ムオタタール
マセナの報告



 ドナウ方面軍司令官マセナ将軍から、共和国暦8年葡萄月3日から18日に行われた同軍の作戦に関し、フランス共和国総裁政府に提出された報告。

 (中略)

 そして私はスヴォーロフのいるムテンタール[ムオタタール]へ向かいました。相次いで強力な偵察を押し出し、引き続いてムテン[ムオタ]の前面にあるロシア軍陣地を追い払い排除しながらこの場所の近くまで到達し、そこに敵軍の半分を構成するローゼンベルク将軍の全部隊を発見しました。しかし白兵戦が広がり、夜のみが戦闘員を分かつことができた状態のため、この部隊の戦力を測ることは不可能でしたが、我々は彼らに多大な損害を与え、2門の大砲と捕虜を得ました。
 私はモルティエ師団及びルクルブ師団から引き抜いた半旅団1個と伴に、翌日攻撃することを決断しました。この攻撃の目的は、この日に決定的な成功を収めることよりも、スヴォーロフの行軍を遅らせ、私が彼に対してあらゆる方面から進軍させている部隊がそれぞれの目的地に到着する時間を稼ぐことにありました。我が軍の移動を支援させ、特に敵の動きを観察しその戦力を知るために、私はこの狭い峡谷の左右の高地に部隊を送り込みました。敵の陣地はすぐに、激しい抵抗にもかかわらず相次いで取り除かれ、そしてロシア軍はその主力が位置するムテンに退くことを余儀なくされました。敵を射程圏内に収めた我々の砲撃は多くの災厄を彼らにもたらし、我々の砲兵がこの大軍を徹底的に破壊したため、支えきれなくなった敵は全兵力をいくつかの強力な攻撃縦隊に組んで絶望的な怒りと伴にそれを我々に差し向けました。その数は抵抗する役目を担った師団より圧倒的に勝っていました。
 勇敢な108戦列歩兵[半旅団]は、他に例を見ない勇気と頑強さをもってこれらの攻撃縦隊のいくつかの衝撃を長期にわたって支えました。彼らは戦列を敷き、隊列を詰めた敵も彼らを突破できませんでした。銃剣で攻撃されてもその活力を倍加させました。私は擲弾兵少尉がロシア軍を戦闘へ導いていた軍旗を、彼らの縦隊の真ん中から奪い取ったのを見ました。私は戦場で彼を中尉に任命しました。しかし敵は常に増援を受けており、彼らが陣地を支配しようとしていた時に、4時間早く到着するはずだったが誤解によってこれまで遅れていた第67[半旅団]の先頭がかろうじて戦場に到達し、戦況を回復させました。そして敵はあらゆる方面から新たな兵力で攻撃され、かなりの損害を出して押し返されました。我々は再び一度は敵の手に落ちた陣地、大砲、弾薬、負傷者を取り戻しました。我々は多数の捕虜を得て、ムテンの背後にある渓谷に彼らを押し込めました。
 これほど数で勝る敵をこれほど長期にわたって足止めした勇敢な兵士たちの献身的な対応を言葉に表すことはできません! モルティエ、ブリュネ、ドルーエ将軍と、同様に第108[半旅団]の指揮官たちが特に名を上げました。
 敵の損害はかなりのものです。ロシア軍の中で広く評価されていたコサックの将軍はこの地で命を失いました。

 (中略)

 チューリヒの司令部にて、フランス共和国暦8年葡萄月24日(1799年10月16日)、
 マセナ。

 google book "Réimpression de l'Ancien Moniteur, Tome Vingt-Neuvième." p874-875


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