マレンゴ
予備軍公報



 予備軍公報

 トレ=ディ=ガロフォリ、共和暦8年牧草月26日(1800年6月15日)

 モンテベロの戦いの後、軍はスクリヴィアを渡るべく出発した。ガルダンヌ将軍麾下の前衛部隊は24日にアレッサンドリア付近のボルミダへの接近路と3つの橋を守る敵と出会い、それを崩壊させて大砲2門と捕虜100人を奪った。
 同時にシャブラン将軍の師団は敵がポー河を渡るのを妨げるため河沿いのヴァレンツァ対岸に到着した。かくしてメラス氏はボルミダとポーの間で囲まれた。彼に残されていた唯一のジェノヴァへの退路も、モンテベロの戦い後に遮断された。敵は何の計画も持っていないようで、その移動はとても曖昧なものだった。
 25日夜明け、敵はボルミダを3つの橋で渡り、戦線を貫く覚悟をもって大軍で現れ、我が前衛部隊を奇襲し、立派な敏捷さで最終的にイタリアとオーストリア軍の運命を決したマレンゴの戦いを挙行した。
 戦いの間に我々は4回退却し、4回前進した。双方の60門以上の大砲が様々な場所で様々な時に奪われ奪い返された。12回以上の騎兵突撃があり、その成功度も色々だった。
 午後3時、サン=ジュリアーノの壮大な平原で我々の右翼から1万騎の騎兵が溢れ出してきた。彼らは騎兵(ママ)横隊と多くの砲兵に支援されていた。親衛隊擲弾兵はこの広大な平野の真ん中で花崗岩の要塞のようにとどまっていた。何者も彼らを倒すことはできなかった。騎兵、歩兵、砲兵、全てがこの大隊に振り向けられた。しかし、全て無駄に終わった。それは一握りの勇敢な兵たちが何をなしうるかを体現したものだった。
 この執拗な抵抗で敵の左翼は食い止められ、我が軍の右翼はモンニエ将軍の到着まで支援され、将軍は銃剣突撃でカステル=チェリオロ村を奪った。
 そこで敵騎兵は既に動揺していた我が軍の左翼に対して素早い移動を行った。この移動は我が軍の退却をせきたてた。
 敵は全戦線で前進し、100門以上の大砲から散弾を放ってきた。街道は落伍兵と死傷者、残骸に覆われた。我々は戦いに敗れたかに見えた。敵がサン=ジュリアーノ村から銃弾の射程距離まで前進してきた時、前面に8門の軽砲兵を置き、両翼に密集隊形の2個大隊が張り出した形で戦列を組んでいたドゼー師団がそこにいた。落伍兵はすべてその背後に合流した。既に敵は災難を予想させる失敗を犯していた。彼らは両翼を延伸し過ぎた。
 第一執政の存在は兵の士気を蘇生させた。彼は「兵たちよ、私がいつも戦場で夜を過ごす習慣を持っていることを忘れるな」と言った。
 「共和国万歳! 第一執政万歳!」の叫びと伴にドゼーは突撃を行い敵の中央に接近した。次の瞬間、敵は崩壊した。
 麾下の重騎兵旅団と伴に終日、我が軍の左翼で退却を掩護していたケレルマン将軍は、かなりの戦力で突撃を実施し、それによって6000人の擲弾兵と参謀長のツァッハ将軍を捕虜として幾人かの敵将軍を戦死させた。
 全軍がこの動きに追随した。敵の右翼は迂回され、その隊列は驚愕と恐怖に見舞われた。
 オーストリア騎兵は退却を掩護するため中央へ向かった。親衛擲弾兵部隊の先頭に立った旅団長ベシエールは、その価値を上回るほどの活力で突撃し、敵騎兵に穴をあけた。それにより敵全軍の壊走が完成した。
 我々は15旒の軍旗、40門の大砲を奪い、6000人から8000人の捕虜を得た。6000人以上の敵が戦場に倒れて残された。
 第9軽歩兵連隊は「比類なき」という称号を受けるに足るだけのことをした。重騎兵と第8竜騎兵は栄光に包まれた。我々の損害もかなりのものだった。600人が戦死、1500人が負傷し、900人が捕虜となった。
 シャンポー、マイノーニ、ブーデの各将軍は負傷した。
 総指揮官ベルティエは弾丸で穴だらけになった服を変えねばならなかった。副官の何人かは乗馬を失った。だが、軍にとって、そしておそらく全共和国にとって最も深刻な損失が、我々の心にあった喜びを塞いだ。麾下の師団による突撃を始めた時、ドゼーが撃たれたのだ。その一撃で彼は死んだ。彼は随行していた若者ルブリュンに話をする時間しかなかった。「後世に残るだけのことができなかったのを悔やんで死んでいくと第一執政に伝えてくれ」
 その人生でドゼー将軍は乗馬を4回殺され、3回負傷した。彼が司令部に参上してたった3日だった。彼は戦いを望んでおり、そして前日に2、3度副官に対し「私が欧州で戦わなくなって長い時間が経っている。銃弾はもう私のことを知るまい。ヤツは我々のところに到着するかもしれない」と言った。激しい砲撃の真っ最中、第一執政の下にドゼー戦死の知らせが届いた時、執政が彼のために残せる言葉は以下のものだけだった。「なぜ私には泣くことも許されないのだ?」 彼の死体は処理のためミラノの陣に移送された。

Simmons Games "Campagne de l'Armée de Réserve en 1800"


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