し、兵士たちに別の将軍が来れば勝利が得られるとほのめかした。少数の個人が関与している恐ろしい盗賊行為を制圧するために私が出した命令の厳格さは彼らを怒らせた。私が兵を不必要に戦闘へと導き兵たちは予め決められた計画の犠牲になっていると、彼らは兵士たちに信じ込ませた。
 私は兵の一部によるこうした対応が秘密裏になされていること、そして私に対する不信が醸成されていることを確信した。私はそのことをモロー将軍に話した。彼は特別な任務のためパリに向かえとの命令を受けたばかりだったが、私は彼に対し、兵士の大半がライン方面軍で彼の下に仕えたことのある軍に残るよう懇願した。私は兵の一部による対応に関して彼に隠さなかった。私は総裁政府に召還を求めた。軍の一部がその将軍に信頼を抱いていないと確信した時以来、もはや私はここでは役にたたないと判断していたからだ。多大な落胆と戦争による疲労は私を極めて衰弱させ、古傷をあまりに悪化させたため、私は馬に2、3時間しか乗っていられなかった。この状況下で司令官に必要な活動力を保てなかった。私は軍に信頼されている別の将軍に指揮権を与えるよう総裁政府に主張した。兵士たちがモロー将軍を想定していることを私は隠さなかった。彼は2つの戦闘で名を上げ、多大な貢献をすることができただろう。
 以上が、軍の一部の信頼が私から離れていったのに気づくや否や私が採った対応である。私に関する兵の一部によるこれらの不当な対応は、もはや困難な状況下で彼らの側の努力に私が期待できなくなったことを示していた。匿名の手紙が日々、私にその事実を伝えてきた。よろしい! 私は中立的立場の人に問おう。この行動は指揮官に嫉妬した人間の、2つの共和国の利害を裏切った人間の、最終的に祖国の栄光より自らの満足を優先させた人間の行動ではないか? 敢えて言うが、私はこの困難な状況下であらゆる犠牲を払ってきた。私は国民のことだけを考えるよう行ってきた自制を、全て忘れなければならない。
 花月までに起きた出来事について以下に述べよう。16日の戦いの後、マントヴァに適切な守備隊を置くことを考える必要が生じた。状況は私に前進または後退を余儀なくさせており、いずれの場合でもマントヴァはそれ自身の戦力に委ねられることになる。従ってこのイタリアの目抜き通りを長い抵抗ができる状態にする必要があった。私は6600人を入城させ、既にいた兵力とあわせてかなり大きな守備隊を編成し、1年以上の食糧と弾薬を補給した。
 マントヴァ守備隊を追加した後で、私は野戦師団数を3個と前衛部隊1個に減らした。各師団は歩兵10個大隊と騎兵3個連隊相当を持ち、前衛部隊は歩兵5個大隊と騎兵2個連隊から成る。軍の戦力は実働で2万8000人であり、大砲60門を伴っていた。彼らは花月20日夕方までミンチオの陣地を保持した。その時、敵ティロル方面軍の一部がロッカダンフォを経て左翼背後にあるブレシアへと移動していることを私は知った。どの場所からも渡渉できるミンチオの戦線は持ちこたえられず、ヴァレッジョの高地を占拠している敵は私の目の前で河を渡る準備を大いに進めていた。私は軍にオーリョの背後まで下がって布陣するよう命じ、アッダの橋に兵を配置するため、及び敵対的党派がミラノから両院とチサルピナ総裁政府を排除するのを妨げるために、強行軍でやって来た。
 同時に敵はポー河下流に兵を進ませ、フェラーラ下流でこの河を渡り、ポー両岸の住民を蜂起させた。私は戦時編成の歩兵3個大隊とピエモンテの騎兵2個大隊を選び、ユサール連隊を加えて、混乱を収め敵をそこから追い出せとの命令と伴にモンリシャール将軍を送り出した。花月21日、常に自分の戦力のみに帰着していたデソール将軍が、数で大いに勝る敵に攻撃され、グリューヴェンツ[ママ、グロレンツァ?]近くの陣地を放棄することを余儀なくされ、ヴァルテリナのボルミオへ後退しそこからポスキアヴォへ向かったことを知った。
 それから数日後、私はナポリ方面軍をイタリア方面軍に接近させる許可を得た。私は既に芽月18日、マクドナルド将軍に対して、軍を集め、各地に守備隊を残し、私が送る最初の命令でトスカナへ向かって出発できるよう準備をせよとの命令を出していた。もし、誰もがイタリア方面軍の安全にとって必要だと思うこの対策を総裁政府が承認しなければ、この兵のトスカナ到着前に反対命令を出す時間はあると、私は彼に伝えておいた。以来、私は行軍を急がせるべく相次いで3人の伝令を彼に送った。しかしこの合流が実行されるのがいつになるかはもはや分からなかった。私は時間を稼ぎ、寸土を争うため、オーリョの前方及び後方に陣を敷いた。
