マレンゴ
メラスの報告



 メラス元帥からカール大公への報告

 ピアチェンツァ、1800年6月19日

 オーストリアのカール大公殿下へ

 私が5日に謹んで殿下に報告を差し上げた時、軍が置かれている重大な局面においては、ジェノヴァの陥落とそれに伴って私が当然のように確信していた包囲部隊の呼び戻しに期待できることが、ヴァール河沿いのニースにとどまっていたエルスニッツ中将麾下部隊の到着と同様、素早く行軍した敵に対峙するのに十分な兵力を私に与え、可能なら敵をロンバルディアから追い出すうえで、どれほど望ましいものかについて述べました。
 しかし、私がニースを出立して以来、エルスニッツ中将の部隊にはあまりにも多くの様々な出来事があったため、その部隊を構成する軍の中核から引き抜いた1万9000人は6000人まで減少してしまいました。
 さらに、ジェノヴァの守備隊として包囲部隊のうち約1万人が外れ、かくしてかなりの兵力が伴に加わり敵に対抗できることが可能になるとの希望は消え去りました。
 敵はこの状況下で、『予備』として知られる軍の6個師団と伴に、ドイツ方面の[連合軍]部隊が不運に見舞われた後でイタリアにいる軍を増援するためシュプルーゲン峠経由で送られた師団と合流するためにあらゆる努力を払いました。
 敵はこの本当にかなりの兵力と伴にあまりに激しくかつ素早くロンバルディアに侵入しオグリオへ至ったため、ミラノとピッツィゲトーネの占領以来4000人を超えることのなかったヴュカソヴィッチ中将の師団は不特定の場所で効果的に対抗することができませんでした。敵軍の一部はポー河へ移動し、そして重要な場所であるピアチェンツァが本来必要な兵力で守られていなかったため、敵は5日に橋頭堡を確保し、さらに6日にはかなりの兵数をポーの川岸に送り出してブローニに迫りました。7日には敵は同じ岸のピアチェンツァを攻撃し、オレイリー中将は弱体な兵力と伴にヴォゲーラまで後退を強いられました。
 この状況の変化を受け、私は可能な全兵力をポー河右岸のアレッサンドリア近くに集め、敵がまだポー河で分断されている間にその部隊で敵兵力を攻撃することを決意しました。
 ピエモントに残っていたカイム師団とハディック師団は、エルスニッツ部隊の残りと合流するよう私が決断した後の6日にトリノを発し、アレッサンドリアに接近しました。
 オット中将は[ジェノヴァ]包囲部隊と伴に既に5日には出発し、ノヴィとトルトナを経由してヴォゲーラへの道を進みました。7日(ママ)、この部隊はカステッジョの有利な陣を占拠しようと準備している敵と出くわし、罠にはまり不利な戦いの後で退却を強いられました。オット中将はそこでスクリヴィアへ移動しましたが、9日にはさらにこの河の対岸へ後退しなければなりませんでした。
 最後に11日にはトリノからの全師団が到着し、アレッサンドリア近くのボルミダ左岸に野営しました。12日、敵はスクリヴィアを渡り、オット中将の部隊もまたボルミダ左岸へ移動を余儀なくされました。正面の敵のアレッサンドリアに向かう行軍が次第に脅威を増しつつある中で、極めて深刻でとても致命的な出来事が起こりました。スーシェ将軍(我が軍がリヴィエラを出発して以降、約1万2000人の兵と伴にサヴォナとヴォルトリへ前進し既にサヴォナを封鎖していた)がいくつかの分遣隊をボルミダ渓谷のアクイに向けて派出し、13日にはマセナ将軍も1万人から成る部隊の主力と伴に同じくこの方面へ向かっていました。
 敵兵力が6万人に膨れ上がる一方、苦労してアレッサンドリア近くに我々が集めた兵力はおそらく歩兵2万7000人、騎兵8000騎と推定されました。
 同様の状況下でイタリアにおける我々の運命を決めるためには、ポー河右岸の本国へ至る道を切り開き、同時に脅威に晒されているマントヴァ、レニャーゴ、ヴェローナの各要塞を救援し同様に危機にある西ティロルを守る目的で、敵を攻撃する他に手段は残されていませんでした。
 勝利を得ていたこの時期に軍が持っていた価値と、敵に比べて優勢で多数ある我が騎兵と砲兵に対する信頼、そして全軍が駆り立てられていた勇気とが、疑いのない勝利を私に確信させました。
 かくして攻撃は14日夜明けと定められました。しかし、敵が13日の午後終わりにかけて我が軍の哨戒線をボルミダ橋頭堡まで追い詰めたため、攻撃開始を数時間遅らせる必要が生じました。
 14日、全軍は2つの橋を渡っこの河の右岸へ進出しました。
 攻撃は2つの主な縦隊によって行われ、うち1つはトルトナ街道を通ってマレンゴへ移動し、もう1つは中央へ進んだ縦隊の左側面を守り、サーレから来る敵の主力縦隊から陣を確保することになっていました。
 右翼縦隊は橋頭堡を越えるや否や、すぐに翼側に置かれた騎兵の護衛下に歩兵3個横隊を組みました。残る大隊は1つの縦隊となり、予備として続きました。
 ハディック中将が第一線部隊を指揮しました。彼の背後にはカイム中将の部隊があり、それにモルツィンの擲弾兵師団が、最後にエルスニッツ騎兵師団が続きました。
