ムオタタール
スヴォーロフのパーヴェル1世への報告



 皇帝パーヴェル1世への報告。
 フェルトキルヒ、1799年10月14日[ユリウス暦3日]

 (中略)

 [9月]30日[19日]朝、双方の前哨線で互いに小競り合いが行われました。午後2時、散兵を前方へ送り出した敵は、最初の前哨線を攻撃し、それから最前線にいる猟兵中隊と我々の兵に対し修道院の反対側に布陣しました。猟兵とコサックによる前哨線は彼らをカトキン猟兵連隊及びレービンダー燧石銃兵連隊のところまで誘い出し、両連隊は2時間の長く激しい銃撃戦の末に敵を追い返しました。しかし敵は増援を得て、我々の両側面に対し山の斜面をたどって猛烈に前進してきました。そこでミロラドヴィッチ、フェルスター、ヴェレツキ燧石銃兵連隊を我らの兵の増援として送り出し、味方は一塊となって銃撃と銃剣をもって敵に向かい、敵を打ち破ってムテン[ムオタ]の背後、シュヴィーツへの道を6ベルスタ[1ベルスタ=1.0668キロメートル]も押し返しました。その際にデニソフとクルナコフのコサック兵が大いに貢献しました。後者はムテンバッハに飛び込んで浅瀬を渡って敵の左側面に襲い掛かり、岩場や山、森に踏みとどまろうと望んだ敵を、騎兵として可能な限り追い払いました。
 レービンダー中将とカトキン少将は銃撃と銃剣をもって多くの捕虜と敵の8ポンド砲を奪い、[使えないようにするため]大砲には釘を打ち込んで埋めました。フェルスター中将、ミロラドヴィッチ少将、ヴェレツキ少将は必要な陣を占め、敵がいまだに保持していた森や川を攻撃し、銃撃と銃剣でもってシュヴィーツへ6ベルスタも追い返しました。この日、我々と対峙したのは、数で我々を大いに上回るモルティエ将軍麾下の8000人でした。敵のうち500人は戦死し、100人は川へ追い込まれて全員そこで溺れ、70人が捕虜となり、1000人が負傷してそのうち何人かは捕らえられましたが残りは敵によって連れ帰られました。夜が来て戦闘は終了し、兵は最初にいた場所で再び陣を敷きました。ヴェレツキ将軍は敵のあらゆる試みに対応して味方を守るため彼の連隊の1個大隊と伴に前進し、彼の哨兵を左翼と連絡させました。
 10月1日[9月20日]午前11時、敵はスイスの司令官マセナ自身が率いる1万人でもって猛烈に我々を攻撃してきました。ヴェレツキ少将は受けていた命令に厳密に従い、前哨戦を展開し、その大隊を左翼へと後退させ、我らの部隊が戦闘に備えて戦線を敷いている峡谷の平坦な場所まで敵を引き寄せました。味方は横隊を組んで銃剣でもって激しく戦い、敵は多くの戦死者と重傷者を出した後に敗北して我らに背中を向け、それに対し我らはフェルチュ大隊及びデニソフとクルナコフのコサックで激しく追撃しました。
 敵は戦場で敗れシュヴィーツへ12ベルスタも逃走しました。ルグリエ将軍と300人以上が戦死し、川で300人以上が溺れ、200人が山から谷間へ落ちて首を折りました。捕虜はルクルブ将軍、旅団長1人と大隊長1人、士官13人及び兵1200人でした。400人以上の負傷者が森に倒れたまま残され、ムテンタール[ムオタタール]の住民が集めなければなりませんでした。12ポンド砲1門を含む大砲5門も奪いました。マセナ将軍は少数の兵と逃げ出してどうにか助かりました。

 (中略)

 スヴォーロフ。

 google book "Correspondenz des Suworoff-Rimniksky, Zweiter Theil." p229-230


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