 私は2つの軍の合流前に敵と3度目の会戦を戦うとのアイデアを常に拒否した。事実を見ることができず、イタリア方面軍の成功のみを夢見る何人かはしつこくそれを懇願し、おそらく明白な敗北に強い安心感を抱く他の何人かもいたが、私の決断は揺らがなかった。私は政府に命じられた防御姿勢を常に維持した。それがナポリ方面軍がイタリア方面軍に合流できる時間を稼ぐ方法だった。
 もし私が状況に対して最も適切な対応を選んでいるかどうか判断したければ、敵と比べた私の立場を思い出す必要がある。
 ロシア軍及び敵ティロル方面軍の一部の到着によって、オーストリア軍は3万人以上の増援を受けていた。もし敵を攻撃したいのなら、私はマントヴァとペシェーラ近くに残された兵を除いても6万人以上を相手に戦うことになったのは疑う余地がない。2万8000人で6万人を相手に戦う必要があったのに、一体どんなチャンスが残されていただろうか! そしてもし私がオーリョの前方または後方で敗北していれば、フランス軍は壊滅する危険があった。2つの河の間で行われるその退却は、不可能とは言わないが極めて困難になっただろう。そしてもしイタリア方面軍がこうした敗北を喫していたら、それはナポリ方面軍にどんな影響を及ぼしていたことだろうか?
 私が置かれていた状況で会戦に運命を委ねなかったことに対する満足感を、おそらく私は生涯に渡って感じ続けるだろう。オーリョとミンチオ間での会戦の勝利によって得られたであろう利点は、単に敵を後者の川の向こうまで追い払うことに過ぎなかったのに対し、その会戦の敗北は2つの軍を壊滅させ、全イタリアを我らの敵に明け渡したであろう。
 花月1日、軍全体がなおオーリョの前面に布陣しており、パラッツォーロ、キアーリ及びカルチョを保持していた。敵軍がブレシアへと前進してきたため、私は軍にこの川の背後に引くよう命じた。この極めて短い行軍は損失なしで実行され、軍はオーリョの背後、左翼はイゼーオ湖、中央はカルチョ、右翼はソンチーノに布陣した。前衛部隊はポンテヴィコの対岸まで延伸した。兵が渡河した後で、私はミンチオほど防御に向いていなかったこの川に架かる橋を破壊した。それでもこの陣地は私に少なくとも2日間の小休止を与えてくれた。
 花月3日、オーストリア軍が大挙してオーリョへ押し寄せた。かなりの大軍がクレモナへ行軍する間、オーストリア軍と一緒にロシア軍が左岸に位置するパラッツォーロ村の一部へ向かった。2時間の砲撃により敵はこの村を放棄することを強いられた。夕方、オーリョ河畔の農民がオーストリア軍を支援し、彼らがセリュリエ将軍の左翼で渡河するための手段を準備し、この将軍を無防備にしようとしたことを私は知った。またベルガモの山岳部を越えてきた敵が同師団の背後を脅かしていることも知った。
 そこで私はアッダへの退却を命じた。セリュリエ師団はベルガモを経てレッコの橋まで後退し、そこにある防御を施した橋を守り、そこからヴァプリオ近くまで戦線を延ばした。グルニエ師団はカッサノの橋を占拠し、左翼をセリュリエ将軍の右翼まで、右翼をリヴァルタの対岸まで延伸した。そこでヴィクトール師団の左翼と連結し、同師団はロディの橋を占拠したうえでピッツィゲトーネ近くまで戦線を延ばした。そこからポー河までは前衛部隊が陣を敷いた。
 ヴィクトール師団と前衛部隊の行軍には妨害されなかった。グルニエ師団は追撃してきたいくらかの軽兵を押し返した。セリュリエ師団はベルガモ近くでロシア軍前衛部隊の攻撃を支えなければならず、敵を精力的に撃退した。敵は戦死者500人を戦場に残し、我々の損害は100人に達しなかった。
 私はアッダ防衛に関する将軍たちへの命令を事前に準備していた。上に述べたように配置した兵たちは相互に支援できた。そして6時間以内に敵が渡河を試みた場所に歩兵12個大隊、騎兵12個大隊、及び軽砲兵2個中隊を集めることができた。もし川岸が私の命令通りに監視されていれば、この兵数は同じ時間に敵が対岸に集めうる数より優勢になる。私は主に監視すべき川の場所を指定し、そして敵の真の意図について欺かれなければ、おそらくこの川の防衛は15日以上持ちこたえただろう。私は15日と言ったが、60マイル以上の長さを持ち、この季節には多くの浅瀬があらわになっている川の渡河をたった2万8000人で守るとした場合、おそらくとても優勢な敵であればこれだけの期間があれば突破されるであろう。そうなればこうした川の防衛を委ねられた将軍に残された手は、予め選んだ場所への後退か、あるいは全軍を集結させて敵との死闘に向かうしかない。