 攻撃は多大な勢いと決意をもって実行されたため、敵はあらゆるところで後退を強いられ、3個横隊はすぐに前進しました。しかし、先頭の横隊はマレンゴ村に接近するにつれ、その地で正面にあった厚い藪に覆われた深い溝によって停止を強いられ、その場所で致命的な射撃を受けました。にもかかわらず、我が兵は動揺しませんでした。今度は彼らが敵に対して激しい射撃を浴びせ、もし騎兵が溝を渡ろうと試みている間に敵の射撃で押し戻されなければ、困難な障害物を素早く通り抜けていたことは確かでしょう。その間に工兵隊が到着し、兵が小川を渡るのに必要な橋を架けるのに成功しました。敵が陣を諦めるてマレンゴへ後退することがこれで決まりました。
 第1縦隊が成果を上げている間、第2及び第3[縦隊]が橋頭堡を通過しました。フルガローロ方面のオレイリー中将麾下の第3[縦隊]はあらゆる場所から敵を追い払い、すぐに主要縦隊の高地に到着して絶えずそこを保持しました。
 フルガローロから1時間の場所に敵の大隊が展開していましたが、騎兵に囲まれ正面からオグリンの大隊に攻撃され退却を強いられました。
 主要縦隊の左をサーレへ向かって前進したオット中将麾下の第2縦隊は、カステル=ヌオヴォ=スクリヴィアまでいかなる敵の分遣隊とも出会わず、そして中将がサーレから来ると想定されていた敵部隊を発見するのに成功しなかったため、彼らは右側へ方向転換して中央とよりよい接触をしながら同時に敵の背後も脅かすことで正面で戦っている主要縦隊を助けることを決意しました。
 この巧みで都合のよい移動はフランス軍にマレンゴを放棄させました。
 主要縦隊は攻撃を実施し、スピネッタの敵をガッシナ[カッシナ]=グロッサの向こうまで追い払いました。
 オット中将の縦隊は絶えず南へ向かい続け、敵の右側面に対して圧力を増大させるのに成功しました。
 敵はこの側面への攻撃を極めて心配し、危険を避けるためにその左側面に攻撃縦隊を送り出し、第一線の部隊を弱めてガステル=ゲリオロ[カステル=チェリオロ]を再度確保しました。
 新たな、そして決定的なオット中将の攻撃は敵がこの地域を再び失うのに十分でした。敵は僅かな抵抗も示さず、あらゆる戦線で急ぎ混乱しながら後退しました。
 夕方6時頃、我々は戦場を支配しただけでなく、フランス軍はさらに勝利した我々の手に10門の大砲と2門の曲射砲を残さざるを得ませんでした。
 しかし総指揮官ボナパルトは戦闘が始まったその当初から失敗を予想し、ポンテ=グローネ付近に野営していた予備師団を前進させ、12門の大砲から成る砲兵隊に守られながら、彼らをサン=ジュリアーノ村の正面まで街道上を導きました。
 我々の砲兵を破壊した猛烈で正確な砲撃の後、この時まで勝利を確信していた兵たちは躊躇し始めました。
 ツァッハ将軍は秩序を回復させる期待を持ってヴァリス連隊の3個大隊を前進させましたが、この連隊自体も敵に屈しました。しかしまだ、支援のため背後にとどまっていた2個擲弾兵大隊が最後の希望として残っていました。
 彼らは大いなる活気と勇気を持って打ち破られたヴァリス連隊の兵たちの間を通り抜けて前進し、攻撃を再開しました。しかし、擲弾兵の射撃が最も激しくなった時、敵の騎兵が現れ、彼らを包囲し、いつものように賞賛すべき価値を持って戦ってきた我々の騎兵を完全な混乱に陥れました。
 この突然で恐ろしい運命の転換は最終的に兵たちの勇気の完全な破壊につながりました。騎兵の混乱は各部隊の秩序を乱し、特にこの日懸命に戦った歩兵の退却をせきたてました。そして極めて痛ましいことに、夕方7時頃には我々は大きな犠牲を払って得た勝利が盗まれるのを見ることになりました。
 損害は極めて深刻で、多くの戦役で過去に名を上げ滅多にない才能を授けられていた高級士官とその部下、そしてまた兵たちは特にそうでした。ハディック及びフォーゲルザンク中将、ベレガルデ、ラッテルマン、ゴッテスハイム及びラ=マルセイユ少将がその中におり、特に我々の高潔な砲兵が蒙った損害は、この記憶に残る日に厳格な責務に則り全軍がその指揮官同様、偉大な価値と敵に対面した際の頑強さを明らかに示すものです。
 私自身、2頭の乗馬が負傷し、随員のほんの少しだけが健康で無事でいられました。ツァッハ参謀長は彼が率いた歩兵と伴に敵の手で捕虜になりました。かくしてあれだけ長い間勝利のうちに戦った軍は橋頭堡へ後退しました。
 敵の損害もかなりのものでした。2600人が捕虜となり、ドゼー将軍は戦場で戦死し多くの将軍が負傷しました。
 この日、運命の転換に恵まれた敵は夜の間も前進して後にボルミダ右岸まで到着し、その勝利からすぐに利益を得ようとしているようでした。
 翌日、敵の前衛部隊は移動を続け、我々の哨戒線は後退を始めました。

 元帥メラス

 War Times Journal "Marengo Revisited"


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