 さらに軍を増援するため、私はヴァルテリナ師団から第39半旅団を引き抜き、他の半旅団で穴埋めするようマセナ将軍に頼んだ。ロワゾン将軍が第76[半旅団]を連れてきて、到着後にモンテロロで敵を打ち破った。第39半旅団はコモで持ち場につくよう命じられ、それからセリュリエ師団の増援に来るよう私が命じた。
 花月4日朝、私は軍の全師団長にアッダ防衛に関する命令を送った。
 5日、敵の行軍に恐れをなしたチサルピナ総裁政府が逃げ出す準備をしていると、ミラノからのいくつかの手紙が教えてくれた。この出来事は軍のあらゆる資源を麻痺させ、300万以上の支払いが遅れ、あらゆる場所で必要な業務が滞った。敵の数的優位と同じくらい軍を損なうと予想されたこの害悪は即座に取り除かれる必要があった。私は6日朝、総裁政府と両院を安心させ、必要不可欠な資金が届くように措置するよう試みるため、ミラノへ向かう必要があるとモロー将軍に伝えた。
 私はモロー将軍に、数日離れるのを余儀なくされるため、私が不在の間は彼に軍の指揮を委ねると伝えた。彼は私が出発する必要性を認識し、指揮権を引き継いだ。同じ6日、私はこの対応を予定に入れた。最も中央の位置にあり、そこから命令も出せるし報告も受けられるインザーゴにある私の司令部に来て任務を引き継ぐよう、モロー将軍を招いた。
 7日、私はミラノへ出立した。この町にたどり着いた時、私の召還を承認しモロー将軍を軍の司令官に任命した総裁政府の特使を見つけた。私は7日から8日にかけての夜間にインザーゴにいる彼に士官を送り出し、彼の任命を伝えた。彼への手紙で、私は軍の状況と様々な分遣部隊の場所について言及した。
 8日、私は2人の伝令を、1人はマクドナルド将軍に、2人目はマセナ将軍に送り出した。マクドナルド将軍に対してはイタリア方面軍との合流を急ぐ必要性があると3度目の説明を行い、モロー将軍の任命を彼に教えた。マセナ将軍にもこの任命を書き知らせた。私は彼にヴァルテリナに関する懸念を伝え、軍がティチーノに後退を余儀なくされる仮定のうえで、イタリア方面軍とヘルヴェティア方面軍の連絡線を重要な峠を通じてつないでおくためにもサン=ゴッタルド峠にいくらかの兵を送る必要性があると述べた。最後に総裁政府が私にパリへ向かうようにとの命令を寄越したので、8日夕方にフランス大使と伴にミラノを去った。
 以上が、私が指揮から離れた時の軍の状況だ。セリュリエ師団に合流すべく行軍している半旅団を除き、歩兵と騎兵2万8000人がアッダ川の背後に位置していた。敵に戦死、負傷者及び捕虜1万6000人近くの損害を与えた2度の血腥い会戦といくつもの戦闘を経たにもかかわらず、軍は私が後方へと移送した5000人の負傷者を含めても8000人と数百人しか減らなかった。この数には、私がマントヴァに入城させた6600人を加える必要がある。16日の会戦から花月6日までの20日間、軍はミンチオとアッダ間の地域における敵の圧倒的な数的優位にも屈しなかった。様々な行軍も落ち着いて最良の秩序を維持して行われ、各師団の後衛部隊は常に敵を撃退した。イタリア方面軍における以後の出来事は、私は関与していないため、もはやこの回想の対象ではない。
 私が指揮権を保持していた間にイタリア方面軍で起きた出来事に関する忠実な記録はここで終わりだ。これは私が委ねられた任務を見事に達成したかどうかについて証言するよう、将軍たち、士官たち、さらには兵士たちの公平な判断を求めるものだ。もしこの回想録の中に厳密で正確な事実に従っていない文章があったのなら、朋友たちの目から私を奪い去るべく隠れた敵が口述している大量の曖昧で匿名の中傷によって評判が失われることを、私は認めるだろう。

"Précis des Opérations militaires de l'Armée d'Italie, depuis le 21 ventôse jusqu'au 7 floréal de l'an 7." p1-66


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